路上・痕跡・採集
- 路上と痕跡:考古学的想像力
- 建築のデスマスク=都市の皮膚に刻み込まれた記憶
- 痕跡と想像力
- 手に入ったほんのかけら(部分)から、見えない/捉えることのできない全体を想像する
- かけら(部分)は、全体に対して換喩の関係にある
- アンリ・カルティエ=ブレッソンと「決定的瞬間」あるいは「すり抜けるイメージ」
- 視覚的無意識と精神分析における無意識
- 徴候と推論
- 視覚的無意識と精神分析における無意識
- モレッリ法とフロイト
- 痕跡の採集者としての探偵
- シャーロック・ホームズの推理法
- 「細部を見抜く桁外れの才能」を持つホームズ
- ワトソンがホームズの推理に驚くのは、「僕の思考の流れを追い切れないか、大きな推論のもとになる小さな事実を観察し落としている」
- シャーロック・ホームズの推理法
- セレンディピティ=ちょっとした徴候から推論して解答に至ること
- 推論的パラダイム
- 推論=アブダクション
- 「化石が発見される。それは例えば魚の化石のようなもので、しかも陸地のずっと内側で見つかったとしよう。この現象を説明するために、われわれはこの一帯の陸地はかつては海であったにちがいないと考える。これも一つの仮説である(C・S・パース)」
- ウンベルト・エーコ『三人の記号―デュパン,ホームズ,パース』、トーマス・シービオック『シャーロック・ホームズの記号論―C.S.パースとホームズの比較研究 (同時代ライブラリー (209))』も参照のこと
- 「化石が発見される。それは例えば魚の化石のようなもので、しかも陸地のずっと内側で見つかったとしよう。この現象を説明するために、われわれはこの一帯の陸地はかつては海であったにちがいないと考える。これも一つの仮説である(C・S・パース)」
- 視覚的無意識と精神分析における無意識
- シュルレアリスムとオブジェ・トゥルヴェ
- 反=風景としての「転地」(displacement/dépaysment)
- 参考:佐藤守弘「反風景的実践としての『採集』――桑原甲子雄と都市」『京都精華大学紀要』第31号、2006年9月、京都精華大学、1-16 = ここからPDFダウンロード
痕跡としての写真
- 写真前史
- 幾何学的遠近法(透視図法)とイリュージョン
- カメラ・オブスキュラ
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- カメラ・オブスキュラとは、ラテン語で「暗い部屋」という意味。暗い部屋に、小さな穴(ピンホール)から光が差し込むと、外の明るい世界が上下左右逆に映るという原理は紀元前から知られていた。
- 後にレンズを利用することによって、鮮明な像(イメージ)が得られることが知られるようになり、ヨーロッパでは、ルネサンス期以降、描画装置、科学的な観察装置として広く使われるようになり、また啓蒙主義時代(17c後半〜18c)の知のモデルともなった。
- カメラ・オブスキュラに映る像を化学的な方法により定着させる技術が、写真術。
- ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)』
- カメラ・オブスキュラの作り方→カメラ・オブスキュラの作り方 - 蒼猴軒日録
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- 写真術の「発明」
- ニセフォール・ニエプスとエリオグラフィ
- 版画の複製から「最初の写真」へ
- ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールとダゲレオタイプ
- 「写真術」とは?
- Photography=光による記述
- héliographie=太陽による記述
- Pencil of Nature=『自然の鉛筆』
- "Secure the shadow, 'ere the substance fade, /Let Nature imitate what Nature made."=「影を遺そう、その身が消え失せる前に/自然の創りだしたものを、自然自身に模倣させよう」(ダゲレオタイプ広告のための二行詩)
- でも、写真の「起源」はどこ?
- ジェフリー・バッチェン『写真のアルケオロジー (視覚文化叢書)』
- ニセフォール・ニエプスとエリオグラフィ
- 写真の記号論
- アイコン=インデックス的記号としての写真――チャールズ・サンダース・パース
- アイコン的記号/インデックス的記号/シンボル的記号
- インデックス的記号=対象物との物理的因果関係に基づく記号
- 写真、特にスナップ写真は非常に有益である。というのは、それらが表意している対象にある点でまったくよく似ているということをわれわれが知っているからである。しかしこの類似性というのは、写真が一点一点物理的に自然と対応するよう強いられるという状況のもとで作られたという事実によるものである。そういう点で、それらは記号の第二のクラスつまり物理的結合による記号のクラスに属する。(チャールズ・サンダース・パース『パース著作集2 記号学』、内田種臣訳、勁草書房、1986)
- アイコン=インデックス的記号としての写真――チャールズ・サンダース・パース
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- 写真イメージの存在論――アンドレ・バザン
- そこ〔絵画〕に人間が介在するということが、画像の上に疑惑の影をいつまでも投じていた。〔……〕絵画と比べての写真の独自性は、その本質的な客観性にある。〔……〕最初の事物とその表現の間にもう一つの事物〔カメラないしはレンズ〕以外は何一つ介在しないというのは、これがはじめてのことだった。厳密な決定論に従えば、外部世界の像が人間の創造的干渉なしに自動的に形成されるというのは、これが初めてのことだった。〔……〕写真は、〔……〕《自然現象》としてわれわれに働きかけるのである。〔……〕写真は、事物からその再現物への実在性の移動によって利益を得ている。〔……〕写真の映像も、ピントが外れてぼやけたり、形が歪んだり、色が変化したり、資料的価値がなかったりすることがあるかもしれないが、その生まれてくる過程を考えれば、それはやはりモデルの本体から生じてきたものなのである。写真の映像は、モデルそのものなのである。
- デス・マスクの型取りもまた、再現の過程での一種の自動性を示している。この意味では、写真を、光という代理人による事物の型取りと見なすこともできるだろう。
- 本来なら、ここで、ミイラ・コンプレックス〔死後の永遠の生命の永続を求める心性〕に由来する実在性の移動によって、同様に利益を得ている《聖なる遺物》と《形見》との心理学についても、検討しておかなければならないところだろう。だが、今はただ、「トリノの聖なる屍衣」が、《聖なる遺物》と写真との綜合を果たしているということだけを指摘しておこう。(アンドレ・バザン「写真映像の存在論」『映画とは何か』2、美術出版社、1970)
- (参考)聖史上のある人物と接触を持ったとみなされるあらゆる品――その人物の体の一部をはじめとして――が聖遺物と見なされていた〔……〕〔それは〕聖人が生前に持っていた恩寵をそっくり保持していた。(クシシトフ・ポミアン『コレクション―趣味と好奇心の歴史人類学』、吉田城、吉田典子訳、平凡社、1992)
- 写真イメージの存在論――アンドレ・バザン
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- 写真=コードのないメッセージ――ロラン・バルト
- 写真のメッセージの中身は何だろうか。写真は何を伝えるのだろうか。当然、光景そのもの、そのものずばりの現実である。〔……〕現実そのものから写真に写すにあたって、現実を単位に細分して、それを写真が読むべきものとして与える対象とは素材の異なる記号として再構成する必要はまったくない。このオブジェと映像の間に中継物、すなわちコードを設定する必要はまったくない。たしかに映像は現実のものではない。しかし少なくともその完璧なアナロゴン〔相似物〕であって、常識的に写真を構成するのはまさしくこの類似の完全性なのである。こうして写真映像の特殊な位置づけがでてくる。写真はコードのないメッセージであるという位置である。(ロラン・バルト「写真のメッセージ」『映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)』)
- 写真=コードのないメッセージ――ロラン・バルト
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- それは=かつて=あった――ロラン・バルト
- 「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。〔……〕写真は、「ほら、これです、このとおりです!」と言うだけで、ほかのことは何も言わない。写真は哲学的に変換する(言葉にする)ことはできない。〔……〕「写真」は何か目の前にあるものを指さすのであって、そうした純粋に指呼的な言語活動の域を脱することができない。(10)
- 私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。〔……〕絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。〔……〕それゆえ、「写真」のノエマ〔現象学的な本質〕の名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。〔……〕それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。
- 写真とは文字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。〔……〕私は、かつて存在したものがその直接的な放射物(その光)によって実際に触れた写真の表面に、こんどは私の視線が触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる(あるいは暗い気持ちになる)〔……〕(ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』)
- それは=かつて=あった――ロラン・バルト
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- インデックスについて――ロザリンド・クラウス
- あらゆる写真は、光のもろもろの反映を感光紙の表面上に転写した物理的痕跡なのである。写真はそれ故、イコン〔アイコン〕つまり視覚的類似の一種であるが、対象に対し指標〔インデックス〕的関係を持っているのである。真のイコン〔アイコン〕との隔たりを写真が感じさせるのは、この完全に物理的な生成によってである。つまり、大抵の絵画の描写的再現=表象の中で作用している組織的配列とか象徴的な意味の介在といったプロセスの入り込む余地を与えない、もしくはそうしたプロセスを短絡させるように見える、全くの物理的生成によってである。《象徴的なもの》が、対象と意味とを結びつけつつ再現=表象の諸形式の背後で働いている人間の意識によって、絵画芸術に通じているのだとすれば、写真はそうではない。写真の力は指標としての力であり、その意味は、既述のような《想像的なもの》と結びついた同一視の様態にあるのである。(ロザリンド・クラウス『オリジナリティと反復―ロザリンド・クラウス美術評論集』)
- インデックスについて――ロザリンド・クラウス
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- メタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)
- 瀬戸賢一『メタファー思考 (講談社現代新書)』
- メタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)