軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

敵討ちを復活すべし!

コメント欄でも良い意見が交換されている(少し長いコメントもあるが…)し、色々情報もあるのだが、しかし今日は軍事問題とは無関係だが、どうしても書いておきたい事がある。
平成11年4月14日、山口県光市の会社員、本村洋さん宅に侵入した、当時少年であった犯人は、妻(当時23歳)の首を絞めて殺害して乱暴、泣きやまなかった赤ちゃんを床に叩きつけた上で絞殺し、2人の遺体を押入れに隠し、財布を盗んで逃走した。
この悪魔のような犯人の所業は、少年であるというだけで、法の元に「庇護」され、悲惨な「被害者」となった、夫の洋さんに対する国の配慮は、信じられないほど冷たかった。
それが今回、この憎むべき犯人の最高裁での上告審弁論が、犯人の弁護人である安田好弘(第2東京弁護士会所属)と足立修一(広島弁護士会所属)弁護士が、彼らが勝手に開く模擬裁判のほうを優先して、本番である最高裁の裁判を欠席したため、弁論が開かれなかったという。
弁護人達は、この5月に担当裁判官が定年を迎えるので、裁判を引き伸ばそうという戦術だというから、彼らの“戦術”は、無責任などという通り一遍の批判を通り越して、裁判制度そのものを軽視し、法を悪用する卑劣な行為であり、彼ら“悪徳”弁護人達こそ正義の元に裁かれなければならないと思う。少なくとも弁護士資格を剥奪すべきである。
このような世間を馬鹿にした、法の間隙を悪用する「行為」が弁護士に許されるのであれば、いっそのこと裁判制度なんぞ辞めにして、昔どおりの「復讐制度」を復活すべきだと思う。
最愛の妻子を殺された被害者である夫の本村洋さんは、司法記者クラブで記者会見して「最高裁の弁論を欠席した安田好弘弁護士らに対して怒りをぶちまけた」そうだが、こうなれば、殺人鬼である犯人と弁護士たちに自らの手で“復讐”してやりたいことだろう。
確か、彼はこの事件直後、「自分が自らの手で犯人を捕らえて殺してやりたい」という意味の発言をしたと記憶する。私は当時彼の気持ちに全く同感であった。それが「男」というものである.「もしも私が彼の立場だったら、必ず復讐する。犯人が捕まっても、死刑にならずに刑務所入りしたら、私も犯罪を起こして彼の隣に収監してもらい、隙を見て必ず彼をしとめて見せる」と家族に語ったのだが、「親父は過激だ」とか何とか言われたものの、ご主人の気持ちは痛いほど良く分かる、というのが家族の一致した意見であった。
 今回、法の正義を実現するはずの弁護士たちが、平然と悪に加担している事を痛切に思い知らされた。報道によるとこの弁護士達はオウム真理教の麻原の弁護士達であるという。
どうりで・・・と思ったが、それにしてもこの国の裁判制度は極めて異常である。こんなことで「法の正義」が保たれているのであろうか?
森鴎外は、「護持院が原の敵討ち」という有名な敵討ち小説を書いている。社会の文明が発達し、敵討ちという「時代遅れ?」の個人的な法の執行は消えて、代わりに国という共同体がそれを代行することになった。しかし国という責任が拡散した組織体は本当に「被害者の気持ち」になって、法を執行してきたといえるだろうか?
被害者が「冷たくあしらわれ」、加害者が有利に「国の恩恵」を受けているのではないか?このような非常識な事が、法の最高権威である最高裁の法廷で出現する事が許されていいはずがない。
私は、本村氏の立場を十分理解する。そして彼の立場に立った(つまり正義の)判決が下される事を期待している。最高裁は、彼の「無念」を彼に代わって執行する責任がある。そうでなければ「敵討ち」の代行にはなりえない。この事件が自分の身に降りかかった災難だったとしたら、裁判官の判断にはどのような影響があるだろうか?被害者の親身になるということはその事である.自分が当事者であったらどう判断するか!
六法全書」の解釈もいいが、被害者の気持ちに立って裁判して欲しい。もしもこれからも、こんなでたらめな弁護人の行動を許し、これまで同様、いい加減な裁判をしたならば、その時は声無き声が、本村氏と共に一斉に吹き出すであろうと予感する。そうなれば、文明国の象徴?であるわが国の裁判制度は根本から覆され、敵討ちの世界が復活するだろう。法曹界の「猛省」を強く促したい。