S嬢 はてな

2008-08-15

[]ストリートビュー、自分の中での整理

*感覚的、感情的な要素

ストリートビューについては、支持する人も批判する人も、「これは感情的な問題。」って前提を認識している人が多いと思う。何かの法律に引っかかってないか、という人は結構冷静というかとりあえず自分の意見はおいといて調べてみました、みたいなのが目立つし。

なんつーか、基本的に感情に基づく問題に無理やり理屈をつけようとすると、無理が生じるよね。

クリリ・・・じゃなくて俺の事かー?/風のはて

うん、そう。「よくわからない」ベースはやっぱり感情的な部分。そしていろんな文章を読んだけれど、この感情的な部分に届く「感情的な部分をやわらげてくれる」論調が見つからなかった。もしくは自分には届いてこないものの方が多かった。

また、このumikajiさんとこの文章には「同調圧力」という言葉が出てくるのだけれど。この「同調圧力」という言葉にも、また考え込んでしまった。

ひとえに感覚というものが左右しているように見えるストリートビューに関しての感想群。「こういう感覚である」と強めに言っていくこと、そのことが、別の感覚を持つ人に「同調圧力」と感じる要素があるのかもしれないとも。

わたしはアメリカストリートビューを知らなかった。そこで起きている論争も知らなかった。ある日突然日本のストリートビューを知った。それはある日突然、始まってしまっていた。要するに「ついていけてない」。混乱しているので、理論としての説明にも「ついていけてない」のかもしれない。

*撮影現場、特に「路地」のこと

ストリートビューは、自分の住んでいる地域が対象区外なのでなんとも言えない。縁のあるところを見ても画角狭すぎであまり面白くないと思ったし、市街地を見ても気持ち悪いとは思わなかった。ただ、さすがにこんな角度の写真は自分の家じゃなくても気持ち悪いと思うけど。

10年程前に実家を見下ろす位置にマンションが建ったときは不快に思ったけど、今は気にしなくなった。ではストリートビューも同じように慣れるのかというと、ちょっと分からない。多分塀の中を覗き込むような角度の写真はずっと気持ち悪いという感覚が残ると思う。

カメラの高さを下げるのと、住宅地は対象外にするくらいの配慮はしてほしいよね。

クリリ・・・じゃなくて俺の事かー?/風のはて

そうそうそうそう。わたしも最初に「お散歩」したときは、ふうん程度で終わっていた感じ。ぎょっとしたのはこういう感じの画像を目にしたこと。道に対してズームかけようとしたら、その画像の端に写っていた住宅の端までぐわっとズームかかって、なになになに?これは、と思った。そして、気づいた。気づいたらびっくりした。

ストリートビューの画像は道幅が狭い路地に入った場合、道から「ごく自然に目に入る景色」だけではなく、覗き込む、もしくは望遠鏡で眺めるレベルの画像まで地図情報リンクで表示する。わたしが気持ちとして引っかかるのはここなのだと思う。むろんたいがいの人が知らん人の知らん場所の光景にそこまでのズームはかけないだろうとも思う。でもこの「かけないだろうとも思う」性善説にどこか頼っているような感じが消えないのが違和感のひとつだとも思う。

それから「グーグルにNO!と言えるニッポン - アンカテ」経由で「Google の中の人への手紙 (日本のストリートビューが気持ち悪いと思うワケ) - higuchi.com blog」を知る。そこで「日本の都市部の生活道路をストリートビューから外してもらえませんか」というのを見て、(ああ、こういう風に思ってもいいんだ)的に感じたとこはあると思う。「んぎゃ」と思う人はいるんだ、と。そしてそれには賛否両論があるんだということも。

nihenさんとこの画像、「気にならないよ」という言葉と共にこうした画像を出していただいているのは、わたしにとってはありがたかった。だって、「ここがこう気になるよ」と画像やそのズームした状態を地図情報まで出して表示させていくのは、ちょっとできないもの。またnihenさんとこの画像は「ここ、感覚的にボーダーラインにならない?」ってとこ、あるよなあと思った。ここに抵抗が無い人は、多分この機能全般に抵抗が無いと言えるかもなあとも。

それと高木浩光さんの検証。

日本の家屋の塀はグーグル社に適応して70センチ伸びるのか/高木浩光@自宅の日記

ここで例としてあげられているお宅の画像は削除されてしまったけれど、わたしは表示されている段階で閲覧。ちょこっと思うのは、地図情報とリンクさせなくてもよかったんじゃないかと思うこと。地図情報を載せて「存在しています」と立証しなくても、似たような画像を確認している人はいるんじゃないかと思ったから。その「存在しています」の立証よりも、このお宅の方の感想の方が聞いてみたかったとこはあると思う。

ここでポイントとなるのは、高木さんが撮られた写真の「図6」の方。

訪ねた場所は本当に狭い道で、自動車が来たら人は止まって避けないといけないようなところだった。住人の車の通行しか想定されていないところだ。路地の入り口から見た写真は図6のとおりで、用もないのに入っていくのは気がひける場所だった。奥の方(図1で「北」に進んだところ)はさらに狭くなっており、「ここを通って行ったんですかね、よく通れましたね」とインタビューした家の方もおっしゃっていた。奥の方の塀も高さが2メートルほどあり、通行人の視点では窓は隠れていたが、「ストリートビュー」では窓が映し出されている。たまたまカーテンが閉まっているからよいものの、閉まっていなければ部屋の中が映っていただろう。

日本の家屋の塀はグーグル社に適応して70センチ伸びるのか/高木浩光@自宅の日記

網羅のために「ここまで入り込むのか」という場所が、都内の青い線の区画の中にある。そしてズーム機能がある。わたしの違和感のポイントはここだと思う。

ただし。考えながら自分の中でひっくり返した。こうした路地の狭い一角は高齢者福祉の視点で考えたときに、デイケア送迎等に非常に困難になる。そうした状態で事前に家から周囲への移動状況に関して、検討するには有効な材料になるのではないか。また、この路地の一角に火災が起きたときに、消火作業をどのように行わなければならないかという検討材料としての情報にはなるかもしれないとも思った。

要するに、なかなか入り込めない位置に情報が網羅されること。ここで基本的な資料として活用の道はあるだろうということ(ただしそこでのズーム機能が容認できるかどうか、というのはまた別の感覚は起きる)。

エクステリア

難しいのは、エクステリア(つまり住居のなかで外部からも見ることができる部分)というものは、その建物の持ち主や住人によって決定権があるという意味では極めて「私的」なものであるにも関わらず、外部から見られる部分であるから、周囲の環境に影響を与える「公的」な要素も兼ね備えているということだ。つまり、プライベートとパブリックの両方の要素を持っている。

つまり、外から見られる部分について、実際に(日本人であろうと何国人であろうと)「私的領域に属しながら、外から見られる」ことを(おぼろげながら)自覚しているはずだ、という話。

正論。ただ、「この、特に多数の人が日常的に入り込む場所ではないような路地」が「まさか地図情報リンク付きでweb上にこんなにもズームアップして表示されるとは思わなかった」という感覚が、少なくともわたしには、ある。要するにそこが「ある日突然開始された機能」に対しての「ついていけてない感」だと思う。

金持ちかどうかということで言えば、このエクステリアに対しての「余裕」は、エクステリアにかけるスペースや外観でかなりの差は出るとも思う。狭い集合住宅はたいがい南(か東南か西南)に向かって居室があって、そしてその窓のところに洗濯物を干すための物干し竿をひっかけるようなものが付いているよね。また戸建てであっても敷地ギリギリで建設されている住宅の窓やベランダは、そうした状態のところは少なくないとも思う。だから日本の都市部の住宅事情としては「そもそも路地に向かったエクステリアに生活情報を晒し出さなきゃならないような状態」になっている住宅は存在するとも思う。都市部で育ったわたしはそういう光景に慣れきってるしね。そこで正論ばんってとこに、わたしは「情」としてどうにも(う〜〜ん)って思っちゃうとこはあるんだと思う。

ばばんと表示されてる実家に関しては。エクステリア部分を母がきれいにしているところ、その地区の一般的な住宅としてはエクステリア部の面積が広いこと(門扉から玄関、二階のベランダの位置やその広さ等)などがある。でもズーム機能はそのエクステリアを飛び越えて、居間のサッシを拡大表示してるんですよね。居間も20畳ほどあるので、窓側に見える景色がズームされてもそんなに生活臭いとは言えない。あー住宅として余裕のある家でよかった、ってそういうことか?とも思うところはあるなあというところ。どこか自分の中で(それでは何かが違う)的なとこがあるのも、多分「ついていけてない」感を持っているとこかもしれないとも思う。

*結局のとこ

正論のなにがしかをふむふむと思いながら、時間をかけて「慣れていく」のかなあとも思う。たいがいのものは「おいていく層をおいていきながら」進んできたのだしね。ストリートビューが開始されたということは、それは進んでいくのだろうとも思うしね。

なんてとこで、実は昨日「んぎゃ!」と思った。昨日、辻堂海浜公園プールに行った、その帰り道。幹線道路から海に向かう主要道路に沿って大規模マンションが建設されていて、そのマンションは、一戸一戸が公道に向かって大きなエクステリアを突き出している構造になっていた。

(うは、これは相当「エクステリアの見せ方」に自信のある人じゃないと住めないマンションになるだろうな)と思った。瞬間そう思うってことは、わたしはちょっとずつストリートビューに慣れ始めているってことなのか、とか、そんなことも思った。(ちなみにこの建設中のマンションは、ストリートビューでは建設中のもう少し前の状態で表示されていました)。

sol1ogsol1og 2008/08/15 15:15 >感情的な部分に届く「感情的な部分をやわらげてくれる」論調
とあるのですが、
今まで、感覚的にいやだ、
と感じたものにたいして、
「感情的な部分をやわらげてくれる」論調を目にした結果、
感覚が変わった例があったら
教えていただけませんか?

体験をとおして
(例えば何回も経験してなれて、とか、人伝てにしか知らなかったものを実際に見知って、とか)
感覚が変わる事はあるかと思うのですが、
「論」ではそこはなかなか変わらないんじゃないかと思うのです。

satomiessatomies 2008/08/15 23:58 >sol1ogさま

おお、難しいお題だ、と思いました。
今回のように、導入自体がニュースになること、そしてそれが現実的に自分にも関わってくること(自宅は付近の路地は圏外だけれど実家は表示)、そこでの違和感とweb上での論争。
自分の経験としては、けっこう特殊なものだと思うので。

うまく整理できませんが、「経験無し」「『実際に見知って』多少は『聞いて』はあるが限界アリ」という例で、「論」で変化していく例として無理やり上げるとすれば。
ごく一般的なところで言って、不妊治療に関してはこのあたりは該当するかもしれません。
生命倫理という点で抵抗感があるものでも、実際に携わっている人の「話」または「論」を読んだり聞いたりする中で、とらえる感覚に変化が起きていくような。

それと、自分自身は?というところで、自分の過去エントリを掘りあさって読んだりしてました。
あるweb上の「小説」に関して、そこに「兄」として出てくる人物が障害をもった設定になっていて。その記述にわたしはどうしても違和感がぬぐえなかった。
そこで自分自身の整理のためにエントリを立て続けていくのですが、「フィクションを書く立場」の人たちとweb上で接していく上で、ある到達点にたどりついています。

また、障害系の話題に関しては、批判覚悟で話題の流れに「身投げ」していくときはありますね。
その感覚的なものを、こちらの投げかける「論」がどこまで届くのか、みたいな気持ちを持ちながら。

それから今回のストリートビューに関しては。
どちらかというと肯定派の方のエントリを何度も読んではいたなあとも思います。
初見では肯定の語気ばかりを感じてしまう、でも再読再々読再々々読で「『否定』の全否定ではないところ」を見つけていくようなところはありました。

sol1ogsol1og 2008/08/16 09:46 おおー
おこたえありがとうございます。

「論」でも、共感できる所がみつかっていくと
「感覚」がかわっていくことがあるんだなー
って感じました。