S嬢 はてな

2014-05-13

[]朗報!!!ついに復刊へ!!!

f:id:satomies:20140513200945j:image:medium:left「大人をも魅了するレア絵本中江嘉男×上野紀子宇宙遊星間旅行』(56票)が、ついに復刊!」 この件名で復刊ドットコムから来たメールを見て、思わず「マジかよ!」と声が出ました。なんて素晴らしい。世の中捨てたもんじゃない。

復刊ドットコム■『宇宙遊星間旅行』(最終得票数 56 票)

http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68322789&tr=s

以下、2005年に書いた、この絵本の紹介文。(宇宙遊星間旅行 /S嬢のPC日記)

芸術性の高い「絵」

絵本というより、「画集」です。ネタバレといえばネタバレなのですが「花が咲く土星」の絵は圧巻です。

ストーリー性の高さ

主人公のチコは斜視であることを気に病み、そのことを人に見せないようにするためにいつも望遠鏡をのぞいていました。ある日、望遠鏡はチコの目に張り付き、離れようとせず、チコに次々と光景を見せていきます。そしてチコは、ある「星」と出会います。「星」はチコに大切なことを教え、そして宇宙のひとつの法則と共に去っていきます。「星」が最期にチコに伝えた一言は「見うしなわないように」というものでした。

「星」が伝える言葉の「哲学性」

「星」はチコに、「光速より速いもの」という存在を教えます。光速より速いものとは、誰もが持っている力です。それは「思考速」というもの。

星 :思考速というのは知ることではなく 思いをめぐらす速さのことです。想像する力 これは光速でも追いつくことができません。

チコ:思うことに速さがあるの?

星 :あります。たとえば 太陽の光があなたの眼にはいるまでに何分かかかります。でもあなたが太陽と思い浮かべるのに一秒もかからないでしょう。(本文より引用)

ページの合間に解説がさりげなくおかれている

本文中で出てくる語句に関して、科学的な説明が記載されています。

2005年にこの文章を書いた時もそうだったのですが、この本は語ろうとするとオノレの未熟さに恥ずかしくなる気持ちがわきますね。使い古した言葉で言えば、「自分を見つめる」みたいなとこなんだけれど、静かな静かな遠くから概念をばらした形で自分に近づく、という感じかと(ああ、陳腐)。要するに総合芸術ですね、科学美術哲学との。

本棚からこの本を出して、丁寧に丁寧に読みました。ああ、やっぱり素晴らしいね、この本。もうすぐ君の妹に会えるからね。はい、注文しました。amazonで予約受付が開始されており、8月に手元に届く予定だそうです。復刊ドットコムからの注文もできたんだけれど、えへへ送料ケチっちゃった。ちなみに復刊ドットコムのサイトからの注文で表示される在庫数が日中は40冊以上あった記憶があるんですが、復刊ドットコムからの復刊お知らせがあった当日だというのに、夜8時の段階でもう在庫は21冊になっていました。amazonは予約受付で在庫数が出ないんだけど、無事購入できるのかなあ、ちょっと不安。

[]Twitter検索

「宇宙遊星間旅行」でTwitter検索

復刊ニュースに、探している人、好きな人、とか。親近感とかワクワク。古本市場の最高値にもびっくり。復刊により、この本に会いたい人が無事に会えますように。

2010-12-09

[]私の中のあなた

映画「私の中のあなた」の原作の翻訳本のタイトルは二種ある。翻訳者も中身も同じ。最初に出版された本は「わたしのなかのあなた」と全てひらがなで、文庫化された時に「私の中のあなた」と漢字使用に改題されている。

わたしのなかのあなた (Hayakawa Novels)     私の中のあなた 上 (ハヤカワ文庫NV) 私の中のあなた 下 (ハヤカワ文庫NV)

さて。

2010年12月2日更新分「私の中のあなた」

「私のなかのあなた」という映画は、映画自体はおもしろかった。でも、どうしても納得がいかないというか、なんとも言えない感覚が残る。

検索をかけて映画情報や感想をだどっていくと、その、納得がいかない部分に、どうやら「原作と脚色された映画の脚本との違い」が関係しているようだと思う。これは原作を読まないとどうしても終わらないんではないか、と思った。

原作を読んだ。ふむ、なるほど。原作を読み終えて映画に関して思うことは、「売れる商品を作るということはこういうことか」ということ。要点を逃さずに簡潔にまとめ、映像として人の心をつかむシーンをちりばめる。売れる商品として成功していると思う。

ただし。この映画を観ただけではジョディ・ピコーの「私の中のあなた」は語れない。こういうベストセラーになった小説があったということを知る手がかりにはなるかもしれない、という程度だと思う。

翻訳者は「私の中のあなた」という邦題にとてもこだわりを持っていることが文庫版のあとがきに記載されてた。その文章によると単行本のあとがきにも、このタイトルへの思いを込めた一説を入れたという話が出てくる。原題は「My Sister's Keeper」。最初の出版の時に「わたしのなかのあなた」と全てひらがな表記にしたことも、かなりこだわった上でのことではないかと推測される。文庫版は映画公開に合わせての出版だったようで、映画の邦題に引っ張られての漢字使用「私の中のあなた」化だったのだろうか、どうなんだろうとも思う。わたし自身はひらがな表記の方が、この本の内容から言ってしっくりくるように思った。

映画と小説の最大の違いは、アナにはママがいたということだったと思う。映画のアナには「ママ」はいない。サラはケイトのママで、アナはサラの人生の付き添いという感じ、ママとの関係性においても。でも、小説にはアナの「ママ」はいるんだよね。正しいママか慈愛あふれるママか満点ママか失格ママかとか、そういうことじゃない。「いる」か「いない」か。この違いは大きい。小説は登場人物が一人称をもって語っていく構成になっている。そのサラの章の文章の中にこんな一節がある。こんなところからも、アナの「ママ」が顔をのぞかせていると思う。

「つまり、あなたはだれかを思い出させるってことなの」。アナは片肘をついて上体を起こす。「だれを?」。「このわたしを」とわたしは答える。

文庫版「私の中のあなた」/『サラ 現在』より〔p.254])

それと。映画館で観るのにちょうどいい時間のドラマにするためにぶった切ってしまったもののひとつに、アナの依頼する弁護士の恋物語がある。この恋物語はこの作品の構成上非常に重要な意味がある。言やーいいのに隠し続ける、真実を紐解くために必要なひとつの事実を。隠し続けるのは誰のためか、自分のためか相手のためか。誰かを「生かす」ということとか。「生かす」ことの裏側には「殺す」ことがあることとか。

この小説の中でとても好きなところ。映画には登場しない「アナの訴訟後見人/ジュリア」の章。

アナはトイレの壁にもたれかけて腕組みをする。「だれが死んで、あなたを孔子にしたわけ?」 顔をそむけると、手を伸ばしてナップザックを取ってくれる。「これ好きよ。いろんな色がいっぱい使われてて」

わたしはナップザックを受け取って肩に滑らせる。「南アフリカにいたとき、おばあさんたちがそういうのを織っているところを観たの。この模様を織るのに糸巻き20個ぶんの糸が必要なのよ」

「真実ってそういうものよね」とアナが言う。それとも彼女が言ったような気がしただけだろうか。彼女はもう出ていったあとだ。

文庫版「私の中のあなた」/『ジュリア』より〔p.273])

真実ってそういうものよね。この長編を読み終えるまでにあっちの縦糸こっちの横糸に引っ張られた。再読再再読でまた、人の心が見えてくるだろうか。大切な二冊としての位置を獲得。映画は…、もういいや。

2010-05-22

[][]読んだ、読んだ

エデン「エデン」読んだ読んだ。コレでサクリファイス関連(現在分)読了。いやー、本屋に無いし、アマゾンでは出品者からの中古品の価格が2000円を超えてるし(本来の価格は¥1470-)、さあどっすっかな〜と思ってたとこで。今日、出先で本屋に平積みになってた。えええ???と思って後ろのページを開いて確認すると「第4刷 2010年5月15日」とある。できたてのホヤホヤを持ってレジに直行、帰宅後一気読み。

作者のtwitterのこの二つのツィート、すごく気になってた。読了後、即確認。

ここで出てくる書評を検索にて確認。ううむ。確かに、作者が困惑するのはとてもよくわかる。

しかし一冊の本の感想を書くという行為。学校でさんざんやってきた「読書感想文」ってのをどうやってきたか、とか思い出す。あらすじ書いて、それから自分に一番残ったものは何かってのを書く作業だったようにも思う。問題の書評はその、自分に一番残ったものは何か、ってとこに走りすぎたんだろう、ミスを犯すほどに。

あらすじを書くってのは、この本読んで自分に一番何が残ったのか、ってことを出すための準備のようにも思う。ストーリーを前提として、まずその世界をちょびっとだけ共有してもらって、それでねその中のね、ココ、ココなのココ。ココがすごかったんだ、って。そういうのを言いたいってのがそもそも読書感想文なのかもしれない。で、「書評」ってのと「読書感想文」ってのは違うんだろう。よくわかんないけど。でもとにかくこの作者が混乱した「書評」は「書評」じゃないと思う。だって作品読まないでアレ読んだ人が思う「エデン」って、近藤史恵の「エデン」じゃないよ。

まあもちろん、わたしがぶつくさ書き留めておくものも「書評」じゃない。「サクリファイス」イコール石尾ラブ、ってなことに気づいたわたしもかなり偏ってると思う。「エデン」でも当然石尾ラブ続行モード。ラブ石尾は「エデン」の中で名前こそ出てこないものの、その影はちらちらする。白石誓が彼を思うとき、わたしは一度本を閉じ、そしてわたしも石尾を思う。

「サクリファイス」とその外伝、そして「エデン」。わたしにとってはこれは人の生き方を描いた作品だという位置づけ。その生き方というものをのせていくのに、自転車のロードレースが選ばれたのだという理解で、その記述がリアルならリアルなほど、その「生き方」というものに帰っていく。だから好きなんだと思う。

「エデン」は「サクリファイス」に比べると、物語が大きく展開していくまでの分量が長い。ただし。読み終えてからの再読で、要所要所の世界がまた、際限なく広がっていく感じがする。できたてホヤホヤの第4刷に思いがけなく早く会えてうれしかった。

2010-05-16

[][]「サクリファイス」

読みたいと思いながらそのままになっていた「サクリファイス」をやっと読む。やっと読む、というよりやっと購入?ってとこかな。いや読みたいと思いながら日々が流れて忘れてた。

サクリファイス (新潮文庫)

木曜日、出先でぽかっと時間が空いたのとなんかちょっと食いたかったのと、それとコーヒーが飲みたかった。ああミスドに行こうと思って本屋に行く、抱えていく活字が欲しかった。

欲しいと思っていた新書は見つからなかった。新書の棚を端から端まで眺めたり店内をうろうろしたり。ふと、小説誌のコーナーで目に付いたものを取り上げる。Story Seller (ストーリー セラー) Vol3 2010年 05月号 [雑誌]なにコレ?なんかすごくないですか?思わず後ろのページを開く。多分なんか「これってこういう風に出してるんだぜ?」みたいなメッセージ性のありそうな編集後記がありそうな気がしたから。あったぜ。速攻でレジ行き。

ミスドで読み始めて、二つ目の小説を読み出したとき。引き込まれながら思わず(ヤバい)と思う。コレ、「サクリファイス」の外伝じゃないか。過去、こうやって偶然に「サクリファイスの外伝」を読んだときに本編読みたいと思ってたのにそのままだった…、と思い知らされる。

赤い小説誌はおもしろかった。いくつもの文章の中で、近藤史恵の「スピードの果て」にやられる。自転車競技の選手が自転車で車道を走っていて。バイクに幅寄せされたりと嫌がらせを受けながら、持ち前のスピードで逃げ切ろうとしたときに。脇道から出てきたワゴン車、自分は危ういところでよけられたけれど、追いかけてきたバイクはワゴンをよけきれず衝突、そして事故死。目の前で起きたこの事故死のシーンが自転車競技中にフラッシュバックを繰り返す。最悪の状態で大事な試合に臨んだとき、その試合中にこのフラッシュバックを乗り越える術を知る。

2009年2月3日更新分

再度本屋へ。その日中に買って帰らなければ気が済まなかった「サクリファイス」。店内の在庫検索の端末をいじって在庫を確認。文庫の棚で平積みになってた。「2008年本屋大賞第二位作品」とキャッチが書かれた紙と一緒に。

一気読み。結末の壮大なスケールというのが胸に迫る。予測のようなものを次々と裏切っていくのはドラマというもののおもしろさではあると思うけれども、こうくるか…、という感じ。そして登場人物ひとりひとりのもつドラマというか心象世界のようなものに感じ入る。こ〜れは、こ〜れは、この登場人物に対して「主役を変えて」外伝作品を書いていきたいだろうなと思うし、実際読みたい。

登場人物で言えば「伊庭が主役」からこの世界に入ったわたしは、次に「赤城主役で赤城から見た石尾」作品を読み、そして本編で「白石主役の世界から伊庭や赤城や石尾を見る」という順番。

しっかしこう外伝がいくつもあって、全部ばらばらに出てるってのはなんかなあと思う。外伝、まだありそうだし。その外伝ってのの存在はどこで調べればいいんだろう…。と、パソコンで検索画面ばたばた。

なるほどね。ここを発信とする情報が一番正確だろうってとこに遭遇。作者本人のブログ。

むくいぬ屋仮宅

ここで調べるに、「サクリファイス」関連は次のものかと。よっしゃ、読んでないものはまだ3つ、ワクワク。

ちなみに「エデン」に関しての作者ご本人のつぶやき。全くですな。と思う、すっかり「サクリファイスシリーズ」の虜。

http://twitter.com/kondofumie/status/14031504295

2009-10-24

[]ぼくのお姉さん「ワシントン・ポストマーチ」

桜養護学校の6年生の教室。給食の時間だ。わかい三木先生が、手の不自由なぼくに、食事を食べさせながらいった。

「こんどの日曜日ね、美雪ちゃんのお兄さんの結婚式?」

ぼくのお姉さん (偕成社文庫)「ワシントン・ポストマーチ」より)

あらすじ

美雪と「ぼく」は仲良し。お兄さんの結婚式を控えている美雪と、お姉さんの結婚式を控えている「ぼく」。美雪と「ぼく」は、結婚式の話に夢中になっている。美雪は指が開かない手で文字版を操って、「ぼく」はうまく動いてくれない口を開きながら。脳性マヒの二人。

美雪は文字盤を使って「ぼく」に言う、「緊張が強いからオマエは式には出られない」(「ぼく」は緊張が強く不随意運動が頻繁にある)。「ぼく」と美雪はケンカになる。美雪だって口からよだれをたらすから、結婚式になんて行けないぞ。美雪は「ぼく」をなぐり、先生が飛んでくる。美雪はいつまでも泣いている。

週明け、美雪がまた、泣きじゃくっていた。車椅子の上で体をよじって泣き、くずれおちるように車椅子からおりて、床を激しくたたいて泣く。「ぼく」に殴りかかってきて、また泣く。美雪は楽しみにしていた結婚式には出られなかった。

「ぼく」は母に言う、美雪は結婚式には出られなかった。「かわいそうだねえ」という母。でもそこに、親戚のおばさんがやってくる。父親の姉にあたる人。「ぼく」のいない部屋で、「ぼく」を結婚式には出してはいけないという話が始まる。「ぼく」は寝付いた後、家族が言い争う声で目が覚める。「ぼく」は親戚中の恥で、結婚式には出席してはいけないのだそうだ。父や母や姉が怒りで声を震わせながら、それでも親戚や世間に揺れてしまう。美雪もそうだったのか…と「ぼく」は思う。

結婚式が近づく日々、母の顔が寝不足でむくんでいる。母の顔を見るのがつらくなっていく「ぼく」は、母に言ってしまう「結婚式、やめようかな」。母はアンタがいやなら出なくていいと答え、「ぼく」はその返答にがっくりくる。

結婚式の前日、姉の夫になる俊二さんがやってくる。俊二さんは入って来るなり、「ぼく」に「明日の結婚式は出てくれるんだろ?」と言う。そして家族の前で「弟の君がいなくては話にならない、特別席も用意してある」と言ってガハハと笑う。父と母には、「ぼく」のことで悩む話をもってきた伯母さんにも改めて挨拶に行ってきた、こちらの親族親戚はだいじょうぶ、何も心配はいらないと快活に笑う。結婚前夜の姉がウエディングドレスを着て見せて、家族たちは幸せに包まれる。

月曜日、「ぼく」は学校で美雪の顔を見て、「結婚式には行かなかった」と嘘をついてしまう。美雪は「ぼく」の体を乱暴に、でも親愛をこめてたたく。大口をあけて笑う。

(美雪のバーカ!)と、「ぼく」は心の中で叫ぶ。(美雪、しっかりしろよ。おれたちがしっかりしなきゃだめなんだぞ!)。声にならない声で叫びながら、涙が出そうになりながら、「ぼく」はあわてて心の中で「ワシントンポスト・マーチ」を大声で歌い出す。

「俊二さん」かもなあ

はてなの匿名ダイアリーで、「結婚式」がなんかすごい話題になってるみたいなことに気づく。いろいろな観点でいろいろな人がいろいろなことを意見として述べていて、ふむふむとか思う。(ああ、この人は「俊二さん」なのかもしれないなあ)とか思う。「俊二さん」の力をもっていることが、逆にこの人を苦しめているのかもしれない、とも思った。シチュエーション次第では、人の持っている力が自分自身をも苦しめる時があるのかもしれない。

いろいろな理由で他者を選別して排除しようとする人はいる

それは積極的にというだけではなく、消極的にという空気を作る場合もある。排除自体にしても、重要な排除から「この程度でしょ」というレベルの排除もあるだろうとも思う。誰もが眉をひそめるような排除もあれば、これは致し方ないという排除自体も存在するだろうな、とも思う。

赤ん坊のように泣かないし、儀式の途中でおかしなことをするわけではないけれど、娘は「婚」でも「葬」でもご遠慮願われたケースというものがある。特に悲しみというほどのものは起きなかった。人には人の理由というものがあり、誰かにとって「重」となることが、誰かにとってはそうではないと、それだけのことのようにも思う。

まあ儀式というものは、それを主催する人間の価値観で構築されるものなのだしね。そしてわたしにとっての娘自身の価値とは全く関係ない。まあ本当に娘が出たい儀式だったら、それはそれなりに頑張るとは思うけどね。娘にとっての曾祖母の「葬」には出席させたいとは思ったけれど、でも人の排除の視線の中に連れて行くということの前で、全くと言っていいほど気持ちは動かなかったな。

2009-02-24

[]「アルジャーノンに花束を」を、読んだんだ

アルジャーノンに花束を

2月22日更新分の続き。この作品についてウィキペディアに詳細が載ってた。

アルジャーノンに花束を- Wikipedia

この小説に流れるテーマとは別に。一時的に知的障害とは無縁になる主人公チャーリーに明らかになっていくことの中で。やはり出てくるきょうだい児の問題に関心がいく。妹と妹のチャーリーに見せる態度とその存在に絡む養育環境の変化等、チャーリーの知的能力の変化の中で、このきょうだい児という問題の中でチャーリーに「見えていくもの」の変化が興味深い。

父親の見せるチャーリーの障害に対しての受容が暖かい。しかし周囲の支えや理解、特に夫婦の和が無ければこの受容も継続ができない。これもリアルな現実。

また。変化していくチャーリーの前に立ちはだかるのは、変化する前のチャーリーであること。これがわたしにとっては最も強く残ったところだと思う。障害をもつ娘を前にしての療育や教育において、いつも心のどこかにあったこと。娘の成長を望むこととは、娘自身の成長を望むこととは、本人自身とは、みたいなこと。「わたしはわたしなんだ」という娘の声を聞き取りたいと思っていたこと。そんなことを強く思い出していくような感覚。

ウィキペディアの記述ではユースケ・サンタマリア主演のテレビドラマについて書かれていて。「イグアナの娘」のスタッフというのが興味深い。また、わたしはこのドラマは見なかったので、「結末−主人公の行く末も原作より大きく変更されている」という一文に興味をもつ。

ちょっと探したら、あった。見ることができちゃったよ、このドラマの最終回。

無料動画ドラマチャンネル > ドラマ > アルジャーノンに花束を > アルジャーノンに花束を 最終話

ほう、というか、ふーんというか。チャーリーの経験を「夢オチ」にしちゃってるのにびっくりというか。それとなんつーか、なんかシアワセ感の押し売りみたいな感じがした。こんなへらへら笑ったような結末にもっていくために「アルジャーノンに花束を」って作品は書かれたのではないよな、と思う。

しかしというかなんというか。知的障害者の演技というものはそんなにも難しいものなんだろうか、と、妙なへらへらとしたトロくさい「知的障害者役」を見るたびに思う。

わたしの中ではピカ一なのは、やっぱり映画「学校II」の吉岡秀隆。へらへらした「明るい知的障害者」的キャラではないからそういう逃げ方ができないのかもしれない。でもだからといって紋切り型のような知的障害者っぽい演技をするわけじゃない。ひたすらすごいと思うのは知的障害をもつ「人間」になっているところ。

映画のシーンの中で(なんでこんな簡単なことができないんだろう)ということがあり、そこで観客には「知的障害をもつ人間」であることがわかる。観客は彼の味方となって、その「できなさ」にイライラする。イライラしながら悲しくなる。そして、知的障害ということがわかるんだ。周囲の嘲笑に、どうしていいかわからなくなる。

吉岡秀隆の演じた「知的障害者」。一見普通に見える。一見普通に見えるからこその社会的な困難というのは中度軽度の方の親の間でよく聞く「悩み」。中度軽度の人にはそんな感じの人も多く、実際チャーリーも出されるIQでいえば、このくらいのレベルだよなあとも思う。

faintmemoryさんのブックマークコメント、おお、と思う。

フェイント・ブックマーク/2月24日

「アルジャーノン」は邦訳が素晴らしかった。主人公の知能が上がるにつれてどんどん“漢字”が増えていく。

わ、わ、わかる。共感する。ホント、そう思う。日本語という言語文化でどうチャーリーの変化を表していくか。翻訳者に喝采。

2009-02-22

[][]火曜から金曜までに読んだ本

月曜から金曜までの娘の一週間の実習。ランチタイムのピークを避けての午後の二時間。実習先には保護者送迎で、実習中は本当はかーちゃんは席をはずすことになっていたんですが。

(これは娘にとって厳しい経験になるな)と判断して、お店の方に許可取って店の片隅に陣取らせていただきました。働いている人の視界から死角になる場所。娘にとっては(始終見られているわけではないし、自分の視界には入らないけれど。でもかーちゃんはずっとあそこにいるんだ)と認識できる位置。

で、まあある意味「気配を消す」ためにもと思って読みたい本を持ち込んだ。美味しいコーヒーをいただきながらの読書という時間でもあったわけで。ここで火曜から金曜まで読んだ本、四冊。

yomyom/新潮社 「乃南アサ『毛糸玉を買って』」

2月3日更新分に出した小説誌、読み残していた分を読破。「毛糸玉を買って」はその中の一編。

手芸屋で毛糸玉を選ぶ「女の子」とその連れの「女の子」の二人、という「女の子二人の会話の風景」から始まるお話。ぼーっとした女の子としっかりものの女の子という感じから始まるけれど、この二人は実はそういった「女の子」ではなく、刑務所で知り合って仲良くなった前科持ちの女性二人。なんとか自立の道を探そうと必死に生きている。

しっかりものといった感じの女性の方は、夫の暴力から子どもと自分の身を守るために夫を殺した罪を背負う女性。主人公となる女性の罪に関しては具体的には出てこない。

日常の中で過去に脅えながらも生きよう生きようとしている姿が心に残る。そしてそういった状況を大げさな事件展開ではなく、日常の路線の中で描いていく記述が印象的だった。こうした人々のささやかな日常というものの存在についてもしばし考えたりもした。

「障がいのある子を守る」防災&防犯プロジェクト

出版社から学校に資料が来ていた書籍。資料が来てから買おう買おうと言っていて、年度末になってきて慌てて購入した本。書籍として出版されたことが素晴らしいとしか言えない一冊。特別支援学校のPTAはみんな買った方がいいぜーとか思う本。なんのかんの言うより出版社の紹介ページをリンク。

ジアース教育新社による紹介ページ

アルジャーノンに花束を

水曜日、朝から午前いっぱいとばたばたと多忙。娘の学校の片隅で立ったままパンかじって昼飯。娘を引き取り実習に連れて行くときに、PTA貸出図書本棚から大慌てで取り出して借りていったもの。まだ読んでいなかった「大物」。これについてはやたらに長くなりそうなので別エントリで。

わかりやすさの本質 (生活人新書)

アマゾンでDVD購入のついでに、読みたかった野沢和弘氏の著書を二点選んで購入したうちの一冊。知的障害者が新聞記者と共に作る知的障害者のための新聞「ステージ」。著者がこの新聞に関わったことで見えていくものに対して語るもの。↓のリンクから立ち読み可能。

生活人新書 詳細紹介(バックナンバー5)2006年1月のラインナップ

「ステージ」は以前一時期定期購読していて。知的障害者がスタッフとして関わる新聞ということが興味のスタートだったのだけれど。そんな生半可な興味が吹っ飛ぶほど「わかりやすく時事ニュースの要点が理解できる新聞」だった。なのでその作成話に興味があったのが購入の理由。

で、この書籍。予想通りというか予想以上におもしろかったのだけれど。この書籍から衝撃の事実を知って驚愕。このことについてもまた長くなりそうなので別エントリで。

2008-11-17

[]「自閉症の社会学―もう一つのコミュニケーション論 (世界思想ゼミナール)」

自閉症の社会学―もう一つのコミュニケーション論 (世界思想ゼミナール)

読んだよ、読んだ、読んだ。おもしろかった。

あのね、「自閉症の」っていうタイトルになっているんだけれど、さあ自閉症を学びましょう的ハウツー本じゃないの。そういうなんていうかこっち側からあっちを見てますってなもんじゃないの。自閉症に見られる行動や社会との接し方をとらえて、そして多くの人が「普通」ととらえている社会を解明していく。そしてまた自閉症に戻りという「行ったり来たり」。

おもしろかったんだけど。障害や自閉症に関して、手っ取り早いなんだかんだを書籍から手渡して欲しいと思う層にはまだるっこしいと思われるかもしれないとも思った。要は、知的障害とはなんぞや自閉症スペクトラムとはなんぞやみたいなこと自体を考えていくことに「いつしかはまってしまった」層に、ものすごく美味しくいただける書籍という感じ。ひとつひとつの章から学べるものが多すぎる。

この著者、どこの人? くっそー神戸かよ、遠いよ。この人がこの人の肉声で語るこの本の内容ってのを、聞けるものなら聞いてみたい。ああそれが簡単にできないから書籍ってことかあ、なんてわけわからん納得。

さてさて、この本を読もうと思ったきっかけはココ。確かfuuuuuuunさんのブクマから発見したもの。

自閉症の障害学がはじまる /lessorの日記

おほほ、あらためてその気づいたブクマの期日を見たら、9月の始めじゃないか。ずいぶん日が経ったものだなあと思うけど。確認してそれから本を入手してそれでもって読んで、ってまでに、まあこのくらいの日数はかかっちゃったんだよね。つーか、ネットの話題の流れってのはわたしには早すぎる。

でも記憶はしてたし、記憶に強かったエントリだったなあと思う。(おお、この本読もうっと)と決めたきっかけエントリであることにはまちがいない。

改めてこのエントリに飛んで思うこと。書籍の魅力の片鱗がいっぱい書いてあるんだけれど。そこから情報を得たのは確かなんだけど。わお、って思ったのはこの一文だったんだ、って再認した。

これはすごい。

自閉症の障害学がはじまる /lessorの日記

このエントリの時点でまだ半分よ、半分、この方が読んだのは。その半分でこの方「黙っていられなくなっちゃってる」の。黙っていられなくなっちゃって、半分読んだとこでわざわざパソコン開いて書いてんのよ、「これはすごい」って。そりゃすごいんだろうよ、と思ったんだよな。こ、こ、これは確認したい、その「すごい」ってヤツを、と思った。

わたしは。小難しいことより、こうしたため息のような絶賛に関心がぐぐっともっていかれるのだなあと思った。以前、「ああ」だけで即日とっとと本屋に直行してその日のうちに入手しちゃったもんね。

2007年8月21日更新分

2008-11-16

[]「椿姫 彩菜」本でもういっちょ

「わたし、男子校出身です。」2008年11月14日更新分

読後、いろんな検索かけていろんな人の感想を読む読む。かわいいとか性同一性障害とか当事者がどう思うかとかあの人は恵まれてるからうんぬんとかなんとかかんとかと、ふむふむ。

その中で、おお、と思ったもの。

私、トイレネタとかシモネタとかブログで散々書いてるし、「蒼ちゃんもぶっちゃけ過ぎー」って思ってる読者さんたちも多いと思うけど。実は自分の内面とか全然ぶっちゃけてない。1ナノもさらけってない。

そういうのが苦手だってこともあるけど、自分は自分しかわからないって思い込んでるところあるから。

でも彩菜ちゃんすげー!やっちゃったよ。ここまで書いちゃったか。

どんな内容かはもう読んでもらうしかないんだけど。

あと、11月14日更新分入れるときに失敗したなあと思ったこと。書籍詳細にアマゾンのアフィリリンク使ったけど。リンクすべきはこっちだった。その理由はこっちは目次詳細がすぐわかるから。その目次に出てくる「ママ」という単語の数の多さだって、この本に流れているものってのがすぐにわかる。

わたし、男子校出身です。 :椿姫 彩菜 | ポプラ社

この書籍で「ママ」以外の感想では。男子校出身ということで、コミュニティの中で「同性」を経験してない思春期というところ。男子校の中で「たった一人の女の子」ということを認められて守られてる。これはある意味「特異な経験」ということで、そりゃ卒業後の社会はつらかっただろうなあと思った。

また、男子校という中で「女の子」を認められて守られていたという経験があったということで、やっとこの書籍のタイトルを理解するという感じ。このタイトルは人目を惹くキャッチなのではなく、彼女の思春期のアイデンティティの拠り所みたいなものなのだな、と。

っつーことで、下記に関して「そういう印象をもってたけど、ごめんなさい」ってのを入れておきます。

男子校出身という言葉を、なんかこう簡単に人の興味を惹こうとするキーワードみたいな印象も持ってた。

2008-11-14

[]「わたし、男子校出身です。」

わたし、男子校出身です。

日曜の朝、サンデージャポンを見ていると、ゲストとしてよく出てくる女の子が椿姫 彩菜だった。番組内のコメントでべたついた話し方で「わたしたち女の子は」みたいな、女の子カテゴリーの発言が好きな女の子という印象だった。「わたし、男子校出身です」という著書があるということで。男子校出身という言葉を、なんかこう簡単に人の興味を惹こうとするキーワードみたいな印象も持ってた。

急にその本に興味を持ったのは、サンデージャポンの中で、彼女の親が彼女が彼女であることに対しての受容に苦労したという話から。自分が自分であることを受け入れてもらえないこと、我が子に対して、その子がその子であることを受け入れることが難しいこと。そのことにぐぐっと関心を持たされて「読みたい」と思った。

で。読んだ、と。

ばばばば。一気読み。おもしろかった。読み進めているときに、ぞわっと鳥肌が立ったのがこの部分。

ある日、家の二階の部屋から降りてきた私を見て、ママが突然言った。

「あんた、キモイのよ」

(「わたし、男子校出身です。」P.108より)

この本の中には「ママ」という単語がかなりのパーセンテージで出てくる。自分が自分であることを母親に受け止めてもらえない。いろんな感情を説明しながら、いろんな色を持って出てくる単語「ママ」。たった一人に受け止めて欲しかったということ、それが読んでいてどんどん伝わってくるのだけれど。

母親は、彼女の個性に対して早くから危機感をもち、彼女を男にしようと格闘するような子育てに見える。そこで、思い通りにならない苛立ちを凝縮したような一言だと思った「あんた、キモイのよ」。

母親は、薄々気づき始めていて、そして認めたくなかったんだろうな、と。自分の努力によって「治せる」と思っていたんだろうな、と。そしてそれは「自分に対しての強烈な否定である」と我が子に突きつけられていく。つらかっただろうなあと思った。ああ、陳腐な言い方だなあ。でもホントにそう思う。つらかっただろうなあ、と。

そして、彼女が手術によって肉体を自分の意志によって変えていくときに。性同一障害の診断書があれば自分の名前を変えることができることを知る。男らしい名前を棄てたい、新しい名前が欲しい。その名前をママにつけてもらいたいのだ、と。ぎゅうぎゅうとお互いに否定しあった母子。それでも子どもは母に向かって手を差しのばす、わたしはあなたの子どもだと。まあなんつーかなあ、子どもってものが親に対して渡してくるものは、計りしれないよなあ、と思う。

命がけの手術が終わって、自分が自分で選び取った「性」をもって両親と祖父母や親戚に会いに行くシーン。そこにあるのは一人の子どもを子どもとしてそのままに受け止めるということ。ここにたどり着くまでの壮大な物語としての一冊という感想。

さてうちの坊や。この子は男の子っぽいこともありはしたけれど、でも「男の子」としてはなんだかヤワなタイプの男の子で。「もっとしっかりさせないと女になりたい男になったら困るだろ」と、幼児期に姑と義妹に何度も言われたことが実はアリ。仕方ないってことになってはいつつも、やっぱり上の子がダウン症だったことをそれなりに引きずってて、それで下の子に対して期待が大きいってことから出てくる言葉なんだろうな、なんてことを思ってまして。だってコイツ、ヤワなだけじゃん、みたいな。

その上で、(いや、「なる」と言っても「なる」んならもう「なってる」だろ、「ならない」んなら「ならない」だろ)と実はこそっと思ってた。一人目の子で、(その染色体だってこっちの思い通りになどならんさ)、ってことを経験していての2番目だったので、もうなんかなんでもかんでもなるようになりゃいいさ、と思ってたとこアリ。

結局うちの坊やは男の子として生まれてそこに根本的な困難は無かったのだけれど。困難無くてよかったと思うのは、「命がけの手術をもって自分を獲得する」、ってことをやらなくてよかった幸運だと思った。「命がけの手術でその後の生を獲得する」って子のかーちゃんになるのは、もうホント最初の子の大手術ってときのたった一度でこりごりですわ。

2008-08-20

[]宇宙遊星間旅行

gooブログの3年前のエントリにコメントが入る。

宇宙遊星間旅行 /S嬢のPC日記

宇宙遊星間旅行」という書籍を紹介するエントリ。'80年代前半の頃、新宿紀伊国屋書店で手に取り、初版で購入。20年以上大事に大事に大事にしてきた本。

なぜ大事に大事に大事にしてきたか。そのほんのさわりは上記エントリに記載。

初版で絶版になり、現在入手はかなり難しい状態。gooブログのこのエントリのコメント欄には「2万円で入手」の例も出てくる。2万円といえばさすがに驚く額だとは思うけれど、購入できる場所に出現しただけでもラッキーなんではないかとも思う。だって所持している人が手放す率がとても低いように思うから。

宇宙遊星間旅行の本を探しています -OKWave

こんな質問を発見。でも回答としてるリンク先ではやっぱり見つからない。古書として探すよりも、図書館の蔵書検索の方が早いと思う。ただし図書館でも蔵書になっているところはそんなに多くはない。しかし、「まあ見つけてみてくださいな」と強く思う。絵本だけれど、小学生でいえば高学年以上でないと、ちょいと難しいかもしれない。そして味わうべきは大人だと思う。

今回のコメントは復刊ドットコムへの投票のご報告とあって、久々に復刊ドットコムのページに飛ぶ。以前は「リクエスト100票で復刊交渉へ」となっていたと思うんだけれど、現在はそうした表示が見つからなかった。

また、復刊された書籍のリクエスト票は100票に満たないものも多く、情報・状況により復刊交渉へ、というプロセスになった模様。

いやしかし、これだけ情報がはっきりしている書籍で復刊への道がなかなか開けないのは、再度商品化しても「売れる」可能性が低いということなんだろうか。初版で絶版になった絵本、元々高価な部類に入る絵本。復刊では初版時より高額になるかもしれない。商業的には難しいのかもしれない。

でも。消えてはいけない重要な書籍だと思う。しつこくしつこく「この本はすごいぜ」と言っていたいと思う。もしもめでたく復刊された暁には「読むため」と「貸すため」に最低二冊は購入予定。初版本はもちろん「重要保存版」。

中江嘉男氏の語る「宇宙遊星間旅行」/遅すぎる案内状!!!その5

2008-08-18

[]27時間テレビから大竹しのぶ自叙伝「私一人」

すでにもう、ちょっと古い話。27時間テレビで大竹しのぶが出てきて「おお」と思って見入ってしまった。鶴瓶が現在進行形の大竹しのぶと明石家さんまのトーク映像を「コレDVDで出して欲しい」「買う」と言っていたんだけれど、わたしも思わず「買いたい」と同調してしまった。

読みたいと思っていて月日が過ぎ去ってしまっていた大竹しのぶの自叙伝をブックオフオンラインで購入。私一人

27時間テレビで二人が話す話もこの本には出てきていて、そうかあと思う。フィルード・オブ・ドリームスという映画を二人で観て、さんまがぼろぼろ泣いていて大竹しのぶがしらけていた、という話。その「大竹しのぶがしらけていた」という話の背景がこの本には出てくる。

明石家さんまに対して深読みしたくなるのだけれど。何気なく出したこの映画の話、(大竹しのぶの自叙伝に出てくる話だからこそ、あえてこの話を出したのかな)、と、本を読んでいてちょっと思った。

この本では結婚生活についてこんな風に書かれている。自分といると幸せそうに笑う、と、そう彼が言っていたのに、自分自身も確かにそうだったのに。でも結婚してから自分は笑わなくなった。相手の何もかも責めるようになっていった。ケンカを繰り返す日々。その理由は大竹しのぶの視点から書かれていて、そうかあと思う。

関係暴露本の汚らしさにならないのは、明石家さんまがいかに家庭に対していろいろな思いを持っていたかということもが見えてくる書き方になっているからだと思う。

明石家さんまの離婚会見をふと思い出す。「『オレゴンから愛』ではなく『駒沢から愛』頼むわ」みたいなことを言っていて、結局、「妻の仕事に無理解な夫が離婚理由」のような印象になっていたのだけれど。

人んちの夫婦のことなど「見せる記者会見」などでわかるはずもないのだけれど。自叙伝の中では離婚が決定的になったのは「篠山紀信撮影の写真集の話(ヌード有り)の話を大竹しのぶが受けるか受けないか」ということだったと。この仕事をやりたいと言ったら、断らなければ離婚だ、と。そして「でもやりたい」そしてその上で家庭もやり直して行こうよと言ったときに、彼が言ったことは離婚記者会見の日程の話で、すでにとりつく島は無かったと。

離婚記者会見の「『オレゴンから愛』ではなく『駒沢から愛』頼むわ」みたいな物言いは、端的に「妻の仕事に無理解な夫が離婚理由」とつながりやすい。実際あの当時のあの会見にどーだのこーだのという時に、そんな批評はあがっていたとも思う。でもそういう、なんというか、わかりやすい表現で実は明石家さんまが大竹しのぶの何かを守ったのか。などということを逆に思ってしまうような一冊だった、大竹しのぶの自叙伝。

「妻の仕事」に対しての夫の価値観の決定的なボーダーになったのは、ヌード有りの写真集。そして大竹しのぶがこの篠山紀信の仕事を受けたかったのは、篠山紀信が大竹しのぶを撮って見せた一枚のポラロイド写真と「迷子のような顔」という一言の大きさ。彼女自身が自分を見失ってしまうような結婚生活だったこと。

夫婦というものは夫婦の数だけ物語があるのだろうと思うのだけれど。その物語を見つめた形の記述、そして大竹しのぶの言う「離婚の産物」としての「今は一番近いところにいる人」という記述が胸に残った。認められなかったこと、認められる距離、そしてそこに必要だった時間ということになるんだろうか。

きっちりと、お互いが絶対に譲れない線を見てしまったからこそ、あの27時間テレビの掛け合いがあるのかもしれないなあと思った。いやあの企画、おもしろかったよね。

ちなみに大竹しのぶのこの自叙伝はやたらに売れたという話ですが、結婚離婚の話は中身の一部で、全編通してオススメの一冊。

2007-09-06

[][]「少女パレアナ」とパレアナイズム

少女パレアナ

 むかしむかし、あるところにジェニーという名のお金持ちのおうちのお嬢さんがいました。ジェニーは素直に育ち、その魅力から、年上のお金持ちの男性に結婚を望まれました。しかしジェニーは若い情熱にあふれた牧師を愛し、両親の反対を押し切ってその牧師と結婚し、家を出ました。お金持ちのおうちの跡取り娘だったために、反対された結婚を押し通したジェニーは、生家の家族とは疎遠にならざるを得なくなりました。

 反対を押し切ってした結婚で、生まれた子どもは次々に亡くなってしまいました。末っ子として生まれた女の子は、疎遠になった生家の家族を思い、ジェニーの二人の妹の名前をミックスして「パレアナ」と名付けられました。この子は死ななかったのですが、その子が幼児期にこのジェニーはこの子を残して死んでしまいました。

 お金持ちの家で跡取り娘として育ったジェニー。そのジェニーと結婚した牧師。自分と結婚したために貧乏で苦労の多い生活をさせ、そして病弱だったジェニーは死んでしまった。生まれた子どもたちも末っ子を残してみな死んでしまった。夫であり、父親であるこの牧師。生きるということで現れる苦難を乗り越えるための希望。牧師はその生きることの希望を託すように末娘のパレアナを育てた。

 しかしこの牧師も死んでしまった。たったひとり残ってしまったパレアナ。

 これが「少女パレアナ」という物語の、パレアナ登場までのストーリー。

どんだけツラかったんだよパパパレアナ!

少女パレアナ/CROOK

 まあまったくもってその通りで。

 「少女パレアナ」は、このひとりの少女がどうだのこうだのってことではなく、人間がパレアナカードをもつことによってどう揺り動かされていくか、という物語なのではないか、と思う。自分にとってのパレアナカードについて考えること。これがいわゆるパレアナ思考とかパレアナイズムとか呼ばれるものなのではないか、と、わたしは考える。そのパレアナカードを作り出したひとりの男性の痛みなんてものなんぞにも、わたしの関心はいくわけです。

 「パレアナ」をとらえるときに、きゃらきゃらとポジティブにいくぜ、ってことではないのだと思う。生きてりゃ苦難というものは降ってわいてくる。そのときにその苦難をどうみるか。「ピンチはチャンス」という思考。なにがそこにあるのか、なにをそこから拾い出していけるのか。

 そのときに拾い出したものを見つめながら、これを手にできてよかったと思えること。そこに到達できるためには、パレアナカードというものは実に有効に働くのではないか。そしてそこに到達できるためには、無理矢理作り出した「よかった」を探し出すことは、本当に拾い出すべきものを手にするためのトレーニングとして作用するのではないか、なんてことを思うわけです。

 「パレアナイズム」と検索をかけ、ある文章と出会う。

Day100の出来事/narajin.net

 1913年にアメリカでひとりの女性によって生み出された物語。1962年に日本で翻訳書が出版される。あと数年もすれば「少女パレアナ」という物語が生まれて100年を迎える。この物語の底力というものを思う。

 そしてこの物語の底力は、読む人が脈々と成長させていくものなのではないかと思う。

2007-08-18

[][][]メリル・ストリープからうろうろ

 8月5日に「映画カテゴリ」をつけたという文章を書いて。ああそういえば最近メリル・ストリープの映画を観てなかったなあと思って、という流れ。最近の作品でってことで言えば、「プラダを着た悪魔」はまだ準新作なので旧作になってから借りてこよ、と思っている次第。いいなあこの人、と思っても、体調不良押してまで映画館に行っちゃうスタローンとの「好き」の差はある。

 そんなにしょっちゅうTSUTAYAに行ってるわけじゃないんだけど。っつ〜か、近くのレンタル屋がつぶれてしまったこともあるんだけど。ここんとこ、息子の自由研究の流れからDVD借りが続いていたことはあると思う。

 で、メリル・ストリープ未見作品を観るなら、まあ有名どこもいっとこみたいに借りてきた「マディソン郡の橋」。そこから「恋におちて」の再見。

恋におちて いや細かいシーンで微妙に記憶が違ってました。でも驚いたのは記憶よりももっとカップルのどぎまぎぶりがかわいかったこと。いい大人がどぎまぎ、ってのは記憶にあったけれど、ここまでだったか、と。観たのが自分20代で、いい大人がここまでか、ってのが今わかるとこもあるんじゃないかと思った。

 あと公開時に観たときにわかんなかったことで今わかること。わかんなかったから忘れていたんだと思う。メリル・ストリープが演じる女性モリーは、先天性の血管の奇形(?)により初めての赤ん坊を生後まもなく亡くした女性だった。そのことに夫婦共に傷ついたという過去があり、ロバート・デニーロが演じる男性フランクが自分ちの子どもの話をするときに、それをどんな風に聞いたのだろうとか。自分に縁が無いことというのは聞いても忘れるものということなんだろうなあと思った。

 「恋におちて」を観れば、「マディソン郡の橋」はやっぱりズルいと思う。でも主人公の年齢が出すものもあるんだろう。

 などとはいえ、不倫映画ばっか観てるのもなんですからね。ってことで、「愛と哀しみの果て」も観る。

愛と哀しみの果て これは初見での感想は「なげ〜よコレ」でした161分。長いけどきれい。アフリカの自然がどばどば出てくるので、大画面で観るのがすごい映画だろうなあとは思います。まあもう映画館上映の機会は皆無だろうが。

 でこの映画、要はアフリカに生きた女性のドラマということになるわけですが、この映画に関してこのサイトは貴重な存在になっているのではないかとも思う。 

『愛と哀しみの果て』前説……ディネーセンとアフリカ

 しかしこのヒロイン、亭主に梅毒うつされて大変なことになっちゃうんですよね。その割にはたやすく許してると思わなくもないとこが、時代背景なのか、とも思う。渡辺淳一の「花埋み」を読んだときに知った「日本初の女医は、医師になろうというその動機が夫に淋病をうつされたということだった」という衝撃を思い出すよなあ、と。「愛と哀しみの果て」のヒロインが、夫に梅毒をうつされたことで不妊になったこと。その原因ではなくそこで得てしまった事実が本人に与えていく影響とか。

 アフリカに生きた一人の女性、ってことでいえば。この映画よりわたしはこっちに軍配。

「女ひとりのアフリカ」池田林子著

 これは単純に言って、自分にとっての価値として「日本の女性が書いた」ということが大きいとも思う。アフリカの話は山ほど出てくるのだけれど、アフリカがどうたらということをのぞいても、一人の女性の人生の話として十二分におもしろい。実際わたしはアフリカがどうたらではなく読んだ。アフリカ好きの友人が自分で買って、そうしたらその後プレゼントでこの本もらったのでダブっちゃったよあげるよ、というタナボタで得た書籍だったのだけれど、長く大事にしている一冊。どうやら初版で終わってしまっているのがものすごくもったいないと思う。

 英国人と結婚して独立前のケニヤに住んだ著者。ケニヤで次々に活躍することになり、1975年に行われた沖縄海洋博ではケニヤパビリオンの館長としてケニヤ政府から派遣された経歴ももつ。

 この沖縄海洋博の頃に離婚。生きていくということ自体に壁を感じるかのような痛手を味わった著者は、自分の意志で、生きていくためにアフリカに帰る。40代の人生の再スタート。この「生きる」という感じがすごいんですよねこの本。また70年代後半のアフリカの内乱や、そこに生きる人々の生の姿。本棚から引っ張り出してきて、再読に入ってます。

2007-08-17

[][]「マディソン郡の橋」でもういっちょ

 Youtubeで「The Bridges of Madison County」と入れて検索。ははは、出るわ出るわたくさん出る。BGM入りがわんさと出てくる。名シーンの切り張りは、まるで他者が作った「思い出のアルバム」のよう。この思い出を胸にフランチェスカは4日間後の人生を送ったのだと言っているみたいに。

 でもさあ。「マディソン郡の橋」で、観た人に名前すら覚えられないだろう亭主、ってのもいいんだけどなあ、と思う。出かけるときのシーンもいいし、ロバートとフランチェスカが最後の別れをした後に、自分のニョーボがじゃんじゃん目の前で泣く。理由のわからんその号泣、それを何も聞かずにそっとしておくんだよね。

 死ぬちょっと前のシーンもいい。オマエの人生は望んだものではなかったのではないか、でも自分は愛している、と。フランチェスカは4日間でそりゃその先を家族のために我慢したかもしれないけど、時々遠くを見て何かを思うニョーボを見てきたんだろうなあ、とも思う。

 なんでこの辺、ぜ〜んぜんスポットが当たらないんだろ。この亭主、すごいいいのに。まあ留守中に自分のベッド使われた寝取られ亭主ですから、スポットあてちゃマズいのかもしれないが。

 昨日リンクしたコレ。

小説マディソン郡の橋 から

 ここではマディソン郡の橋にうっとり主婦に警鐘を慣らしまくるかのような加藤諦三氏の著書があげられているのだけれど。ここで紹介される「ロバートも神経症的と。あとがきではフランチェスカも神経症と断じておられます。小説の主人公を病気であると診断しても仕方のないことですが、真剣に論証しておられます。」ということ。これで思い出すのは曾野綾子の「神の汚れた手」。

 この「神の汚れた手」という書籍の概要は以下がわかりやすいんですが。

『神の汚れた手』/ 八方美人な書評ページ

 この小説の主人公である産婦人科医の妻。という存在がありまして。この女性が、亭主の言葉を借りれば「お子さまランチのような恋愛遊戯を繰り返す」。占いで行く方角を決め、そしてそこでなんらかの男性に恋心をすぐに抱く、と。相手にしてみれば都合のいい相手であるわけで、それなりになんらかのコトが起きてしまう、と。

 この産婦人科医は妻に対して、すでにどこかあきらめの境地に至っていて、妹のように思っている。この恋愛遊戯で先方の家庭に妻が乗り込んでしまって困っている、と先方の奥方から連絡があったときに、「他人様の家庭に害を及ぼすことになってしまったから」という理由で「ちょっと休んでおいで」と、保護の感覚で精神科に連れていったりするわけです。

 「マディソン郡の橋」を苦々しく思う男性の層には、ここまでとは言わずとも、こうした要素がある妻をもつ亭主族の存在があるのではないか、などと思うわけです。そして(神経症という判断か…)という意味で、ここで紹介されている加藤諦三氏の書籍にわたしはかなり関心をもっていたりする。だけどそのためには「マディソン郡の橋」も小説で読まなきゃならんのか…と思ったり。自分としてはコレ映画でいいんだけど。

 この「神の汚れた手」の主人公である産婦人科医。この小説の重要な登場人物である、産婦人科医の姉の友達、という人が出てきまして。この二人は常にいろんな話をする。相互に理解しあっていて、そして踏み込まない。ここでこの医師がこの女性を「愛している」という言葉が使えるんではないか、とも思うわけです。この「愛している」というのはラブラブロマンス単純ワードではない。

 「マディソン郡の橋」という映画は、恋愛映画の魅力的シーン炸裂映画ではありますが、わたしにとってはやはり崇高だの孤独だの相互の個性の見出し合いだのってことは、ちょっと首をかしげるとこはあったと思う。そういう意味で相互に「かけがえのない存在」とするにはちょっと時間も対話も少なすぎ、と思わなくもない。4日間という限定期間ですから、肉体関係への展開に猛スピードだよなあと思わなくもない。最初っから「4日間」はわかってるわけだから、見てる方も展開に拍車をかけたくもなる。「マディソン郡の橋」でそこまでお互いを、というのであれば、もっと時間をかけた様々な多種の会話は要るんではないかと思うし、錯覚という恋のパーツは充分作用しまくっているのではないか、とも思う。

 映画としては名シーンの数々に拍手だし、この程度の暴走で肉体関係に突っ走ってもらわなきゃ観客は盛り上がらない。わたし自身もそんな観客です。あい、実に勝手なモンです。けど、ストーリー的にはまあずるいわな、と。その辺はある。相手のカメラマンが根無し草で、なんだかんだその先の人生送りながらわたしを思っていてくれるの、というのは、女性のラブロマンス思想として相手の存在が都合良すぎ。ファンタジー、かな、とも思う。

 で、映画としてはよいのよコレで。だってファンタジーだも〜ん。

 でもラブロマンスとしては、やっぱやっぱや〜っぱ「恋におちて」に軍配だよなあと思うわたしは。双方に家庭、でも双方の家庭ともダメになってしまう。新しいカップルがくっつくためにダメにするんではなく、新しいカップルが恋をしたためにダメになっちゃう。新しいカップルの方もダメになっちゃう。え〜〜〜〜、と思う観客に、再びこの男女が出会うことを予測させるシーンで終わるんだよね、確か。むちゃくちゃ現実を提供しておいて、最後にファンタジーを出してくる。

 おほほ、再見したくなった。TSUTAYA行って借りてこよ。ちなみに「恋におちて」は結婚前、映画館で観ました。夫とデートでした。「マディソン郡の橋」は、夫がまだ寝てる朝、一人で観てました。彼が起きてきたときに、「『マディソン郡の橋』を観てるの」というのが、なんかやたらに恥ずかしかったです。