S嬢 はてな

2009-11-27

[]「中身」に関して思うこと

ngmkzさんからトラックバック

【しょう・がい】と言う発音される言葉への雑感、と「これから」へのリテラシーのこと/*note304

このエントリで引用された部分。

心を落ち着かせてくれるのは、その障害に対しての支援の中の細やかな視点だと思う。支援や支援に対しての心配りが充実されるためには、障害自体がきちんと認識されることが重要だと実感の中で思う。普通の人が難なく行うことに対してハードルが存在すること、障害をもつ人、障害をもつ子ども。そこで「障害者、障害児」という言葉を使うときに、取り立てて「害」の字ばかりに注目しようとするのか、やっぱりわたし自身はわからずにいる。この子の染色体異常という原因から発している知的な能力に対しての問題自身が重要であり、この「障害」という言葉を「者」や「児」に付けるときだけ熟語の文字の漢字やひらがなの表記をばらばらにしてどうにかなるものでもないとも思う。「障害」と書こうが「障がい」と書こうが、大事なことはその表記ではなく、そこに存在している中身だと思う。(障害、このごろ - S嬢 はてな

ここでの「中身」に関して、ちょっと例をひとつ。

娘の一歳半での集団検診のときだったと思う。早めに着いたので会場に人はまばらだった。ちょっと離れたところに数人の保健師さん?らしき方がちらちらとこちらを見ているのに気づく。ちらちらと見ながら何かを話している様子。受付をした時に「普通の子ではない赤ん坊」とチェックでも入ってそんな話になっているのかとも思う。ちらちら見ながらなんか言ってるのが見えるけれど、こちらにアクションかけてくるわけでもないので、そのまま。ただ、ちらちら見ながらコソコソ的に見えるのは感じ悪かった。顔を上げてそちらを直視するのもこれまた変な感じなので、抱いている娘の顔を見たり母子手帳を見てたり。

それからちょっとして、その数人の方の一人がすっとわたしの側にやってきて、わたしの隣に座った。もう10何年も前のことなので、何をどう言ってきたとか具体的なことは忘れてしまった。たいした意味も無いこと。

でも。なんだかんだ話しかけられながら、だんだんイライラしてきた。イライラしてきたので言った。

「わたしは子どもではありません。その、小さい子に話しかけるような話しかけ方はやめていただけませんか?」

ここで子どもをあやす保母さんのようなお話しかけはストップした。率直に断ったので気分を害されたかもしれないが、こっちはとっくに気分を害していたのですまんがあきらめてくれ、という感じ。保母さんのようなお話しかけがストップしたら、その方はとっとと行ってしまわれた。「普通の子ではない赤ん坊」について、「優しい話しかけ」以上の情報提供があるわけでもなかった。

この日の検診で、「歯の欠損」とかなんとかという話が歯科医師から出る。一歳半時期に娘の歯は一本も生えていなかった。そのために、先天性の欠損がどーたらということを簡単に説明された、「優しい話し方」で。集団検診なのでそれで終わり。

そうか、生えない歯があるのか、と思った。こりゃそれなりに必要なことが出てくるなと思った。出てくる数の歯でブリッジとか考えていかなきゃならなくなるのだな、と思った。主治医と相談でもしなきゃならなくなるな、と思った。で、帰宅後にたまたま用事があって電話で話した、いわゆる「ダウン症児の先輩の親」に、歯の欠損と言われたことを話した。

一笑にふされた。「ダウン症の赤ん坊が一歳半で歯が生えてないなんてことは珍しいことではない。集団検診で一般的な情報を仕入れられることはあるけれど、集団検診の場にダウン症児の傾向をよく知らない歯科医師がいることも珍しいことじゃない」。

そして。「そういうとここそ、本当はその集団検診の会場の保健師さんやらなんやらが情報としてフォローして欲しいところ。ダウン症児の歯の萌出は一般的に遅れることが多いこと。集団検診時の歯科医師が欠損の可能性を言ったのなら、その後に関してそこの自治体の療育機関に歯科検診をしている歯科医師の紹介等、やれることはあるはず」。

それから。「そういうことこそ、今度はアンタが『小さい子に話しかけるような、とても優しい話し方』で教えてさしあげればよかったのに」と、「小さい子に話しかけるような、とても優しい話し方」にぶんむくれたわたしを想像して大笑いしてた。

ちなみにそれからまもなく、歯は生えてきた。一本生えてきたら、あとは続々と生えてきた。乳歯から永久歯への生え替わりはけして遅くはなく、普通の子と比べても早い段階で永久歯は揃った。欠損は結局一本も無かった。

で、この件でわたしが欲しい、わたしがイメージする「中身」の充実とは。

集団検診で、ダウン症の赤ん坊が来た。ああ、あの子はダウン症の赤ん坊じゃないか、そうカテゴライズするのなら、ちらちら見て遠目でなんだか相談する必要を感じるのなら、まず普通に挨拶をして欲しい。そして地域担当の保健師コミュニケートできているかとか、必要な情報は入手できているかとか、そういうことを話して欲しい。そういうことだと思う「思いやり」というものは。幼児に対してのような話しかけの言葉づかいではないと思う。

「障害」や「障害によって起きる不便」は、ある日突然消えてなくなったりはしない。必要な支援というものが存在する。その必要な支援というものの充実が重要なのであり、その充実が約束されるのならば、わたし個人は「優しい思いやり」は二の次でもかまわない、とも思う。

娘が乳幼児期にお世話になった整形外科のドクターは、非常に差別的な物言いをされる方だった。でもこの時期にこのドクターにお世話になったからこその現在の娘の足、という歴然とした事実がある。娘に関して、このドクターの指示の元でリハを行ってくださっていた方が初診時の印象を繰り返してわたしに語ってくださった。「ダウン症の子の中でも関節の可動範囲がかなり顕著なタイプで厳しい状態が予測され、母親に対して不憫という気持ちが先に立ち、何も言えない状態だった」ってな現実からスタート。

その後、その初診時の印象は誰のことですか?状態になったのは、このドクターの手厚さがあったからだと思う。「関節の可動範囲が広い状態を幼児期の短下肢装具使用によって制限し、足自体の筋肉を養成し、本人の筋肉によって関節の可動範囲の問題を修正させる」。無事成功、娘の足にはきれいな筋肉が付き、問題は軽減された。3年ほど使用していた短下肢装具も今は思い出の品でしかない。

ってことでとても感謝しています、差別的な言動に関しては、すでにみんな忘れてしまった。

ngmkzngmkz 2009/11/27 21:19 うお、トラバ早い!早速のアンサーどうも、ありがとうございます。
「優しい思いやり」の件(くだり)、ぼくも実感しつつ、でも現場は「想い」が大切、とか平然と言う。
愚痴っぽくなりますがw自閉症の方の話しかけにどんどん付き合って、支援者なのに「距離」がとれなくなって、という場合も実際にぼくの現場ではあります。。。
つい先日、http://d.hatena.ne.jp/note304/20091126/1259233083#20091126fn2のPSWの人と話していて、「自己決定はクライアントと支援者の関係の中で生まれる」と言う話題になって、すごく同意したし、ぼくらの専門性が、そうだとしたらすごくクリアに問われるなと思いました。
家族や本人にはなれない以上、「想い」じゃどうにもならない部分を、どう支援するか考えたいんです。
その支援に、客観的に見える「障害」と主観的な想いの死角に入り込んでしまった、どのクライアントさんが自立してひとりで生きるかという、未来への視野がやっぱり専門性で、何て言うか、、、どう目の前に浮かび上がらすか、ってのを、このエントリーを読んで考えました。

あと、支援者が「想い」が一番大切だとベタに考えたり理念にしてしまい、「何も出来なかった」とき、支援者の人間性を(自分自身で)否定されてしまう(汗)なんてこともあるなー、と。
「想い」も大切ですが、それは「当然(みんな持っている)」と、割り切って、知識や技術、実践の研究を深まめてほしいと、現場で言ってみたり、自分に言い聞かせてみたりしています(苦笑)

satomiessatomies 2009/11/27 23:59 ngmkzさん、こんにちは。
当事者非当事者の立場になることはngmkzさんのエントリに書かれているようにいろいろなパターンがあるもので。
自分自身、そのシチュエーションによって、いろいろな立場の人間に様変わりする。支援者の立場に立つこともある。
そこではやっぱり、そのシチュエーションによって求められていることは何か、ということが大事なのであって、「想い」だのなんだのに対しての意図的か無意識的かの「演出」のようなものは、あまり意味が無いことも多いんじゃないかと思う。
「想い」に関しては、基本的に対相手を大事にしている線が存在すれば、それはそのコミュニケートに自ずと反映されるものだと思う。そしてそのコミュニケート自体の元々の目的は何か、ってとこだと思うんだよね、結局のとこ。
そこに自分で失敗を感じることがあったならば、目的行動としての線に立ち戻ればいいとも思う。
それに「想い」ってものはそもそも常にブレがあるものであって、理想のような美しさが常に存在するわけでもなく、そうした現実的な達観があってもいいとわたしは思う。

ちなみにこのエントリに出てくる「幼児に対して話しかけるような、慈愛たっぷりの話しかけ」に関しては、相手にとってシチュエーション的にそういう図式であるという決めつけから生まれていたものだと思う。
で、いったい何を言いたいの?ってとこがさっぱりわからない、相手の「慈愛」につきあわされていたような感覚をこっちがもっていってるってことに気づいてない時点で相手にはわたし自身が見えていず、コミュニケート自体が成立してなかったんだよね。
今だったら多分、その、相手が根底でもっている「障害に対しての怖れ」のようなものに対して、笑顔で流せるとは思う。そういう意味であの時点でのわたしはまだまだ障害とのつき合いがスタートしたばかりで、余裕が無かったんだろうなとか今は思うな。