軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

祈りの日

 毎年4月10日は、現役時代に唯一部下を失った日であり、私にとって忘れられない『祈りの日』である。
 古い資料を整理していたら、昭和63年5月15日付の「本誌創刊15周年記念懸賞作文」の入選作が発表された『防衛ホーム』が出てきて、そこに『今時の若い者などと申す間敷候』と題した私の作品が掲載されていた。私が幹部学校戦略教官時代(1佐・48歳)の時の作である。少し長くなるが殉職した田崎君を思い出しつつ掲載しておく。

【昭和62年4月10日、三沢沖の太平洋上で要撃訓練中のF-1支援戦闘機が墜落して、田崎啓輔3尉が殉職したときのことである。捜索・救難活動が一段落したその日の夜11時に、私は整備員たちのことが気になって格納庫の中にある控室に行って見たところ、丁度整列して小隊長から指示を受けているところだった。
 暗闇から突然現れた私に小隊長が駆け寄り『群司令何か・・・』というので、私は皆の前に立って一言激励しなければと考え整列している隊員たちに向かって『218号機の機付き長はいるか?』と言ったところ、少し間をおいてS3曹が一歩前に出たので『愛機が戻ってこなかった感想を言え』というと、彼は唇をかんで眼を閉じた。しまった、士気を高めようと思ったのにこれでは逆だ、と少々動揺した私は、全員に向かって次のように訓辞をした。
『起こってはならないことが起きてしまったが、これで挫けてはならない。諸君が田崎の殉職を悲しむ気持ちはよく分かるが、悲しむのは今日一日だけだ。戦友の屍を乗り越えて進まねばならぬのが我々自衛官の宿命である。第一考えても見よ。毎日何十機もの戦闘機を飛ばしていながら、夕方の『全機着陸しました』『全機格納終わりました』という、判を押した様な報告で一日が終わるのが当たり前のように皆も私も思ってきたが、これは実は大変なことだったのである。勿論平時にはこうでなければならぬ。しかし、我々の本務は有事である。有事にはこんなことでは決して済まない。離陸した戦闘機が殆ど帰ってこないことだって有り得る。いや、おそらく一機も帰ってこないことだって有り得るだろう。そのような時にでも我々は悲しんではいられないのだ。戦に勝つまでは耐えなければならない。[戦友の屍を乗り越える]とはそのことであり、諸君はこれを片時も忘れてはならない。そうしなければ田崎は浮かばれないぞ。田崎のためにも一刻も早く立ち直ることだ』
 私は最前列の何人かの上級空曹が頷いたので理解してもらえたと感じ、S3曹を見ると大粒の涙が頬を伝わっているではないか。言葉を失った私は、彼を慰めようと思い『S、そう力を落とすな。又、良い機を割り当ててやるから、それまではプラモデルで我慢して置け』と軽い気持ちで言ったのが悪かった。
 後で小隊長から聞いたのだが、S3曹は218号機の正規の機付き長ではなく、この日作業員でいなかった同僚の代わりにたまたま同機を整備して飛ばせたのであった。だから、S3曹にとって最後の私の言葉は確かに辛かったことであろう。
 葬儀の準備で多忙を極めた私は、S3曹が責任を感じて、自衛隊を辞めたいと言っている、と小耳に挟んだが気にとめる余裕も無かった。
 4日後、故田崎啓輔2尉(特別昇任)の厳粛な葬送式が格納庫で執り行われたが、英霊をお見送りするまでの僅かな休憩時間に、誰もいない控え室の入り口で私は白手袋姿のS3曹にいきなり『群司令、自分は決心しました』と挙手の敬礼を持って迎えられた。その時初めて彼が『辞めたい』と言っていたことを思い出し、決心とは『辞めること』だと考え『そんな弱気でどうするか』と肩を叩くと、意外にも『自分は自衛隊を続けます』という言葉が返ってきたのである。真剣そのものの彼の顔を見て、どんなに悩んだことかと思うといじらしく、『当たり前だ。お前が辞めても田崎は救われない。元気に任務を果たしてこそ田崎は喜ぶのだ。頑張れ』と握手して別れたが、私は深い感動を覚え胸が一杯であった。
 5月24日、故田崎2尉の四十九日の法要が郷里の福岡で執り行われることになり、私が部隊を代表して参列することになった。支援を受けた西空隷下部隊への報告もあり、前日T−2練習機で出発しようとしたが、生憎この日は発達した低気圧に日本中がすっぽりと覆われ、特に前線が近づいて来ていた三沢は土砂降りであった。
 私はその中を愛機に急ぎ操縦席に雨が入らないよう素早く乗り込むと、雨合羽を着た整備員がショールだーハーネスを渡してくれながら私の耳元で『群司令、私の分もお願いします』と叫ぶのである。ヘルメットを被りながら顔を見るとS3曹であった。『田崎2尉に私の分の線香もあげて来てください。お願いします』というその目が彼の願いを強く訴えかけていた。私は『任せておけ』と答え、土砂降りの中、身じろぎもせず、挙手の礼で見送ってくれる若い整備員達を後に三沢を離陸した。
 バーティゴに陥りそうな分厚い雨雲の中を上昇しながら、何と彼らは真面目で純粋なのだろう! その昔山本五十六大将が先輩の高橋三吉大将に当てた手紙の中の『今の若いものなどと口はばたきことは申間敷ことしかと教えられ、感泣に耐えざる次第にて御座候』との一文がふっと思い出され、正にこのことだと実感したのであった。】

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