軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

「俺は、君のためにこそ死にに行く」を見て

 
 石原東京都知事が製作に携わった映画「俺は、君のためにこそ死にに行く」を見た。平日とあってご老人夫婦などが約30人という閑散とした情況だったが、今まで日本で製作された中ではなかなか見られない“率直な”映画だった。それはごく自然に「靖国で会おう」と言って散っていった青年達の感情が表現されていたからであろう。
 当時の国民感情の一部も“率直に”表現されていて好感が持てたが、主人公たる「鳥浜とめ」さんの人物描写には少々違和感を持った。私はとめさんには直接お会いしたことはないが、聞き知っている限りでは、もっと「おおらか」で「正直」で、包容力があった方のように思っていたから、岸恵子という世界的大女優の起用は、その点で私にとっては馴染み難かった。私には、フランスの大女優的印象が強い彼女には、薩摩オゴジョを演じるのは無理だったのではなかろうか?と勝手に想像した。(「知覧特攻基地」知覧高女なでしこ会編:話力研究所刊などを読んだ限りの話だが・・・)
 それはともかく、隼戦闘機を精密に復元したり、実写シーンをうまく挿入したり、戦闘シーンのデジタル画像処理の見事さにはうなるだけであった。中でも蛍が帰ってくるシーンと、戦後、桜並木の中での戦友たちの回想シーンは、現役時代の飛行隊の雰囲気を思い出してつい胸が熱くなったが、全体的に演技が「お芝居がかっている」のはやはり日本独特の風土?からくるのだろうか?。その上、どの日本映画でも「憲兵」は憎憎しげに描かれていて、憲兵出身者は気の毒である。特に特攻隊“生みの親”として描かれている大西瀧治郎海軍中将は、歌舞伎役者のような演技でいただけなかった。演技だけではなく、この種映画全体に、特攻作戦自体についての考察が不足しているように私は思っている。なぜ日本軍パイロットの技量が、米軍に劣っていたのか?についての考察である。
 開戦時にあれほど優秀で、米軍を驚嘆させたわが軍パイロットの技量が、例えば海軍においては、ミッドウェー海戦の敗北で一挙に優秀なパイロットを失ったとはいえ、それにしてもあまりにひどすぎるではないか。
 私はこれについて調べたことがあるが、その結果は「パイロット養成計画の不備」の一語に尽きる。その原因には、日米が戦うという気がまったくなかったからでもあるが、少なくとも日米開戦が不可避になったと考えられた昭和16年初頭には、その造成計画を立案しておくべきではなかったか?それがなかったのは、当時の陸海軍首脳の頭の中に「航空戦力の特質」についての知識と考察がなかったからだと言える。
 私は以前、「国家予算も、予想外の支那事変の出費がかさんで逼迫しており、太平洋全域での作戦遂行は事実上不可能な状態にあった。もしも、我が国が仮に米国との『覇権争奪戦』を考えていたとすれば、如何に緒戦の大勝利が予想外であったからとはいえ、資源を運搬する船舶の増産、獲得した資源を外地で生産する施設整備などの綿密な計画を立てて、即時実行していなければ無策のそしりは免れまい。それよりも何よりも、米本土に上陸してワシントンを攻略する計画がなければおかしい」と講演したことがあるが、このことは当時の各界首脳の間には「本格的な対米戦争などは全く考慮されていなかった証拠」であり、せいぜい「対米英貿易の悪化」程度の認識しかなかった証拠である。
 昭和17年8月に、交換船で帰国したワシントン大使館付き武官補佐官であった寺井海軍少佐は、帰国後海軍省で操縦者養成計画の立案を命ぜられるが、そこで彼は今までの養成計画の大変な欠陥に気がつく。
「1940年米国は航空機月産5万機〜7万機、すぐに12・5万機生産計画を実行に移した。操縦者養成は全国の大学に予備士官訓練団を設置し、陸軍のごときは採用した搭乗員予定者を民間の飛行学校に委託してその増勢に狂奔していた。それに比べて日本海軍は、特に尉官クラス(中・小隊長級)が部隊編成に必要な30%程度でしかなかった。海軍航空の主力操縦者は、予科練下士官兵で支えられていたが、士官となる予備学生は年間5〜60名しか養成していなかった。それを一気に3000名に増加することにしたのだが、省内からの抵抗で約一年実施が遅れ、昭和18年度から漸く認可される有様だった」と述懐している。その結果、海軍予備学生13、14期生が増員されたのだが、飛行訓練はそれまでの約2年から約1年に短縮され、彼らは昭和19年に卒業して苛烈な戦場に送られた。やっと離着陸できる程度のパイロットでは、十分な実戦体験を積んだ米パイロットに太刀打ちできる筈がない。その実情を誰よりも熟知した大西中将は、祖国の危機存亡に臨んで血気にはやる若き青年達に「名誉ある死に場所」を与えるほかに指揮官として施すべき術がなかったのである。
 陸軍もほぼ同様の状況であり、昭和18年9月に大学在学、または卒業の2500名の学徒が特操一期生として各地の陸軍飛行学校に入隊し、昭和19年以降の苛烈な戦場で散華していったのである。
 現在の航空自衛隊パイロット養成も、一人前になるまでには、少なくとも2年以上かかる。1年といえば、漸く芦屋でのT−4ジェット初級課程を出たぐらいに過ぎない。その実情を良くわきまえた者でなければ、大西中将の心中を推し量ることは出来まい。「特攻隊の生みの親」大西中将自身も、国家の無策の犠牲者であった、と考えるのは考えすぎであろうか?
 8月15日早朝、大西中将は責任を取って自決した。残った青年達に日本再建を願う遺書と、子供さんがいなかった淑恵夫人に対する愛情こもった遺書を読めば、彼の人柄が理解できよう。


 戦後教育を受けた私には、彼らの真情を理解することは勿論難しいが、少なくとも、彼らと同様の訓練に明け暮れて、海上自衛隊護衛艦めがけて突撃するとき、一瞬ではあったが特攻隊員の最後の瞬間の「視界」を体験したし、現役時代は、開聞岳を眼下に沖縄へ向かった彼らの心の一端をいつも思い返しながら、沖縄へ向かったものである。

 映画の最後のシーンを見ながら、私も彼らの死を無駄にしてはならないと痛感した次第。