繰り上げ法要(追記あり)

 新聞の告別式の広告を見ているいると、繰り上げ法要が目立ってふえているような気がする。いつからそうなのかは知らないが、ぼくがこのことに気付いたのは3,4ヶ月ほど前である。(数年前のエントリーでも繰り上げ法要のことを取り上げたことがあるが、数は現在ほど多くはなかった)。


 広告は、型どおりに死亡告知に続き告別式の日時や場所が記され、最後に繰り上げ法要の告知がなされる。文言はほぼ一定していて、つぎの通り。
「七七の儀は繰り上げ法要として初七日の○月○○日(○曜日)に四十九日と併せて執り行いますのでご了承下さい」
「七七の儀は繰り上げ法要として初七日の○月○○日(○曜日)に四十九日と併せて近親者のみにて執り行いますのでご了承下さい」
 ためしに、告別式広告中の繰り上げ法要の件数を、ここ1週間分数えてみた(琉球新報による)。


・2011年7月20日(水):7件中3件
内1件は「七七の儀は初七日と四十九のみ執り行いますのでご了承下さい」
・7月21日:1件中1件
・7月22日:21件中6件
  内2件は、「七七の儀は旧盆の為 繰り上げ法要として三・七日の○月○○日(○曜日)に四十九日と併せて執り行いますのでご了承下さい」
・7月23日:18件中8件
  内1件は、「尚 七七忌の法要もすべて同日相営みますのでご了承下さい」
・7月24日:11件中7件
・7月25日:8件中6件
・7月26日:17件中8件
 7月22日の「旧盆の為 繰り上げ法要」をするとというのは、盆をまたいで法要してはならないという沖縄の習俗(正月も同様である)によるもので、これはずっと以前からあった。
 23日の「同日」というのは告別式の日という意味である。

 戦後、「新生活運動」なるものがさかんに行われたが、同じく生活の簡略化ではあっても、それと繰り上げ法要とは性質も次元もあきらかに異なる。新生活運動には牧歌的で向日的で民主化という熱病の匂いがしたのだが、繰り上げ法要には、人々の声にならない悲鳴のようなものが聞こえる。なによりも繰り上げ法要は、個別の家族の思い切った選択である。この選択が一定の流れを形成しているということは、沖縄の人々の意識のありようが、これまでの民俗社会の価値観とはっきりとずれていることを告げている。まるで海底のプレートがずれているようにだ。


 七七の儀は、四十九日まで七日ごとに法要が行われるが、これは喪家にとっては心身ともに重い負担を強いる仕来りである。慣習を負担に感じるということは、人々の意識や感性が個人化したことを意味する。それが葬の場面でも顕在化したのである。ローカルな心性と個人化した意識のせめぎあい。