ジェイ3.0 〜 開発独裁時代の終わり

当ブログの更新は減速の予定。ただその前に、ひとつモヤモヤに決着をつけたい。これまで何度か、モノローグのようにして、保守・革新とか、ウヨク・サヨクとかの従来型の分類が無効化していると、自分の実感をもとに書いてきた。自分にはリベラルと分類される知人が多いわけだが、なぜかそう自認する人が吸い寄せられる社民党的なリベラルさに対して、労働問題をめぐる認識を典型に、はっきりと断絶を感じるようになった。民主党的立場ですら、違和感を覚える。これは彼らと自分の間の、小泉政権への評価の違いと地続きの問題でもある。なぜそれほどまでに断絶が生じてしまったのか、これまでよくわからなかったが、少しずつ言葉が見つかりはじめている。


安倍政権のキャッチフレーズのひとつに戦後レジームからの脱却というのがある。戦後の日本は、バブル期まで他国が羨むほどの経済的発展を遂げたのは歴史的な事実だ。では発展をもたらしたはずの戦後の枠組みをなぜ脱ぎ捨てねばならないのだろうか。安倍政権は憲法改正を視野に入れていると公言していて、世間的に、憲法改正論議は、安全保障面の政策転換をもたらすのが最大の焦点とされている。一方で、教育基本法改正にみられたように、国家糾合的な枠組みを再設定しようとする動きがある。九条改正と、国旗国歌への忠誠心の要請。こういう流れが生まれる必然性を、権力者の保身といった属人的な解釈をするかどうかで大きな分かれ道がある。


社民的サヨクの見方からすれば、小泉政権以降支配的になった政治的潮流は、ネオリベラリズムと呼ばれる。自公政権は、対米従属を強め、大企業のいいなりになって弱者を切り捨て、格差社会を容認し、教育の統制によって個人の自由を奪い、戦争できる国へ導こうとしている権力者集団、と描写される。だが、そんな陰謀論めいたことが進行しているのだろうか。たしかに教育基本法改正による国家糾合的な流れは、個人の自由を否定し、古めかしい価値観への服従を強いているようにみえる。他のアジア諸国の台頭への反作用で、復古主義的でなウヨクが勢いづいたりもしている。


しかし、前小泉政権の掲げた「官から民へ」のキャッチフレーズは、国家糾合的な統制からの解放を志向していた。構造改革は、国家主導の事前規制による経済構造を、転換させることを志向していた。戦後社会の達成した経済的な豊かさは、貧しさからの解放という自由をもたらしている。戦後の発達の背景には、戦後という枠を超え、1940年体制と呼ばれる戦前からの総力戦体制的な社会構造があったとする考え方がある。その考え方にもとづくと、総力戦体制が高度成長をもたらしたと同時にバブルをもたらし、その構造の残滓が今もって存在すると考える。小泉政権の改革に対し、そういった総力戦的構造を払拭する姿勢があったと評価するかどうか、ここがサヨクとの断絶の分岐点だ。当ブログは小泉政権の改革は、不十分なものに留まるけれども、国家主導的な総力戦的構造の解体にプラスであったと評価する。


さらに歴史の射程を広げれば、ドイツと並んで後発資本主義国として出発した日本は、明治期以来、国家主義的統制のもとに発展を遂げてきた。万世一系なる天皇家を中心として糾合され、富国強兵、殖産興業を目指すべき理念として、第二次世界大戦まで、そのフィクションが強力に機能した。敗戦後、新たな国民統合の理念として台頭したのが、所得倍増、GNP世界○位を目指すという価値観だった。明治期も昭和期も、グローバリゼーションの対応として、国家への糾合がはかられている。誰かが鳥瞰的に国家の設計図をもっていたはずもないが、個々の国民の豊かさと自由を求める足跡が営々と積み重ねられ、歴史は今日まで至っている。国民が豊かさという自由を求め、実際それらはもたらされもしたのだが、一方で、一定の枠組みに帰属しない限り豊かにもなりえない、自由の制限された統制的な社会として発展を遂げてきた。


つまり、明治期以来の日本は、豊かさの達成のために、開発独裁に似た社会構造を備えた国家として成長してきた。日本は冷戦後もっとも成功した共産主義国家、などという表現があるが、それは自由がない統制的な国家ということを言わんとした比喩だ。かつて岩井克人氏の世界資本主義論を読んだとき、国家体制として実現している社会主義共産主義は、資本主義の一形態であるという視点を得た。それらの体制を経済発展のために国家的糾合がはかられた一体制であったと理解すると、日本との類似点が見えてくる。戦後日本は、貧しさという拘束性からの解放を、個人の自由への希求を犠牲にするかたちで達成してきた。企業なり組織に帰属することで豊かさという自由を手に入れるかわりに、個として尊重される自由を犠牲にしてきた。こうした開発独裁からの脱却、それは国家主導の市場が、民主導の競争市場へと転換されることを意味する。


今の世界がグローバリゼーションの新たな段階を迎えているのを、否定する人はいないだろう。この状況に国家として対応するには、新たな国家糾合的なフィクションでもって、国内市場を再編する必要がある。明治以来の発展モデルからの脱却が、世界市場のなかでの日本市場の有意性をアピールすることになる。世界から有益な市場とみなされるためには、公正なルールのもとに運営される市場でなければならない。そこでの事後規制的なルールの執行は強力な権限のもとに実行される必要がある。グローバル化に対応した公正な市場をもたらすために、復古主義的なフィクションが持ち込まれ、市場の一体性が演出されるのは、日本の歴史性を鑑みれば、不自然なことではない。それが妥当かどうかは別にして、立憲君主的な国民国家というのが、日本国民の大勢の合意となっている。


開発独裁の構造から脱却し、公正な自由市場への転換を、どのような理念のもとにはかるのか。明治以来の近代国民国家としての日本の出発をver1.0、開発独裁的な構造を残しつつも民主化を進めた戦後社会をver2.0、とすると、今は、そこから変質を遂げようとするver3.0胎動の時期にある。はじまっているのか、これからはじまるのか、はっきりとはわからないが、そういった渦中にあるのは間違いない。さらに遠大なことを言えば、日本とて共和制的理念が浸透するverX.0となる局面も、はるか未来にはありえるだろう。


こうして考えてくると、美しい国なる理念を掲げ、倫理性を国家に仮託しようとする発想が、政治家の中から生まれてくるのは一定の必然性がある。国家として目指すべき理念が定まらず模索中にあるとき、共同体としての国家本来の役割に立ち返って発想しようとするのが、自然だ。形式論とはいえ、国家とは個人の幸福追求を支援するために存在するとする考えに立ち返ると、個人としての正しさを支援することが国家としての正しさである、という発想が生まれる。個人としての生き方のロールモデルが不透明になっている時代に、個人を支えるものは、倫理観や美的感覚になってくる。それを支援する国家が要請されると、政治家が潜在的に自覚したとき、美しい国なる抽象的な言葉がもちだされることになったのではないか。勝手な推測だが、この種の倫理的文言が、国家の指導者からスローガンとして語られるのは、もしかすると主要な先進国では共通の傾向になっているのではないだろうか。


政治というのは、特異な個人の存在だけで動くとは思わない。基本的には、その時代じだいの人口動態や経済構造といった環境的要因によって、政治的潮流が決定されると考える。市民革命を経験しなかった日本は、個人として尊重される権利を漸進的に血肉化していくしかない。小泉政権への熱狂は、市民革命の待望にも似た見えざる情念の表出だった。その情念を解放する回路を、国民が、自らの手で構築したい、と考えるのはおかしなことではない。世論が憲法改正を次第に肯定しつつあるのは、そういう流れの結果だろう。


以上、つらつらと書いてきたが、日本の政治的潮流を、ネオリベラリズムと切って捨て、否定してみせる議論への違和感を、確認しておきたかった。日本は国家として、ようやく開発独裁の相貌から脱却しつつあるし、いっそう脱却しなければならない。憲法13条の、すべて国民は個人として尊重される、という理念を、漸進させる勢力はどこなのか、今後よく見定めねばと思う。