「雑草」の「誇り」

私は、「雑草」に興味があります。
つまり、「雑草」が好きです。
 
でも世の中では、
「雑草」を好きな人がほぼ皆無であることを知りました。
 
私から言わせると、そういった人達は「雑草」の「心」に気づかないのです。
 
それは、人間関係にも表れます。
私から言わせると、です。
 
「使えない」人間の「心」が見えない人達。
「使えない」人間に対する「心」なさ。
 
使えない「雑草」だから、無視してもいい。
使えない「雑草」だから、攻撃してもいい。
使えない「雑草」だから、見下してもいい。
使えない「雑草」だから、尊敬なんてしない。
使えない「雑草」だから、踏みつけてもいい。
 
私は、この「心」なさを身をもって知っています。
使えない「雑草」も一生懸命、汗を流して血を流して生きているのを、知っているのです。
流す血の量は、「使える」人達よりも多いかもしれません。
 
私の「人生」は、「雑草」のような使えない存在の「苦しみ」を知る「特等席」。
もしかしたら私の前世では、「使えない」人を傷つけまくっていたのかもしれませんね。
 
「使えない」人を傷つける。その気持ちも、よくわかるのです。
皆「使える」人間になろうとして、努力をしてきました。
だから「使えない」人間に、怠慢を感じてしまうのです。
少し考えれば、各人の持って生まれたものも違うのだから、
それが誤りであることもわかるのですが、
皆必死に「使える」人間になろうとして、その余裕のなさが「心」の目を曇らせます。
 
「使える」に憧れすぎる人々。
もちろん、私のその一人でした。
 
有能な人間は、興味を持たれる。
有能な人間は、あがめられる。
有能な人間は、持ち上げられる。
 
こういったことは、世間で当たり前のことです。
そういう貢献のできる人なのですから、
こういったことを享受できるのは、むしろ当然だと思います。
 
しかし「光」があるところに、「影」ができてしまうのです。
このものすごい強い「当たり前」の影に、
もう一つの「心」ない「当たり前」が生まれてしまいました。
 
それが、「使えない」人間が「無価値」であるという思い込みです。
 
私は「雑草」に興味を持てば持つほど、彼らの「価値」を知りました。
彼らは彼らで、様々な特殊能力を持っているのです。
その能力は、人間の役には立っていませんが。
 
そして彼らの咲かせる花も、可愛くて美しいです。
そしてその花に、彼らなりの「個性」や「味」を感じさせてくれます。
 
また彼らは、人間の役には立たなくても、虫や小鳥の食料として役に立っているのです。
花粉を運んでもらうために、一生懸命美味しい蜜を花に用意し、
種を運んでもらうために、一生懸命甘い果実を実らせます。
誰の役にも立っていない存在なんていないのです。
 
「雑草」にも「心」があります。
「雑草」も「一生懸命」です。
 
私はこの大切なことを、ようやく身をもって知ったような気がします。
他の人から見たら「ちっぽけな」発見のように見える人もいるでしょうが、
私から見たら、「人生」の真理ほどの大きな発見です。
 
私は、この気づきに基づいて、これから先自分の活きる道を決めていきたいと思います。
「雑草」だからこそ、できることがあるようです。
今まで、畑の中で必死に、大根やトマトと競って頑張っていたような気がします。
そうではなくて、これから畑の柵を跳び越えて、
「雑草」だから持てる「誇り」と共に、「心」満ちる生を、生きたいと想うのです。