公共図書館は紙の管理に特化すべきではないか─あるいは「紙本位制」について

こういうことを言うと「保守派」みたいでかっこ悪いのですが、今日は暑すぎて頭がイカれてただけという言い訳がききそうなので、ちょっと言ってみようと思います。税金で運営する公共図書館は、紙の管理に特化するべきだ

まず、電子資料の「扱いやすさ」とは何かということをかんがえましょう。電子資料の「扱いやすさ」とは、「加工のしやすさ」、「アクセスのしやすさ」そして「複製のしやすさ」と言い換えることができます。まず、加工しやすいということは、書き換えしやすいということです。たとえばDOMなんかは、こういうテキスト・データの特徴を最大限に利用した技術でしょう。WWWだってそうです。HTML文書を書いたことがあるひとなら(そうでなくても、ウェブのコンテンツをいくつかのデバイスで見たことがあるひとなら)誰でもわかることですが、HTML文書の見た目は表示端末の設定に大きく依存します。いわば、なにからなにまで固定してしまわないことで、メリットを得ているわけです。しかし、逆に言うと、このことは「作者の意図」なんてものは固定できなくて、クライアント側で「加工」できてしまうんだということでもあります。これは、実は紙の本の世界でもある程度そうだったんだろうと思いますが、デジタル化によってどうしようもなく明らかになってしまった。

デジタル文書がネットワーク上に置かれてアクセスしやすくなることも、保存の観点からみると困難をもたらします。政府のデジタル・アーカイヴに誰かがクラックをしかけて、書き換えてしまう可能性を100年単位で排除することは難しいかもしれません。

つぎに複製。これまたよく言われることですが、デジタル・コピーの場合、何が「オリジナル」かという問題が意味をなさなくなります。「オリジナル」というものは、テキストの「所有」モデルを維持するために、ある意味で便利なフィクションだったわけですが、デジタル・コピーの世界では話がちがってくる。もちろん、テキストが「誰のものか」、ということが問題にならなくなるわけではなくて、「オリジナル」に根拠を置く所有モデルが機能しづらくなるということです。著作権にまつわる近年の議論を見ていれば明らかですよね。

しかし、ぼくはこの「オリジナル」の擬制がなくなってしまえばいいとは思っていないのです。もちろん、所有モデルが変わってしまうことは避けられない。けれど、どうにかしてみんなが認める「オリジナル」を維持しなければならないと思います。みんなが参照すべきテキストがどれなのかが明確になっていなければ、情報交換にかかる取引費用がめちゃくちゃに高くなってしまうからです。

紙資料の場合は、文献学で蓄積された方法によって、オリジナルあるいはより古いコピーを同定可能です(少なくとも可能だとされています)。よく問題になるのは、いわゆる「生まれつきデジタル(born digital)」なテキストです。たとえば国立国会図書館あたりが電子スタンプを押してくれれば、それ以降本当に変更がなかったと証明できるのか。ぼくはそれは難しいと思います。少なくとも、100年単位で見たときに困難だと思います。

資料の扱いやすさと保存のしやすさ(信頼性)のあいだにはトレードオフの関係があるのです。技術はずっと変化しつづけるので、電子資料が将来にわたって同じように表示できるかどうかわからない、というのはよく言われることです。電子資料の「保存」とは、常に書き換えつづけるということなのだ、とシカゴ大のアーキヴィストのひとが10年くらい前にあるシンポジウムで言っていました。デジタル文書は、保存向きではないのです。保存のためには保存のための媒体を使うべきなのです。

保存向きの媒体としてコストパフォーマンスが高いのはやはり紙でしょう。図書館や文書館に収蔵してしまえば、アクセスが制限されるため、書き換えのチャンスは非常に減ります。本当に書き換えの可能性を低くしたいのであれば、情報をネットワークからはずすしかありません。あたりまえの話ですね。「生まれつきデジタル」の資料については、紙版を「オリジナル」としてみんなが認知する、という新しいフィクションの体制をつくれば解決できるでしょう。いわば、「紙本位制」をつくるのです。

紙本位制においては、国立国会図書館国立公文書館には、紙の管理にリソースを割いてもらわねばなりません。紙の管理にはお金がかかるうえに、市場化するのが難しいので、これは政府がやらねばならないのです。これをやるなら、政府関係の文書をすべて保存するというくらいの勢いでやるべきです。そして、現用文書・非現用文書問わず、「オリジナル」に関してはすべて公開されるべきです。これにはお金がかかりますが、やらないといつまでたっても行政文書がぐずぐずと失われていくことになります。すぐにでもやらねばならないはずなのです。

一方で、国立国会図書館長の長尾先生が主張しているような、書籍データベースの管理というようなものは、Googleあたりが実現しかけていることでしょう(わたしは「長尾スキーム」はめちゃくちゃかっこいいと思いますが、政府がやらなくてもいいと思うのです)。この分野については市場化は十分可能だと思います。やるべきことといえば、パブリック・ドメインにある情報については将来にわたってオープンにしつづけなければならない、というなGPLに似たような規約をつくることじゃないでしょうか。それさえできれば、民間に任せることに何の問題も感じられません。

最後に人文系アカデミズム。この「紙本位制」の社会では、電子版が紙版を確実にリプレゼントしていることを保証することが、ウェブ・アーキヴィストや人文系研究者たちの役割になるでしょう。この部分については、Googleも政府もまだお金を回す仕組みを見つけていないのです(たとえば、Google書籍検索につけられたOCR認識テキストにある誤認識の数々を見てください)。情報の信頼性を高め維持するということは、近代科学に従事する者に与えられた課題でありつづけてきましたし、これからも同じだという、それだけのことです。

情報の保存と配布の制度は、技術革新のおかげで組み変わろうとしているので、ここでもっともコスト・パフォーマンスの高い均衡点をみつけることが、われわれ人文系の研究の徒やアーキヴィストたちの課題です。

なーんちゃって。

こんな本を読みました。

ブックビジネス2.0 - ウェブ時代の新しい本の生態系

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