声優CD年表(求)

最近自分が「ライトノベル年表」(id:sinden:20030919さん)以上に欲しいと思ってるのが「声優CD年表」です。言い換えれば声優のアーティスト活動年表。「とりあえずこの盤押さえれば分かる!」みたいなのはないでしょうか(「全部聴け!」みたいなお叱りの言葉でも)。声優素人の僕の脳内年表は、

とこんなレベルなんですがどう考えてもダメ。アーティストとしての声優ってかなり独特の地点から生まれてきて、遊佐未森上野洋子あたりのファンタジー系(この辺りも纏める呼称がない)や、あるいはテクノと絡みつつ現在に至るっていう認識なんですが。
「Grapefruit」が97年春だと考えると堂埜陽子「再生の秘薬」(97年秋)が声優ポップス的感覚をガールポップに初めて持ち出した(そして無視された)、って仮説はやっぱり微妙なのだけど、それでも重要なのは変わりないのでちょっと比較してみたい。あとesrevnocのデビュー後の消費のされ方とか。

「カフェー小品集」嶽本野ばら(ISBN:4094080147)

そもそもカフェブームとか喫茶店ブームとかってあんまり信用してなくって、それはそのブームがOlive後期の低迷に同期していると僕が思っているから。id:sayuk:20030908#p1やid:sayuk:20030923#p3に書いてある「可愛いものが世界を変える」みたいな意識はもともとは90年前後のOliveにあったもののはずで、それが段々「可愛いものはかわいい」あたりに落ち着いてしまったのがその低迷のせいではないか、カフェブームにもそういう側面がないかと見ているからかもしれない(カフェにそういう「変革的」な意識を持ってる人もいるのだろうけど)。ちょうどソフトロックを「優しいロック(ダイヴもモッシュもない)」と取り違えているような所がオリーブ少女にはあって、(例えばX-Girlのデザイナーとsonic youthのメンバーを繋げられなかったり、ズボンズの1stアルバムタイトルに「ファンシー」の語が入っているのが解らなかったりするように)猥雑さやパンキッシュな思想が徐々に忌避され削がれたあげくに、オリーブ的な「可愛い」は90年代にそういう自己再生産的な袋小路に少しずつ嵌まりこんでいったのではないか。
今月の「新潮」に載った嶽本野ばら氏の小説「ロリヰタ」(id:sayuk:20030917#p2でも触れてるけど)はid:tskmry:20030925#p1さんの言うように「ブルータスお前もか!」的な意識が仄見えるのだけれど、そもそも「それいぬ」以来野ばら氏が小説やエッセイで描いてきた(実際の読者はそれとは限らないのだけど)「君」はほとんどが10代から先へ進めない*1ような「少女」ばかりで、そういう意味でははじめから標榜する「ロリータ」はロリコン的だった。もちろん踏絵の方法は簡単で、エンブル着た小学生とBABY着た30ガール並べて「あなたの落としたロリータはどっち?」って訊くだけなのだけど、『カフェー小品集』の恋愛めいた話で描かれる「君」が常に受身的で、かつ生き辛そうな描写(まるで愛玩対象めいた)で表わされる状況を見ると、問題はそもそも年齢や年齢差でなくてやはり「乙女」の定義方法にある気がする。後書きで「カフェブームに依らない『喫茶店』を描こうとした」と述べつつ、しかしそこに出てくる女性像自体が後期Olive的、「カフェ」的なものの再生産のように見えてしまうのは一方では「ロリヰタ」的な少女庇護意識の現われで、もう一方では(関係を変革するのは常に「君」=乙女ではなく「僕」だと言うような)その定義の一面性に因るものなのかも。『下妻物語』のあの2人の描写の記憶が色濃い自分にはやっぱりこの本は意外で、またもや判断保留のレベルに舞い戻った感。もちろん自分の定義も一面的なものと断った上で、でも僕にとっては「乙女」(あるいは「可愛い」)は革命的な存在であって欲しいのだろうなと再確認したり。
「それいぬ」のお葬式の話とかから(あと著者近影から)、僕は嶽本野ばら氏ってPapa told me」の宇佐美先生みたいなのを自然に想像しちゃってるんだけど実際どうなんでしょうか。だとしたら北原さんみたいな冷静な編集者が付いてて、「ロリヰタ」みたいなのを書くとちゃんと冷たく切り捨ててくれて、しかもそれに身悶える著者萌え(でもやっぱり北原さん萌え)、みたいな回路が既にできちゃってるんですがどうすれば。(そういえば西園寺先輩@ウテナにも似てるよね!)

*1:もちろん、成長と進化はイコールではないです。例えば入江紀子が言うような「10代より20代、20代より30代の方が生きやすい」というのは線形的な「成長」ではないと思う。