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インド・ギリシャ王国

フレデリックルノワール『仏教と西洋の出会い』(トランスビュー

 紀元前一七五年にインド・ギリシャ王国を創設したデメトリオスの、六代目の後継者であるミリンダ王は、紀元前二世紀末に、パンジャブからガンダーラを経てカブール地方にまで及ぶ広大な地域を支配した。

インド・グリーク朝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%9C%9D
 インド・グリーク朝(Indo Greek Kingdom)とは、紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃までの間に主にインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国の総称である。

1.デメトリオス1世(前200年 - 前180年)
2.アンティマコス1世(前180年 - 前165年)
3.パンタレオン(前190年 - 前180年)
4.アガトクレス(前180年 - 前170年)
5.アポロドトス1世(前175年 - 前160年)
6.アンティマコス2世(前160年 - 前155年)
7.デメトリオス2世(前155年 - 前150年)
8.メナンドロス1世(ミリンダ)(前155/150年 - 前125年)


ミリンダ王の問い』のミリンダギリシャ人だったのか。
アレキサンダー以外に古代に
ギリシャ人がアジア、インドまで進入していた事は
あまり知られていないと思う。


トロイア戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
 トロイア戦争それ自体は、確固たる歴史に編纂されるものではなく、紀元前1700年から紀元前1200年頃にかけて、小アジア一帯が繰り返し侵略をうけた出来事を核として形成されたであろう神話である。しかし、これについては、紀元前1250年頃にトロイアで大規模な戦争があったとする説もあれば、そもそもトロイア戦争自体が全くの絵空事であるという説もないわけではない。


イオニア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2
 古代ギリシア人の言い伝えによると、イオニア地方の諸都市はエーゲ海の反対側からやってきた植民者によって建設された。その植民はアッティカイオニア人たちの伝説と深く関係していて、最後のアテナイ王コドロスの息子、ネイレウスおよびアンドロクロスが率いての植民だったという。
 後世の年代学者たちはこれを「イオニア人の移動」と呼び、その時期は、トロイア戦争の140年後、あるいはヘラクレスの息子たちヘーラクレイダイ(Heracleidae)のペロポネソス半島への帰還の60年後と見なしている。1910年、当時の研究者たちは、正確な時期はともかく、イオニア地方が比較的遅くギリシア化したという、ギリシア人たちに伝わる通説に賛成した。その時期は、ドーリア人の侵入と拡大以後、また、初期エーゲ時代以後にあたる。
 紀元前7世紀、遊牧騎馬民族のキンメリア人がリディアをはじめ小アジアの大部分を侵略した。キンメリア人はメアンデルのマグネシアは略奪できたものの、エフェソスの攻略には失敗した。
 紀元前700年頃、今度はリディアのメルムナス朝の始祖ギュゲス王がスミルナとミレトス一帯を侵略した。その息子アルデュスがプリエネを落とした時には、既にコロフォンもリディアのものになっていたと言われている。長い服従の時代が続いた。紀元前547年、リディアは滅亡したが、それで終わったわけではなかった。リディア王クロイソスを打ち負かした大キュロスが引き続きイオニアを支配したのである。他のアジアのギリシア人都市とともに、イオニア地方はペルシア帝国の属領となってしまった。首都から遠いところにあったので、ある程度の自治は許されたが、統治する僭主は全員ペルシア王の手下だった。
 そうした僭主の一人、ミレトスのヒスティアイオス(とその婿アリスタゴラス)の扇動で、紀元前500年頃、イオニア諸都市はペルシアに対してイオニアの反乱を起こした。まず、アテナイとエレトリアに応援を求め、サルディスに侵攻し、町を焼き払った。この事件がペルシア戦争の引き金となった。しかし、ラデ沖の戦いでイオニア艦隊は敗北。ミレトスも長期の包囲攻撃の末、陥落し、イオニアは再びペルシアに征服されてしまった。
 しかし、ギリシア軍の相次ぐ勝利は、エーゲ海対岸の同胞たちに幸運をもたらした。ミュカレの戦い(紀元前479年)におけるペルシア軍の敗北で、ついにイオニアは自由を手に入れた。イオニアアテナイの独立した同盟国となった(デロス同盟を参照)。


F・M・コーンフォード『ソクラテス以前以後』(山田道夫訳、岩波文庫

 この学は「イオニア」自然学と呼ばれている。小アジア沿岸のイオニア植民市のひとつ、ミレトスの地で、タレスとその後継者たちによって創始されたからである。タレスは前六世紀初頭の人だった。二世紀後、デモクリトスの原子論においてイオニア自然学の発展は頂点に達したが、デモクリトスソクラテスプラトンの同時代人だった。

ミレトス