Hatena::ブログ(Diary)

写真生活

2016-06-28

パリへ。結局カメラは新しいローライとGF670。ただしカラーネガはやめにしてモノクロだけ。

。2段ベッドが並ぶパリ安宿の朝。中国人のイビキで断続的な睡眠になったが体調はいい。今回は長旅になるので、できるだけ支出を抑えていかないと。

エアラインはエールフランス。直行便で一番安かった。9万円。食料も持ってきていて、後の宿泊はフランス人アーティストやオーガナイザーの家に泊めてもらうことになっている。

昨日は宿に荷を降ろしてから近くのビストロで食事。5人で肉、魚、サラダ、トマトスライス、エスカルゴソーセージ盛り合わせ、パスタワインのボトルを一本入れて7000円弱の大満足。

腹ごなしにノートルダムに寄ってお茶をして、地下鉄で帰ろうとした。

電車に乗り込むときに妙に近づいてくる女性がいた。不審に思っていると、自分と僕の間を雑誌を横にして腰から下がが見えない状況にした。

するとズボンのポケットに入れてあったサイフを引っ張られる感触が伝わってきた。。あっと思って手を掴むと女の手は僕の財布を握っていた。

スリだ!

手を掴まれて彼は驚いたように僕を見ている。耳元で大声を出したらサイフを諦めて僕から離れようとした。

周りを見たら仲間と思われる男がいたので、握っていた手を離して更に大声を出して突き飛ばすように女を電車からホームに追いやった。

ドアが閉まると女はこちらに手を挙げ悪い悪いという仕草を見せて男とともに足早に立ち去っていった。

サイフは紐でズボンに結いつけてあって、すれ違いざまに盗むのは無理だったろうが、さすがに驚いた。

日本でも海外でもスリに遭うのはこれが初めて。宿の人がパリではスリに気をつけろと言っていた時は他人事のように聞いていたのだが。幸い被害がなくてよかった。

最初から波乱含みのフランス旅のスタートだ。

2016-06-23

プアハウスでカレー。夏になるとカレーが食べたくなる。

アルルに何を持っていくか。

プリントは送ったからもう大丈夫。写真集は11冊持っていく(prana5 da.gasita3 travetse3)。1冊1キロなので11キロ。

そしてカメラとフィルム。候補は

エイトバイテン(フィルムの大きさがB5版くらいある大型カメラ)
フジGF670にネガカラー(コンパクトに折りたためる中判カメラ)
ローライフレックスにトライX(言わずと知れた2眼レフの女王)
ヴィヴィターにナチュラ1600(ワイドレンズがついたトイカメラ)
デジタルカメラ ソニーα7か シグマdpシリーズ

エイトバイテンはかなりそそられたが写真集があるので無理。ヴィヴィターは壊れていた。いつもはデジタルカメラとフィルムカメラの組み合わせで持っていくのだが、デジタルは充電が意外と面倒。

GF670でネガカラーを使い、現像時にスキャニングすれば600万画素のデータが取れる。なのでデジタルカメラは今回見送り。その場で確認するためにデジタルを使うわけではなく、データになることが大事なので。これでひとつと決まり。

それとローライフレックスは外せない。近頃GF670ばかり使っていたが、ここぞという時はローライとトライXになる。

これで順当かと思えば大きな問題が。ピカピカ完全調整済みローライフレックス2.8Fプラナーを手に入れてしまったのだ。

今まで使ってきたのは12年前に5万円で手に入れたローライフレックス2.8Eクセノタール。大きな故障もなく世界中持って歩いた。これでda.gasitaもpranaも撮ってきた。それこそずっと側にいた「糟糠の妻」ということになる。革ははがれかけて外装はボロボロだがシャッターの調子は悪くない。

そこへ若くてきれいなプラナーが現れたのだ。誰だって揺れるだろう。実績のクセノタールか、若さのプラナーか。プラナーは試し撮りの結果問題はなかった。

現在荷造りしたバックにはプラナーが入っている。でもクセノタールが気になってしょうがない。

デジタルカメラは最新が最良。だからこんな悩みはありえない。フィルムカメラならではの大きな問題だ。

2016-06-21 カップヌードルリッチのフカヒレがおいしいのだが、どこにも売ってい

フランスに無事荷物が到着。写真は無事事務局に届いた。やれやれ。これで一安心。


先週金曜日に「日本カメラ」、月曜日は「写ガール」のコンテストの審査だった。

日本カメラは8年ぶり3度目の年間審査、写ガールは3年ほど続けてやっている。

「日本カメラ」は全て一人で見なくてはならず、編集者もいない小部屋で黙々と1000枚近い写真を見ていく。見るのはいくらでも見るが、その後の講評がまた大変。

8年前の日本カメラの審査で「良い写真とは何か?」と結構深刻に悩んでしまった。これが金賞でこれは銀賞という判断基準がわからなくなったのだ。

なので「写ガール」では話をもらった時に毎回ゲストを呼んでもらうことを編集部にお願いした。前号は飯沢耕太郎さん、今月号は「Blitz」ギャラリーの福川芳郎さんがお相手だった。

毎回自分の選んだものと、ゲストが選んだものを前に「なぜこれを選んだか」を説明しあう。

写真家の大橋愛さんとやった時は お互い10枚づつ選んで見事に1枚もかぶらなかった。そうなると、どれを入賞にするかプレゼンしあうことになる。

毎回暫定的に順位を決めて話をしていくのだが、順位はどんどん変わっていく。たくさん話ができた写真は上位に、良い写真だとは思うがお互い話が弾まない写真は下位になる。

良い写真の定義のひとつとして「論争がおきるもの」と考えている。話す要素が多ければ多いほど面白いということになる。

反対に美しい写真は、美しいことしか話す要素がないので面白さにかけることになる。「美しい写真だよね」と言ったきり次の言葉が出てこないのだ。これではつまらない。

審査を続ける中で美しいということには注意が必要なんだと理解できた。

今回は福川さんが押すポイントが鋭くて、最初は自分は選ばなかった写真がどんどん面白く見えてきた。

福川さんはギャラリストというのは「見立て」をする人だと言っていた。提示があることで写真の見え方は変わる。誰が見立てるかはもちろん重要だ。

審査は「良い写真とはなにか」と考えをアップデートするきっかけになっている。

2016-06-14

袋入りのインスタントラーメンを食べるとなぜか急に眠くなる。

来月アルルで展示する写真をパリに送ったのだが、税関でフランス側のオーガナイザーが受け取れず大騒ぎ。

東京屋久島から国際EMS便で送ったふたつの小包にインボイス(送り状、内容確認書)が添付されてないと受け取り拒否にあっているようだ。

確かにインボイスにサインして一緒に送っているはずなのに、税関では「ついていないから確認取れるまで渡せない」の一点張り。

それについてオーガナイザーと連絡を取り合っているのだが、Skypeでのフランス人の適当な英語と日本人のもっといい加減な英語のやりとりでは、中々要領を得ない。

物を送るだけでこの調子だから、実際に商売をしている人はその何倍も大変なはず。何一つ思い通りには進まないのだから。

今回もセレクト、サイズ、額装で先方のやりたいことと、こちらの譲れないことの擦り合わせが大変で、ようやく送ったと思ったらまたそこで問題が発生して。

出発まで残すところ2週間を切った。昨年の屋久島フォトフェスティバルに続き、ドタバタ必至のアルルになりそうだ。

2016-06-09

アウラ

オリジナルが複数存在することで、米沢フランスで「同じもの」が展示できる面白について前回書いた。

複製可能な写真の場合、よく「アウラ」についての話が出てくる。ちなみに近頃よく言われる「オーラ」とは違う。

オーラは単に「人間の雰囲気」という意味でも使われることが多い。「あの人にはオーラがある」みたいな感じだ。

1930年代、イツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの著作によると、写真と映画による複製芸術以前は、芸術作品の権威はそのオリジナルが存在する時間と空間に結びついた一回性によって支えられていたとある。

アウラとは、オリジナルの作品が持つ「いま」「ここ」を根拠とする唯一性の権威のことだ。オリジナルの一回性に重要さを置くことがアウラ。つまり「複製技術時代の芸術作品」にアウラは存在しないことになる。

面白いのはアウラが存在しないことは悪いことではないということだ。

ベンヤミンは「アウラの凋落」によって引き起こされる作品概念の変化を歓迎し、より多くの人々に鑑賞と表現の機会を与えた映画を始めとする非アウラ的芸術に大衆参加の可能性を見出していたとある。

一点ものの絵画に対してどこか引け目を感じることがあった写真だが、そのアウラの無さこそに複製芸術の未来があると、1930年代にベンヤミンは言及している。

ただここで思うには、印画紙プリントにおける一回性についてだ。モノクロでもカラーでも銀塩印画紙によるプリントは繰り返し性が意外と低いものだ。

ネガがあっても、日を違えてプリントすると同じものにはならない。まして印画紙が変わるとまったく違うものになると言ってもいい。

そこでアナログプリントをするものは、何度やってもほぼ同じものが出せるインクジェットプリントとの違いを売り文句にするところがある。

銀塩プリントは一点物なんですよ、初期物はヴィンテージプリントと言って貴重なんですよ、だから高価なんです、という具合だ。販売されている印画紙のクオリティは年々落ちていく。古いネガと現在の印画紙は相性が悪いということもある。だから古いほうがいいという考え方だ。

面白いのは市場においてはインクジェットプリントにおけるヴィンテージプリントという概念が消えてしまっていることだ。新しい機械でプリントするほうが良いプリントが仕上がるからだ。

複製芸術におけるアウラの喪失が新しい芸術の可能性を生むとされてきたわけだが、印画紙プリントをするということは、そのアウラにすがりついている行為なのかもしれない。