暑さ寒さも彼岸まで。

新たな希望の光とか。

どしゃぶりの音を聞きながら、チュッパチャップスを舐めつつ更新しているchikiです。




雨の中で飴を舐めているわけです。ふふ(寒)。




なんだか急に冷え込み出したなぁ、というアナタ。丁度よかったですね。ちょうど今長文を書いてみた所なので、ゆっくり暖まっていきなされ。ぬるかったり余計寒かったりするかもしれませんが。

本日のメインディッシュ

議論への前振り
9月から東京コミュニティカレッジの総合文化講座でご一緒させていただくことになりましたid:irukahotel0608さんからトラックバックを頂いてから、早くも2週間経ってしまいました(汗)。一連の作品について再考してみたり、『ファウスト』ブームに密接に関わりのある東浩紀氏の言説を追いなおしてみたりしていたら、あっという間に時が経ってしまい…(と言い訳)。




さて、今回chikiに投げかけられた質問は、東京コミュニティカレッジの講義を聴講していたことを前提としております。議論に入る前に、まずはchiki達以外の皆様にも分かるように、簡単にではありますが、前提の整理をさせていただきます。議論に興味の無い方にも、有意義なまとめになるように努力します。





ファウスト』の特色 ――東京コミュニティカレッジの講義を頼りに
9月25日に、『ファウスト』編集長の太田克史さんが講義を行いました。内容は、大雑把に言ってしまえば「『ファウスト』の画期的な所はどこか」というものです。太田氏はクローズな講義であることを意識なされて話していた部分も多かったし、そもそも有料で行われている講義ですので、一般的に知られている範囲に限定して講義の内容、及び『ファウスト』の性格をご紹介したいと思います。




太田氏はまず、新文芸誌と呼ばれる『ファウスト』の大きな特徴として、<ひとり編集>、<イラストーリー>、<本物のDTP>の3点を挙げました。これらの活用によって、コスト削減、反応速度の向上、流動性の向上、新たな表現手段の開拓などが望めることとなり、雑誌として現在のところかなり成功している、と言える状況を作り出してるということです。それぞれ、少しだけ詳しく説明します。




<ひとり編集>について。文芸誌といえば、編集者が数人以上付くのが通常だったのですが、『ファウスト』の編集は太田克史さんが1人で行っています。この企画を大田氏が考え付いたのは、2002年6月号の『群像』に掲載された、大塚英志氏の「不良債権としての文学」という論考への編集者サイド、現場サイドからの反論の意味もあったということです。その論考では、コスト計算の側面から文学がいかに「不良債権」であるかを実証された。つまり、「<売れない文学>の業界は<売れている漫画>の業界の資本の輸血によって延命していたけれども、その輸血ももうなくなるよ」といった論考だった。それに対して、「不良債権ではない文学」として、コストの側面からも「こういう手段もある」ということを発案、実践なされた、ということになります。なお、一般に「文藝が衰退した」と言われているが、むしろ「編集をする側が衰退している」のではないかという危機感が大田氏のモチベーションになっているそうです。




<イラストーリー>について。『ファウスト』は、まんが、アニメ、ゲームなどのサブカルチャーで使われているイラストをふんだんに盛り込んでいます。また、<ひとり編集>であることをいかして<マルチフォント>という手法を用いている。『ファウスト』を手に取れば分かることですが、作家一人一人に対してフォントを変えています。その作家の、或いは作品にあったイメージを髣髴とさせ、演出するようなフォントを当てはめることで、字そのものがテキスト表現に加担するような方法を選択した。太田氏にとって、「若者の活字離れ」は妄想であって、メールのやりとりやネットサーフィンなどを普段から行っているように、「未曾有のテキスト文化隆盛の時代」であり、そのことを常に意識して新たな表現の可能性を見出そうとしたそうです。「イラストを用いることに対して批判があるかもしれないが、浮世絵も当時は評価が低かったのだから」という言葉が印象的でした。




<本物のDTP>について。<ひとり編集>や<マルチフォント>を実現させるために、DTPソフトの発達が欠かせない条件でした。そのおかげで、今までのフロー…即ち作家→編集者(装丁、デザイン、入力、内容及び上がりチェックetc)→版下→校正→印刷、その時々に入るチェック、チェック、チェック…といった、煩雑な作業の多い流れに対し、かなり早急に対処できるようになった。かつてなら刷り上ったものを見て再度作家と相談して、また打ち直して…という作業だったものが、電話しながらDTPと向き合えばそれでいいわけですから。加えて刷り上りをイメージしながら原稿を執筆することも可能になったので、表現の幅も広がることになったのです。



また、『ファウスト』のコンセプトに、「ゼロの波の新人」というものがあります。この雑誌は、「90年代に青春時代を送った人々の魂の問題を書き・読むための文芸ムーブメント」であり、それが作家選出の条件にもなっている。そのことで、ある種の同時代的な感性を持ったような雑誌を作ることに成功しているとも言えるということです。









質問をして/質問を受けて
上記のような内容の話を受け、受講者から様々な質問が飛び交いました。具体的な答弁については割愛させていただきますが、DTP導入による電子出版の可能性やネットの可能性について意見を伺う方もいれば、「売れる=良い文学」という視点になっていないか、という批判的な視点に対するレスポンスを求める質問もあり、刺激的な答弁になっていたと思います。




そこでchikiも、こちらの指摘にもあるように、ひとつ質問をさせていただきました。それはこのような内容でした。


今回のお話は編集者、製作サイドから「可能性」なるものを摸索していたように思うのですが、(chikiもそれほど多くの最近の小説を読んでいるわけではないのですが)テクストとして出来上がったものにいくつか目を通した場合、マルチフォント等による「新たな表現の可能性」を追求するあまり、これまで文学が作り上げてきた「描写」の手法に対しておろそかになっているような作品もある、という感想を抱いています。イラストやフォント組み換えは割とイージーに使えてしまう側面があり、ステレオタイプ化や古典的表現のクリシェ(炎は赤、とか)になってしまう場合が当然あると思います。それはある意味で過渡期だからしょうがないのかもしれませんが、一方でそのような流れに対して批判的な視点をもちつつ、そういう手段を使わなければ開けてこない表現の地平に対して意識的な作家の文章をこそ読んでみたいという気持ちがある。今のところそのような作家に出会えていないので、現場で「こういう動きが出始めている」というのが何かあれば教えて欲しい。

これは、もちろん実際に質問した言葉とは違うと思いますが、概ねこのような趣旨の質問でした。





さて、このやりとりを受けて、id:irukahotel0608さんから「DeepLoveを意識していないか?」という質問を受けました。おそらくそういう意識もどこかにあったと思います。言うまでもなく、ケータイ小説として多大な人気を集めた「DeepLove」は、熱烈なファンも認めるほど表現が稚拙です。ファン掲示板などで「荒らし」にあった場合、「表現とかそういう問題じゃなく感動できる」とか「表現はたしかにまずいかもしれないけれど、この本で感動できるのはそういうところとは別のところ」という手の形で反発が起きるほどに(苦笑)。そして、その描写の稚拙さが、ケータイ小説の特徴なんだろうな、とも思ったりしました。台詞が多く、簡単な説明文に加えて「こんなにも不幸」という内面的な語りが延々と続く所などは「世界の中心で、愛をさけぶ」と非常によく似ています。言い換えれば、外部性と向かい合うような描写を一切排除し、自分の内面に安易に回収してしまっているわけです(これだから「恋愛」というテーマが嫌いなんじゃい!)。





また、chikiとしては、このエントリーに書いたように、テキストサイトなどがこれまで実践してきた手法が洗練され、ひとつのステレオタイプになっている現状で、そのようなステレオタイプな手法がステレオタイプな偏見や差別と結びつきやすいのではないかと思っております。つまり、「表現のイージーさ」と「イージーな表出」が結びついてしまうテキストが多くある(具体的にサイトを挙げるのはもめそうなので勘弁して下さいまし)。そして実際、多くの読み手もそれを求めていたりする。



テキスト系サイトの他にも、例えば政治色の強いサイトはアジビラのようにフォントを弄ることで自分達のメッセージをより分かりやすく伝えることが出来るわけですが、これは論敵を罵倒し、自分達の立場を擁護する際に利用する修飾形式としては大変優れている。ただ、それは「扇情的」ではある一方で、困難性とか対話性とかとはちょっと違う気がする。そして同様の疑問を、最近読んだ割と新しい小説に少し感じていたりしたのでした。そして、雑誌『ファウスト』を巡る言説にも、です。




このような指摘は、chikiが「文学プロパー」だから出るものではないでしょう。むしろ、『ファウスト』が90年代に青春を過ごした人を対象にしているのならば、chikiは1981年生まれですので丁度あてはまるし、ある種の実感というものも共感できる部分も、なじみのある部分もあります。id:irukahotel0608さんも同様だと推察します。これは余談になりますが、流行のアニメや漫画に目を通す一方、小学生の頃に全盛期だった角川スニーカー文庫、「創龍伝」とか「ゴクドー君」、あかほりさとるとかを読み漁る一方、ファミコンSFC時代のゲーマーであったりしまして、文学より『ファウスト』の対象とする「90年代」に染まっていた感があります。さらに余談を重ねると、「創龍伝」のイラストに関してはCLAMP許せん! 天野喜孝でなければ! と思っていた口です(笑)。




ところが、『ファウスト』という雑誌はすばらしい試みだと思う一方で、「ファウスト系」と呼ばれる読み物にどうもなじめない。何故なじめないのかについては今回のエントリーとややずれる問題なので別の機会に譲りますが、それは、例えば「ファウスト系」「ライトノベル系」が興隆するのに一役担っている東浩紀さんの批評のに対してchikiが抱いている雑感と似ているように思います。




東さんのサブカル批評は、大変平易かつビビットでわかりやすいのですが、「現代的な感性はギャルゲーやライトノベル系に顕著に当てはまっており、作品を分析するとこんなにポストモダンっぽいよね」と要約できてしまうような部分が大きいという印象があります。また、ギャルゲーを分析する際にも、「描写」よりも歴史的変遷や時代的感性、或いは作家性など、割と大きな構造に着目しているものが多いようにも思います。ギャルゲーの具体的な描写について云々する部分は目立たず、政治性や外部性などは主要なテーマとして具体的に表れてこない。彼の思想体系がデリダからコジェーブへ、という流れに則していると言い切ることはできないと思いますが、そこまで捨象していいものだろうか、という懸念が生じてしまう。





もしかしたらこのような見方自体間違っているのかもしれません。だから、そのような懸念を吹き飛ばすような批評性を持った動きというものがあるのか訊ねた次第です。id:irukahotel0608さんが「アヴァンギャルド」とおっしゃったけれど、個人的には「異化してみました」とか「おー、新しい」という次元だけでは駄目だと思います。ただ、ここまでお読みになっていただければわかるように、chikiはある種、「文学や描写には外部性や困難性と向き合う可能性がある」と信じている部分があるので、このような見方をするのだと思います。





長くなってしまいました。示唆を頂ければ幸いです。

今日のネタ

「今日の講義雑感:早稲田大学教育学部、石原千秋教授の場合」
「僕は五年だ」のタイミングに爆笑。chikiは「君はインターネットに落書きをしてるらしいじゃないか」どころか、「最近、長文を書かないじゃないか」とか「小谷野敦が書き込んでいたな。あれは間違いなく本人だろう」とか言われます。早稲田でも成城時代同様の千秋節なんだなぁ、としみじみさせていただきました。


「ノーベル平和賞、ケニアの女性環境活動家マータイ氏に」
明るいニュースだなぁ(*´∀`*)


「「ワンクリック請求」急増 新手の携帯ネット不当請求」
関係ありませんが、今日もワン切りがありました。公衆電話からかけなおしたら出会い系サイトに繋がりました。折角なので登録しました。


「中学生でセックスすると人生パー 」
これまたとんでもない記事です。


「【生活板】僕らの知らない生活をする人たち【貪欲に知りたい!】」
色んな生活があるのだと、改めて驚愕。


「例のトリビアってこのネタの・・・」
ちなみに、大黒摩季をスロー再生すると和田アキ子になります。本当です。


「[ガイドライン] しまった!ここは糞スレだ!のガイドライン 」
しまった! ここは糞blogだ! chikiに構わず…いやだぁぁぁぁぁ、構ってぇぇぇぇ!