「ほうじ茶」を知ろう

「ほうじ茶」、好きですか?
 
私は、あの優しくて香ばしい味が好きで、コンビニでよく買います。
緑茶よりも好きです。
 
さて、今日は「ほうじ茶」について知りましょう。
(「ほうじ茶」のウィキペディアは、こちら
 
まず皆さんに、漢字の読み方テストです。
以下の感じは、なんと読むでしょう?
 
「焙じる」
 
「ばいじる」?
 
私は、初見で読めませんでした。
これ実は、「ほうじる」と読みます。
 
そう「ほうじ茶」は、「焙じ茶」なんですね。
 
では、そもそも「焙じる」とは、どういう意味なのでしょうか?
 
「煎ると焙じるの違い」というページがありました。
そこによると、

煎るは鍋などに入れたものを火であぶることを言う。
焙じるは、火であぶるのは同じだが、少し焦がし気味にするようにあぶる。

とあります。
 
あ、また難しい漢字が出てきていますが、
「煎る」とは「いる」と読みます。
「煎茶(せんちゃ)」で使われている漢字ですね。
 
煎るも焙じるも、
鍋に入れて火であぶるまでは同じなのですが、
煎るのは焦がしたら失敗、焙じるの方は焦がすところまであぶります。
 
要は、焦がすか焦がさないか、そこが問題なのです。
焦がさないで、火であぶって水を飛ばしたものが「煎茶」となり、
更に火であぶって焦がしたものが「焙じ茶」となります。
 
焦がすと何がよいかと言うと、
焦がすことで苦み成分のタンニンが壊れ、渋みや苦みが抑えられるのだそうです。
その結果、口当たりは他のお茶よりもあっさりとします。
また、焙じることで独特の香りを持つようになるのです。
 
さて、「ほうじ茶」は、番茶という低級品の茶葉を原料とします。
番茶とは、夏以降に収穫したお茶(三番茶、四番茶)のことです。
煎茶のように若葉でなく成長した葉を原料とするため、
苦み成分のタンニンが多めで、逆にカフェインは少なめとなります。
 
苦みが強いので、飲みにくい番茶ですが、
これを焙じると前述したようにタンニンが破壊されるため、
飲みやすさを取り戻す訳です。
更に、原料の番茶はカフェイン少な目。
「ほうじ茶」は、是非お子さんにオススメのお茶な訳ですね。
 
お茶の文化が浸透している京都では、
「ほうじ茶」のことを「京番茶」と言って、
日常飲用しています。
京都の料亭の懐石料理では、
食後に和菓子と共に「ほうじ茶」が出されることが多いそうです。
 
安い番茶を美味しく飲める庶民の味方的な「ほうじ茶」ですが、
「安かろう悪かろう」ではなく、
京懐石でも使われるているように、
新たに独自の魅力を創造し、
私たちの生活を彩り豊かにしてくれるそんな「ほうじ茶」。
 
日本の庶民の生活に根付いたそんな素敵な「ほうじ茶」に想いを馳せながら、
今日はゆっくりと「ほうじ茶」を味わってみませんか?
 
きっと心も体も、ホッと一息つけるはずですよ。
 

生命にとっては人間も「環境」の一つ

人間と自然は、相容れないもの。
対立するもの。
 
「自然破壊」「環境破壊」という言葉でもわかるとおり、
そういう構図で語られることが多いです。
 
しかし、自然を形成する生命たちには、
そんな区分はありません。
 
人間の整備したエリアをチャンスとして、
自分たちの生き残る環境としているのです。
 
例えば、雑草。
彼らの勝負は短期決戦。
一定年数が経過すると、樹木に日照を奪われ敗北する定めにあります。
ですので、人間が環境を変えるまでは、
彼らは森林火災の後とか、森林と河川や海の地域の境目とか、
そういうニッチな環境でしか生存することができなかったのです。
 
しかし人間が現れ、どんどん宅地造成等が進みます。
人間の活動はものすごくスピードが速い。
樹木の長いライフサイクルでは追いつけず、
雑草のような1年草や多年草が、人間エリアを制圧している状況です。
 
他には、鳥たちも人間という環境を利用しています。
例えば、ツバメ。
彼らは、今の時期、東南アジアから台湾経由で日本にやってきます。
日本に何をしにやってくるかというと、巣作り・産卵・育雛のためにやってくるのです。
 
ツバメの巣は、森林に巣を作りません。
民家や商店の軒先のような人工的な構築物に巣を作るのです。
 
なぜなのか?
それは、人間のいる環境の方が、天敵がいないからです。
都市部に猛禽類はほとんどいません。キツネやタヌキも同様です。
 
だから、ツバメは人間を自分たちに安全な環境として利用している訳です。
 
都市部でよく見かける動物たちは、例外なく人間を環境としています。
ハトなんて警戒心の欠片もない野生動物らしくない姿を街中で見かけますが、
彼らにとっては人間がたくさんいる街中こそ最も安心してくつろげる場所なのでしょう。
 
もう一つはエサの問題もあります。
街中でよく見かけるスズメたち。
彼らは、人間に対して警戒心を解きませんが、
しかし、廃村になった村からはスズメたちが姿を消すことが報告されています。
スズメにとっては、
人間の農耕活動や生活活動によって得られるエサの存在が大きいのです。
 
そんな一部の生物たちにとっては安寧の場である人間環境ですが、
とうとう黒船がやってきたというニュースがありました。
 
ニューヨークの摩天楼に、ハヤブサが出るのだそうです。
彼らは、警戒心の欠片もないハトたちを獲物としています。
 
人間環境をフロンティアとして、
様々な動物たちがやってきているのが現状であり、
したたかな野生動物たちにとっては、ピンチでなくチャンスであったりする訳です。

日本の関東の都市部には、最近ハクセキレイが進出してきています。
昔は、東北の海岸部でしか見ることのできなかった鳥たちです。
環境の変化に、ガンガン順応していく野生動物のたくましさに、
私は畏敬の念を抱きます。
 

ツバメは短足

この時期ツバメが、
越冬地の台湾や東南アジアから日本に繁殖のために、
帰ってきていますね。
ツバメの産卵期は4月から7月頃です。
鹿児島県に到着するのが2月下旬から3月上旬。
関東地方には、3月下旬から4月上旬に到着するようです。
 
9月中旬から10月下旬には、
台湾を経由して暖かい東南アジアに渡っていきます。
こんなにも長い距離を、本当にご苦労様です。
 
私の職場の近くでも、つがいのツバメが一生懸命巣作りをしています。
新しい命が生まれようとしていることに感動です。
春は生命のエネルギーに満ちています。
 
こんなにも遠距離を移動するツバメの飛翔能力は抜群です。
通常の飛行時には時速40〜50㎞。
天敵の鳥に追われているときなどは、時速200㎞で飛ぶそうです。
高速で飛ぶために、
ツバメの羽の形状は先端が尖って先細になっていて、
翼が後退したような形をしています。
 
飛ぶのが得意なツバメですが、
その代わり歩くのは苦手なようですね。
ツバメが地面を歩くことはほとんどなく、
巣作りのための泥を採取するとき以外には、
地面に降り立つことはありません。
 
なんと水を飲むときも、
水面上を飛行しながら水を飲むそうです。
 
ところで、
ツバメが低く飛ぶときには雨が降ると昔から言われています。
これは、雨が降る直前には湿度が高いので、
空を飛ぶ虫の羽に水分が付いて重くなって、
虫が低いところを飛ぶようになるからです。
空中の虫を食べているツバメも、
虫に合わせて低いところを飛ぶようになります。
 
さて、秋には暖かい東南アジアに渡って行ってしまうツバメ。
寒さには、からっきし弱いんでしょうね。
 
ツバメは、北半球の広い範囲に分布します。
世界的にメジャーな鳥なんです。
ヨーロッパでは、「幸福な王子」というツバメを題材にした童話があります。
童話の内容をご存じの方も多いと思いますが、
ウィキペディアから粗筋を引用しますと、

町の中心部に高くそびえ立つ自我を持った王子像が、
あちこちを飛び回って様々な話をしてくれるツバメと共に、
苦労や悲しみの中にある人々のために博愛の心で
自分の持っている宝石や自分の体を覆っている金箔を分け与えていくという
自己犠牲の物語。
最後は、宝石もなくなり金箔の剥がれたみすぼらしい姿になった王子と、
南に渡っていく時期を逃して寒さに凍え死んだツバメが残る。

という内容です。
この童話の中では、
南に渡るタイミングを逃したツバメが
寒さに凍え死んでしまうという結末が用意されています。
 
私はツバメを見ていると、とても一生懸命な感じを受けるのです。
東南アジアと日本を往復するだけでもスゴいことですが、
地面に降り立つことがほとんどないというのもスゴいです。
町中のハトを見ていると、
地面にお腹から座って日向ぼっこをしているヤツも一杯いるのに(笑)。
 
ツバメはセカセカセカセカ一生懸命に、巣作り・抱卵・育児。
時期が来たら、海を渡って遠方の地に。
 
きっと「幸福な王子」のツバメも、そりゃあ一生懸命に働いたのでしょうね。
 
(尾羽が長い方が、オスだそうです)

鳥はなぜ鳴くの?

朝の鳥達の声。
私は、とてもさわやかで大好きです。
 
鳥は、他のどんな生物よりも、よく鳴きます。
しかも、遠く前聞こえるような大きな声で。
 
「雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい」という言葉があります。
これは、
雉は鳴かなければ居所を知られず、猟師に撃たれることもなかったのにという意味から、
無用な発言をしたために、自ら災いを招くことという意味のことわざです。
 
確かに、雉のオスは「ケーン」と大声で鳴きます。
あんなに大声で鳴けば、猟師に狙われてしまうでしょう。
 
私なんかは「鳴かなければよいのに・・」と心配してしまいますが、
彼らが鳴くことにはちゃんとした意味があります。
 
それは、縄張りの宣言です。
オスに対して威嚇を行い、
メスに対して「こんな強いオスがここにいるぞ!」とアピールしています。
 
猟師に狙われるリスクがあるのに命がけで、
彼らは恋に生きているんですね。
 
そう考えると、
「雉も鳴かずば撃たれまい」ということわざの意味も違って聞こえてきます。
 
本来の意味は、
「無用な発言をする愚か者」への嘲り(あざけり)あるいは戒め(いましめ)です。
 
しかし、雉がなぜ鳴くかを理解すると、
命がけで自分の生を生きようとする彼らの生き様に、
私なんかは、とても感慨深いものを感じます。
 
自分は、雉のように生きているかな?
本当の声を殺さずに、真っすぐに生きられているのかな?
 
雉のように鳴けない私達日本人。
なんだか、とても飼い慣らされているようにも感じます。
 
さて雉の例を挙げましたが、
「鳥はなぜ鳴くの?」という疑問への答えをネットで調べた次第です。
講談社Web図鑑のページなどが役に立ちました。
上記ページによりますと、
やはり鳴くことには意味があり、
仲間たちのとコミュニケーションに活用しているようです。
鳥の鳴き声は、大きくわけて2種類です。
「さえずり」と「地鳴き」。
 
「さえずり」は、恋にまつわる鳴き声。
人間の耳によく入ってくるのも「さえずり」です。
例えば、ウグイスの「ホー、ホケキョ」とか。
雉の例でも説明しましたが、
彼らは大きくさえずることで、
オスに自分の縄張りを知らせ、
メスに自分の位置を知らせているのです。
メッセージは同じ。
「こんなに強いオスが、ここにいるからな!」
併せて、「さえずり」はメスへの求愛にも使われるそうです。
目の前のメスに対する求愛の「さえずり」は、
縄張りや位置を知らせる鳴き声よりも、
とても優しく聴こえます。
 
もう一方の「地鳴き」は、
仲間との連絡用です。
これには恋は関係なく、仲間に「私はここにいますよ」と発信をしています。
「さえずり」の音は情緒的ですが、「地鳴き」は地味です。
しかし、なんだか安心感を感じます。
 
「私はここにいますよ」
私たちは鳥以上によく言葉を発します。
しかし、私たちはちゃんと「地鳴き」をできているでしょうか?
ちゃんと「寂しい」とか「あなたがいて嬉しい」とか、
伝えられているのかなぁと思います。
 
そういう意味では、このブログは私の「地鳴き」です。
「私は、ここにいます」
「私は、日々一生懸命生きています」
 
そんな私の地鳴きを聴いて、あなたは安心しますか?
私は、これを読んでくれるあなたがいてくれて、とても嬉しいです(^^)
 

神は「絶対」か?

 
「絶対」
 
goo辞書によりますと、
「他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。」
と、あります。
 
対立するものが絶えているから、「絶対」なんですね。
 
またコトバンクによりますと、

相対の対立概念。
思考においても実在においても一切他者に依存せず
それ自体として自律的に存在し自己のうちに存在の根拠を有するものをいう。
認識論的には、
そのものについてのわれわれの表象とは独立に存在しているもの、ものそれ自体。
宗教哲学ではキリスト教のように超越的な神の別名となる場合と
仏教のように悟りの境地を称する場合とがある。

という解説がなされています。
 
「絶対」とは、「相対」の対立概念です。
そして「相対」とはgoo辞典によりますと、
「他との関係の上に存在あるいは成立していること」という意味になります。
 
ふむふむ、なるほど。
そうすると、私たち人間の存在は「絶対」ではなく、
「相対」ということになりますかね。
いかに人間の王と言えども、
臣下や国民がいなければ、
存在することはできないからです。
 
次に、神について考えてみましょう。
神は「絶対」でしょうか?
神は、思考においても実在においても一切他者に依存せず、
それ自体として自律的に存在し自己のうちに存在の根拠を有するものでしょうか?
 
人が神に依存することはあっても、
神は人に依存することはないのか?
 
紀元前6世紀に古代ペルシアで誕生したゾロアスター教という宗教があります。
ウィキペディアは、こちら
当時王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが、
最高神アフラ・マズダーを信仰していました。
世界最古の一神教です。
 
しかし隆盛を極めたゾロアスター教も、
現在ではその信者は、インドやイラン等にわずかに存在するだけとなっています。
 
アフラ・マズダーは「神」ですが、
人々が信仰しなくなっても「神」は「神」であり続けるのですかね。
少なくとも、ゾロアスター教を知らない人たちにとっては、
アフラ・マズダーは存在しないと言えるかもしれません。
 
極論を言えば、人類が絶滅した後も「神」は存在し続けるのか?という話です。
 
私は、人類が絶滅したら、「神」も存在しなくなると考えます。
「神」とは、概念なのです。
 
「神」は、我々「生命」が創造(想像)しました。
かと言って、「神」よりも「人類」が上とは思わないです。
「神」という概念は、人類の上に君臨すると考えます。
 
アフラ・マズダーは、ウィキペディアによりますと、

アフラ・マズダー (Ahura Mazdā) は、ゾロアスター教最高神である。
宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。
その名は「智恵ある神」を意味し、
善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。
ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、
善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユらとの
戦いの歴史そのものであるとされる。
そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、
善なるものと悪しきものを再び分離するのがアフラ・マズダーの役目である。
その意味では、彼は善悪の対立を超越して両者を裁く絶対の存在とも言える。

と説明されています。
そんなにすごい「神」なら、私はその存在を尊敬するのです。
 
ところで私は、ユングの提唱した集合的無意識に賛同しています。
「神」とは、我々生命の集合意識の中でも、
最上位に位置する「概念」ではないでしょうか。
 
我々「生命」の中で、最も尊い部分が「神」なのだと考えます。
 
私の中では、「神」という概念を生み出した「生命」ってすごい!って感じです。
 
「相対」的存在である我々「生命」は、
「神」という「絶対」的概念を生み出しました。
何十億年という「生存」の苦悩の末に、
私たちは自分たちの意識の中に「神」を有することになったのです。
 
私は、この世界全てのものが「相対」であると考えています。
仏教が、因果律で説明しているとおりです。
 
しかし「相対」は、「苦しみ」でもあります。
常に誰かの影響を受ける状態では、「苦しみ」の種は尽きないでしょう?
 
そうした時に私たち「生命」は、
意識の中に「絶対」を生み出して、そこに住まおうと願いました。
 
「神」は「絶対」か?
 
私たち「生命」が途絶えれば、「神」は存在できません。
なので、「神」は「絶対」ではなく「相対」なのです。
一方で、私たち「生命」は、「神」を「絶対」の概念として生み出しました。
ですから、「神」の成り立ちから考えると、「神」は「絶対」なのです。
 
はてさて、あなたは「神」の「絶対」を信じますか?
 

渡り鳥のように、格好よく「逃げる」

中国拳法には、形意拳と呼ばれる武術があります。
その中に、
十二形拳と呼ばれる十二種の動物の意を表した型があるそうです。
(龍形拳、虎形拳、猴形拳、馬形拳、黽形拳、 鶏形拳、鷂形拳、燕形拳、蛇形拳、
 鳥台形拳、鷹形拳、熊形拳)
またその他にも、カマキリの動作に着想を得た螳螂拳や、
狐と鶴の闘う様子を見て、鶴の動きを取り入れたと言われる白鶴拳、等、
中国では古来から、自然界の生命から取り入れた知恵を人の生き方に活かしてきました。
 
科学技術が発達した現代、
自然から学び取ることは古臭いことでしょうか?
私は、そんなことはないと思います。
 
なぜなら、生命には時の恩恵があるからです。
地球上の生命は40億年前に誕生したと言われています。
その40億年の間、
突然変異と過酷な自然淘汰の末、
現代に見られるような多様で豊かな生命体群にまで進化してきた訳です。
 
40億年ものトライ&エラー。
そこに、生命にとっての神秘の知恵が眠っていることは間違いありません。
 
動物の動作を取り入れた中国拳法のように、
私達現代人も、自然界から生きる知恵や戦略を学び取ることができるはずです。
 
自然界に一貫した興味を持ち続けた私は、
一つの集団に根ざして毎日仕事をする会社員には、
植物の戦略が活かせると気づきました。
無茶苦茶仕事ができる人には、樹木の戦略。
特殊技能やスキルをお持ちの人には、サボテン等の局地で生きる植物の戦略。
そんな特別なスキルや能力を持っていない人には、雑草の戦略が活かせます。
雑草は樹木のように堂々とできないかもしれませんが、
雑草は樹木にできないことをやることができますし、
彼らは彼らでとても美しい花を咲かせるのです。
 
さて、一時期ネットで話題となった小学生の詩があります。

『逃げ』
 
逃げて怒られるのは人間ぐらい
ほかの生き物たちは
本能で逃げないと生きていけないのに
どうして人は
 
「逃げてはいけない」
 
なんて答えに
たどりついたのだろう

13歳の女の子の、この洞察はすごいですね。
 
本当に、どうして人は「逃げてはいけない」なんて答えにたどりついたんだろう?
 
自然界を見渡せば、逃げないことの方が異常です。
逃げないスズメがもしいたら、なんかおかしいと思いませんか?
 
人間は自然界の王者だから逃げる必要がないんだ!と、
考える人もいるかもしれませんが、
その人間たちの集団の中でも更に王者であるならば確かに逃げる必要はないでしょう。
 
しかし、私や多くの人たちは、人間たちの集団の中で王者ではありません。
ならば、「逃げる」という選択肢は捨てるべきではないのです。
 
樹木の繁茂する森林の中で、雑草は生きることができません。
日光の量が、不足するからです。
しかし雑草は種をばらまいて、
どんどん空き地などに自分の生存する場所を移します。
機敏に生きる場所を変えることが、雑草の生きる戦略です。
 
その空き地もゆくゆくは樹木に覆われるかもしれません。
しかし、そうなったらまた新天地に移動すればよいだけです。
雑草は自分を生かせる(活かせる)場所を見つけて繁栄します。
 
今の私たちの社会は、
樹木が雑草に「そこから動くな!」と命令しているようなものです。
雑草は、日光の少ないその場所で、じっと我慢を続けます。
「逃げてはいけない」のです。
 
動けない植物を例に「逃げる」ことを説明しようとしても、
わかりにくいかもしれません。
 
渡り鳥は、まさに「移動する」=「逃げる」ことで、
生存競争を勝ち抜いてきた種族です。
キョクアジサシのように、
1年のうちに北極圏と南極圏の間を往き来する、とんでもない渡り鳥もいます。
(キョクアジサシのウィキペディアは、こちら
 
渡り鳥はなぜ渡りをするかと言うと、
簡単に言えばエサを求めるからです。
例えば、夏にシベリアで繁殖したガンやカモが秋になると、
冬を越すために日本にやってきます。
日本にずっといればよいのに?と思うかもしれませんが、
夏はシベリアの方が日本よりずっとエサが豊富なのです。
ご存知のようにシベリアは、冬の間は凍土。
エサなんて全くなくなります。
しかし、長い長い冬が終わった後、そこは生命の息吹に包まれるのです。
草や虫が、一気に地表に姿を現します。
虫なんか、人が辟易するくらい大量に出てくるようですよ。
 
そんなエサが豊富にある環境で、渡り鳥たちは繁殖をして雛を育てます。
渡り鳥は、「移動する」=「逃げる」ことで、立派にその生を謳歌しているのです。
 
さて、人間に話を戻します。
人間たちも昔から、鳥たちに憧れを持っていました。
ギリシア神話に登場するイーカロス。
日本で大流行した歌謡曲翼をください」。
 
これは、「逃げる」ことへの憧れではないかと思います。
 
私たちも、「逃げる」=「移動する」ことを、
生き方の戦略あるいは個性として、しっかりと肯定すべきです。
自分にとっての日光やエサを求めて、もっと貪欲に「移動」すべきだと思います。
 
人間は「心」の生き物です。
ですから、日光やエサだけでなく、
「心」のエネルギーを満たせる場所を探すべきだと、私は考えます。
 
他の動物が人間社会を見たら、
「なんで逃げないんだろう?」と不思議に思うかもしれません。
逃げずにじっとその場に留まり、苦しんだり、うつになったり、自殺したり。
 
「逃げる」なんて格好悪いと、社会ではよく言われます。
私から言わせれば、それは「逃げ方」が格好悪いからです。
なんの準備もせずに、切羽詰まって最後の最後に「逃げる」から格好悪い。
 
私は、「格好よく逃げる」という概念が、
この社会に登場してほしいと願っています。
 
人間の知能があれば、人は翼がなくても華麗に逃げられるはずです。
 

「偽善」は存在するか?

私は「偽善」という言葉が嫌いです。
「偽善」という言葉を使うくらいなら、
それは「悪」だよって言った方が、
よっぽど潔いと思います。
 
「偽善」という言葉は、
誰かを否定するために生まれた言葉です。
そして「善」を為そうとする者の足を、強力に引っ張ります。
  
「偽善」という言葉が、
建設的な効果を発揮することなんて、
ほとんどないはずです。
 
大体「善」と「悪」が、
オセロの駒のように白黒はっきりわかれることなんて、
あり得ないと思います。
 
全ての行為はグレーであるはず。
 
その前提を無視して、「偽善」を叫ぶ者は、
「あの者の動機は完璧な白ではない!」と主張します。
 
でも私は、
完璧な白なんてあるものか、と思うのです。
 
完璧な白の駒を打てるのは、
神のような概念的存在のみだと考えます。
人間は有機的でアナログな存在であり、
常に白と黒の混沌の中にあるはずです。
 
そんな混沌の中にあっても、
白の駒を打とうとするその行為、その意思こそが、
「善」と言えると考えます。
 
人間は、常に発展途上の存在です。
どんなに白く見えようとも、まだまだ白くなる余地があるし、
どんなに黒に近いグレーでも、白を目指しているのであれば、
そこに「善」が宿っていると、私は考えるのです。
 
ウィキペディアで、「偽善」という言葉を調べてみました。
書かれていた「偽善」の意味は、以下の通りです。

偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。
また、これを行う者は偽善者とよばれる。
外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、
虚栄心や利己心などから行われる事を指している。

なるほど、虚栄心や利己心から「善」を行うと、「偽善」となるようです。
虚栄心は、自分をよく見せたくて・・
利己心は、自分に見返りが欲しくて・・
といったところでしょうか。
 
「善」を為そうとしたとき、
そこに「自分」という視点があると、
「偽善」と非難されるんだろうなぁと思います。
 
逆に、「相手」のことを想って、あるいは心配して、
「相手」の手助けをする行為は、「善」であるんでしょう。
 
要は、「相手」のことを想っての行為なら、それは白。
「自分」という視点で為す行為なら、それは黒。
 
まあ、そう考えると、完璧な白ってあるような気がしてきました。
自己犠牲の行為なんて、その典型でしょう。
川で溺れている人を助けるために、自らも川に飛び込む。
これを「偽善」という人は、よっぽどひねくれていると思います。
 
驚いた。
人間は、完璧な白の一手も打てるのですね。
 
このように考えていくと、私は「心身二元論」を想起してしまいます。
つまり、心と体は一体ではなく全く別物という考え方です。
 
心身二元論」の対となる言葉として、
「心身一元論」という考え方があります。
これは、心は脳の起こす現象に過ぎず、
全ては物理科学で説明できるという唯物論的な考え方です。
 
心の全てが、脳の混沌としたネットワークからもたらされるとした場合、
そこから完璧な「善」が生まれるのかな?と疑問に感じます。
 
0%から100%の「善」がランダムで選ばれる場合、
100%の「善」を引き当てる可能性なんて、ゼロに近いはずです。
今まで生きてきて、98.3%が最高記録だった、というような感じになると思います。
 
しかしその気になれば、100%の「善」を容易に繰り出すことができるのなら、
プラトンの提唱するイデアがそこに存在するとしか言いようがありません。
イデアとは簡単に言うと、この物理世界には存在しない、
物事のお手本あるいは原型のことです。
例えば完璧なリンゴを頭の中に思い浮かべることができますが、
実際の世界にはそんな完璧なリンゴは存在しません。
この世界にあるリンゴは、頭の中で想起できる理想的なリンゴの劣化版コピーなのです。
イデアについて詳しくは、過去ブログ「イデアの世界に連れてって」をご覧ください)
 
私たちの心が、この物理世界とは違うイデア的な「観念の世界」にあるとした場合、
100%の「善」を繰り出せることへの説明はつきます。
 
私たちの心がイデアの住人であるのなら、
そこにあるのは100%の「善」。
それなら、本物の「善」と偽物の「善」を、直感的にかぎ分けられるはず。
 
であるならば、「偽善」という評価も正当な評価なのだと、私は考え直しました。
 
私たちは「善」を知っている。
だから「偽善」を為すことなく、本当の「善」を為すよう努めていきたいと、
私は考えます。