S嬢 はてな

2007-03-13

[][][][]聞いちゃった。答えてもらっちゃった。

 ナニゲに増えていくカテゴリ。なんてことは本題に関係無いんです。いくよいくぜ本題。 

「被ボランティア」とボランティアの立場が逆転したらそれはそれですごく素敵なことですよね!/かへる日記 (FRGFRG304)

 自分自身が何か興味もったこと事やある問題を、「誰かのこと」ではなくて「自分のこと」として考えて、じぶんからそのことに関わっていくということだと思うんです。

 これはボランティア行動という上で重要なレディネスだと思うのですが。でも、ボランティアをしようとしている人がその「興味もったことやある問題」というものに、どこまで向かい合おうとしているのかが、実はわからない。そのときにボランティアさんの関わり方に(ううんちょっと待って)感覚が生まれたときに、非常に難しい。下手にツッコミ入れたら逃げられてしまうのか、とも思うわけです。

 逃げられるっつ〜か、まあそれはご縁が無かったものというケースにもなるのだけれど、もしかしたら双方が学び合うタイミングをまちがえたのではないか、とか。そのまちがえたタイミングで渡してしまうもののために、失うものが大きいんではないか、とか。そういったことを避けるために、長い目のおつきあいのようなものは必要だと思うんですよね。

 そこで、ボランティアの人にそこで起きたこと、自分の上げて来た感情の空回りなんかに気付いてもらえるような受け入れ側の体制というのも必要なんだと思います。

 まあ、実はですね。というか。わたしはこの「受け入れ側の体制」として、挫折してるんですよ以前。知的障害児の音楽を媒体にした、まあレクリエーション活動のような場で。回数を重ねていく上で、若いボランティアさんが「わたしはここで必要とされていない」とトーンダウンしてしまった。ふむふむふむふむ、と聞く。そして今度は場を演出していく主体者としての音楽療法を受け持っていただいていた、まあいわゆる場を創り出す責任者という形の方に「あの人は使えない、むしろ場にとって邪魔だ」と言われてしまったわけで。それもわかるんだな。

 ミーティングでなんとか越えようとはしたんですが、ボランティアさん側の「自分のボランティア行動が否定された」感を越えるのは難しかったです。ボランティアの担い手を増やし、この否定感を薄める状態にもっていったのだけれど、それは「辞めやすい方向」を作るという展開になっていってしまったし。つまり、人手が無いのなら自分でも、というものさえも、わたしは奪ってしまったというか。

 ヒントはやっぱり、「ボランティアについて/リーダーの部屋」や、このブログでのそのひとつ前のエントリで語られている「着地点のズレ」なんではないかと思うのですよね。

 まあ結論を無理矢理出すとすれば、ボランティア体験ってのは自分が手渡せるもの得るもの得られるものってのを短期的スパンで考えてはいけない、ってことなのだろうなと。関わった期間は短期でも、その意味が見えてくるそしてわかってくるってのは、けっこう長期的なスパンなんではないかと思うのでした。全ての論理はそのヒントなのかもしれないです。

 自分の経験としては、たったの数回しか関わらなかったボランティア体験というものがあって。それは重度・最重度の知的障害者を利用者さんとする成人の通所施設だったのですが。ボランティアとしてやることは、陶芸室で粘土こねて自分の好きなものを作ること。利用者さんとは特に関わらなくていいこと。つまり、社会から隔離されてしまっているような一面をもつその場に、普通の社会を小さな形でそこに存在させるということ。これが施設側の狙い。関わらなくてもいいということでも、隣で粘土こねてれば自然関わるわけで。何回か行けば、自分に役割を与えられなくっても、周囲の人間と楽しい時間なんてのができていく。おもしろかったですよ、本当におもしろかったこのボランティア。そしてこの体験の意味なんだか着地点なんだかどうだか、まあはっきりしないような、でもくっきりとした記憶というものは、何年たっても自分の中に残り続けています。

2006-09-20

[][]説明、のようなもの

 ボランティアに関して。2006-09-19「学生のボランティアに必要な事前教育」にいただいたブックマークコメントからあちこちぐるぐる。

 ■「ボランティアの義務化」に賛成しないでもらう/good2ndの日記

 あなたが「ボランティアの義務化」に反対してるとして、もしあなたの親や兄弟が賛成だったら、どう説得しますか?

 ボランティアを受け入れる現場の視点が抜け落ちている、と。

 ボランティアというものは、意志に基づいた行動という要素が必要であり、それが前提での行動というのが基本だと思う。しかし、義務化、という場合は「やらされるから行く」ということ。このときに、たとえば明治学院大学ボランティアセンターで「活動先をさがすとき」と説明されている文章に沿った行動ができるかどうか、難しい場合があると思う。ここで説明されていることができない若者が日参してくる受け入れ先の3ヶ月間というものがどういう状態になるか、ということを考えることは大切だと思う。

 そのボランティア期間が成立しないと受験して合格した大学に、この若者は入学できない。と思えば、多少のことには目をつぶると思う。かなりのことを我慢するようにも思う。ボランティアを必要とする現場に、そうした新たな困難を、教育再生のもとに持ち込んでいいものか。実際「いない方がいい」と言われてしまうボランティアは存在するんだよね、ということ。

ボランティア?/bat99の日記

 第一にid:good2ndさんのおっしゃるとおり働いた以上、報酬は支払われるべきという原則を指摘する。

 第二に働かせるためにもコストは掛かるものという基本的なことを指摘する。

 第三に業務中に学生が怪我をした場合はどうするのか。

 第四は第三点とは逆に学生が業務中に他人を傷つけてしまった場合はどうするのか。

 ボランティア、というものは、元々かかる経費は「持ち出し」が基本のところはあると思います*1。だからこそ、意志に基づいた行動であるわけで。「ボランティアの義務化」に賛成しないでもらうに出てくるように、「ボランティアの義務化」とはすなわち「無賃労働の義務づけ」であるということ。ボランティアの根本から崩れてくることなんですよね、義務づけというのは。

 学校に行く交通費ってのは自前なわけで。だからこの義務化されたボランティアに関しても交通費は自前で、って理屈なんでしょうたぶん。ただそれは、ボランティアを受け入れる現場に、ボランティア意識がなければ成立しないことでしょう、と思う。行動の動機がボランティアではないボランティアがやってくるわけですから。現場がもつ、学生に対しての「ボランティア意識」。受け入れる現場が教育としての役割を自ずと担わされていくところがあるわけですから。この「教育としての役割にかかるコスト」ってものも出現すること、これは大きいと思う。

 まあ「ボランティアの義務化」というのは、受け入れ先に対しても「ボランティアの義務化を課していく」ということ。ってことなんだと思うんですよね、わたしは。だからその義務化、ちょっと待て、義務化ってことで誰に迷惑がかかっていくのか、なんてことを思うわけだ。人間送りゃどこも諸手をあげて歓迎するだろう、ってのは、おい、ボランティアを必要とする現場をなめてないか?とかも思う。

 第三、第四に関しては、ボランティア保険に加入することになると思います。誰が払うんでしょうかね、この保険金。

*1交通費実費や交通費名目でいくら、という謝礼を出すところも増えています

2006-09-19

[][]学生のボランティアに必要な事前教育

 2006-09-18更新分に、霞先生からトラックバック受信。

■[異論反論]“社会体験”≠“ボランティア”

 教育を地域社会で行う、ということに意義はあると思う。ただ、「行けばいい」「行けば学んでくるだろう」という要素が少しでも存在すれば、その部分を背負うのは現場だろうということ。必要なのは事前教育の充実だと思う。

 学生ボランティア、ということでいえば、わたしの周辺では明治学院大学ボランティアセンターからの紹介は評判がよく、信頼されていると思う。

 大学ボランティアセンターをネット上で調べると、立命館大学ボランティアセンターの事前教育の充実は特に注目に値すると思う。

 さてこのニュース

安倍官房長官:国公立大学の9月入学導入を検討(毎日新聞 2006年9月14日)

 安倍晋三官房長官は14日午前、自民党本部で開かれた青年局主催の総裁選公開討論会教育改革について「教育再生には英知を結集する必要がある」と述べ、「安倍政権」の発足後に首相直属の有識者会議を早期に設ける考えを明らかにした。具体的な検討項目として、大学の入学時期の9月への変更や入学条件としてのボランティア活動の義務化を挙げた。

 誰がこうした事前教育をやるのですかね。入学以前、ということだけれども、すでに卒業している高校が担うんでしょうかね、該当する一部生徒だけに。予備校が行うんでしょうかね。でも予備校の仕事は合否までですよね。

 な〜んかこう、やらせりゃいい止まりの思考、という気はしますよね。その疑問に気づいてくれる層ってのがどれだけいるのか。そのことに関心、という感じです。

2006-09-18

[][]はてなキーワードを作ってみた

はてなダイアリーキーワード「ボランティア保険」

 初めてのことってのは、緊張するもので。コレでいい?コレでいい?などと思いながら作る。今後、編集により、よりわかりやすいものになっていくことに期待。

 作った動機は以下のエントリーへの敬意。

■[NPO]ボランティアを受け入れる側の事情。/TRANS

 ボランティアを受け入れる現場というものが、なぜ「マナーや道徳がなってない人間」の教育係を引き受けなければならないのか、甚だ疑問。ボランティア活動に参加することで得るもの、というのは行動の結果に対してであり、その行動に関してのレディネスが整っていない人が教育的効果を得るために現場があるのではないと思う。あそこに行かせりゃ学ぶだろう、って、そんな簡単なものではないと思うし、そんなイメージで人間送り込まれたら、現場は迷惑だ。

 このエントリーで思ったことは、高齢者が対象であるから説得力があったのではないか、ということ。これが障害者の現場になったら、同じことを言っても、だから障害者は、とか、権利意識がどうだとか、そういう反論が出てくるように思う。でも、ボランティアを受け入れる現場としては同様のことが言えると思う。

 以下、個人的体験。知的障害児の活動にボランティア参加したいと見学者を受け入れる。その方の感想として出てきたのは、活動のメンバーにいた、ある行動障害の傾向の強い子どもに対しての「あんな子」発言の数々。返したのは「あの子はうちの大事な子どもたちの大事な一人ですから」と一言。この方のご希望で一回限りのご縁になりましたが、はっきり言ってこちらからもご縁が無かったものにさせていただきたかった。やってあげる的満足感をこの方が得るレベルを超える子がいたのは、この方にとって想定外だったんだろう。そうした感想をもつのは仕方がない。その方の個人的関係の方にそうした感想を告げられるのも仕方がない。ただそれを「障害」を嫌悪する表情で活動主体者に言ってどうしろっていうんだろう、というのは強く思った。いちいち当然のように同意を求めてくる表情はなかなかに印象的だった、程度のことは言わせてもらいたい。

 教育係、を、させられるのだったら、この子の障害とその特性と理解に関しての説明をめんめんとしなければならないのだろう。あからさまに嫌悪する顔でべらべらとしゃべり続ける人にそこまでのエネルギーを使って説明をしなければならないのだろうか。それをできる人はいるのかもしれない。でも少なくとも未熟者のわたしにはできなかった。人間関係上のその程度のマナーが成立している人とでなければできない対話というものもあると、わたしは思う。