それぞれの知の枠

「で、みちアキはどうするの?」 - 反応

あー! 公案ですよ公案
昨日の entry 「倫理・宗教・法律・殺人」で私が知的遊戯と言ったとき「なーんか沢山あるよなあ…? 知的遊戯で世間に莫迦にされないようなやつ…?」と引っかかりつつ何も浮かばなかったんですが、公案てそれに嵌まるんじゃないかと。いや、修行なんだから遊戯って言っちゃ怒られるのかも知れないけど、遊戯と修行が重なる場合があっても別におかしくないでしょう。一問一問に意味は無くとも*1、それが何か精神的成長に繋がる。あの質問もそれだと思うんですよ。だから、あれをそんなこととおっしゃるのであれば、公案そんなことだよなあ、と。


他人の出した答えは、わたしには単なる知識に過ぎません。それらのヒントを集めて、もう一度自分の頭で考え直し、納得して自分の答えを出すこと。知識を知恵にすること。これがわたしのやりたいことです。それが、どこかの偉い哲学者が大昔にすでに辿った道であろうと、別に構わないのです。結局同じ答えに導かれたなら、それもまたとても嬉しいことじゃないですか?

いっしょ…!!
やべえ…。それでなくても二日連続で Trackbackしちゃってるのに。まあ、この引用の内容については philosophyな人なら私に限らず大抵似たようなものだと思うけど。あと、ひとつの行為に複数の意図があったりするのも、私にもよくある。ただ、これは自分で意識するかしないかの差があるだけで、普通の人にも結構あるとは思う。

しかし…うーむ。何だろう、この感覚は。
馴れ合い恐怖症だろうか。でもこういう考え方をする人間は思考や議論においては厳しいから、そうはならないとは思うんだけど。殺伐殺伐

それから、引用元の entryの最後の部分も面白いですね。これまた、私も似たようなものの見方をします。自分もまず観察対象の一部というか。

ところで、bookmark元の entryhttp://www.hatena.ne.jp/1124114353#a23 23番の解答も読んだんですが、何が失礼だと指摘されてるのかよく分かりませんでした。平均値までは到ってないとしても常識はそれなりに持ち合わせているつもりなんですが…。誰かこんな私にも分かるように解説して下さるとありがたいです。

それからその bookmark元 entryの comment欄、id:jouno氏の議論が興味深いですね。さっと流し読んだだけなので、掴めてないかも知れませんが、ここで問題になっているのは単純に言葉*2の使い方の問題のような気がするんですけど、合ってます? 他人が作った枠を受け入れたくないときはあるのかも知れません。既に自分の枠をかなり作り上げてしまっている場合は、一度解体しなければなりませんからね。もう一息で何か掴めそうなときは特に。


學而不思則罔
思而不學則殆
まなびて おもはざれば すなわち くらし
おもひて まなばざれば すなわち あやうし

私も後者の状態になりがちなので、あやうくならないように気をつけたいところです。

*1:いや、公案は一問に意味があるのも多いらしいが…すみません、全然詳しくないのにお座なりで言ってます。

*2:と、その概念