リツエアクベバ

satomies’s diary

日曜は、町内会・自治会対抗運動会

年に一度のこの運動会は、うちの町内会が「燃える運動会」、18チーム参加で昨年は準優勝。同じ主催の夏の「子ども会対抗ドッジボール大会」にも「燃える人」は多い。
「燃える」のはいいんだけど、「雨」に対しての感覚がわたしはいつも違和感。
体育会系の人、サッカーや野球のチームに入れてる人、こういう方々は「雨の中で競技」というのが意識として慣れっこなんだと思う。でもわたしはイヤなんだよね。なんでレクリエーション行事で、ずぶ濡れの中子どもが競技しなきゃならないんだ、と思う。
昨日もそうだ、どんどん降ってくる雨に競技に出場した子どもたちは髪や肩や背中を濡らしてテントに飛びこんでくる。天気予報は「雨は朝方まで」、そして朝は雨は上がっていたからタオルだの傘だの合羽だのと持ってきていない子どもばかりだ、親が来てるのはほんの一握り。
町内会の役員に言う、「近くの100均にわたしが行ってくるから、タオル購入の予算を出してくれ」。
返ってきた答は「出場すればどうせ濡れるんだから同じこと」。
…、アンタね。アンタの感覚はそれでいいかもしれんが、わたしはイヤだ。
もうわたしは役員ではないとはいえ、役員が引率してきた子どもたちが濡れたままになってるのはど〜しても我慢ができない。
子ども会の現会長に「タオルを買ってくるから予算は出るか」と聞く。「出します、お願いします」と答える。会長経験者の言葉はちょこっとプレッシャーを与えているのか。かまわん、出さないと言われたら自費で出す意志はあったしね。
出場競技から帰ってくる子どもたちにタオルを渡す、髪や肩をふいてやる。何やってんだ、大会関係者は。こんな雨の中やりたかったら、プログラム変更をとっととやって、雨でもやりたい大人の対抗競技を先に持ってこいよ。なんで未就学児の「オヤツ競争」やら低学年対象の「親子競争」やらをこんな雨の中やるんだよ。
アナウンスでプログラム変更が伝えられる。高学年の「マラソン」の距離が半分になる。だからなんでこの雨の中、小学生にマラソンやらせるわけ?
「ちゃんとふきなさいよ、濡れたままにしていてはダメよ」
テントの中で大声をあげながら、子どもたちをふく。「出場すればどうせ濡れるんだから同じこと」と言った町内会の役員にはものすごいイヤミな行為だったと思う、かまうもんか。
開会式途中から降りだした雨、結局中止が決まったのは11時半過ぎ。「やってるうちに止むだろう」は結局「やまなかった」という展開。強引な施行の結果に体が冷えた子どもたち。
どうもわたしは「体育会系」にはなれそうもない。

新記事:「消化不良」を消化

↑の文章書いて、新記事:消化不良を消化。
そうか、わかったぞ。
本文中の「『自分たち』以外の人間関係を成立させることができない子ども。」
この子たち、家庭でしか育てられていない。
地域の子ども会という育成団体が無い地域、あっても活動参加率が悪い地域、野球やサッカー等の活動に参加していない、そういう子どもたちにこの手の子が多い。
親と担任の教師くらいしか、「自分たち」以外の人間関係を成立させる習慣・経験が無い。
なるほどね。
やっぱり、子どもっていうのは、親だけじゃ育てられない。
そのこと、大事なんだな、と思う。
障害がある子を持ったから、親だけで育てるのではなく地域で育てることを常に考えてきた。障害がある子にとって、地域の理解というものは育つ上でとても大きい。
でも、子どもが地域で育つってことの大切さは、障害のある無しだけじゃ語れないんだろうな、きっと。
ウチに遊びに来る子どもたち、来たときには必ずわたしが玄関のドアを開いてやり「いらっしゃい」と声をかける。帰るときには必ずわたしが玄関のドアを開いてやり、外に出て姿が見えなくなるまで見送ってやる。
「いらっしゃい」と声をかけないと、黙って入ってきて靴を脱いで上がっていく。声をかけると「こんにちは」だの「お邪魔します」だのが出てくる。帰るときに「気をつけて帰りなさいよ」と声をかけると、「『自分たち』以外の人間関係を成立させることができない子ども」も挨拶を返す。
そういうことって大事なんだな、と改めて。高学年になってきて「大きい子」になってきたけれど、まだまだちょっと関わってみようかな、と思う。
勝手な感想で言えば、見送ってやるときに一度ふり返ってくれる子はかわいいな、と思うな。