「遺伝子」の目的、「魂」の目的

「人間はどういう動物か(日高敏隆著)」(筑摩書房)という書籍を読みました。
 
その書籍で語られているのは、
動物行動学の観点から見た人間という存在の「本質」です。
「自分達とは何か?」ということをずっと考えている私には、とても興味深い本でした。
 
私を含めた様々な人が、
「自分達とは何か?」「人生とは何か?」「幸せとは何か?」ということを
「考察」しています。
そのアプローチは、
科学であり、哲学であり、心理学であり、思想であり、スピリチュアルであり、宗教であり、
様々な道がある訳です。
  
その重要な道の一つが動物行動学であると、私は考えます。
以前から紹介している「利己的遺伝子」の話は、動物行動学の範疇です。
 
さてこの書籍の中に、アゲハチョウやモンシロチョウのサナギのお話がありました。
これらの蝶のサナギは、
ついている場所によって緑色や茶色という保護色になるのです。
例えば、
緑色の枝についたサナギは緑色になり、
枯れた茶色い枝についたサナギは茶色になります。
 
モンシロチョウのサナギの色は、
その場所の色をモンシロチョウ自身が感じ取って、決定されるそうです。
一方で、アゲハチョウのサナギの色の決定機構は異なります。
アゲハチョウの場合は、緑色の葉っぱの青くさい匂いが、サナギの色を決める要因です。
青臭い匂いのしない枯れた枝にいる場合には、
色を緑にするホルモンが分泌されず、サナギは茶色になります。
 
この同じ2種類の蝶は、サナギの保護色という同じ結果を得るために、
全く異なる方法を編み出して、その目的を達成したのです。
 
結局、進化の結果の方向性は決まっていても、
そこに至る経路は各種族に任されており、
自然は生命に「やり方まで統一せよ」と要請していないことがわかります。
 
ところで「遺伝子」の目的は、「自らを複製し増殖せよ」です。
この目的に向けて、アゲハチョウやモンシロチョウは、同じ結果にたどり着きました。
それぞれ編み出したやり方は違うけれども。
 
「遺伝子」の目的と言いましたが、
厳密には「遺伝子」自身が目的を認識している訳ではありません。
結局この世界の、自然淘汰という強烈な選別の結果、
目的と認識できるような一定の方向性が生まれたと言った方が正確です。
 
さて、ここからは私の持論に移ります。
 
人(や「生命」)は、「遺伝子」に100%支配されている訳でなく、
「魂」によるコントロールが入っていると、私は考えるのです。
「遺伝子」の支配が「本能」あるいは「煩悩」によってなされる一方で、
「魂」は私達の「自我」であり「自由意思」であり「理性」であると考えます。
 
「遺伝子」の目的は、「自らを複製し増殖せよ」。
しかしこの目的自体は遺伝子に書きこまれている訳でもありません。
自然淘汰という「世界」あるいは「環境」からの厳しい要請で、
あたかも最初からあった目的のごとく、不文律が形成されたのです。
 
「遺伝子」の目的(のように見えるもの)は、そのように形成されました。
さて、「魂」の目的は?
 
「魂」の目的は自らの「幸せ」を追求することだと、私は考えます。
そして、その目的を「真に」果たすために、
私達「魂」は、
「幸せとは何か?」「自分とは何か?」「世界とは何か?」ということを問い始めるのです。
宗教や科学は、すべてこの「魂」の目的を満たすために、
当然にして発生したプロセスだと私は考えます。
この地球上に人間以外の種族が知能を発達させて地球上に君臨したとしても、
その種族も必ず自然発生的に宗教や科学を始めるはずです。
 
さて「魂」の目的が見えたところで、
先ほどのアゲハチョウとモンシロチョウの話しに戻ります。
アゲハチョウやモンシロチョウの「遺伝子」は、
サナギの色を保護色にするという同じ結果を達成した訳です。
しかし、過程は問われていません。
つまり、「結果」や「目的」には「正解」があっても、
「過程」には、模範解答などあり得ないということなのです。
 
「遺伝子」の目的のあり方がそうであるならば、
同じ自然界に存在する「魂」の目的のあり方も同様だと私は予想します。
 
「魂」の目的は、自らの「幸せ」です。
そして「真」の「幸せ」を達成するため、
「魂」は発達の途上で自然発生的に
「幸せとは何か?」「自分とは何か?」「世界とは何か?」を問い始めます。
 
ですから「魂」が、
「幸せとは何か?」「自分とは何か?」「世界とは何か?」と問い始めるのは「正解」です。
しかし、その結果を得るためのアプローチには「模範正解」がないことを、
私は今回の記事で主張したいと思います。
 
「やり方は、問わない」
これが、この世界の不文律です。
 
「やり方は、いくつもあるぞ」
これが、アゲハチョウとモンシロチョウが示してくれた真実です。
 
ですから、「やり方」の正しさで争うことは無意味であると、私は考えます。
また、誰かの「やり方」に束縛されることにも意味はない。
 
私達「魂」は、自分勝手に様々なやり方で、
「魂」の目的を目指せばよいだけなのです。
 
もちろん、よい方法があればパクればいい。
私も様々な書籍やアドバイスから、パクりまくっています。
しかし、自分の「魂」の主導権は必ず自分で採ること。
 
「魂」とは崇高に孤独な存在です。
他者からの寄生や支配に気づき、それらを限りなく排除する努力をするべきでしょう。
 
「遺伝子」が当然のごとく自身の複製を増殖させようとするように、
私達「魂」は、当然のごとく自身の「幸せ」を目指します。
(この「遺伝子」の目的と「魂」の目的が異なるから、人間の悩みがつきない訳です)
私達「魂」は、「遺伝子」の要求に支配され過ぎないようにして、
私達本来の目的に意識的にフォーカスすることが肝要です。
 
そして、「幸せ」を目指す「魂」の目的をしっかりと肯定すること。
「やり方」の正解は「魂」の数だけあるのだから、
宗教戦争のように、その「やり方」で争うことに意味がないことを、
よくよく理解することが重要であると、私は考えます。
 
アゲハチョウとモンシロチョウは、
サナギの保護色の「やり方」で、揉めることはないのです。