Crossing Bordersの書評掲載

体調が悪いと世界全体が暗くなるような気がしますが、ちょっとオーバーかな?でも自宅前の公園の木々が今年は例年よりも紅葉・黄葉がきれいなのは、もうすぐこの世からいなくなる?者にとっての最後の景色だからだろうか。今まで1回の入院経験もない丈夫な人間ほど病気に弱いのだろうと想像します。
 そんな弱気なところに、書評が掲載された『図書新聞』が届きました。先日の岡山での学会の時に先輩の伊藤さんから書評を書いたよと言われていました。読んでみると本当にちゃんと読み込んで、正確な理解と的確な評言なので感激しました。アメリカ文学と文化に精通している研究者ならではの書評なので、ここに許可を得て転載してしまいます。


伊藤章(北星学園大学教授、アメリカ文学

 本書は流し読みするだけでも、アメリカの文学と大衆文化に造詣の深い研究者による魅力的な書物であることがわかる。著書によれば、二〇〇八年の秋からブログに書いてきたアメリカの映画と音楽、文学に関する雑考をもとにしているということだが、単行本として編集するに当たり、手を加えているので、ゆるやかな統一性が生まれ、ブログの遊び心を残しつつ、アメリカ大衆文化論としてまとまりのある考察になっている。本書のメインタイトルにあるように、その時々に見た映画に触発されて原作やリメーク版、音楽、社会的・文化的・歴史的背景へと自由に、かつ軽やかに「越境する」という横断的な視点が著者の持ち味である。そういう意味で魅力的であり、ユニークなのだ。
 構成としては、第一部「映画と文学と」、第二部「映画を読む視点」、第三部「音楽を語る」と三本柱であるが、最後のほうに著者のお気に入りのミステリーや小説を論じたもの(第四部「ミステリーについて少し」と第五部「文学についても」)、アメリカ滞在時代の旅行記(第六部「トラベル・ライティングの試み」)も付いているのが、お楽しみ袋か豪華付録のようで楽しい。また、最初はブログとしてはじまったものだから、時々漏らされる著者の私生活と大学教師としての日々から、読者としては私小説を読むように、つい著者のパーソナルな側面をあれこれ想像するのも一興だ。学会出張の折り、立ち寄った蕎麦屋で昼間からお酒を飲むとか(著者の属する学会はたいてい土日開催です)、休みの日のお昼は大音量でジャズを聴きながらビールを飲むとか(奥様がお出かけのときです)、研究費でアメリカのテレビドラマのDVDを次々と購入するとか(大学での授業の準備のためです)、いやはや大学教師というのは、気楽な稼業だと読者は勘違いしてしまうかもしれない。しかし趣味の延長線上に研究があるというのは、研究者によくあることだ。
 著者の持ち味である、横断的な視点がよく表れている例をあげよう。第一部(一)「郊外を描く」において、アメリカ郊外を描いた映画としてトッド・ヘインズの『エデンより彼方へ』(二〇〇三)を枕に、この映画がダグラス・サークの『天はすべてを許し給う』(一九五五)のリメークであることを指摘し、両者を比較する。そして前者のほうが、五〇年代の郊外に住む白人中流家庭の閉鎖性と虚構性をより鋭く描いていると述べる。続くセクションではリチャード・イエーツの郊外小説『家族の終わりに』(一九六一)とこれをもとにした映画、サム・メンデスの『レボルーショナリー・ロード』(二〇〇八)を比較し、前者に子どものような親を生み出すアメリカ社会の未熟さを、後者に常に移動を夢見、定住を拒否する国民性を見てとる。著者の郊外論は、郊外を舞台にしたテレビのホームドラマにも及ぶし、『恋におちて』(一九八四)という映画を郊外の物語として読もうともする。さらには、郊外について書き続けたジョン・チーヴァーの短編も、郊外に住む高校生を捜査することになった探偵が登場するミステリー、S・J・ローザンの『冬そして夜』(二〇〇二)までも俎上に載せるのである。このように、映画とテレビ、文学、ミステリーなど様々なジャンルの垣根を越えたり、往復したりすることによってはじめて、アメリカ郊外の実像が見えてくるのかもしれない。
 著者の本領がいかんなく発揮されるのは、第三部「音楽を語る」であろう。とりわけ、モダンジャズにおけるビバップからクールジャズ、ハードバップへの流れをすっきりと整理したところとか、スピリチュアルジャズ論などは、ジャズを多少は聴いてきた評者にとっても秀逸だと思う。ジョン・コルトレーンの『至上の愛』(一九六四)という、誰もが認めるスピリチュアルジャズの最高峰を評して「そこには黒人音楽の持つ祝祭性や自由な解放感はあまり感じられない」と述べるところは、高校生の時からアメリカ音楽に広く親しんできた著者ならではの卓見である。それで終わらずに、コルトレーン亡き後、ファラオ・サンダースビリー・ハーパードン・チェリーたちが七〇年代から八〇年代にかけて、黒人の精神性と肉体性を同時に表現するという形でスピリチュアルジャズを発展させ、豊かな成果を生み出したのだと結ぶところは説得力がある。まるでミュージシャンのように、演奏技術に関する専門的な語彙を駆使して音楽を雄弁に語る、語り口にも感心させられる。
本書は全体として、映画や音楽、ミステリーに関する著者の幅広い趣味とアメリカ文学・文化研究、大学での教育活動が理想的な形で結びついて生まれた幸福な書物である。研究者はこの書物に論文の種がなんとたくさんちりばめられているか目を見張るだろうし、若い読者はアメリカ文化研究ってこんなに自由で面白いのか感じとってくれるだろう。