2005-11-02 ヌミノーゼとゾラ
■ヌミノーゼ
高校生の時、美術館で横尾忠則の絵を見た時の衝撃と、映像作家、大木裕之の作品を見た時の衝撃。23歳の時、グールドのCDで彼の音に触れた衝撃は、どれも、似ている。
今振り返ると、これはきっと、「ヌミノーゼ」だったのだろう。その意味は「魅了しつつ畏怖させるもの」
鏡リュウジの「タロット こころの図解学」という本で、こうした体験に対する興味深い考察があった。
ヌミノーゼとは、「魅了しつつ畏怖させるもの」という意味で、人間が宗教的なもの、超越的なものに出会ったときに感じる、あの圧倒的な感情を指している。宗教というのは、こうした感情が基礎になって生まれる、とユングは考える。
ユングによればこうしたヌミノーゼの体験は圧倒的すぎて、ときには危険なほどになるという。ヌミノーゼとダイレクトに接してしまうと、それこそ、ギリシアのデュオニュソスの祭りのように、人はその理性をマヒさせてしまうのだ。
・・・
そこで、ユングは人間が神の力とじかに接する、あるいは神体験を直接しないようにするためのクッション、安全弁が必要だと考えた。じつはそれこそ、宗教的な装置、たとえば、教会や教皇といった存在であるというのが、ユングの考え方でもあったのだ。
ここで、疑問。私の「ヌミノーゼ」的体験の、安全弁はなんだったのだろうか。
答えとして考えられるのは、それは、作品そのものの存在だったのだろうかということ。それとも、美術館的場所だったのだろうかということ。
そうした安全弁の薄い、若手アーティストのたまり場、の様な所に出向いたことはあったが、正直、気分が悪くなったことがあった。「何か作り上げよう」という気迫だけが伝わってきて、当時、そうした世界に未熟だった私は、その熱気にあてられてしまったのだ。きっと、今はそうした世界に対して自分なりの偏見が形成されたおかげで(擦れたともいう)、出向いてもまだ、平気だろうけれども。
ということで、「できるだけ、安全な、ヌミノーゼ体験を!」と、交通安全と同じ心がけで、密かに思うのでした☆
■ゾラ
1996年から1998年にかけて、ZOLA,ゾラというファッション雑誌があった。
これを読んでから、私は、服を着ることが好きになった。
日常に生きる女性が、服と親しく生きるみたいな、それでいて、大事なこだわりだけは捨てないよ、みたいな、そういう、一貫したテーマが伝わってくる雑誌で、貴重だったのに、休刊してしまった・・(残念)
最近の、大抵のファッション雑誌なんて、ワンシーズン過ぎれば、用が無くなり、廃棄処分となるところだが、ゾラだけは、捨てずにずっと側に置いてた。
今、私は、妹が提案した、本当にテキトーな服を着て人の注目を過度に浴びすぎず群衆に紛れる「神さま」(と妹は名付けた)ルックで、日常を切り抜けるのだが、大切と思える服は、着ていきたい、と今でも思うのだ。
ゾラの冒頭のページで、画家の藤田理麻が、「ゾラの肖像」というタイトルで、毎号、ゾラに相応しいテーマの元、絵と文章を掲載していたのだが、それがまた、素敵だった。
「奉仕」
国連に多額の寄付をしたCNN会長が、マイクロソフト会長はケチだと非難した。
物質的でも、精神的でも、社会に奉仕する行為こそが、何より大切なのではないだろうか。
こんな言葉を聞いたことがある。
「必要なだけを受け、最大限を与えること」 RIMA
思春期真っ直中の私は、こういった言葉に素直に感動していた。
