大人になったら。
ひさびさです。1年ぶりぐらい。
前も書きましたが、「はてなブログ」に強制移住させられてからというもの、執筆意欲がめっきり落ちました。
人間が住み慣れた場所から「こっちのほうがいい暮らしができる」と強制移住させられた、その気分をちょっとだけ味わいました。
この歳(今年で48になります)になると、「何のために生きる/生きている」のか、そのモチベーションが難しくなりますよね。
昔の食うや食わずの時代だったら「とりあえず生き抜く」というのがあったかもしれませんが、ひとまず食っていけてる人なら、なおさら。
あるいは「子供のため」というのもあるかもしれませんが、そもそも今は子供がいない人も多いし、いても「子供に全精力を傾ける」という人、だいぶ減ったんじゃないかと思います。子供よりまず自分、という生き方が奨励されるようにもなっていますし。
となると尚更、「何のために生きるんだろう」という問いが、眼前に迫ってくるわけです。
趣味がある人は、それでいいのでしょう。
また、仕事、あるいは出世が当面の目標という人も、いいかもしれません。
でも、この歳になると、おおむね先も見えてくるんですよね。
自分がどの程度なのか。どこまで行けるのか。どこからは無理なのか。
それを悟った上で、さらに頑張るというのは、なかなかしんどいものがあります。
しかも、そういうのを悟るのが上手な、「早見え」のするタイプほど、この罠に陥りやすい。
わたしがそれです。我ながら早見え。見切りも早い。
それはいい面もありますが、悪い面もある。自分に早々に見切りをつけてしまう。
ここから、自分にもう一度鞭を入れるのは、なかなかしんどいものがあります。でも、やらねばならんのでしょうね。さて何を目標にしよう。死んだら天国に行けるように、かなあ。
指導法
なんか月1回のエントリが定番になってますね。
エントリという書き方もブログならでわ。久々にこの文字列を使いました。
学生・院生指導をしていて、「それじゃあ論文にならないので、こういうふうなテーマにしなさい」ということ、よくあります。
例えばテレビや小説で坂本龍馬に憧れて「坂本龍馬の生涯について書きたいんッス」という学生がいたとして、「でもそれだと卒論にはならないので、もうちょっとテーマを絞って、史料からいえるものにしなさい」と指導する。学生は渋々、それに従う。で、やりたくもない史料調べをする。
もちろん、悪いことではないでしょう。「坂本龍馬の生涯」なんて卒論にはなりえない。
一方学生は、「卒論やってても全然面白くなかった。オレは坂本龍馬の熱い思いを書きたかったのに、古新聞とか読まされた」「もう坂本龍馬に興味もなくなった」と卒業していく。
これでいいのかなあ、何をどうすればいいのかなあ、と思うです。でも、どっちも変われないですしね。仕方ないのかな。
夏の終り
こないだ「夏の始まり」を書いたと思ったらもう夏も終わりそうです。
人生、あと何回夏があるんですかねえ。
いやもうなんか、こんなことばかり考えるようになってまして。人生であと何回○○できるかな、という。
いっぽうで、新しいことをやろうとする意欲も急激に萎んできています。
「ちょっとそれしんどいっすわ」でスルーしてしまう。
ちょっと前までは、「子供に自分の夢を託す」というの、考えられなかった。
託してないでお前がやれよ。やれないのなら、子供におっかぶせるなよ。と。
でも最近、その気持ちも、ちょっとだけはわかるのですよね。
大きくいえば、それは「私以上の存在になれ」なんですわ。私はここ止まりだった。でもお前には、こんなところで止まってほしくない。もっと先を目指せ。という。
かといってスパルタ教育しようとも思わないのですが、娘にはせめて私以上・私より先に行ってほしいなあと思うのでありました。
夏の始まり
7月ももう終わりですか。
4月から、いやはやしんどかったです。
5月ぐらいまでは、何よりも娘の「幼稚園行きたがらない」で疲れ果てました。
6月ぐらいから徐々に、自然に行ってくれるようになりましたが、今度はそこから各種仕事が降ってきて。
仕事といってもほぼ校務です。研究関係などほぼゼロ。本の1つもまともに読めてません。
…と愚痴ったところで何がどうなるものでもないのですが、ひとこと誰にともなく言い訳を。