希望を歌おう

一週間が経ちました。金曜日担当、らがーです。大人になるにつれてどんどん一日が終わるのが早くなるのは何故なのだろうかと、フト考えることがあります。尤もらしい理由は見つけることは出来るでしょう。でも、ここは答えを提出することより幼少時分の一日よりも、今この一日が、この瞬間が素晴らしいと思えるものになるように、毎日を過ごして行きたいと思います。

『LEFT・ALONE』

最近『LEFT・ALONE』という本を読みました。1968年のフランス5月革命より後の、日本国内での学生運動に飛び込んだ者たちの内、著名な人物を選び出し絓秀実との対談を通じ当時を振り返るという内容です。その中で非常に印象的だった言葉は、確か西部邁が紹介していたと思いますが、「Together and Alone」というものです。「一緒に、そして一人で」とでも訳すのでしょうか。当時東大に、「連帯を求めて孤立を恐れず」という落書きがされていたそうですが同様の感覚でしょうか。これに対して柄谷行人は「私は逆だった(孤立を求めて連帯を恐れず)」と語っていましたが、行動者と学者の違いが端的に表現された瞬間に思えます。

「連帯を求めて云々」という言葉は谷川雁の言葉だそうです。私は谷川雁を通じて、戦後左翼の中にも詩人がいたということを発見したのですが、それは非常なる救いでありました。左右弁別すべからざる状況が現出して久しい時が流れていますが、畢竟するところ私は左右の弁別など物の数ではないように最近思えるのです。要は、左か右か、という定義ではなく、詩的か散文的か、というところではないでしょうか。右=詩的、左=散文的という定義は、左の中に谷川雁(或いは戦前では幸徳秋水大杉栄を見る)がいたという事実、また右にも散文的なる有象無象があまた存在するという事実は、人間、要は詩を解するか否かだな、と思わせるに足るものがあります(例えば街中を大音量に軍歌を流し、企業ゆすりに汗を流している「自称右翼」などは歌心の欠片も見えないではありませんか)。

高尾山の問題を、この詩的精神、歌心のある無しから見た時、私には「どうして日本の右は声を上げないのか」という素朴な疑問が起こります。以前神奈川県池子の米軍基地建設問題が浮上した時、一水会は反対闘争を行いました。これは一つの見識であると、私は心強く思っていたのですが、高尾山の問題では右が声を上げたという話を金輪際聞かないことは実に不思議なことです。

福岡玄洋社の祖、頭山満などが現代の「右」を見たら何と評すだろうか。「一人でいて寂しくない男になれ」と遺した、詩的精神の横溢する彼らの真心が今この世にあったならば、八百万の神々が遊ぶ神州の大地を、儲け至上主義の皮相の徒やそれを誘導する官吏、またそれらと結託して私利を肥やす政治屋輩に汚されていくのを座視していることを、決して潔しとはしなかったであろうと思います。

高尾山開発に対する反対運動は、この23年間、住民の方々を除いて左の者だけが担ってきたと言っても過言ではないのです。右はどこへ行ったのか、そもそも日本に真正の右はいるのでしょうか。保守を自任する者にも問いたい。右でもなく左でもない、保守を自任する者は、一体自分たちが何を保守せんと図っているのか、それを切実に問うべきではないでしょうか。「世界有数の経済大国日本」、そんな陳腐な自画像を後生大事に抱きしめることは、もうやめにしませんか?保守すべきは、ここ60年に築いたカネで買えるだけの豊かさなどではなく、また計測可能な豊かさなどではなく、先人が遥かな昔から育んできた慣習であり、伝統であり、それを可能とさせていた条件ではないのでしょうか。高尾山の周辺に住む人々は、何百年来、そこに住んできました。そしてこれからもそこで暮らしを営むことを望んでいるのです。暁時、東の山に朝日が昇り、たそがれ時、西の山辺に陽が沈む。遠い遠い御祖の代から、その土地で、そうした日々を営むことを地上での使命と心得ていた幾万の庶民の歴史があるのです。それを守り伝えていくのが保守の使命ではないのでしょうか。

詩的精神が地を払い、散文的なモノばかりが世を埋め尽くす時代にあって、希望を歌うのは誰か。それは「連帯を求めて孤立を恐れない」詩人であり、「一人でいて寂しくない」浪漫主義者でしょう。パトスを蔑した空疎な時代に、希望の歌を歌い続けることが出来るのは、人の感情を自分の感情として慟哭出来る者、そして人に対して無限の親しみを抱くものではないでしょうか。

さあ、希望を歌い続けよう!

執筆者:らがー