軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

純粋さは宝、しかし・・・

 昨日は昔務めた航空安全管理隊の創設25周年記念夕食会に出席した。航空医学や航空工学、法律などの講師を勤められた先生方が、お元気なので非常に嬉しかったが、現役諸君の顔は“純粋”そのもので、飛行隊長時代にファントム戦闘機で私の後席を務めた当時3尉の若者が、“そのまんま”2佐に成長していたのには感動した。顔は人格を表すそうだが、国会で使途不明金問題で窮地に立っている大臣の顔とは比較にならないほど“綺麗”である。しかし、それは個人にとっては『宝物』だが、組織にとっては、使命を達するためには多少「人相」が悪くてもかまわないのではなかろうか?と思う。特に上級幹部はしたたかでなくては組織は守れまい…。

 さて、このところ、私のブログの真剣なコメントには考えさせられた。コメンテーターが疑問に思う点は、雫石事件当時の政界を想起してみればある程度氷解することである。事故当時の首相は佐藤栄作氏であった。
 昭和46年7月5日、第3次佐藤改造内閣が発足し、外相に福田赳夫氏、通産相田中角栄氏が就任、ポスト佐藤の跡目争いは「角福戦争」と呼ばれていたが、その月の30日に事故は発生したのであった。事故発生直後に防衛庁長官が辞任、航空管制と民航機を管轄する運輸大臣の去就も問題視され始めたが、改造内閣発足直後に、さらに二人の大臣が辞職するようなことがあれば、佐藤内閣は持たない。総辞職も視野に入る。政界混乱は必至である。そうなれば、若い田中氏よりもベテランの福田氏が当然首班に近づく。これは何としてでも防がねばならない、と田中氏が考えてもおかしくはなかったであろう。そこで、防衛庁自衛隊だけの不始末にすれば、運輸大臣の首は繋がり、佐藤内閣は存続出来る。そこで田中氏が「色々」と各方面に指示した事は想像に難くない。
 そして翌昭和47年6月11日に、田中氏は「日本列島改造論」を発表し、マスコミがこぞってこれを報じベストセラーとなり、一大土地ブームが起きる。
 6月17日、佐藤首相は引退を表明、田中、福田、大平、三木氏が出馬を表明し、「三角大福」戦争が発生する。そしてこの戦(実力戦か実弾戦か?)に勝った田中氏が7月7日に内閣を成立させる。雫石事件からほぼ一年後のことであった。 そして田中氏は日中共同声明に調印し台湾を切り捨てて、大陸と国交を樹立した。高度経済成長路線にひびが入り、昭和49年11月26日に田中首相は辞意を表明するが、昭和51年2月4日に「ロッキード事件」が問題化し、6月22日には丸紅前専務と全日空専務が逮捕、7月27日に田中元首相は逮捕され、昭和58年1月26日にロッキード丸紅ルートで田中前首相に懲役5年の求刑が出て、10月12日に懲役4年・追徴金5億円の実刑判決が下る。
 この間、エアバス導入をめぐる全日空ルートで、若狭社長も逮捕されるのは周知のとおりである。つまり、勘ぐれば、雫石事件の背後には、このような政界のスキャンダルが進行していたのであり、それを隠蔽するために航空自衛隊が利用されたという説もあながち根拠がないわけではなかろう。
 勿論、そのためには一部マスコミは総力を挙げて防衛庁自衛隊のスキャンダル探しに熱中した。この組織だけは、彼らにとってはいくら叩いても“絶対に反論しない”叩き得の組織だったからである。しかし、“無知な”私が前代未聞の「反論」をして事実を知った国民が自衛隊に賛同した。これに危機感を持ったもの達が居たとしてもおかしくはない。
 事実、“広報室事件”の際、T記者は私に「あんたはファントムのひよこパイロットで、何も分かっていない。『おれは敵ではない、リーダーである私を撃つな!』といくらいっても分からないで『私を狙う』。違うといっても全然分かっていない。マスコミの世界に何も知らないパイロットがアンナ文章(反論文)を出すと怪我するから止めろと注意しているのに全然気付かない」と“忠告”してくれたのであったが、今考えると「雫石事件」に触れるとやけどをするから、触れてはならない、という助言だったのであろう。それほどこの事件の裏は複雑怪奇であったが、あれから既に35年、事故の真実を語る『追突』という書籍や、事故の裏を調べた報道がかなり出てきている。しかし、純粋な自衛官達には、このようなどろどろした世界の話はなじみにくいのかもしれない。
 顔は穢れて欲しくないが、真実追求心だけは失ってもらいたくないものである。