なんとなくアノミー

世の中がどんどんアノミー化している、そんな雰囲気があります。


本当にアノミー化しているのか、はけっこう疑わしいとは思いますが、ただ(こういう社会学的なものは完全に素人ながら)アノミーというのは、本当にアノミー化しているかどうかはそんなに問題ではなくて、「みんながアノミー化していると思っている」ことが重要なんだろうと思います。


僕は「戦後民主主義教育」とか「自虐史観」が日本をダメにした、とは1%も思わないですが、「自由」を至上の価値としてきたことが、今のようなアノミー状態(というか「みんながアノミーだと感じている状態」とでもいうか。それが良い状態か悪い状態か、とはまた別の問題として。「アノミー上等じゃん」という人だっているでしょうし)の原因となっている、という意見には、けっこう賛成します。


愛国心やらなにやらがそこそこ支持されているのは、こういうアノミー状態には耐えられなかったり、けっこうストレスフルに感じている人が、それなりの数はいる、ということの証拠のような気がします。多くの人は、「そんなのオレの自由だ」に対する何らかの歯止めは、必要なんじゃないかなあ、と思っている。そして、何らかの価値観を「個人の自由」の上に置くべきだ、というのは、けっこう多くの人が思っていることじゃないでしょうか。そこに愛国心の忍びよる隙がある。愛国心(教育)って結局、「「お国のために」を「個人の自由」に優先させよう」ってことでしょ。あるいは、「「お国のために」を「個人の自由」の歯止めにしよう」という具合に。


もちろん、「何らかの価値観を「個人の自由」の上に置くべきだ」とは思いつつも、愛国心には反対、という人も大勢いるでしょう。そして、「国家」に代わる価値観をいろいろ提示するわけです。「地域共同体」とか「階級的連帯」とか「人間としての優しさ」とか「アジア的価値観」とか「宗教」とか。ただそうなると、「「個人の自由」の上に置くべき価値観」は、たぶんに恣意的な、入れ替え可能なものになってしまいます。


「もちろん、入れ替え可能でいいんだよ」という意見があるでしょうし僕も一定程度はそれを支持しますが、ただ、それぞれがそれぞれの価値観を「個人の自由」の上に置く、という状態は、結局は、アノミー状態と変わらないんじゃないか、「あんたはその価値観なのね、オレはこの価値観だよ」というのは、「そんなのオレの自由」というのと、変わらないんじゃないか。


オチはなんにもないんですが。