Hatena::ブログ(Diary)

こだまの世界

2018-06-23

[][][] 東京出張、『飢えと豊かさと道徳』など 21:00

少し遅めに起床。昨晩は娘が2階で先に寝たので私は3階で寝ていたが、深夜に起きた娘が泣きながら3階に来て2階で寝るように言うので結局2階で寝ることに。

朝、簡単な食事。着替えたら行かないと。

スーツに着替えて京都駅へ。新幹線。某妻の厚意もあり緑の席。

トリスラム・エンゲルハートが死去とのこと。合掌。

シンガーの翻訳『飢えと豊かさと道徳』が出版されたようだ。昨年3月に修士を終わった学生が、修了前に訳していたので、少し(だいぶ?)遅くなってしまったが、無事に出版されてよかった。小さな本だが、1972年飢餓救済論文が日本語で読めるようになったことはよいことだろう。もう45年以上前の論文になるわけだが(『ドカベン』もこの年から始まったそうだ)。しかし、この論文も世界を変えた論文の一つと言えるだろう。

午前中に東京着。お茶の水へ。お昼過ぎまで某報告。お昼をいただいてから急いで東京駅へ戻る。新幹線。

夕方に帰洛。しばらく丸太町の某マクドナルドで勉強してから娘を学童に迎えに行く。京都は大雨だったようだが、降られずに済んだ。それから帰宅。娘の宿題に付き合う。

夜、インドカレー。『ファインディング・ドリー』を見る。

夜中、散歩がてら娘と買い物へ。娘はキックバイクの練習。そろそろ自転車に乗れるようになるとよいが。

シャワーを浴びたら寝るべし。

2014-09-30

[] 『あなたが救える命』 13:56

本日(6月20日ごろ)出版なので紹介しておきます。

飢餓救済は哲学者のピーター・シンガーが1972年に「飢饉、豊かさ、道徳」という有名な論文を書いて以降、彼が扱ってきた重要なテーマの一つであり、本書の中でシンガー自身が説明しているように、1999年にNew York Timesの日曜版に"The Singer Solution to World Poverty"を書いて大きな反響があったのをきっかけに、一般読者向けにこの本が書かれました。長い間この問題について考えてきただけあって、国際援助に関するさまざまな疑問や批判が検討されており、読みごたえのある内容になっています。国際援助は2000年代以降大きく発展しているにも拘らず、そのことが十分に理解されておらず、また誤解も多い分野なので、「けっ、寄付なんか誰がするかよ」と思っている人もぜひ一読してみることをお勧めします。

なお、本訳書の出版は予定よりだいぶ遅れました。翻訳の話が決まったのは『マンガで学ぶ生命倫理』と同じころ(2011年初頭)だったので、すでに3年以上。言い訳をしても始まりませんが、決して遊んでいたわけではないのです。訳者解説にも少し書きましたが、翻訳を始めてすぐに震災があり、次に出産と子育てが続き、さらには大学の異動もあったので、翻訳は難航しました。子どもの世話をしなければならない休日はまったく使いものにならないため、平日の勤務時間中に、別の大学に勤める妻の石川涼子とGoogleのハングアウトを使って少しずつ進めて行きました。二人の協力関係はだいたい次の動画のようなものでした。

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まあ、とにかく大変でしたが、無事に出版できてよかったです。なお、ハードカバー版とペーパーバック版で若干語句の修正などがあったため、基本的にペーパーバックを底本に使っています。

誤字・脱字については、以下の通りです。ご指摘ありがとうございます。

  • 10ページの9行目 「平気寿命」は「平均寿命」に
  • 213ページの終わりから8行目「推定2億万ドル」は「推定2億ドル」に
  • viiページの13行目 「五歳以下」は「五歳未満」に
  • 12ページの7行目 「何百億ドル」は「何百万ドル」に
  • 12ページの9-10行目 「2000億ドル」は「2000万ドル」に
  • 13ページの終わりから2行目 「31億リットル」は「310億リットル」に
  • 209ページの終わりから8行目 「100億ドル近く」は「100万ドル近く」に
  • 44ページの図1のギリシャの「0.18」は「0.17」に

追記:『あなたが救える命』の正誤表勁草書房がアップしてくれました。現時点(24/Dec/2014)では上記と同一内容です。

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以下、日本で寄付を考えるうえで参考になる本やウェブサイトを挙げておきます。随時更新したいと思います。なお、シンガー全般についてはこちらのページも御参照ください。

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シンガーのTEDトーク。TEDのサイトで見ると日本語字幕も付けられるので、とりあえず見てみるとよい。

シンガーの本から始まったプロジェクトThe Life You Can Save。寄付や、寄付の誓いができる。以下の「3分でわかるThe Life You Can Save」という動画もある。

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シンガーが2005年のタイム誌最も影響力のある100名のうちの一人に選ばれた件はこちら

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貧困の根絶についてのボノのTEDトークもお勧め。

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序やあとがきに出てくる五歳未満児の死亡数の最新情報については、日本ユニセフ協会のサイトを見るか、より詳しくはChild Mortality Estimatesのサイト(英語)を参照。

寄付白書2013

寄付白書2013

本書第3章に出てくる米国Giving USAに対応する寄付白書。寄付の実態を知るのに有用。この寄付白書を発行している日本ファンドレイジング協会のサイト

訳者解説では日本にGiveWell(第6章参照)に対応するものはないと書いたが、この本では寄付先をどうやって決めるかについて解説がある(第8章参照)。

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第4章の公平性の話に関連して、動物における共感と公平性に関するドヴァールのTEDトーク。

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第4章のお金と疎外の話に関連して(本書には引用されていないが)、お金が人の行動や社会に与える影響に関するPaul PiffのTEDトーク。

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第6章に出てくる、the Poverty Action Labを設立し、援助の効果を検証しているエスター・デュフロのTEDトーク。

第7章に出てくるミレニアムヴィレッジ(ミレニアムプロミス)のウェブサイト。日本ではミレニアムプロミスジャパンというNPO団体がある。

第9章に出てくるミレニアム開発目標についてはUNDPのサイトが参考になる。2015年の年末が期限。

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ジョージ・ハリソンが企画したコンサートフォーバングラデシュ40周年記念のフィルムクリップ。シンガーが1972年に「飢饉、富裕、道徳」を書いた時代の雰囲気が少し見て取れる。

cloverclover 2014/07/23 23:02 出産、子育てとお仕事を両立させて、その中でご夫婦で翻訳というのは、本当に大変だっただろうと思います。私は研究者の卵ですが、近々結婚予定でして、家庭と研究の両立に不安を感じているところだったこともあり、何だか励まされました。これからも、頑張ってくださいね。^ ^

satoshi_kodamasatoshi_kodama 2014/07/24 21:53 ありがとうございます。結婚すると色々大変だと思いますが力をなんとか合わせて乗り切ってください。

2012-11-05

[] 『功利と直観』三刷 14:05

読者のみなさん(と、ちくま書店)のおかげさまで、重版になりました。以下、三刷における修正を記します。(二刷での修正はここです。)

  • 33頁。バトラーの引用の年の修正。(Butler 1736: 351)を(Butler 1726: 351)に。
  • 65頁。6行目と8行目の(Schneewind 1977:)をそれぞれ(ibid.:)に。ibid.はイタ。66頁3行目を参照。
  • 70頁。3行目の「功利主義原理」を「功利原理」に変更。
  • 70頁。12行目の「こうしたサンクション論を背景にして、」を削除。そこで段落を変え、「その一方で、オースティンは、常に全体の…」という風に続ける。ここは話がうまくつながっていないので。(指摘してくれた安藤馨氏に感謝)
  • 77頁。7行目の「大変だったものと思われる」の「もの」を削除。
  • 108頁。14行目の「直観主義」を「直観主義者」に。
  • 118頁。1行目の「副学長」(Vice-Chancellor)を「学長」に。(指摘してくれた立花幸司氏に感謝)
  • 138頁。4行目の「義務を功利主義は説明できないという批判に応答できると主張した」を、「義務を功利主義でも説明できると主張した」に変更。表現がわかりにくかったので。
  • 142頁。7行目のスマートの生没年を「一九二〇〜」から「一九二〇〜二〇一二」に。合掌。
  • 258頁。注9の最後Thomas 1985をWilliam 1985に。(指摘してくれた岡本慎平氏に感謝)
  • 後ろの引用文献の11頁。井上茂(1972)を井上茂(1962)とし、文末を「97-147頁、1972年」とする。

他にも修正案をいただいたかもしれませんが、直っていないところなどあれば再度ご連絡いただけると助かります。

功利と直観―英米倫理思想史入門

功利と直観―英米倫理思想史入門

2007-11-05

[] ひたすら勉強 12:43

う〜。間に合わない。本日は自宅で研究中。

James L. Bernat

Brodyの論文を読んだあと、Bernatの反論を読む。以下はBernatからの抜書き。

Most scholars have accepted the desirability of analyzing the concept of death by first agreeing on its definition, then formulating a general, measurable criterion to show that the definition has been fulfilled by being both necessary and sufficient for death, and finally developing a series of medical tests to prove that the criterion of death has been satisfied. (83)

死の定義、基準、検査方法を区別しろという話。この区別の導入は、Bernatらの1981年の論文が有名だが、1972年のCapron, Kassらの論文(A statutory definition of the standards of determining human death: An appraisal and a proposal. Univ Pen Law Rev 1972;121:87-118)に由来するそうだ。*1

[D]eath is fundamentally a biological concept, so that all and only living organisms can die. Death has important social, psychological, religious, cultural, anthropological, and spiritual dimensions, but it is ultimately a biological event concluding the life of every organism. (83)

Death is a biological concept, and only biological organisms can die. Personhood is a psychosocial and spiritual concept, and personhood cannot die except in a metaphorical sense. When we say that a person died, we are referring to the organism that was the person. (89)

Bernatは死を生物学的なものとするので、脳の統合機能を強調している。PVSで人格が失われるのは、生物としての死ではないので、明確に区別しろと述べている。しかし、人格が心理社会的で霊的な概念だというのはちょっとわからんな。何か変わった理解の仕方をしているのかも。

死はプロセスかイベントかという論争は、1971年のMorisonとKassの議論が有名。Morison RS. Death: Process or event? Science 1971;173:694-98; Kass LR. Death as an event: A commentary on Robert Morison. Science 1971;173:698-702.*2 Bernatは社会的にも医学的にも死を一時点で決める必要があり、全脳死でOKだと言っている(84)。

1981年のBernatの論文では、脳死になると神経内分泌機能もなくなると主張していたが、どうもそうではないことがわかった。そこで、現在はこの機能は定義的に「重要ではないnot critical」な機能とすることで、全脳死基準を維持しようとする。

I concede that this example shows that not all functions of the organism as a whole must be lost in brain death...

Death should be defined as the permanent cessation of the critical functions of the organism as a whole... Criticality refers to the extent to which a given function of the organism as a whole is necessary for the continued health and life of the organism. (86)

あってもなくてもそれほど影響がない機能であれば、無視してもよいということのようだ。さらに、ADH(antidiuretic hormone)が分泌されているかどうかは臨床的にはわからず、ラボでテストしないといけないので、それも無視してよい理由のひとつとされる。

I have refined this criterion of death ["the permanent cessation of all functions of the whole brain"] to become "the permanent cessation of the clinical functions of the entire brain." ...

My term clinical functions refers to what the President's commision called "systemic, integrated functioning." My term clinical functions includes physical signs of brain functions that are detectable on ordinary bedside neurological examination but excludes the meaningless cellular activities of isolated nests of surviving neurons, as well as those brain activities that cannot be measured at the bedside... (87)

I believe that ADH secretion should not be classified as a clinical function because its presence or absence is not assessed or detected on a usual clinical examination and requires a laboratory test for diagnosis. (88)

脳波形で少し動きが見られたりするだけでは、機能が残存しているとは言えない。また、ADH分泌機能は、ラボでないと確認できないので、定義上、臨床的機能から外れるとされる。前者はともかく、後者はad hocだよなあ。臨床的検査かラボでの検査かというのは道徳的に重要な違いとは思われない。仮にADH分泌の有無がベッドサイドで簡単に調べられるようになったらどう言うのだろう。単にラボでの検査はカウントしないというのでは、死亡を判断する医師の特権を擁護しているだけだと批判されそうだ。

Chris Pallis

次はPallisのユーモアのある論文を読む。やはりBrodyの批判に対する反論。Brodyが、脳幹死は(まもなく心停止が訪れるだろうという)予後の診断であるというのに反対して、それは誤解であり、脳幹死は人の死であると主張している。

[I]n my opinion, the brainstem dead were dead (because irreversibly unconscious and irreversibly apneic) irrespective of their cardiac prognosis... I suggested in 1983 that death occurred when a pathological event (whether cardiologic or primarily intracranial) produced both irreversible loss of the capacity for consciousness and irreversible loss of the capacity to breathe and that this should be consedered a valid definiton of death. (95, 96)

しかし、脳幹死だけでは意識の存在はわからないと思うのだが、脳幹死が起こっていれば確実に大脳死も起きているということか。素人向けにもう少し説明してほしいところ。

Brody 1993の提案は、Alistair Browneという英国の哲学者が1983年に行っているそうだ。そのときのPallisの批判は、死の定義を作らずに、いつ臓器移植してよいか、いつ治療中止してよいか等のルールを作ると、恣意的になり、維持が困難だというもの。(Browne A. Whole-brain death reconsidered. J Med Ethics 1983;9:28-31)

[] ひたすら勉強 23:55

Alexander Capron

次はカプロン。生命倫理学にはアーサー・カプラン(Caplan)とアレクサンダー・カプロン(Capron)がいるので、注意が必要。カプロンは法学者でそのせいか文章がわかりにくい。米国の脳死関連法の歴史について書いており、勉強になる。

UDDAは「(1)心肺機能の不可逆的停止あるいは(2)脳幹を含む脳全体の全機能の不可逆的停止になった人は死んだものとする」という二通りの死の判定法があるが、両者の関係は法の文言のなかには述べられていない(117-8)。どういう歴史的経緯があるのか(120)。

1950年代の蘇生術の進歩、そして1960年代の心臓移植によって、立法が必要になってきた。1968年のUAGAは死の定義をしておらず、判例法では「すべての生命機能の不可逆的喪失」(irreversible loss of all vital functions)を死と定義していたので、心肺機能を人工的に維持できる時代においては、この定義では医師が臓器移植をすると殺人の可能性があり、困ったことになった。(121)

ハーバード脳死基準を作ったビーチャーは立法は必要ないと考えていたが、実務的にはそういうわけに行かなかった。四つの選択肢がありえた。(1)判例法のまま、「すべての生命機能の不可逆的喪失」とする。しかし、その場合は心臓死の患者からの移植しかできない。(2)判例法を維持するが、臓器移植のときだけ例外的に扱う。(3)脳死基準だけにする。(4)脳死基準を既存の基準に追加する。1970年のカンサス州法は(4)。ただし、既存の基準との関係が明確でなかった点が批判された。その後4州が同様の立法を行い、現在はヴァージニア州のみが維持。1978年のUniform Brain Death ActとAmerican Bar Association model 1975 Actは(3)の路線。脳死判定をしない場合にどうするのかが問題になった。計7州が採用したが、現在はイリノイ州のみ。1972年のカプロン=カス・モデル法は、カンサス州法で問題になった脳死基準と心肺基準の関係の説明を加えたもの(「通常は心肺停止、人工呼吸器をつけている場合は脳死で判断」)で、1981年のUDDA前は広く採用された。(122-123)

上記の(2)は現在の日本の状況と似ているので、原文を引いておく。

Second, the common-law rule could be maintained but simply disregarded by physicians when determining death in potential organ donors. Although feaasible..., this alternative would lead to treating patients in identical states differently, based on whether they were potential organ donors; the only way to have a relative disconnected from life support might be to agree to him or her being an organ donor. It would also give the medical profession -- and, indeed, individual physicians -- the authority to frame the standards on which the basic civil status of people would be determined, either as living persons with many rights or as dead bodies with only the right to be handled respectfully and buried. (122)

UDDAが二つの基準を採用したのは、二つの「死の定義」があるわけではなく、二つの「死の判定方法」があると考えたため。


Irreversible cessation of either circulatory/respiratory functions or all brain functions provide such means, and the description of the two means does not suggest that either the old or the new "vital signs" are themselves death; they are merely the means by which a skilled practitioner, using the standards of medical practice, can ascertain that death has occurred. (124)

[T]here is one phenomenon that can be viewed through two windows, and the requirement of irreversibility ensures that what is seen through both is the same or virtually the same thing. (133)

二つ目の説明はうまいこと言ってるな。

脳死でも心臓や他の臓器が「生きている」のはなぜかについて。タルムードの評釈では、脳死は`physiological decapitation'と述べられているそうだ(これはPallisも94頁で述べていた)。「生理学的な切頭」だ。

In actual decapitation, the head plainly ceases functioning as part of an integrated organism; by analogy, the loss of brain functions not only deprives the patient of consciousness but also of the brain's central place in the nervous integration of bodily functions. At the moment of decapitation, other organs (including the heart) remain capable of functioning. In the case of actual decapitation, they could conceivably be used immediately in transplantation. In medical practice, however, physiological decapitation is less obvious and hence, to be established, requires careful measurement over a period of time. (125)

1980年に議論が始まって、1981年にUDDAができた。上記のいろいろな法を参考にした。生きている人の治療中止については関与せず。コンテキストによって死の定義は変わりうると主張する研究者もいたが、社会的にはそれでは困るので、一つの定義にこだわった。臨床的な判断基準は法には書かず、他のワーキンググループを作って任せた、などなど。(127-129)

UDDAは死の定義について世界的なコンセンサスをつくり出した(ん、本当に定義してるのかな)。臨床的な判断における問題(ホルモン、脳波、脊髄反射等)は、基本的には臨床の基準を変更すれば済むため、この法律で問題ないと考えられる(129-131)。ADH分泌機能などは、重要な統合機能とは考えていないようだ。ここは少し検討する必要あり。

最後に、Non-Heart-Beating Cadaverの問題が検討されている。NHBCは心肺機能の不可逆的停止ではなく、「蘇生できるけど、本人が希望したから蘇生しない」だけなので、UDDAの精神に反する、と批判されている(132-133)。

*1:Capronらのはconcepts, standards, criteria, tests and proceduresの四レベルだそうだ(118)。さらにわかりにくいな。

*2:この議論はイベントであると主張したKassが勝ったことになっているようだ。Veatchの150頁の記述を参照。