馬子ちゃんの激闘!書けないぜ日記

2011-12-02

[]Cut Hands, RAMLEH, INCAPACITANTS代官山UNIT

オープニングアクト:?

謎の覆面アーティスト。縦置きハードディスクを揺すってパフォーマンス。

 

INCAPACITANTS

機材のみでパフォーマンス。小堺氏がダイブしたり暴れ回ったり。

 

RAMLEH

機材→ギターのフィードバックノイズ

 

Cut Hands

ホワイトハウスの人の新プロジェクト。VJつき。

Rain Washes Away Every Thing」という字幕が流れて(トラックのタイトルなのですが)、

「でも放射能は洗い流されないよなー」と思った。

 

開演前、「ケータイとかで写真撮るのやめろよな!最高の音質でパフォームしたいアーティストの意向を尊重してるんだ!もし誰かフラッシュ焚いてカメラ撮ったら即刻中止だかんな!」とアナウンスがあったのに、外国からいらしたとおぼしき方が「だったら動画ならかまわんだろう?」とばかり、堂々と撮影していたのが印象に残りました。単に日本語がわからなかっただけかもしれませんが。

2011-09-30

[]house of liquid presents -Smalltown Supersound Japan Tour 2011-@恵比寿LIQUIDROOM

LIVE: Mungolian Jetset + Todd Terje

DJ: Todd Terje, Diskjokke, DJ Strangefruit

2011-09-25 穴埋め草

[]推理小説キャラクター

推理小説の魅力はワトソン役で決まると私は考える。

そもそもキャラクターとは、人物描写の類型である。詳細な描写を行わずとも登場人物の性格をおおまかに伝える形式、それがキャラクターである。

そして、推理小説は形式性のもっとも強いジャンル小説である。事件の概要を示し解決篇に至る過程は、過去の作品群から蓄積された制約によって形式化され、ほぼ固定されている。それゆえ、推理小説の登場人物も、ある程度類型化されている。もちろん、この制約は作家の手で自由に変えられる。この制約を逆手に取ったのが「変格ミステリ」であり、作中でこの制約を批判するのが「メタ・ミステリ」であるが、これらの作品も推理小説の制約を前提にしているからこそ、作品として成立する。

オーソドックスな推理小説では、ワトソン役は常に探偵役の傍に控え、事件の概要を些細な点まで俯瞰することができる。なおかつワトソン役は、作中で示された事柄以上のことは知り得ない。つまり、ワトソン役は読者と同じ立場で作中の事件と対峙しているのであり、ワトソン役のキャラクター造形に読者がどれだけ感情移入・共感できるかによって、作品のリアリティや評価が決まるのだ。

一方で、犯人のキャラクターもまた類型化されている。それは、推理小説の形式から要請されるものではなく、犯行に至った動機で類型化される。動機はすべて、私怨、金銭や名誉など自己の目的を満足させるためのもの、あるいは愉快犯的なもの(狂気とも言われる)のいずれかに分類される。犯人の動機、すなわちキャラクターも、読者の共感を得られる程度にリアリティが必要だが、大半の読者が推理小説を読んで犯罪を起こさない当然の事実からして、犯罪者に感情移入することは難しい。そもそも、ドストエフスキー罪と罰』のように犯罪者の心理を穿ちすぎると、推理小説の肝要たる謎解きの楽しみが薄れてしまう。したがって、犯人の描写は控えめになるのが必然であり、饒舌な描写は探偵役やワトソン役に向けられるのが常である。