sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

デレジェの再就職(への道のり)②

sayakot2013-02-14

振り出しに戻った。
流したメーリングリストへの反応もパッタリ。


一度、アジスアベバ在住の知人から問い合わせがあったのだが、住んでいるエリアがデレジェの家から遠く、「交通費だけで給料がなくなってしまう」とのことで絶ち消えになった。


そんなある日、日本の、面識のない女性の方から、ブログに記載していたアドレスにメールが届いた。なんでも、その方がよく見ておられるブログ(その方も私は存じ上げないのだが)にデレジェの件が紹介されていたという。「とても心を動かされて、何とかご縁をつなげないかと思い、直接面識はないのですがグローバルに活躍されている藤沢久美さんという方にFacebookでご連絡してみたんです。(中略)。そうしたら、お力になってくださるというので、是非ご紹介したいのですが、いかがでしょうか。」
(***実名を出すご了承、ご本人からいただいています)


初対面の方からの突然なメールと、文面にある「グローバルに活躍されている藤沢久美さん」の名前。そしてFacebook。状況を理解するのに、数秒かかった。頭を整理しながら、まず「藤沢久美さん」のことをインターネットで調べて見ると、この方は女性実業家として多数の著書がある他、社会起業家支援でも広く活躍されていることがわかった。また、私が個人的にお手伝いしているTable For Twoという日本のNPO団体にも深く関わっていらっしゃることも判明した。


私はメールを下さった方にすぐコンタクトをとり、若干戸惑いながら、藤沢さんに連絡をした。私の心配とは裏腹に、返事はすぐに届き、そして、藤沢さんが最近国際会議で出会って意気投合されたという、エチオピアのある病院の理事という方の連絡先をいただいた。同病院は通称コリアン・ホスピタルといい、その名の通り、韓国のミッション系の団体が運営している。アメリカでトレーニングを受けた韓国系医師が常駐し、エチオピアでは最も充実した設備を誇るとされている。日本人の利用者も多い。思いがけず知り合うことになった藤沢さんから、更に思いがけずエチオピアで馴染みのある施設につながったことに、私は世間の狭さと、不思議な縁を感じずにはいられなかった。たしかにコリアン・ホスピタルのような大病院であれば、従業員を一人増やすことくらい可能かもしれない。場所も、デレジェの住んでいる家と同エリアなので、交通費や学校への通学も心配する必要がない。


早速、コリアン・ホスピタルのその理事の方にメールすると、ご本人は韓国にいることが判明した。だがその代わりに、コリアン・ホスピタルに常駐している医局部長Dr. Kimを紹介してもらった。「状況は説明しているから、きっと彼が力になってくれるはずだよ」と頼もしい理事の言葉を支えに、Dr. Kimに電話すると、「人事部長に会わせてあげるから、いつでもおいで」と、とんとん拍子。既に時は12月半ばになっていて、私は焦っていた。通常の仕事に加え、家を引き払うための引越し作業もあり、2年間半の間に蓄積された物品の処分と整理に途方にくれていた。だが、止まっている時間はない。


オフィスのお昼休み時間、私は非番のデレジェに連絡をとり、今からコリアン・ホスピタルの面接に行くので、現地集合しようと伝えた。病院のゲートでデレジェは約束通り待っていた。私たちはDr. Kimの部屋に通された。50代半ばくらいだろうか。Dr. Kimは韓国語訛りの英語で自己紹介した。いかにも人の良さそうな紳士だった。きっと超多忙に違いないのに、私たちをソファに座らせて、こちらの必死の訴えをふんふんと聞いてくれ、その場でエチオピア人人事部長を紹介してくれた。


「Grade 1(小学1年生)という学歴で雇えるのは、敷地内の掃除夫のポジンションだ。それでもいいなら調整してあげよう。仕事は月〜土曜の週6日、朝8時から夕方17時までだ。始めるのはいつからでもいい」人事部長氏は、あっさりと仕事をくれた。
でも肝心の給与は、、、? 私が恐るおそる尋ねると、返ってきたのは「750Birr(約3750円)」という、現状の給与のほぼ半分の額だった。面食らう私の様子を察してか、人事部長氏は「その代わり、うちで毎年健康診断を受けられるし、病気や治療にかかる医療費は70%カバーされるんだ。それに年金制度もある。」と、付け加えた。


確かにそう言われてみると、これまで非正規の雇用しか経験していないデレジェが、エチオピアで最高峰とされる病院の職員となる意味は大きいかもしれない、と私は思った。健康診断なんて、きっと人生で一度も受けたことがないに違いないし、少なくとも日中の仕事なので夜間学校の通学に支障はない。先日のK氏宅の条件とは違い、日曜日はまるまる休みだ。
人事部長氏は、私に話した内容をデレジェのためにアムハラ語に訳して伝え、「なかなか悪くないだろう」と聞いた。デレジェは小さな声で「はい。ありがとうございます。」と答え、2人は翌月頭から仕事を開始することで合意した。


なんとか決まった。給与はかなり下がったが、それでも何の当てもないよりは良かったのではないか。とりあえずやってみて、他によい仕事が見つかればそちらに移ることもできるだろう。そう思いながら病院を出たが、なんとなく元気のないデレジェの様子が気になって、私は事務所のドライバーに通訳してもらい、デレジェに本当にハッピーなのか、と聞いてみた。するとデレジェは悲しそうに首を振り、「750birrでは生きていけません。」とうつむいた。「今の家賃は400Birr(2000円)です。それを支払ったら、残るのは350Birr (1750円)だけです。それでは生きていけません。あなたには本当に感謝しているんです。でもどうしたらいいか、本当に分かりません。」デレジェの目は、みるみるうちに涙でいっぱいになった。


健康診断も年金も、デレジェにとっては、遠い未来のための贅沢品にすぎなかった。まずは生きのびなければいけない、目の前の日々があるからだ。それにも関わらず、デレジェは私に対する申し訳なさだけで、あの場で人事部長氏と握手したのだ。本当は不安でいっぱいだったのに。またしても私は自分の独りよがりに気づかされ、同時にこれからどうしたらよいのか途方にくれた。
だが一つだけはっきりしていたことは、デレジェはここで働く訳にはいかない、ということ。勝手に進めて悪かったとデレジェに謝り、私はDr. Kimのオフィスに戻って、先ほどの仕事はやっぱり受け入れられないと伝えた。「無資格の職種にはあの給与が限界なんだよ。申しわけないね」とDr.Kimはすまなそうに言った。そして、「今日言った以上の待遇はオファー出来ないけれど、もし他にどうしても仕事見つからなくて彼が本当に困ることがあったら、いつでもここに戻ってくるように(彼に)伝えておきなさい」とも言ってくれた。私は再度御礼を言って、病院を出た。


その後、大使館の警備員として雇用してもらえないかと日本大使館の知り合いにお願いしてみたり、インド人の会社が昼間の警備員の募集をしているのを聞いて連絡をとってみたりしたのだが、結局まとまらなかった。期限が刻々と迫る中、やはり当初のK氏宅にお願いするのが一番よかったのではないか、私はそんな後悔を感じ始めていた。このまま仕事が見つからなかったら、デレジェは学校を続けられないどころか、路上生活に戻ることになるだろうかと、悪い想像ばかり働いた。


期限5日前。気分が重いまま、引っ越し準備が佳境に入っていた時、人づてに、知人の日本人夫妻がデレジェの雇用を真剣に検討してくれているという話を聞いた。同夫妻のお宅は警備会社と契約しているのを知っていたから、それまでまったく候補となっていなかったのだが、私は即タクシーを捕まえてデレジェと夫妻のお宅を訪れた。


その後、夫妻の配慮の下、非常に恵まれた条件で、晴れて個人契約してもらえることとなったのは、前回のブログの冒頭でご報告した通り。


家を出る最終日、デレジェは朝から(また)目を真っ赤にしていた。私の母と、私宛てにと、新聞紙にくるんだ綺麗な白いショールを2つ贈り物にもってきて、手渡しながら深々と頭を下げた。その心の優しさと誠実さゆえに、本当に沢山の人たちが、遠く日本から、胸を痛め、やきもきし、なんとかしようとしてくれたのだということを、私は最後までデレジェに伝えることはなかった。言葉の問題もそうだし、たぶん、説明してもきっとピンとこないだろうと思ったのだ。ブログだとかfacebookだとか、彼の日常にはあまりに無縁だ。でも、いつか機会があったら、やはり伝えてみたいとも思う。少なくとも私にとっては、今回の一連の出来事は、物理的距離も、国境も、その他あらゆる隔たりを越えた、人と人とのたしかな「つながり」を実感した特別な出来事であったからで、その温もりは、きっとデレジェにも伝わるような気がする。


先日、デレジェの様子を夫妻に尋ねたら、「庭や外壁の掃除も熱心にしてくれて、人になかなか懐つかない我が家の飼い犬まで、デレジェには記録的なスピードで馴れたんですよ」とおっしゃってくれた。新しい環境でも、デレジェはデレジェらしく頑張っているということにほっと胸を撫で下ろした。