「構え!」「撃て!」

2週間ほど前から、
ブログで「無気力から抜け出します!」と
威勢のよいことを言ってきた私ですが、
結局お盆期間中はダメダメの腑抜け人間。
今日、何とか朝の運動を始めることができました。
 
ようやく湿気った「気力」に「着火」することができた訳ですが、
今回の経験則をここに記しておこうかなと思います。
 
まず、何かを「成す」には、
「行動」の前に「企図」する必要があることを改めて思いました。
具体的に「企図」とは、
「よし毎日○○をやるそ!」と心で思ったり、周囲に公言すること。
 
通常の「軽い行動」の場合には、「企図」してすぐ「行動」につながるので、
「企図」の存在自体をあまり意識することはありません。
しかし、「今までの自分を変えてやる」レベルの「重い行動」の場合には、
しっかりと「企図」の重要性を把握し、段階を踏まないと、
「行動」を起こすことはできません。
あたかも目の前にハシゴがあるのにも関わらず、
3メートルの壁を前にして、自分のジャンプ力だけで壁を乗り越えようとしているがごとしです。
 
「企図」と「行動」の関係は、
戦国時代の鉄砲隊に例えることができるなと思いました。
時代物のドラマや映画で観たことがあるでしょう。
「構え!」という号令の下、鉄砲隊は火縄銃を構え、
「撃て!」という号令の下、一斉に敵陣に向かって発砲する。
 
この段取りが大事で、司令官はいきなり「撃て!」とは号令しないのです。
まずは「構える」ことで、「撃つ」精度を向上させます。
と言うか、ちゃんと「構え」ないと「撃つ」こと自体ができないでしょう。
 
人が「重い行動」を起こす時にも同じことが言える、と私は感じました。
ちゃんと「構え」を意識しないと、「重い行動」は起こせない。
 
では、日常ではどう「構え」るのか?
しっかりと目標を目で捉え、「あそこに行く」と思い、
それを口にしたり文章にしたりするのです。
これらは、実際に「重い行動」を起こすことに比べたら、容易いことだと考えます。
まさに「言うは易く行うは難し」です。
 
しかし、この容易いことを人は疎かにしやすい。
「行動」ができない時には、人はこの「構え」から放棄してしまうことが多い。
 
そうではない。「構え」続けるのです。
 
実は、「行動」せずに「構え」続けるのは、精神的に負荷がかかります。
普通の「行動」なら、「構え」たらすぐに「撃てる」のに、
今回は「構え」ても「撃て」ない・・・。
そういう時に、「無意識」は「ストレス」を感じるのです。
それから、「構え」てもすぐに「撃て」ず、
そこに「構え」たまま立ち尽くすという状態にも「恥ずかしい」という負荷が発生します。
確かに、そんな状態で周りからどんな目で見られるでしょうか?
「あいつは俺らができることを、まともにできていない情けないヤツだ」となると思います。
それは恥ずかしいことなので、例え「撃て」なくても、
周りに併せて次の準備のためにしゃがみ込みたくなるでしょう。
すなわち、「構え」たままその場に立ち尽くすのは、
かなり「心」が開き直ってないとできない芸当なのだと思います。
 
物事を成し遂げるのは「山」の頂上を目指すのと同じ。
歩けなくても、そこにしゃがみ込むのではなく、まずは立ち上がるのです。
しゃがみ込んで地面を見つめるよりも、立ち上がって頂上を見つめる方がずっとよい。
立ち上がったまま歩かないことは、世間から見たら「情けない」と思われるかもしれません。
 
それでも開き直って頂上を見上げて立ち尽くす。
どんなに足が動く気配がしなくても、頂上をじっと見つめて頂上に行くことを妄想する。
 
しっかり「人生」の「本質」を見つめましょう。
「構える」ことの重要さを理解し、
その場に「しゃがみ込む」ことよりもかっこ悪くても「立ち尽くす」ことを選ぶべきです。
 
そんなことを今日運動しながら、私は考えました。