絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

『マンガ進化論』はこういう方向性になりました。

進化は、小さなランダムな遺伝的変化のランダムでない生き残りによって、適応的にランダムではない方向に導かれる
リチャード・ドーキンス『悪魔に仕える牧師』P147より引用

生物とマンガの相似について

 動物が生息地域ごとに異なる外見を持つように、マンガもまた連載域の環境(対象とする世代、性別等の違い)によって、異なる表現形を持つ。
 マンガには生命がある。マンガにとっての生命とは、印刷され、人の目に触れるということだ。雑誌に掲載されるすべてのマンガは、前提として、すべからく読者の求めるものであるべきだとされている。その求めに応じられないものは消えていく。それは、環境に適応的でなかったということだ。もちろん、淘汰圧の原因は、ひとつに還元できるものではない。それらは相互にかかわりあいながら、マンガという生物を進化させ、もしくは滅ぼす。
 ここに、ミクロなレベルとマクロなレベルを混同しないために、それらを分類する。
これは従来的な発想における、マンガを取り囲む階層だ。雑誌はマンガ家を選び、読者層にあったマンガを書かせる、マンガ家は能力に見合った絵と話を発見し、それを書く。もし、雑誌というものが生物の骨格なら、マンガは内臓や筋肉に相当するだろう。では、マンガにおける遺伝子とは何か? それは絵と話だ。ドーキンスに嫌な顔をされるのを承知で書けば、マンガは絵と話の乗物にすぎない。なぜなら、絵と話は他紙にパクられ(レシピを複製され)、増殖し、その存在を広めていくが、マンガは決して複製されないからだ(特殊な例を除いて、他の雑誌に載ったマンガが、他紙にそのまま載ることはない)。
 おっと、結果的に当たり前の話になってしまった。そのとおり、いくらマンガが自分の意志で生命を維持しているように見えても、その実生き残っていくのは絵と話のレシピだ。ならば、この図は逆ではないか。つまり技法があり、マンガがあり、雑誌があるのだ。
マクロなレベルでの絵と話(遺伝子)の分布があり、その遺伝子の乗り物として個々の作品があり、その作品たちを生きさせる作家や読者のための生息環境として、雑誌があるということだ。これ、私はものすごい発見だと思うのだが、わかってもらえるだろうか。何だか不愉快になる方も多そうな気がするが、エモーショナルな部分ではなく、あくまでマンガ技法についての話だ、ということを強調しておこう。

進化は進歩を意味しない。

 Webにおけるマンガ批評には、役に立つとか意味があるとか優れているとか、そういった感情に訴えかける言葉が使われることが多い。しかし、それは果たして批評と呼べるだろうか? 印象批評を重ねるのに、いくら言葉を費やしても、それはやはり好き嫌いの表明にしかならないのでは?
 そこで、私は進化論をたとえに出すことで、マンガの分析と、それが良いか悪いか、といったことを、切り離すことができることに気づいたわけだ。もちろん「好き」「嫌い」「良い」「悪い」といった筆者の感想こそ、読者の共感を得て、人気が増大して、なんてことはわかっているんだけれども、居心地が悪いのだから仕方ない、私はマンガを好きだけれども、それが万人にとって良いものであるなんて、とても言えないもの。
 生き物には、歴史があり、それぞれがその環境に適した進化を遂げている。キリンはカバより優れているとか、ライオンはアリに劣っているとか、そういう違いは当てはめる基準によって変わる。首の骨の長さにおいてキリンはカバより勝っており、アリはその数においてライオンをはるかにしのぐ、というような具合。人間だって最初から偉そうな顔でふんぞりかえっていたわけじゃない、サバンナにゃ車もビルもないのである。
 マンガも生物と同じように、その環境に最適な進化を遂げたものが、遺伝子を残す。遺伝子ってのは、絵としての技法であり、物語としてのパターンのことだ。そこには生き残るのに適した形が残っている。繰り返しになるが、どれだけ多くの作家にパクられたか、が、マンガ遺伝子の優劣を決める。

進化論でなければならない理由

 これらのことは、進化論というものの考え方を知らなければ、思いつきもしなかったことだ。
 たとえば、私にとって好ましいマンガが、ある人にとっては唾棄すべきマンガにあたる。その理由は? マンガの良し悪しに触れる前に、まずは環境について考えてみよう。そのマンガの心地よい部分は、自分のどの部分に心地よいのか? 自分の知識や感情を環境として、脳内でそのマンガに関する記憶が淘汰されなかった原因を探るということだ。次に、そのマンガを唾棄したある人は、どのような脳内環境に、そのマンガを放り込んだのだろうか?
 マンガは、小さなランダムなマンガ家の変化のランダムでない生き残りによって、適応的にランダムではない方向に導かれる。
 読者もまた、小さなランダムなマンガの変化のランダムでない生き残りによって、適応的にランダムではない方向に導かれる。
 そこで批評の根本に立ち返ると、マンガ批評もまた、その価値基準の創造が役目であることがわかるんではないかしらん。まあこのへんは伊藤剛さんの受け売り。
 というわけで、この長き序論はまだまだ続くのであった。
:前から書いてるまんがや絵についてのあれこれ。
マンガの絵がうまいとは、どういうことか。
デッサンてなあ便利な言葉のように見えましてね。
君がマンガを描くときに気をつけなきゃならない事
模写による利点と弊害
マンガ進化論 序章
参考図書

悪魔に仕える牧師

悪魔に仕える牧師

親指はなぜ太いのか―直立二足歩行の起原に迫る (中公新書)

親指はなぜ太いのか―直立二足歩行の起原に迫る (中公新書)

雑談。

 友人「チャットか何かでお話ししてみたい衝動にかられました。だって」
麻草「マジで?超うれしいんだけど、ピアノ・ファイアさんじゃん、読んでる読んでる」
 友人「うわ、キモ、自重」
麻草「おぼえたばっかのニコ語使うなよ、それで?ピアノさん、何て?」
 友人「いずみのさんだろ、えとね『『方丈記』の冒頭にある「ゆく河は絶えず、しかも元の水にあらず」にかけて「河を流れる水と、水を流す河は違う」という言葉で自分の場合は表現しています』ってさ」
麻草「いい言葉だねえ、まさにそのとおり、表現の多層性がマンガの魅力ではあるんだけど、それを一度解体してみよう、というのが私たちの提案なのではないですか。いずみのさんは、コマの内部にある位置関係などでそれをやっていて、私は絵自体でそれをやっている、って感じなのかな。いずみのさんも書いている通り、コマ間の分析は夏目せんせえがみっちりやってしまっているのですよね。あと右と左に関しては、舞台では上手(客席から見て右)から下手(左)に風が吹く、なんてえことを申しますね、えらく昔から言われていることなんですが、私は」
 友人「ああうるさい、感想は別項でおやんなさい。チャットねえ、メッセでいいんじゃないの」
麻草「いや、私、今メッセ壊れてるんで、チャットの方が都合よいです。ところで右と左問題なんですが、左脳に言語野があることから…」
 友人「トンデモ入ってきたな、ええと、あ、いずみのさんって『ユリイカ 2006年1月号 特集*マンガ批評の最前線』に寄稿してるらしいよ」
麻草「……」
 友人「どうしたの?おなか痛いの?」
麻草「おれに近づくなぁぁぁあぁああああっ!ってんじゃなくてさ、ユリイカ!なあ!てめえこのやろう!ユリイカ!」
 友人「どこ向かって叫んでるの、吉田アミ
麻草「どっちかって言うと、虚空? 何でもないです、えーと、キモい反応ですみません。チャット、対談、原稿のお誘いなどございましたらいつでも」