仕事の先

行政という仕事はある意味殿様商売で、庁外の誰かに媚びたり、庁外の誰かになんとか仕事をお願いすることで自分の仕事が成立するという場面が少ない。もちろん納税をお願いしたり区画整理などで立ち退きをお願いしたりとそういう類の仕事は存在する。公益のためという大義名分があってお願いする仕事とはいえど、これは行政の中でも大変な仕事だと思う。しかしたぶん現場を離れれば離れるほど、組織の中の人間の顔色だけ伺っておけば成立する仕事も多く、そういう仕事は時に行政サービスの提供先である市民の利益、立場を見失いがちなことが少なくないように思う。

単独で成立する仕事なんか世の中にはなくて、全ての仕事は持ちつ持たれつだ。誰かの仕事は誰かに支えられて成立しているわけで、それはもちろん行政もそうで、というかそもそも皆様の税金で食べさせていただいているわけなんだけど、それを自覚する機会が少なく、そこに感謝をして仕事をする、そういう態度で仕事に向き合う機会が、少なくとも自分の今までのキャリアの中では少なかった。

民間企業で働く友人らと話すとき、相手の立場を敬い、尊重し、楽しませる姿勢がしみ込んでいるように感じることがよくある。仕事で成功している人であればあるほどその傾向があるように思う。もちろん業界にもよってお客様との接し方も多種多様なんだろうけど、誰かに喜んでもらうことで自分の仕事が回っていることを多分肌感覚で理解しているからなんだろうなとよく思う。
残念ながら、偏見かもしれないけど、この感覚を公務員の人から感じることが少ない。これは公務員になる人がそういう人たちとかではもちろん決してなく、環境としての公務員の職場が、誰かに心から感謝をしていくことで仕事がうまくいくようなものになっていないことに起因する気がしている。そう、前提となる職場の条件として、誰かの声をできるだけ広く聞き、それを取り入れ、それにできるだけ応えようとし、その誰かを喜ばせようと全力を尽くす、そんな当たり前のことが、時にこの業界では難しい。公益のために誰かの権利を制限する権力が与えられているのが行政。行政はお客を選べないし、それでいて全ての人のニーズを叶えられるわけではない。公共政策は、詰まるところ、いつだって利害の調整で、限られたリソースで、誰かの社会的なニーズを後回しにし、優先して取り組む社会的課題を決める。予算が有限である以上、政策の取捨選択は、誰かを救い誰かを見捨てる、その繰り返しでしかない。

今の市民と行政の関係って、なんだか極端なクレーマーのことを行政が極端に恐れ、一番声を聞くべき相手に自分からシャッターを閉めている状態じゃないかな、と感じる。仕事は全て繋がっているのだから、できるだけ繋がっている先の声を取り入れた方がいいのだけど、何か変なこと言われて自分たちの仕事が増えたらどうしよう→であればできるだけドアを閉めて極力自分たちの身を守ろう、みたいな循環がある。オープンじゃないからこそ大多数の良識的な人たちはどう声を届けたらいいかわからなく、結果として目立つのはほんのごく一部の極端なクレーマーの声となり、ますます行政の中の人間は中に閉じこもるようになり...という循環。

別に自分だって自分で自分の仕事を増やしたいとは思わないし、窓口や電話口でわけのわからない理屈で怒鳴られたりするのもいやだ。市民のストレス解消のために怒鳴られることで自分が社会に提供できる価値より、世の中にきちんと価値を提供できる施策を練りその仕組みを回すことで社会に提供できる価値のほうが高いと信じたい。閉じこもれば閉じこもるほど意味ややりがいのない仕事、つまりサービスの提供先である市民の方をちゃんと見れていない仕事は増えていくし(誰のためにやるのかが明確でない仕事は意味もないし当然やりがいもない)、意味のない仕事とわかっていてそこに目を閉じ淡々と片づけるような仕事のやり方は苦痛だ。苦痛だからこそ大多数の職員は年数を重ねるにつれ意味のないという事実を認識しないようにする。次第にそこに意味があるないを考えようとする自分があったことも忘れてしまう。行きつく先に完成するのがお役所仕事と揶揄されるそれなのかもしれない。

どんなご意見であれ、外部の人からいただいたお電話や窓口などでのご意見に対し、自然と「貴重なご意見ありがとうございました」と口に出る。長年同じ業界で過ごしているとどこかで染まり切っていないか心配になることもあるが、その言葉が自然に出て、その自分の口から出した言葉に疑いがない気持ちが残っていれば、まだ大丈夫だなと思ったりする。自分からドアを閉めた時点で、たぶんその時点から、サービスの提供先をどこかで忘れてしまっている、やりがいのないつまらないお役所仕事しか、その人の前には待っていない気がするからだ。