軍事評論家=佐藤守のブログ日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

■軍事を語らずして、日本を語るなかれ!!■

2007-03-12 質問にお答えして

質問にお答えして

 基本的に匿名である「個人宛の返事」はしないことにしているのだが、昨日のNASAR氏の質問は、本質を突いているので概略お答えしておきたい。

 まず1の「航空自衛隊は公式見解を示したのか」についてだが、広報室長として、如何に全国紙などやTVなどに解説しても、まったく無視された。これは内部部局広報課も陸自広報室も同様であった。あまりの無責任報道(特に週刊誌)に皆が“怒り狂っていた”のが実態だったのだが、誰も「猫の首に鈴をつける者」は居なかった。私も航空自衛隊関連の誤報に関して各誌に訂正を要求していたのだが、全く無視されていた。そこへたまたま「月曜評論」から取材要求があったので事情を説明したところ、前記「特集」を組んで意見を掲載してくれたのである。

 そこで月曜評論に反論を掲載することを上司に届け出て、一晩で20枚書き上げたのだが、時間的余裕がなかったので内容報告はゲラ、及び発行後になった。しかし、時の空幕長は全文に目を通し、「○!」と承認してくれた上、「欲をいえば、照明弾の効力などについて、もっと具体的に書けば『はなまる!』だった。そうすれば評論家も納得しただろうが、紙面上まあ仕方ない。次からはそうするように」といわれた。

 私の官姓名入りで書いたものだから、当然航空自衛隊の「見解」に近い筈だが、正式に各セクション、各課、各部などの会議を経ていないためか、公式見解ではなく「佐藤個人の意見」だとされた。この経緯は国会議事録の元信委員に対する、宍倉官房長の答弁で明白である。

 したがって、国会で“公式”には「佐藤の個人的見解」とされたあの文章だけが、当時の「見解」となった。

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 2の「雫石事件」に関しては、まさにご指摘のとおりである。当時私は浜松基地の第1飛行隊で、隈1尉と同様、F−86Fの操縦教官をしていた。浜松での教育が空域狭隘なためオーバーフローするので、松島基地に「派遣隊」を新設して教育を開始した直後であった。教官の隈一尉は高校の同級生(昨年夏、癌で長期療養後亡くなった)、訓練生のI候補生は、単独飛行までを浜松で終了して、松島に移動させた教え子であった。

 ご存じない方のために、この事故の概要を書いておこう。

「昭和46年7月30日午後2時2分過ぎ、岩手県雫石町付近上空において、第1航空団松島派遣隊所属のF-86F・2機(教官隈一尉・学生I候補生)は、フルード・フォアという編隊飛行訓練中、ジェット・ルートJ11Lの西側を南下してきた全日空ボーイング727型機が、I候補生機に接触(実際は追突)し、全日空機は左水平尾翼を折損、墜落して162名の乗員乗客全員が死亡、F−86Fは右主翼を根元から切断され背面スピンに入ったが、I候補生は自力で脱出して奇跡的に助かった。両パイロットは翌日逮捕され、業務上過失致死、航空法違反の罪で起訴され、昭和50年3月11日に、第1審で教官は禁固4年、I候補生は2年8月の実刑判決が言い渡された。その後の控訴審では教官は控訴棄却されたが、I候補生は「無罪」となった。上告審は昭和58年9月22日に、1,2審判決を破棄して、異例なことに最高裁自らが「自判」し、教官に対して禁固3年執行猶予3年の刑を言い渡した」ものである。

 判決文を精読すると、裁判官に専門知識がないからか極めて不自然な点が散見される。たとえば相手方のB−727の機長の行動については殆ど無視されていることや、「管制承認されたジェット・ルートに沿って巡航していた民間航空の定期便」という表現があるが、実は管制は「J11L」の飛行は承認していたが、それを大きく逸脱して、航空自衛隊がその日に設定した臨時訓練空域(当時の航空法ではなんら違法ではない)内に侵入したことが無視されている。つまり、千歳出発が大幅に遅れたB-727は、遅れた時間を取り戻すためにJー11Lの経路である、函館〜松島〜大子のルート上の松島NDBを無視して、直接、函館〜大子への直行経路を取っていたことが明白だったからである。しかし、裁判では、B−727は、むしろ経路の東側を飛行していて、訓練空域内には入っていない、と強調されてきた。それを証明できるのは、当時運用を開始したばかりのBADGEシステムの記録だったが、B−727は前半の経路は明らかに侵入経路をとっていたことを示していたが、残念なことに衝突地点直前に中断してしまったため記録がない。しかし、パイロットの常識から見れば、その後東側へ急旋回してルートに戻ることは考えにくいから、そのまま飛行したと仮定すると、間違いなく衝突地点に重なるのである。しかし、その証明が出来ないまま刑事裁判は終了し、以後、民事裁判で継続されることになった。そして奇しくも、最高裁が「自判」する直前の民事法廷に、乗客の一人が衝突まで撮影していた8ミリフィルムが全日空側から証拠として裁判所に提出された。全日空側は、その8ミリフィルムの記録から分析して、飛行経路は訓練空域の反対側の、むしろJ−11Lの東側(太平洋側に逸脱)であることが証明されるとし、訓練空域侵入はあり得ないと主張した。しかし、その証拠フィルムを分析した防衛庁側は重大な問題を発見した。撮影されていた「田沢湖」の形態から、三角法で分析したところ、B−727の航跡は明らかに訓練空域内に侵入していることが証明されたからである。そこで全日空側の解析法を検討したところ、地理測量会社の単純ミスで、東西逆、つまり、J−11Lの東側ではなく、西側に大きく侵入していたことが証明されたのである。これで防衛庁側は決定的に有利になり、刑事事件のほうも、この新証拠を元に再審理するよう求めて動き出したとたん、最高裁が「自判」したのであり、民事においても、驚いたことに、8ミリフィルムを証拠として提出した側が、上空から撮影した場合、8ミリカメラの特性上、誤差が大きいので証拠にふさわしくないとして「取り下げ」を申請したのである。その一連の経緯を書いたのが、昭和60年2月18日(月)の朝日新聞「深層真相」欄(写真)で、この記事を読めば、防衛庁側が正しいと誰でも認めるであろう。その直後に発生したのが、隈一尉激励会に仲間がT−33で駆けつけた、とされる「公私混同事件」であった。

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 長くなるのでこの辺で一応締めくくるが、この「公私混同事件」も、実は航空会社と昵懇なA社の工作に見事にはめられたもので、よく言えば仲間意識と団結力が強い武力集団の、悪く言えば「世間知らずでお人よしな集団」の“弱点”を突かれた事件であった。

 NASAR氏が指摘したように、事件発生直後、まだ真相の「し」の字も不明な時点から、航空自衛隊機が“体当たりした”などというキャンペーン報道に惑わされ、時の防衛庁長官が謝罪して辞任し、その上、遺体収容所まで出向いて同行した航空幕僚長など空自高官とともに「土下座」してともに辞任したため、これで「被害者」と「加害者」の立場が決定してしまった。

 時の若狭全日空社長は検査入院中だったそうだが、患者衣姿のままひげ面で急遽記者会見し「断腸の思いだ」と発言、社内幹部には「うちが被害者だということを忘れるな!」と指示したという。

 私は後でこのことを知って、制服は着ていないが彼の方が「戦時指揮官に向いているのではないか?」と妙に感心したことを覚えている。

 時の幕僚長は就任わずか3ヶ月?だったと記憶する。旧軍出身の極めて温厚優秀まじめな人格者であったというが、戦というものは「人格者が勝つ」わけではない。北朝鮮、イラン、イラク、その他の国々の指導者に人格的要素を感じないが、あれで結構国益を護持しているではないか!

 勿論、人格者か否か、という「人間的価値判断」をいっているのではなく、NASAR氏がいうように真相も解明されていない時点で、軽々に「謝れば済むだろう」などと希望的観測で行動して、組織(国家)を重大な危機に追い込むのはいかがなものか、と言いたいのである。この事件の場合は決然としてことの真相解明に立ち向かう、のが高官の役目ではなかったか?

 いわゆる「従軍慰安婦」問題で、これと同様な行動を取った河野官房長官などはこの類の“指導者”に過ぎないのだと思う。

「努力をしてこなかった自衛隊にも原因がある。謙虚に反省せよ」という叱責は的を得ているだけに、今でも悔しい思いを禁じえない。当時の私は「一尉」に過ぎなかった。後輩達の努力に期待しつつ、OBとなった今、可能な範囲で制約が多い彼らを掩護したいと思う所以である。



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