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去来抄

    岩鼻やこゝにもひとり月の客

先師上洛の時、去来曰、酒堂ハ此句ヲ月の猿と申侍れど、予ハ客勝なんと申。
いかゞ侍るや。先師曰、猿とハ何事ぞ。汝此句をいかにおもひて作せるぞ。
去来曰、明月に山野吟歩し侍るに、岩頭一人の騒客を見付たると申。
先師曰、こゝにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流な
らん。たゞ自称の句となすべし。此句ハ我も珍重して、笈の小文に書入れる
となん。予が趣向ハ猶二三等もくだり侍りなん。先師の意を以って見れバ、
小狂者の感も有にや。退て考ふるに、自称の句となし□□れバ、狂者の様も
うかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。誠に作者そのこゝろ
しらざりけり


春の句が多いのだけれど、教科書とか受験参考書にもよく出ているこのくだりが
やはり最も印象深くて、「猿とはなにごとぞ」にいつも少し笑ってしまいます。
(この句の核は岩鼻ですよね。月の下、そこに誰を置くか) 


古本屋の均一棚で手に入れた岩波文庫にまだスピン(紐の栞)がついていた頃の本で、
手に入れた20年(30年?)くらい前から既にボロボロでしたが、何故か捨てられず、今に
至ります。
不易流行で有名ですが、巻末の解説が、去来抄偽書でないと思われることの説明に多くの
頁を割いていて弟子達の一番弟子争い(?)が垣間見えます。



「東京日記」内田百けん


作者の顔とか真意とかいう暑苦しさからはなれる読書ってありますよね。
そんな気分でこの本を読もうとすると、なんともいえない思いをします。


「私の乗った電車が三宅坂を降りてきて、日比谷の交叉点に停まると車掌が故障だから
みんな降りてくれと云った。」

この冒頭から、どこか私をはなれていて。

地軸を失ったように東京の川の水面があちらからもこちらからもせりあがってきて
鰻が這い上がってくる
そして、日がおちたのか

「その内に空の雨雲が街の灯りで薄赤くなって、方方の灯りに締りがなくなって来た」


幻想 と言ってしまうにはあまりにも淡々と日常的で、どれも一度読むと忘れられない。
百けん先生これはどういうことなの?嘘でしょう? と言いたくなるような
今まで読んだユーモアさえ疑ってしまうような、そんな気がしてきます。


これも岩波文庫ですが、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」 の原作である「サラサーテ
盤」も収録されています。(映画は公開時、テントで見ました。)
原作は映画からけれん味を取り払った淡々とした流れで、なんども訪れる音楽のような
奇妙さ、けれども幻想というよりは現実側にあって、そのレコードの針がとんでいるような
違和感を とても誰かと共有したくなります。心細い秋の深夜などに。