S嬢 はてな

2008-04-24

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職業能力って?の続き/とほほな毎日

まず「ヨイショ」は軽くスルーしながら「出会った当初は専門学校を出たばかりの21歳のお嬢さん」だった保育士さんのこと。ああすんません、ちゃんと計算したら「22歳のお嬢さん」だったかも。

この彼女、ええいジュンちゃんね。ジュンちゃんは3月に学校を卒業できませんでした。6月卒業だったので、卒業後すぐに正規の就職ができませんでした。それで卒業後の秋からだったかな、公立の保育園の臨職として働いていました。

その同じ頃、わたしは次年度の4月から娘を公立の保育園に入れたいと、あちこち見学に行ったり、お話を聞いたりしていたのでした。公立の保育園に入れたかったのは、地元の療育機関が2歳半から「週4日、午前から午後までの通園、母子分離」のクラスに変わることになっていたこと。それを機に、その療育機関ではなく公立の保育園に場所を移したかったこと(理由は山ほどあるので割愛)。

近いとこ、ちょっと遠いとこ、遠いとこ等、まあいろいろ行ったけれど。そしてどこでも歓迎的なことを言ってもらえたんだけど。一番近いところの園長さんが一番親身になってくださったので、一番近いとこに入園させることにした。

そして。この園長さんと当時の主任さんが考えた。障害児ということで一人臨職の加配を手配する必要がある。この人選をどうしようか。あの子が適役なのではないか。ほら、実習に来ていたあの子。実習中に園児からの感染でみずぼうそうになってしまったあの子。あの子は非常に有能だった。確かみずぼうそうがかなり悪化してしまって出席日数が足らなくなり、3月に学校を卒業できなかったはず。正規の就職はできていないタイミングでの卒業だから、きっとどこかの園で臨職で働いているだろう。それをその子を引っ張ってこよう。

まあちょうどいいことに、ジュンちゃんは娘の入園の寸前の年度も、公務員採用試験を落っことしてたんですね。で、出会うことになった。ジュンちゃんは、障害のある幼児に対して適切だったというよりは、要するに保育士として有能であると実習中から見込まれてた人材だったわけです。

娘の入園の初年度、わたしも園長も緊張してましたよ。だってジュンちゃん、ホントに有能だったんですから。だからこその緊張。だってさ、彼女の人生っちゅ〜かを考えると、いつまでも臨職としておいてちゃマズいでしょ。だから初年度のみでしょ、この有能な人材を娘のための加配の臨職として配置できるのは。なんとかこの、ジュンちゃんの保育姿勢ってのを、その後の加配の臨職に引き継げるための記録とかとっておかなきゃいけないんじゃないかと。

ジュンちゃんな、ちゃんとお勉強しないで、お仕事以外は遊んでばっかいるもんだからさ、その翌年も公務員試験を落っことしまして。「あらもう一年よろしくね」なんて、まあ園長もわたしも喜んでいいんだかどうなんだか、まあ、まったくよ、と。結局娘の卒園まで、臨職としてこの園に勤務されていましたとさ。

ジュンちゃんは「障害児のいるクラスの加配としての臨時職員」ではありましたが。該当の障害児だけではなく、クラスの子どもたちにも適切に目を配り、わたしは娘のクラスの保護者の方々から感謝されておりました。「ちぃちゃんがいるから、あの保育士さんがずっとうちのクラスにいてくれる」。他の園児クラスの保護者の方々からは、「あのクラスばっかり、ずっと有能な保育士がついてる」。

まあ要するに、ジュンちゃんは障害がうんぬんとか療育がうんぬんとか以前に、保育士として有能だったわけです。うちの娘がどうたらこうたらってことではなく、障害がどうたらってことではなく。ジュンちゃんは「子どもを育てる視点」で、娘をずっと育てていた。まあそういうことなんだろうと思いますね。そこで重要だったのは「障害には配慮するが、障害に遠慮しなかった」ってことだったんではないかと。

子どもが「ダウン症です」と告知を受けるときに。「普通に育ててください」と言われることはよくあるんですが。「発達の遅れに配慮はするが、子どもとして普通に育ててください」ってことなんだけど。

でもね、わたしのパターンのようにそれが第一子の場合は、この「普通に育てる」ってことがよくわからんのですよ、自分の子どもを手にするのが初めてだから。

その「普通に育てる」って要所要所を、まあジュンちゃんが補ってくれたと。そういうことなんじゃないかな、と思う。ジュンちゃんのみずぼうそうの感染っていう、わたしが彼女に出会う前の事件から、まあ流れはこちらにラッキーに動いていたのだろうな、と。ジュンちゃんに感謝するだけでなく、その偶然をたくさん用意した巡り合わせにも、やっぱり感謝していますね。

2008-04-21

[][][]とりとめもなくいろいろと

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職業能力って…? - とほほな毎日

いろいろふむふむと興味深かった。実際のメイトさんにはメイトさんの個性があり、また現場の方には現場の方が考えられることはたくさんあるのだろうと。

その上で、わたしはわたしでこの文章を読んでなんだかんだ思ったことを、これまたなんだかんだずらずらと入れよっかな〜と思った。

娘が保育園時代に育てられた要素

娘は2歳半から保育園に通園。障害児ということで娘のクラスには一名補助の職員が加配される。まあ手がある状態での保育園通園ということだったんですが。

ある日の午睡後の午後の間食シーンを見学。娘の前にごろんと、茹でたトウモロコシを輪切りにしたものが置かれていた。あら〜。娘は一歳半の時点で知的レベルの判定は「中度」。一般的にこの時期のダウン症児はまだまだ「軽度」の子はけっこういるわけで。それなりに重い判定のスタートというところはわたしの中にはあった。まあそんなとこもあって、わたしはこの当時の娘には、トウモロコシは一粒ずつはずして食べさせていたわけで。でも娘の前には輪切りがごろん。

え〜〜、と戸惑う新米かーちゃんに向かって、主として娘を見るためにそばにいた保育士さんが一言。「このまま出します」「ここでどうするかはちぃちゃんが決めます」。

なんかすっごい(そうか…)と思いましたね。食いたきゃ周囲と同じようにかぶりつくだろ、戸惑うのならそばにいる人間に頼んでみ。ということなわけで。手を回し過ぎるのではなく、どうしたいかはまず本人が決めてみろよと。困ったら始めて手伝ってあげるよ、と。でも困ったのなら困ったと、自分でその意志を出していかなきゃいけないよ、と。

この保育士さんの姿勢はいろんな場面で一貫してましたね。娘との根比べのような感じで、よく戦ってた。その上で。娘の発達の小さな芽に対しての発見は早く。いや早いってよりそりゃあまりにも親バカだろ的なレベルの発見ではあったんだけど。でも見事に彼女の発見通りに、その発達は芽から事実へと発展していった。だからこそ、娘と彼女との信頼関係は強固に成立していましたね。

彼女はすごいと思う。出会ったときはまだ保育士専門学校を出たばかりの21歳のお嬢さんだった。そこから娘が6歳になるまで彼女は娘を育て続けた。わたしは娘を一人で育てたんじゃない。彼女の存在はものすごく大きかったと思う。

「まず、ちゃんと見ていてね。ちゃんと見ていられたらその次にはやらせてあげるからね」という場面で、うちの娘はすっと後ろに腕を組む。これも彼女が娘に残したもの。そして娘がきちんと後ろに腕を組んだとき、その後教えてやることには能動的にくらいついてきます。これは今でも同じ。

以前、娘を連れてリエんちに遊びに行ったときに。リエんちの愛息子はいわゆる「医療ケアが日常的に必要な子ども」。気管切開をしているため、日常的な吸引処置が必要なわけで。

リエちゃんが愛息子に吸引を始めたとき、娘はリエちゃんの側ですっと後ろに腕を組んでその様子を見ていた。そんな仕草でその様子を見ていたって、もちろんやらせてやることじゃない。そうしたらリエちゃんの目の前で、自分がその操作を全部覚えたことを、手の仕草で全て再現して見せた。かなり詳細に。リエちゃんビックリ。育てられたことが生き続けている要素でもあると思う。

見通しが立てにくい指示には関心を示さない

やって見せるときや、何かを教えるとき、指示するとき。本人に行程が見えにくい、見通しが立てにくいものには関心を示さないです。こうなってこうなって、そしてこうなって完成となる。これがわかりやすく提示されているか否か。娘の場合はここがかなり貴重。何がわからないか、どこを手伝って欲しいか。これを意思表示するのにも、この要素はかなり影響します。

以前学校での作業の場面で。牛乳パックを使った紙漉で、和紙を作っていた。そこで娘は漉いた紙にアイロンをかける作業を担当していたのですが。

この紙、紙の状態によってアイロンをかける回数が違ってしまうんですね。「はい、アイロンをかけて」「はい、これはもう一回」「はい、これはもういいよ」と。まあそんな感じだったんだけれど。指導していた先生は隣の子も見ていて。ちょっとそっちを見ている間に娘はとっとと目の前の紙を外に干しに行ったわけで。要するに次の行程に自主的に進んだ、と。

そうしたら先生が外に走っていって、それをぱぱっとはずしながら「これはまだダメ。勝手に干したらダメだから」と。

その後、娘は能動的な関心を全て捨てました。やらされることに対して無関心な表情で、やらされることのみ渋々という感じに変化しました。

この作業後の面談で「気分にムラがある」と言われたのですが。

「いや、アレは見通しが立てにくいでしょう。紙の状態によっても違うとも思うけれど、規定の回数は何回で、その後はアレンジなんだということを教えるためには、まず規定の回数に関してのわかりやすい指示は必要だと思う。また『これは完了』という合図のような指摘も曖昧だった。紙の状態が曖昧でも、本人に指示するにはきっぱりと『これは完了』と示さなければアレでは作業の区切りが理解しにくい。」

「ぱぱっとはずしちゃったとこはわたしも見ていましたが。干したものをはずすときにまずさわらせてみるとか、その手のことはありませんでしたね。自主的に動いた結果を『勝手にやるな』とまず否定された。これをどこまで、ってことが見えにくい。自主的に動けば否定される。何をどう否定されたのかもわかりにくい。申し訳ないですが、わたしは見ていて、娘の態度の変貌に対して(これはアリだよなあ)とは思いましたよ」。

さあて、わたしは娘をかばいすぎる親でしょうかなあ。まあ他の子が対象であったとしても、多分同じ感想は持ったと思うなあ。

2008-02-02

satomies2008-02-02

[][]ぶつくさをかまってもらって、あらうれし

 ぶつくさぶつくさの「日記」を、思わぬ形でいっぱいかまってもらった。あらうれし。日常で人つかまえて、ぶつくさぶつくさ言ってても、まあそんなことにつきあわされるのも気の毒だと思ってしまうが。わたしゃぶつくさ言いたいんだ、と、勝手に書いとくものに関して自主的にねえねえとかまってもらえるのはうれしい。

 へーと思ったのはid:yumizouさん。わあこの方、国語関連だけじゃないんだ、と失礼な感想。yumizouさんのブックマークタグの「車」でクリップされていたものは、どれもいろいろおもしろかった。

はてなブックマーク - 骨を拾う / 車

 昨日のエントリのはてなブックマークのコメントは、どれも興味深かったんだけど。

 わい!って思ったのはid:citron_908さんのコメント。リンクしていただいたマツダプレマシーのサイトに飛んで画像を見た途端、「真っ赤な車でサンルーフ」の一行をドンぴしゃでわかってもらった喜びって感じ。

 わ〜いわ〜い、って思ってcitron_908さんのはてなダイアリーに飛ぶ。おお、車関連書いてる人なんだ〜と。ふむふむふむふむ読んでた。そんなことやってたら、トラックバックが来た。わお、と思った。ブックマークコメントについてたリンクだけでも(わお)と思ってたのに、わいエントリあげて話聞けちゃった、みたいな。

レギュラーガソリン150円/L時代のクルマ選び(というほどでもないが)/The Life’s Like An Hourglass

 でちょいとこの↑エントリに反応していきますが。

 まずうれしかったのは「色」のこと。でしょ?でしょ?でしょ?でしょ?でしょ〜〜〜!?と。

 それからコレ。

ブクマでもちょっと書いたのですが、「真っ赤な車でサンルーフ」ときて、まずこれだ!と思ったのがマツダプレマシー。(http://www.premacy.mazda.co.jp/

 ブクマでも思ったけど、「真っ赤な車でサンルーフ」ときて、これ、イメージ的にドンぴしゃ!目に見える形でどん!と見せてくれただけで、もうホントにうれしかった。

 その上で。現実的には今回クラス下げようと思ってるので、コレは「夢」部分だなと。あと、自宅付近はびっくり細い道と鋭角カーブ曲がって路地通るのが必須。そうかあ、わたしのイメージはコレなんだな、ってとこで今回は満足。ちょいと予算上増しして実際にコレにしたら、日常の運転にいちいちやたらに緊張しそうだと思った。わ〜いわ〜いと思いながら、生活というものにくっついてくるイメージにはならなかったのでした。ごめんなさい、でもってすっごくありがとう。

 キューブキュービックと出すと、必ず出てくるのはへなちょこ三列目シートの話。アレは絶対「三列目」とは呼べないよねえ、と。そしてcitron_908さんのエントリでも出てきた「だったら二列車のこっちは?」ってのは当然出てくることだと思う。

 本当は多分その選択が正しいんだと思う。でも。わたしは普通の二列車で「あ、ゴメン、もう乗れないの」ってのがイヤなんだな。さんざん「もうみんな乗っちまいなセレナ」をやってきたからってのがあると思う。もう三列目はそうそう必要ないよな、って思っても、何かあったときに「ゴメン、もう乗れないの」ではなくて、「じゃじゃん。実はもう少しだけなんとかできるんだね〜」ってのが欲しいんだと思う。

 セレナで11年。その中で生活は変わってきた。購入時に2歳と5歳だった子どもたちは13歳と16歳になった。チャイルドシートに乗ってた時代の次は、「子どもは助手席に乗せない」という時代があった。今は普通に助手席にも乗せる。三列車でなくてもよくなったのはそういうとこもある。

 さあて。現実的な選択として、キューブキュービックを買うことになるんではないかと思う。理由はニッサンだから。ニッサンのうちの地区担当の人と妙に仲良しになっちゃってるから。

 本当は単に仕事上の「どうもです〜」人間関係で終わるはずだった。単に整備出してるディーラーの、そこの営業の地区担当なだけのはずだった。ただ違っていたのは。なんだかかんだかとごく普通のやりとりをしながら2年くらい経たある日「実は…」と言われた。自閉症児のお父様だったんですね。まあわざわざ仕事関連のそのへんのかーちゃんにそんな話をわざわざしなくてもいいことなんだけど。定期点検に出すスケジュールとかなんとかとか、そういった折りにわたしがちぃちゃんちぃちゃん言うもんだから、なんとなく言ってみようか、ってなことを思ったんだろう。まあそれからはちょこちょことよく話す。子どもの年齢が似てるとこってのもあるしね。あと。特にきょうだい児のことを話題にすることは多い。

 新しい車買うんなら、高い買い物なんだし別にニッサンにこだわらなくたって、って思うのよ。思うんだけどね。他社の車見てると、な〜んとなく後ろを引っ張られるのよ。どこの車だって誰から買ったっていっしょみたいなもんだけど、なんとなく人間関係裏切るような気分しょってまで他社車にこだわってるわけでもないんだよね〜、って気持ちになってくるんだ。そんなこんな勝手に自分抱え込んでるときに、citron_908さんが「4台の中で選ぶなら個人的にはキューブキュービックかな。」って書いてたのは、なんか本当にほっとした。そか。わたしはバカな選択をするわけではないんだな、って。

 で、この営業の人、昨日来た。ラフェスタがイヤな理由、「真っ赤な車でサンルーフ」等、話した。エントリ上げたものは頭の中整理されてるから話しやすい。彼はわははそうくるか〜と言った。それから「だったら選択コンセプトをがらっと変えて、二列車で検討し直しますか?」とも言った。ここで、うんそうなんだけど、でもさあのね、と、「じゃじゃじゃん、まだシートあるんだね〜」ができる変な車の魅力ってのを言った。そかそかと笑ってた。

 それから自宅近辺の細い道、びっくりの急坂、鋭角カーブ、急加速で合流することが必要な箇所とか、そういう具体的な近所事情をあげて、「あそこはキューブキュービックでどんなもんだ?」と聞いていく。去年だったかまで、この方が営業車にキューブキュービックを使っていたのですでに経験ある道ばかり。まあこういうのもすぱすぱぱんと答えられなきゃいけないのが、地域営業のお仕事でもあるんだろ。キューブキュービックのエストロニックCTVをわかりやすく説明しながら、あそこの道はこんな感じ、なんて解説してくれた。

 あと。「今月の目標値にあと一台!」ってときに、値引き額が大きくなる可能性が高いと。それから契約自体が欲しいのは月頭だと。現場の志気が上がる作用があるのが毎月の一台目だからだ、と。それから購入月がその後の定期点検時期や車検時期とも関係していくわけだから、そういうことを関連させて購入月を選んで買うのも利口な買い方だ、と。ふうん。じゃそういうタイミングみたいなのを考慮して、トクな買い方させてよね、などと要求。とりあえず二月は多分買わない。

2007-12-21

[][]お返事というか雑感というか

国語教育と日本語教育 その2 - b#

 日本語の世界にいたときからもう16年も経ってますから、現在の状況はわかりません。でもyumizouさんのおっしゃる問題点は当時からあったと思うし、いやもっとひどくなってるのか?と思った。

先日の研究発表を聞いている中で,前提として


多少の誤りが入っていても,全体としてわかりやすく説明できるようにしたい

という趣旨の発言があった。日本語教育というのは単なる研究ではない。研究の目的は,実践に役立たせることだ。なので,よりよい実践のためならば,多少の誤謬に目をつぶる,誤りを内包していてもそこについてはぼかして進めていくといった,手法をとりたいというのは理解できなくもない。

ただし,それには条件がある。それは「教えている側が含まれている誤りをちゃんと理解できている」ことだ。ところがこの条件がなかなか難しい。日本語教育の現場を見たことがあるわけではないので何とも言いがたいのだけれど,日本語教師,ないし,日本語教師を目指す人向けのサイトの掲示板への書き込みを見ていると,日本語に関する基本的な知識が足りないように思えてならない。

国語教育と日本語教育 その2 - b#

 わたしは日本語教育能力検定の第三回目に受験、合格。合格率は18%でした。18%って低くないですか? 試験範囲は広いけれど、でもってわたし自身は受験準備にとても時間を使ったけれど。それでもそれでも本当はもっと合格率が高くていいのではないか、と思ってました。そこが日本語教育の現場の問題だと思ってた。日本語教育能力検定は単なるスタート地点であって、この試験準備からそして合格から得られるものは「証書」ではなく、研究の姿勢だと思いました。「本当はもっと合格率が高くていいのではないか」。要するに研究姿勢が足らない人がとても多い、というのが印象でした。ぶっちゃけ言えば、学習者に勉強せいってとこで仕事してるんだからテメーももっと勉強しろよ、とは思ってたなあ。

例えば「( )練習しなければ、上手になりません。」という穴埋め問題がある。答えは「もっと」だという。ところが学習者の解答は「とても」だった。「どちらも動詞を修飾しているのになぜ『とても』ではいけないのか?」と聞かれ説明できなかった,という書き込みがあった。

これを読んでいる方は何を入れたでしょう?一般的な日本語話者であれば「とても」はちょっと不自然かな?というのは感覚的にはありそうなところで,でも「説明しろ」と言われると難しいだろうと思う。でも日本語教師は一般的な日本語話者ではないので,この辺で悩まれちゃうのはちょっと困るなと思う。

国語教育と日本語教育 その2 - b#

 穴埋め問題を作るには、その穴埋めに必要な前文を用意することは必須。これはyumizouさんも上記引用部の後におっしゃっているように文脈の存在というものがあるから。ここだけもってきて「説明できなかった」という時点で文脈の必要性を理解していない。

  • 試合で負けてしまいました。( )練習しなければ、上手になりません。
  • 「いつまでたっても上手にならない」「( )練習しなければ、上手になりません。」

 また日本語学習者に対しての「説明」は、短時間に多くの例文を提示することが必要。説明するための言葉を多用しての説明は、講師の自己満足に陥る危険性もアリ。

  • 「もっと」や「とても」は、程度を表す。
  • 「もっと」は程度が増していく表現。「とても」は程度が甚だしいという表現。 
    • この袋はとても小さいです。もっと大きな袋をください。
    • その説明ではわかりません。もっとわかりやすく説明してください。
    • その説明でとてもよくわかりました。もっと例文を出してください。

 それともうひとつ。

大体「動詞を修飾しているのに」というところで説得されてしまうところが困る。それは( )内に副詞が入りそうということしか理解できていないことになる。「とても」が不適切な理由としては「とても」は状態を表す語にかかるということがある。形容詞(日本語教育では,形容動詞もナ形容詞という名称で形容詞扱いされる)だけでなく,動詞にかかることもあるが,「とても困っています」のように,その動詞は状態を表すものになる。「練習する」という動作にかかるのは不適切という説明をしたらいいのではないか。

国語教育と日本語教育 その2 - b#

 ここなんですけどね。学習者に余裕がある場合はこっちもいっときます。

  • 5時に集合と聞きました。その時間にはわたしはとても行けません。
  • こんなに多くては全部はとても食べられません。

*角川類語新辞典

195大変 程度が甚だしいこと

27【迚も】(とても) 彼は-いい人だ。これは-おもしろ小説だ。○たいへん。非常に。強めて「とっても」とも。

(注)「とても」は本来打ち消し語を伴うものであった(とても見込みがない)が、程度が高いことをほめる意味でも使うようになった。

 なんてとこで。以下、yumizouさんが書かれていることは全部もっともだと思う。まあその上で、日本語教育という仕事を選ぶのはそれが職業だと思うにはきつい面があるよな、とも思います。語学というところで英語教師に比べてギャラは安い。参考書にやたら金かかるし、参考書をいくら買っても勉強に足りるということにはなかなかならない。研究趣味でもないと続かない仕事のようにも思うとこはありました。

 わたしが仕事をしているときは国立国語研究所で年一回研修があったんですが。参加者のレベルにはすさまじい差があったように記憶しています。

 ま、こっから「自分語り」なんだがな。妊娠9ヶ月んときに国研の研修に参加したさ。参加者集団の中で同じく妊娠9ヶ月の人がいて。言語発達を一からひとつの具体例として知ることができるのは興味深いねえ、とか言ってたさ。このときに「胎動を文字表現」なんてことを遊んでたときに(なんかヤバいのか…)ってのをかすかに思ったさ。途中でわたしの口は鈍り出した。微妙に感覚の差があったから。今になればそれがどういうことだったのか、わかる。

 言語発達を一からひとつの具体例として知る。このときにお腹の子をさして言ってたその子はダウン症だったわけで。そしてその言語能力はダウン症の中でも低い方に位置する子だったわけで。ま〜、運命ってのはそういう風なことが出てくるわけですな。

 でもね、日本語教育という場において日本語をそして言語を学んでいたことは、結局知的障害児の子育てにも役に立ちました。これだって貴重なひとつの具体例でもあった。そして支援のヒントは日本語教育の現場にいたときの「お勉強」の中にもちゃんとあった。無駄なことってのはそんなには無いもんだね、ってのが感想。

2007-12-04

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2007年の秀逸な記事/輝け!小運動会

息子の成長メモ

http://d.hatena.ne.jp/satomies/20071005/p1

 すごいタイトルでリンク並べていただいて、気恥ずかしかった。

 ここでリンクいただいたエントリ「息子の成長メモ」というものは。箇条書きにしたひとつひとつの流れ、そのひとつひとつにけっこうな話になるものが存在する経緯で。ただそのひとつひとつはその流れの中にあるものだと。それをいちいちひとつひとつ説明するわけにもいかんってこともあり。それでそんなことをばばばとただ並べたもので、反響のようなものに正直驚いたエントリだった。

 この反響、人はこういうものが好きなのかな、と漠然と思っていたのだけれど。リエとなんだか話してるときに「聞いたことある話なのに、何度も再読に行った」っていうので、なんか(そうかあ)とやっと反響に納得したような感じ。わたしは現在進行形のナマモノに接している分、わからないとこもあるんじゃないかと思った。

 10歳までの成長の経緯に関しては。あるダウン症の親の会の会報に原稿として書いて欲しいと言われて書いた。このときに書いたのは、「弟が発達面で姉を追い越していくときに、それはある意味『姉の喪失』だった」というのが主としたテーマだった。自分が「姉」を追い越していく。稀代のねーちゃん子だったからこそ、それは彼にとってはきつい体験だった。

 この文章は結局、ダウン症の二つの親の会の会報に掲載された。ある日ある保健師さんに腕をつかまれる。その方は障害児のきょうだい児という立場の方で。きょうだい児の成長をこんな風に見つめられているのかと思うと胸がつまった、ということだった。どうしても「親と障害のあるきょうだい、そして自分」という関係性でとらえてしまうところがあり、それを思春期以降に自分で解決していかなければならない。それが「障害児のきょうだい児」に多いことなんだ、と言われる。涙ぐみながら言われたその姿に、やはり自分も涙目になりながら(そうか)と思う。

 このときに書いたこの文章は、息子の学校行事の「二分の一成人式」のときに作った本人保管のタイムカプセルに入れてやった。この子はルールに変に真面目な子なので、多分本当に二十歳までこの箱を開けないと思う。二十歳になったときに10歳までの自分と姉と姉の障害と、と。そういう話をどんな風に感じるのだろうと、時々思う。

 「息子の成長メモ」を書いたのは10月。そして今は12月に入った。まだまだ彼と姉の関係性は日常の中にこぼれ話を落としていく。わたしの中の記憶スイッチが、かちっかちっと反応していく。

 障害児のきょうだい児としての息子の成長には、いろいろな色がある。「息子の成長メモ」も、それは実は「宿泊学習と息子」というエントリで書いたこととセットであり、だからこその成長の流れなんじゃないかとも思う。このあたり、「障害児のきょうだい児」とひとくくりで言えることではなく、息子には息子特有の線があるんだろうなあと思う。それは娘の個性と関係性にあるんじゃないかと思う。

 ただ、まだ彼は中学生になったばっかりなわけで。これからまた、彼は彼の葛藤が出てくるんだろうと思う。そういうところで「先」を少なからず呈示してくれる天竺堂さんの存在はありがたいなと思う。

 わたしは。子どもを産んで初めて「障害をもつ人の家族」になった身であって。生まれたときから「障害をもつ人の家族」であった息子とは違う。そういう意味で息子に教えられることは多い。ふってわいた状況に合わせていく価値観ではなく、存在が当然というところから成立している価値観。そうくるか、的なときがたまにある。驚かされる。

2007-10-31

[][]「まとまらね〜よ」とまず最初に言っておくおしゃべり

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福祉に対する心構え/CROOK

エスパー

 まあタイムリー。昨夜、早めに帰宅した夫とエスパーの話をしてた。昨夜なんだか娘が異常にハイテンションで、ウケを取ろうとする勢いがものすごく、そのウケ狙いが見え透いてるので逃げておりましたら。夫とわたしの目の前にそこらの紙袋をかぶって現れた。んだよオマエ…などと思いつつ、大笑い。

 それを夫と見ながら、夫が「なんかあんな感じの怪人がいたヤツあったよね」と。アレだよアレ、いーえすぱー!ってヤツ。エスパー、エスパーと。「いやウルトラQだったかも…」と夫が言うので「そんな古いのや昭和のことなんてわたし知らないわ、わたし若い子だから」とぶっとぼけると、「あのね若い子は『いーえすぱー!』なんて毛の先ほども知らんだろ」とツッコミ。そのツッコミなんぞもう全然聞かずに、いー、えす、ぱー!と叫びながら三段跳びを開始していました。いー、えす、でホップステップで、ぱーでジャンプするんだぜ。娘も加わってエスパーごっこ。それからそこに出てきた怪人の変な動きを執拗に再現して遊んでました。多分この時間帯には「エスパー」という言葉を使ってエントリ上げようとlegnum氏は思っていたに違いない。キミはエスパー。

光速エスパ−

今回、当サイト上で『光速エスパー』のHP検証紹介の作成作業をしながら、「E・S・パ〜!(変身時の決まり文句)」とか、「バッババババキュ〜ンと空を飛ぶ〜!」…などと叫んだり、左右に不気味に揺れ動く「ギロン星人」の異様な真似など(笑)…そう言った「エスパ〜ごっこ」も当時、子供達の間で、とっても流行っておりました…。

おお、そうだった

仕事だって「今度からこの申請はこの手順でやりましょう」みたいな事を言い出せば「やってもいいけど雛形はオマエが作るんだよな?」みたいな流れになりやすい。

福祉に対する心構え/CROOK

 そ〜だった、そうだった。「仕事」よりもっとさかのぼれば。学級会とかホームルームとか。そういうとこからこういう流れはあったよな、と。

 なんだかかんだかぐっちゃらぐっちゃら考えてる思春期の時代だったか、わたしは「のっぺらぼう」と称していた層があった。「猫に鈴」みたいなことになると、すーっと存在感が薄くなる層がある。それは保身であったり自信の無さだったりすることからのことなんだろうけれど。いらだちもあったけれど、逆にコレができる人がうらやましくなる局面もあった。なんとなく勝手な印象なんだけれど、同性のきょうだいがいる次男次女には難しいワザのようにも思ったなあ。習慣習性として「息を潜める」経験が乏しいかもと。

コレも、わかる

 甘えついでに失礼を承知で言いますと自分がその立場(手を差し伸べる側)でまず考えてしまうのは川で溺れてる人を助けようとして一緒に溺れて亡くなってしまう人だ。

福祉に対する心構え/CROOK

 ひどく単純に言ってしまえば、「障害」って怖いよね。手を差し伸べるようなタイミングで、ああここは手を差し伸べるタイミングだと認識しているにも関わらず、一歩踏み出すことの抵抗感というか怖れというか。

 自分の中に障害をもっている人の層というものの存在があんまり日常的になりすぎて、この感覚を忘れていたようにも思う。

 支援を必要とする。この前提があるとき。そこに必要なのはその支援を必要としている人の「精神的な安定感」なんじゃないかと思う。「右手を貸して。でも左手まではいらないわ。」みたいなとこ。そうじゃなきゃ、おっかなくってそう簡単には手を出せないよな、とも思う。

 たださ。そういう「精神的な安定感」があると、今度は「態度がでかい」的なとこも出てくるかも、ってのがまあまいるとこかな、と。それでも「右手を貸して。でも左手まではいらないわ。」ってのは基本だろうなと思う。

ついでついで

 「溺れる人を助ける」というフレーズでわたしが思い出すのは美談でも悲話でもなく。森瑤子の「嫉妬」。初期の秀作。

 最後に眼の端にちらりと捉えたのは、波の中へ小さな魚のように飛びこんでいった夫の姿だった。それは麻衣の眼に、あまりにも無力に見えた。しかも夫と波間に見え隠れする三つの頭との、絶望的な距離感が、彼の行為をどうしようもなく愚行のように感じさせるのだった。三つの死が脳裏をよぎる。言いようのない恨みがましさで彼女の胸が詰まった。

(森瑤子「嫉妬」集英社文庫p.37から引用)

 この後「夫」は、救い出して生還。一人は死に、一人は助かる。達成感ではなく、救い出すときに引きずり込まれそうになった死への恐怖感から「夫」は嘔吐する。そして嘔吐と共に言ってしまう「僕に、他に、女がいる…」。

 誰かの命を助ける。その「助ける」というエピソード以上に、助けようとするときの「死との隣り合わせ」という経験。精神的な部分をも含めた「嘔吐」。この展開の描写は何十年経ってもわたしの中ではちょっと強烈。

もうひとつついで

 今日、所用アリ娘の学校へ。出くわした中学生の子のママ。「今日は?」と聞くと、先日のなになにでこれこれこうで、それからこれこれこんな状態でこんなことがあって。だから今日は授業についていようと思って、と。聞きながら動揺。去年は○○だったよね、と。ああ去年はね。でも今度はまた違うヤツ、と。

 まいったな、と。この子を育てるということに関してこのママは本当によくやってると思う。よくやってるのだけど、次から次へとまたかいなという展開が起きる。この子の体は落ち着かない。よくやってるのに、その上によくやらなきゃいかんことが続出する。それをさらさらと伝えてくれることに胸がつまる。

 思わず飛びついてハグってしまった。ゴメンね、なんにもできなくてゴメンねって。うんうんと彼女がにっこりと応える。この精神的な安定感は、周囲にも支えだな、と思う。

2007-10-30

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 steel-blueさんからトラックバック受信。ぴんぽ〜ん、はいはい呼んだ?なんちって。

障害と「甘えてる」という言葉について。/発達障害メモ

 ここでリンクしていただいているわたしんとこの文章中に、まあわたしも「甘えてる」って言われちゃったぜってのがあったんだけど。この「甘えてる」、これはケースによってもいろいろだろうけれど、基本は「甘えてる」糾弾をしてる相手と対極に(話し手が位置させている)気の毒な存在がある場合が多いんだろうと思う。話し手本人もしくは話し手が感情移入する「甘えてない」存在があるんだろうと思う。

 誰に比較して「甘えてる」のか。わたしが言われたケースの場合は、話し手が「大学のときにボランティアをしたときに関わった子ども」が、その「甘えてない」対極に位置するんだろうと思う。要するに「あっちの方が全然大変なのに、アンタその程度で何甘えたことを言ってるんだ」と。

 その「あっちの方が全然大変なのに」ってのは、この人がうちの娘とその生活の一端を垣間見ていて「アンタんとこは大変じゃない」ってとってるからだと思う。それは実は「アンタいい生活してんじゃん、不幸そうじゃないじゃん」ってことで、まあ褒め言葉と受け取っておくのがオトクな気もしなくもない。「あなたは知らないでしょうけれど」と、その「自分は知ってる」レベルが「大学の時にやってたボランティア」ということにかちんと来てしまって、そのカチンに対して単刀直入に「知ってるよ」とは言わずに「あのねウチも実は重度よ」って言ったわたしはけっこう意地悪なイヤなヤツなのかもしれない。いや多分そういうヤなヤツ思考から出た言葉なんだろうな、と。「重度」という言葉、こういう使い方はやっぱりよくないね、反省反省。

 まあわたしもそんな風に相当ヤなヤツでもあるわけで。人のこたぁ言えないんだろう。ただ、steel-blueさんの言うこのことは確実絶対に「そうだ」と思う。かーちゃん同士のぐじゃぐじゃならいざ知らず、相談機関の現場で「甘えてる」はまずいだろと思う。

その次に根強く残るのは、「でももっと大変な人がいるでしょう。あなたは恵まれている。」かな。相談機関の窓口にこういう人がいるとつらい。

でも、立場的にいろいろな人を見ているので、その辺りの人よりこういうセリフを発しやすい環境に置かれてるんだよね...。

しかし、それ言ったところで問題の解決にはまったくならずに、相手の心が閉じる分だけ、相談機関という職分をまっとうしていないということに気がついてほしい。

障害と「甘えてる」という言葉について。/発達障害メモ

 これで思い出したのはx0000000000さんとこ。リンクするぜリンクするぜ自動トラックバックはオンだぜ、またトラックバック飛んでくぜ、(ま〜たオマエかよ…)。へいへい〜。

高齢者問題は障害者問題か/世界、障害、ジェンダー、倫理☆

いま何かをしてほしい、支援する必要があるなら、それはその場において行われるよりほかない。その支援のやり方に個々の生の文脈を読み込むにしても(むしろそうあるのが適切な支援だろうが)、支援するということじたいは、個々の切り取られた現場で行わざるを得ないのではないか。

 これは本当に基本線だろうと思う。全体を考えるということを、今それを言ってないよってときに「ごった煮」にされても承伏しかねる。steel-blueさんだって、そして言わせてもらえばわたしだって、全体を考えるってときはやってるよ。でもそれは今言ってないのね、同じ土俵に上がった同様のもしくはさらに支援度が急を要する人を現在進行形で「押しのけて」ってことではないわけだ。このあたり、「今そのカードを持ち込む場じゃない」ってことだよな、ことだよね、と思う。

 そういや、ですが。娘は一歳半のときに知的障害の障害者手帳を申請しました。知的障害の障害者手帳の取得は原則三歳という線があるそうで。わたしはそれを知らなかった。周囲で「ダウン症の子は1歳児時点で申請ができる」と聞かされたから。娘がもつ権利というものを知りたかったのが手帳申請の背景だった。

 乳幼児は知的発達に流動性があり、障害と決定すべき線は三歳時が適当であろうと。しかしダウン症の場合はその症候群から知的障害を予測することができ、早期の発達レベルのチェックで三歳児以前に手帳の申請を認める自治体があるからだ、ということを後で知ることになる。

 で、この申請時、担当機関に電話を入れたらば。怒られましたよわたしは。「あなたはそんなにお金が欲しいのか」と。「小さい子どもがいる家庭はみんなお金に困ってるんです!」と。正直わけがわからなかった。なんで怒ってるのかもなんでお金の話になるのかもわからなかった。知的障害の障害者手帳取得が、特別児童扶養手当の受給資格につながる要素があることや、知的障害の障害者手帳取得で発生する税金の減免、自治体によっての各種手当てにつながること自体、知らなかったから。ちなみに担当の保健婦さんも、こここの自治体の手当てに関して知らなかった。知的障害児に関しての自治体の福祉制度も東京都の福祉制度も国の福祉制度も知らなかった。15年前の福祉はこんな姿だったのだ、とも言えるかもしれない。今じゃ考えられないと思う。時代は確実に進んでいるんだと思う。

 この「オマエ金が欲しいんだろぉぉぉ」スタートも、要は「相談機関の人間が『甘えるな』発言をした」ということかもしれない。児童相談所ですからお金に困った「大変な人」がビジョンにあったんでしょう、きっと。障害ってだけで簡単に金もらおうと思うなよ、と。そういう意味で、まあ職務にある意味熱心な人だったと結果としては思いたい。

 で。これはなんだどういうことだ問題はどこにあるのか、なんてことを考えるには最適なスタートだったようにも思う。怒られてびっくりして不快感も大きかったけれど、拾うべきものは拾ったので、後になってみればありがたい貴重な経験かもとも思う。少なくとも自分で調べるべきものは自分で調べるべきということを強烈に教えられた体験だった。

 手帳取得に関しては。怒られたことにびっくりしちまって主治医に相談。主治医が特別児童扶養手当の診断書を作り、その担当機関に意見書と共に送付。手帳申請の書類を作らないならば、こっちで申請のための発達チェックをすすめてまたそちらに送付します、申請受理よろしくお願いしますと。担当機関は「全てこちらでやります」と回答し、その後発達チェックは担当機関で行われ手帳は無事取得しました。また、後で調べてみると、当時のこの自治体の3歳児以前の知的障害の障害者手帳申請にはムラがあり、全く申請受理していないわけではなかった。どうもあの怒り出した人が最初の窓口になったかどうかが、運の分かれ目だったみたいでした。

2007-10-16

[][]親が吹き込む「毒」

高1の長男は小3の時にADHDと診断された。俗に言うジャイアンタイプの子で衝動性が非常に強く同級生のとのトラブルが多かった。

ものすごく割愛して書いてますがとにかく色々な事があり、その事について色々陰口を言う保護者が続出し、そういう保護者が続出するにつれ同級生達の長男を見る目が変わった。

まっさら/ぢゃりんこ

 わあ、ありがとうです。高一ですか、うちの娘と同じ学年ですよね、だからものすごくいろんなことを思い出した。

 娘が小学校に入学する頃。小学校の教諭をやっている友人から電話「NHKでADHDの特集がある、見て」と。かなり詳しい特集でしたね。ADHDが一般的にほとんど知られていないという前提という元で作られていた特集だった。実際一般的にほとんど知られていない頃だったと思う。

 なぜこの話になったのか。ダウン症の子を通常学級に入れることをどう思うか、と、この小学校の教諭の友人に聞いていて。この友人はダウン症児親仲間であったので「ぶっちゃけ話」が聞けると思ったから。

 教育ということで考えると、その子に合わせた教育ができないという前提の元にということがあると思う。一年生の最初のうちはいいだろうけれど、お客さんとしての扱い以上に必要な教育が、担任には見えていくと思う。適切な教育の機会を与えられない無力感はあると思う。

 そこを親がそれでも普通児集団に、と切望するならば。はっきり言ってダウン症の子はそんなに問題にならないと思う。集団行動を乱す状態をダウン症の子は作らない可能性が高い。保護者と頻繁に連絡が取り合える状況にもなるだろうからそこで話し合いながらやっていけることは多いと思う。

 それよりも。就学時検診でわからず前情報無しに、新学期のフタを開けてみたら、というところで、学級運営が難しいタイプの子が増えていると教師間でよく話が出る。その、学級運営が難しくなるタイプの子に「ADHD」という診断が出る子はいるようで。「ADHD」というものが知られていないので親が認識していない場合も多いし、教師の方でも教育の情報が足りない。

 当時の話はこんな話だった。「ADHDとはなんぞや」ということがわたしの関心を強く引くことになる。そこでNHKの特集。驚いたのは横浜市内の小学校で、すでにADHDに対する専門的な教育アプローチが通級で行われているとこの番組で出てきていたこと。今から10年くらい前の頃です。

 偶然は雪崩のように起き、その番組を見た時期からまもなく、わたしは娘と同い年のADHDの男の子の母親と親しくなる。

 「なんかすごい本が出たみたいだよ、本屋に山積みだ」と、彼女に伝える。彼女は購入し、そしてわたしもこの本を彼女から借りていっしょに読む。

のび太・ジャイアン症候群―いじめっ子、いじめられっ子は同じ心の病が原因だった

ADHD(注意欠陥・多動性障害)を日本にはじめて本格的に紹介し、全国に大きな反響をもたらした話題の本。(アマゾンの商品説明から引用)

 この本はものすごく売れ、そしてこの時期からADHDの書籍も特集も増え、一般的な浸透も徐々に進んだように思う。何を言いたいのかといえば、現在高一という年齢くらいの層のADHDの子どもは、そしてその母親は、現在に比べて情報がとても少ない頃が幼児期で、幼児期や小学生時期にとても苦労していただろうということ。

 この友人、幼児期診断を受けた頃に、同じ幼稚園の保護者に診断を受けたことを言ったと。そこで返ってきたのは、我が子が幼稚園がいっしょの子どもたちにこう言われることになったこと。

 「オマエ、頭がおかしいんだってな」。

 叱られてばかりいて、自己評価がどんどん低くなっている子どもを打ちのめすに充分だったそうで。

 親がどんなことを言って、こういう言葉に変わったのかはわからない。おそらく「脳の障害である」という一文がどんどん変換されたのではないかと思う。親がこの子のことを悪し様に言ったかどうかはわからない。ただ漠然と思うことは、子どもは、自分の親がこの子のことを話すときの口調や表情から読み取るものがあったんじゃないかと。

 学校には事前に相談をし、入学。あっという間にこの子とこの子の母親は、大人の陰口にまみれる。

 育てやすいタイプの子どもを持った人はいいさ、と思う。なんとでも言えるだろうと思う。ただ。そのなんとでも言える言葉のその内容だけじゃなく、その言葉を言う表情も本音も子どもは見てる。そしてそのまま子どもは口にする。

 子どもの障害という事実を受け入れることにとても苦しんでいた人と話していたとき。その苦しさの中にひとつのキーになることが見つかる。そのキーが見つかることで、事実の受け入れが急激に進む。そのキーとは。自分が小さい頃にちょっとした障害をもつ子が友人にいて。その子に向けた母親の差別的視線を母親のちょっとした一言で感じてしまったこと。そのことでこの友人と素直な関係が築けなくなってしまったこと。そのことが自分の中に残り続けていたことを発見する。この心の中にささっていた小さなトゲを抜くこと。これが彼女の「障害児の母親」としての出発であり、そして「親離れ」だった。

2007-08-31

[][][]大仰なことと単純なことと

大切なのはいつも、ナルシズムを捨てて注意深く他者の声にならない声に耳を傾けること/かへる日記 (FRGFRG304)

 上記エントリリンク引用されているニュース。ngmkzさんは「違和感」としているのだけれど、わたしは「違和感」というより「よくわからん」の方が近いと思う。

 「どんな環境でも調和が保たれる作品」と佐藤夫妻の長女で、東京のアトリエ・エレマン・プレザン代表である佐藤よし子さん(29)。独特の感性で世界をとらえ、アートに表現する彼らは、生まれながらにして平和的な特性を持つという。「見る人の心に安心感を与える。彼らから芸術的な生き方を学ぶことが多いです」

http://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/m20070827027.html

 安心感かあ、と思う。舛次崇氏の絵は、わたしは「安心感」というよりいい意味でドキドキするんだけど。あと、名前忘れちまったので検索できないんだけど、中国のダウン症の方でなんだかの高い評価とかという人の絵を見たことがあるんだけど、色彩がぎらぎらして迫力があった。ドキドキだったんだけどな。

 個人差はあるとは思うけれど、ダウン症児者の「平和的な特性」というのはわかるようにも思う。ただそれが、個人的精神世界の展開の結果にどう関わっていくのか、どう定義づけていけるのか、ということになると、わたしにはよくわからない。

 「彼らから芸術的な生き方を学ぶことが多いです」。娘が幼児期にエイブル・アート・ジャパンで活躍されるサイモン順子氏の講演を聞いたことがあるんですが。氏の半生と、そして「彼らから芸術的な生き方を学ぶことが多いです」みたいな話。ngmkzさんと同じようなことおっしゃってたような記憶があるなあ、と。以下の部分の非常にシンプルな部分にサイモン氏自身が助けられたというお話だったような。

「ぼくは/わたしは、これをかきたい/つくりたいんだ」という部分で何かが生まれて、そして誰かを感動させれば、それはアート足りうるんじゃないか?

大切なのはいつも、ナルシズムを捨てて注意深く他者の声にならない声に耳を傾けること/かへる日記 (FRGFRG304)

 このサイモン氏の講演を聞きに行った頃。ちょっと(ううむ…)と思っていたことがあって。そのことを質疑応答の時間にお聞きする。幼児の娘が毎日白い紙に絵を描く。ここのところよくあること、気になること。絵を描いていて、それなりに描き上がっていったその絵を、急に黒か紫でがんがん塗りつぶしていく。そうしたとき、とてもいらだっていて地団駄を踏んだりもしている。描くこと、塗りつぶし始めること、いらだつこと。それを全てたった一人で展開させていく。わたしはどうしたらいいいのだろうか、と。

 アート・カウンセラーという肩書きをもつサイモン氏は「見ていてください」と。「見守っていてあげてください」と。「ダウン症の人に時々見られます」と。「何か自分自身を揺らされることが生活の中に起きていることと関連していることがあります」と。「本人が本人で向かい合っていることです」「何もしなくていい。ただ見守っていてください。その行動を今出していることを知っていてあげてください」と。

 ふふんふんふんと幼児がお絵かきをしていて、わ〜っていらだっていく様は見ていてざわざわするし、どうしていいかわからなかった。ただこのサイモン氏の「見守っていてあげてください」を信頼するしかなかった。しばらくして(ああこのことだったのかあ)と思うようなことの報告が、保育園からくるんですけどね。集団の中で自信が揺らぐようなこと。やんわりと解決に園が尽力してくださって、そしてまもなくこのいらだちは消えていった。そうかあと思った。

 本人が選んで向かう集中。こうした行動には本人が本人に向かって出していく声があるんじゃないか、と思うようになった。その声や意志や意図はなかなかそう簡単にわかるもんでもないと思うし、簡単にわかると思われちゃ困りますよね、と言われているようにも思うんだな。わたし自身だって、自分の思うこと感じることを自分でうまく他者に伝えられないだろうと思うことや、また他者に伝えたいとも思ってないことを、勝手に代弁して解明されようとしても困っちゃうだろうなあと思うんだよね。

 娘の現在。ここ数年は白い紙にお絵かきより、好むのは塗り絵が中心。スーパーや書店、それから百均に行くと、初めて行く場所でもたたーっとめざとく売り場を発見して必ず二冊選び出す。創作系ってより幼児っぽいけど、それが好きならいいんじゃない?という感覚。塗って、そしてその上にまたなんか描いていったり。塗り絵の線に忠実だったり堂々と線を飛び越えたり。

 白い紙に絵を描いて、その上にどんどん書き足していって最後はよくわからんものになっていくのも、本人にとってはこの塗り絵の作業と同じようなものなのかもしれない。それが好きならいいんじゃない?という感覚。ただ、描いていらだって黒か紫でがしがしと塗りつぶしていく見ていて不安になる行動は、あの幼児期以降、一度も見ていない。

2007-07-05

[][][]トラックバック受信とアレコレ

夫婦の会話 - S嬢 はてな/明日は明日の風が吹く

 そうなんだよね、と思う。関係性の歴史の中でだんだんと線ができていくんだよね、と思う。いっしょに暮らしていく年数も自分たちの状況の時代も関係していくと思う。そして相互の個性と。

 あと、このトラックバック受信で思い出したこと。っていうか、時々ふと思い出すことではあるんだけど。

過程と結果のどちらに価値を求めるか/ロリータハッピーウィングな日々

 結婚前に夫は一級建築士の資格を取った。そして彼の仕事はどんどんハードになっていった。常に終電利用。そしてそういう時代だった。仕事はあふれ、引き抜きの話もたくさんあった。

 その頃、あるひとつのニュースが報道される。夫の帰宅が遅く、会話も無く、相手にされないと、淋しくて死んでしまった妻。踏切に飛び込んだ。住所はけっこう近所。この「夫」はわたしの夫と同い年。そして同様の職種だった。つらかっただろうなあと思ったなあ、逝ってしまった方も残された方も。

 わたしは、といえば。この頃自分が取りたい資格試験のためにお勉強をしていたので、彼の帰宅が遅いということによる残されるつらさはそんなにはなかったのだけれど。それと自分も仕事をしていたので、人との会話を疲労して帰宅してばたばたと眠る準備をする夫に要求しなくてもいい余裕はあったと思う。それよりも眠る時間を確保してあげたかった。

 そして妊娠・出産・育児期がくる。産休に入ったときに、自分にできた仕事以外の時間に呆然とした。そして日常的に人と話す時間も激減した。出産、生まれた赤ん坊の闘病、退院により始まった障害児の育児とその仲間関係。それから次の妊娠と出産。乳児だの幼児だのとのばたばたの生活。

 この時期、夫はテレホンカードを大量に購入したと思う。携帯がまだ一般的ではなかった時代。毎日毎日夕刻6時になると夫から電話が入る。用事は無い。ただ、わたしの、どうでもいい、ただの意味の無いおしゃべりを聞くため。

 これが五年くらいの間、毎日毎日毎日毎日続いた。わたしたちはこの時刻に、恋人同士のやりとりのように10分とかそこらの時間を楽しんでた。わたしたちではなく、わたしだけかもしれないけれど。

 この定期便の電話は、わたしが頼んだわけではなく、ある日突然始まった。そして「もうわたしはだいじょうぶ、ありがとう」と言って、この習慣は終わった。「うん、わかった」と、ちょっと淋しそうに彼が言って、翌日から電話は来なくなった。

 この定期便は、本当に感謝してると思う。過ぎたからこそわかる、本当に貴重な時間だったと思う。その当時よりも過ぎたからこそ価値がわかる。わたしには、わたしが元気でいるためには必要だったんだと思う。なかなかできることではないと思う。いや、わたしが彼の立場だったら、きっとできなかったな。

2007-06-25

[][][]fujiponさんからトラックバック

あなたが「正しい」わけでも「悪い」わけでもなくて/琥珀色の戯言

 いやこれはトラックバック受信というよりは、完全に「反応おねだりエントリ」を自分があげたということかと。お時間が無いという中で反応いただいて、非常にありがたかったです。

 文中リンクの「『僕がパニックに陥ってしまった理由』という記事」に関しては、自分のエントリのアップ後に結局探し出してブクマしてました。最初「当直日誌」を探し回ってたんですよね。あ、これは「Doctor's Ink」だ…、と思いついたら即発見、という流れでした。

 おねだりトラックバックで時間使わせて申し訳なかったのですが、しみじみと送ってよかったおねだりしてよかった、と思った。わたしはあの文章に書かれたことを、今、どう思われているのかが実は非常に興味があったのだと思う。

 この文章は書かれた年度等書かれていないのだけれど、古いものだと思う。わたしがfujiponさんのところを知ったのは、2005年の秋。トラックバックを受信したのがきっかけだった。うわうわうわ、ここおもしろいわおもしろいわ言ってるときに、どこだったかのコメント欄で「斬の人」が、「ああ『いやしのつえ』で、ブログ以前のテキスト時代から有名な人だ」と教えてくれたわけです。え?なに?なに?とか言いつつ飛んで、ばばば〜っと文章群を読んだ。そして記憶の中にすとんすとんと入っていくものがあったうちのその一つ。その2005年の秋の時点でも、けっこう前の方の文章だったと思う。あの文章を書かれて、少なくとも2年以上は軽くたっているのだろうな、と。

 そしてその2005年の秋からさらに年数を経ての今回の文章。期待通り「今」が出てくる。そして書く媒体の違いなのか書き方にも変化が加わっているわけで。そう、ひとつの体験を同じ人間がまた別の表現で出すというものを閲覧できるのは、ものすごくぜいたくなことかもしれないと思う。

当時の僕は、「この程度のことも乗り越えられないようじゃ、この先とてもやっていけないはず……」と悩んでいたのですが、実は30余年の僕の人生においては、「この程度のこと」じゃなかったわけです。人生はRPGじゃないので、最初に遭うのはスライムばっかりで、後からどんどん強いボスが登場するわけじゃないんですよね。にもかかわらず、「レベル1でドラゴンに遭ってしまっているのに、勝てないことに悩んでいる」っていうことは、けっして少なくない。もちろん、戦ってみるのも「経験」かもしれませんが、どうしても難しそうなら、そこで同じことを繰り返して煮詰まるより、「にげる」を選んだほうがいいんじゃないかと思うのです。

あなたが「正しい」わけでも「悪い」わけでもなくて/琥珀色の戯言

 この文章を書かれてから数年たった今でも、「あのときはあのときだったけれど、結局今思えばたいしたこともなかった」ということにはなっていなかったのだな、ということ。それがまた、別の書き方で書かれているということ。そしてその中でもこれはかなり名文ではないか、と、わたしは勝手に思うわけです。

「レベル1でドラゴンに遭ってしまっているのに、勝てないことに悩んでいる」

 だ〜。だよな〜、と、思った。そしてこの表現がすとんと自分に理解できるという意味で、ドラクエやっててよかったぞ〜〜、と思うわけです。やってなかったらわかんないと思うもの。ああ理解できる喜びだわ。

 しかし「『僕がパニックに陥ってしまった理由』という記事」がおいてある「Doctor's Ink」は非常におもしろい。誰かがプリントアウトしてきれいに製本してくれるとしたら、そうねわたしは2000円以下だったら買いますね。理由は製本された形で全部いっぺんに手にしたいという感じ。わたしにとって再読したいものの宝庫だから。

 fujiponさんは医師ということなのだけれども。わたしは20年くらい前、医師の方が執筆されるものを読むことに、けっこう凝っていた時期があった。図書館利用でいろいろなものを読んだけれど、蔵書として愛読書として長年の間ふと取り出して読み続けている一冊があります。本の後ろを見ると’91年に初版となっているので、この本を購入して早16年になりますね。古い本なので単行本ではもう手に入らないようですが、文庫が出ているので興味がある方にはオススメです。

医者が癌にかかったとき

 タイトルの「医者が癌にかかったとき」、これは第一章。これもおもしろいのですが、第二章死に方の知恵、第三章患者に学ぶ、第四章いのちを見つめて、と進む。こ〜れ〜がなんだかんだと(そうか〜)と考察の旅に出たくなるものの宝庫なんだな。

 なんて紹介のために引っ張り出してきたことをきっかけに、またこの本再読モードに入ってます。

2007-06-12

[][]fuuuuuuunさんからトラックバック

satomiesさんよりTB/fuuuuuuunの日記

 ここで出てくる過去エントリの引用部から。

だから、問題行動をした子には「それはしてはいけない」と同時に「代替行動」を示してやる必要があると思う。

 このあたりが具体的でとてもわかりやすいのがビッグママんとこのコレだと思う。

「手はここに」/妖精が見える子供

 ひとつのルールを容認した。そのルール性から得られる本人に対してのメリットも理解していた。でも。

 そのルールを取り上げなければならなくなった。そのルールのままでは危険が発生することがわかったから。そしてルールのチェンジ「手はここに」。行動の否定ではなく、ルールがチェンジされたのだ、と。これを理解して欲しい、届けと思う心。

 コメント欄に出てくるこの一行は大きいと思う。

でも今日ジューは「手はここに。」と自分で言ってべそかきながら行きました。

 ルールのチェンジにべそをかいていても、ルールがチェンジされたのだと飲み込もうとしていること。ルールというもの自体を否定していないこと。

 ここがなんかキーになっていくような気がするんですよね。取り上げるからには渡さなければならないものがある。それを親がつかんでいることが、親が子どもに手渡せる「肯定」なんだろうな、と。

 付け加えて、ダウン症。人の感情の動きを読む力が大きい。でも論理性が弱いから、叱られるときに叱られること自体がすぐにわかることでなければ感情だけを受け取ってしまう。その子の知的能力によっても差があるけれど、時間が経過していたり目に見えにくいことだったりすると何を注意されているのかわかりにくくなる。叱責という感情の揺れだけを受け取ってしまい、自己否定だけを受け取ってしまう要素の大きさ。また相手へのサービス精神で自己をすり減らすことも。タイミングというものが大きいかも。

2007-06-07

[][]昨日あげたエントリに関して

 本日のわたしの流れですが。早朝、昨夜の夜中に書かれたコメントを携帯にて確認。7時半に家を出ました。出先にてマルコさんからトラックバックが入ったことを携帯にて確認。しかし携帯からは本文は読めませんでした。その後9時頃にマルコさんから入ったコメントを確認。トラックバックに関して読むことができたのが早朝からほぼ12時間経過したくらいの時刻。そして入ったコメントは削除されていました。

でも知らん奴に、挨拶も無しに、いきなり下品なタイトルのブログで母を妄想のオモチャにされて、そういう下劣な行為を「親」を名乗るブロガーに推奨されたら、腹立つ。腹立つのも当然でしょ?腹立てないほうがおかしい。母を愛し尊敬していればね。

怒りの記録/マ儿コの日記

 以下、わたしが興味深く感じた場の興味深く感じた部分の引用です。

  • こういった言葉がいま美醜(美醜でなくともいいけど)に悩む人間の前に現れたとき、どのように働くのだろうかと考えた。それはある価値観に対抗してもう一つの価値観にしがみつかせることになるのではないかと。
  • 「美と賢さは完全に次元の違うものだと思う」を見て、ここでマ儿コは(←主語など補足した)自意識を考察から捨てているのだな、と気づいた。この姿勢は確かに賢さである。これを極めることは、達観とは違った道による、人間の一つの到達点だろう。しかし次元が違うとの理解に到らない人にとって、単に賢くあろうとすること(それは賢くはないんだけど)は毒になるのではないかと思っているので、ぶくまとかでちょっと書いてしまったというわけ。

「知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - 賢い女性」につけたはてぶ※の補足/アンゴル=モアエロ画像STABO索具

 ここが主眼となっているとわたしが感じた文章に「許さない」と出てきたのでびっくりしちゃったんですよね。びっくりして自分がブックマークしたい文章がブックマークできなかった。その自分がなんかすごく卑怯に感じたんだな。でもびっくりを引きずったその後の行動もやっぱり卑怯だったんだろうな。と、思うのが結論です。ごめんなさい。

 で、↑の引用部にそうかあと思いつつ。その結論を引き出される中で。誰かを否定したり冒涜したりということではなく、わたしはきれいって好きだよなあと思ったということ。わたしはきれいな人、好きだもの。それは品評会のようなものではなく、自分を大事にすることの表現のひとつでその演出の結果だと思っているから。と、いうことだったのでした。

2007-05-21

[][][][]ここのところ思うこと

 娘が中学を卒業した。特別支援学校の高等部生になった。入学、連休明け、そして5月ももうすぐ終わる。高等部の印象は、入った途端、進路進路進路進路、という感があること。

 進路先を決めていくことが厳しい事情と現実というものはわかる。考える必要がある重要だということを、誰かまかせではすまないんだということもわかる。でも学校生活もあと3年で終わることを考えると、進路進路進路進路という思考中心の話ばかりでは、なんか淋しくもなる。

 来週には、具体的な希望先を書く欄がある書類の提出がある。現在入れる状況にあるかどうかは関わらず、既存の施設を片っ端から見学しておくようにも言われる。立地、施設の法的位置づけの種類、日々の内容、子どもの個性に合っているかどうかetc…、etc…、etc…。それはすぐに必要な情報というよりは。進路をきちんと前向きに考えるために、高等部入学したてから「親の意識を起こす」目的もあるのだと思う。

 まあそれなりに、第三志望まで書こうと思うとこはあるんだけどさ。卒業時に募集あるかどうか保証は無いけど。実習は受け入れがあるかもしれないけど。

 どこに入るかどこに入れたいかって、本当はさ、どこってよりも、心配なのは5年後くらいなんだよね。学校ってのは、毎年毎年なんらかの環境に変化があるわけで。でも卒業後はそんな変化なんてものはほいほいやってはこない。学校みたく、入れ替わり立ち替わりいろんな人が次から次へと目の前に現れてくるわけでもない。1対いくつの人員の配置も大幅に減少する。そんな中で、それはそれで環境として受け入れて、こつこつこつこつと、日々を重ねていくんだろう。でも本人が呆然とそのこつこつを途方もなく感じたときに、わたしはいったいどうするんだろう、みたいなこと。ここんとこ頭ぐるぐる。まあそれでも進むけどね。差し込む光の筋を見つけていくのはお手のモンさと。なんてちょいと強がってもみるのは、つなごうとするたくさんの手の存在か。

 なんてことを考えているときに、ngmkzさんからトラックバックが入る。おおかえるにーちゃん、今度はgooに向かって送信か。

手紙/かへる日記 (FRGFRG304)

 出す言葉、その字面だけじゃなくてさ、言葉出していくときにひろげていくような手のひらの中身。その中身に視線がいくってことはあるわけで。字面の解釈だけではない何か。その中身が本当には正確に共有できるものではなくても、そのひろげていこうとする手のひらが見えるような感じがする人ってのが、わたしはいいなと思うわけで。上記リンクを読めば、わたしはngmkzさんのこっちのエントリに即飛びするわけで。紫色のラインマーカーで書かれたへったくそな、おっといけない味わいのある文字群の中の最後の一行を味わいに行くんだよ。

 ああまったくねえ。なんでかえるにーちゃんとこの職場は遠方なんでしょ。近場だったらとっとと進路希望欄に書くのにね。いやどこに入れたって、数年もすりゃなんだかんだなんだかんだと、どうしよってことは生まれてくるだろと思う。そういうときに、そのことだけ以外にも話ができそうな人、そういうビビビがある人がいてくれるとこにできたら入れたいよなあと思う。まあ仕方ないけど。まあそういう人間関係が見つけられるようがんばるけど。

2007-05-20

[][][]夜のぶつぶつの反応に反応

 夜のちょっとしたぶつくさエントリに反応ばばば。わお。コメント欄にレス、そして霞先生のトラックバックに反応。

宴会は酒を楽しむ場に非ず/特別支援学校って…へぇ、そうなんだ

酌をする・酌をされるということは、そこには必ず相手がいるということ。つまり、宴会の目的は相手と話をすることであって、お酒を味わうことは二の次だと。宴会の酒はコミュニケーションを円滑にするためのツールの一つに過ぎないと考えているからです。

 そうなんですよね、そういうことなんだ。わかっちゃいるんだけどね。でもかーちゃんやってる立場になると、そんなに外で飲む機会もそうそうもてなくなるわけで。二次会まで時間取れない場合もあるしね。それとかーちゃんといっしょだと、二次会っつっても「コーヒー飲んで行こうよ」的なことにもなるし。なんてことも出てくるわけで。まあ機会ビンボーってとこの余裕の無い愚痴ってとこもあったと思う。この日も会合後、コーヒー飲んでしゃべくって。そして帰宅後飲んじゃいましたははは。

 霞先生んとこで「先生の会合」って話が出てきたんだけど。まあはっきり出しちゃえば、昨日の会合は市Pの障害児教育関連校の部会の歓送迎会。校長や副校長と、そこのPのボス連の集会。企画実施は昨年度の部会長校だったウチ。例年に沿っていつもの店。わたし受付やってまして。乾杯が終わってから入る。駆けつけ一杯。これはうまかった。うまいビール。そしてとりあえず最初の仕事の一段落のビール。

 お酌コミュニケーション。長いこと障害児の就学の教育相談をやっていらっしゃった方が、知的障害養護、じゃなかった特別支援学校の校長に就任。この方がうちのテーブルにお酌にいらっしゃった。うちの昨年度のボス、今年度のボスは、この方と何度も面識があるそうで知人としてのコミュニケーションをされていて、わたしはにこにことその様子をただ聞いていたわけで。

 いや実は。うちの娘の小学校の就学時の教育相談の担当もこの方だった。娘がまだ年長児の時に、前住地から高速乗って夫婦で相談に行った。とても親身に、就学前の保護者の心理に沿って、そしてわかりやすく、また現状の学区の小学校の具体的な情報もいただきながら。「就学相談」「教育相談」とは名ばかりで内容は「就学先指導」「就学先指示」が多いと聞くことは多かった中で「相談」という言葉にふさわしい時間だった。もう10年も前のこと。それもたった一度。

 それがですね。この方、うちのボスと話しながら、ふとわたしを見てにっこりと笑みを浮かべおっしゃるんですよ、10年も前の、それもたった一度のうちの教育相談のことを。わたしは何も言ってないんですよ、先方に伝わってるわたしの情報には居住区も何もなく、記憶でしかわからないはずなのに。本当はこちらから、相手の記憶が無いことを承知でお礼を言わなきゃいけない立場だった。大物の方なので、わざわざわたしごときがしゃしゃり出てこの方のお時間取っちゃいかんだろうなと思っていたとこに、先方から笑顔でふっていただいてしまった。

 もうびっくり。本当にびっくりした。すごいと思った。10年も前のことをあえてわざわざする機会も無いわけで、お酌コミュニケーションがなきゃわからないことだったなと思う。万感の思いとたくさんの感謝を、小さなコップ一杯の紹興酒のお酌にこめさせていただきました。教育というものに向かい合う最初の方がこの方で本当に良かったと思った。この方についでいただいたビールは、つぎたしがどうのとかなんとかかんとかとか全く関係無い別次元のうまさで、それはずっと続く美味なんだろうと思う。ここでは酒は単なる媒体に過ぎず。

 本当はあれからの10年をお話ししたい思いもあるんだけれど、お時間取らせてしまうのは申し訳なかったし。そのうち改めてお礼のお手紙でも書こうかな。