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2006-01-17 ゲロゲロ。

(・∀・)カエル!

ジュディス・バトラー講演会 ―Undoing Gender―

こちらのエントリーにも書いたとおり、バトラーの講演会に行ってきました。他の方のレポもこちらでリンク集を作っています。以下、簡単にレポします。なお、懸命な読者諸氏には改めて言うまでもありませんが、この講演はいずれ正規にテキスト化されるかもしれないですし、メモを頼りにした主観的なものなんで、あくまで参考程度にしてください。特に後半部分、ややめっちゃ自信なし。



当日はあいにくの雨だったが、それでも会場は満員。ちなみにchikiは傘を忘れずぶぬれ。おかげでメモもびしょぬれ。特に後半部分が読み辛い。しかも最後の一枚はボロボロ。あらかじめすみません。講演はほぼ時間通りに始まった。通訳、司会は竹村和子氏。竹村氏の挨拶から講演は始まった。竹村氏は、講演にあたり2つのことをお願いしたとのこと。1つは、理論と政治の関係について述べてほしいということ。それは、昨今のバトラーは、思弁的理論を積極的に具体的政治に結びつける活動を行っており、葛藤・抗争・矛盾を深めている現代の状況で、グローバルかつローカルな状況を見据えているからであるとのこと。もう1つは、「精神分析」に言及してほしいということ。重要な視点であるにもかかわらず、日本ではあまり多く語られてなかったように思うから、とのこと。竹村氏のその要求を受け、バトラー氏は講演原稿の中にその視点を見事に取り込んだとのこと。タイトルは「Undoing Gender」。



講演の前に、会場に招かれたことへの竹村氏への謝辞を延べるバトラー。その謝辞を、日本語で「お礼を述べられました」とだけ翻訳する竹村氏。「OH。短すぎよ」と突っ込むバトラー。会場大ウケ。やんや、やんや。



講演会は二部構成。前半は2時間のバトラーの講演(実際は1時間半で終わった)、後半は質疑応答。質疑応答は、前半と後半の間の休憩時間にアンケートボックスにいれ、それを司会が選別・要約するという形式。また、講演の前半は『Undoing Gender』のイントロダクションでありながら具体的政治実践に関わる意見であり、後半が主に精神分析についての言及あった。なお、後半は『Precarious Life』の2章「Violence, mourning, politics」をベースにしたものではないかという意見をweb上で発見。なるほど。


アメリカでは人がなんと呼ばれるべきか論争があった。だからフランスではsexual politicsのことをアイデンティテイリア(アイデンティティに関わるもの)と呼ぶ。レズビアン・ゲイ運動とフェミニズムの間、この両者とバイセクシャルトランスセクシャルの間、インターセックス活動家とレズビアン・ゲイの間、レズビアン・ゲイ運動と緊張のあるすべての集団の間それぞれに緊張関係がある。こういう運動が相互に独自性を誇るような関係は終わりにする時期。私たちが「運動」と呼ぶものは、様々なグループの間にある緊張を大なり小なり解決していく実践。グループに属しているという主体は、人種や階級といった様々なカテゴリーの交差点にいることは覚えておくべき。運動のいずれかに属しているということは、様々な主体の間だけでなく各主体内部に存在している多様な緊張関係をネゴシエイトしている。


バトラーの考えは新しいジェンダーポリティクスの影響を受けてきた。トランスジェンダー、トランスセクシュアリティ、インターセックス、フェミニズムやクィア理論等多くの問題。こういった多様な枠組みが、時系列的に前のものを段々補完してきたというような進歩主義的歴史観的に把握することは誤り。それだとバトラーをポスト・フェミニストだと誤解する。ある運動が終わって次に別の運動が起こる、主体は一度に二つ以上の運動に関与できないという誤った思い込みがあるのは事実。それはアイデンティティ主義。それぞれの運動の範囲は閉じており、特定の主体によって全面的、排他的に表象=代理されるとする考え方。集団間の抗争や主体内部の戦いが運動を作っているということを誤解している。各運動の動きは、互いの関係性によって規定され、境界を常に理解しようとする。それらはネットワークを構成しており、互いに読みあい、読みあうことを拒絶し、また引用しあう。これがsexual politicsの形なら、アイデンティティ主義的なものではなく異議申し立てに満ちたもの。関係的なもの。葛藤に満ち、終わりなきもの。民主主義のプロセスのように。


sexual politicsの地形をしめている現代の緊張関係の例。『Undoing Gender』にも示したこと。


例:北米インターセックス協会←この運動は、解剖学的にセックスが不確定であったり、両性具有であったりする幼児や子供に強制的手術を施すという世界のあちこちで行われている実践に反対。理由はそれが強制的なものであるから。子供の同意なくして規範的ジェンダーに合致させようと身体を作り変えようとしているから。インターセックスという条件下で存在している子供は、人間の形態の連続体の一部を構成している。いかに身体的部位が変則的に見えたとしても、そのlife自体は尊重されねばならない。にもかかわらず多くのものが今なお犠牲にあっている。インターセックス運動で重要なことは、インフォームドコンセントを擁護することであったり、子供の同意を取り扱わずに行われる父親的温情主義への批判であると同時に、それがジェンダー化された身体と言う規範的説明に対する批判でもあるということ。


病理学的カテゴリーとみなすかどうかの議論において規範性への批判が別の形で出されたことは重要。精神保健に従事している人の診断マニュアルはジェンダーアイデンティティ障害というものを定義してきた。それは子供の中にホモセクシャリティの兆しを発見し治療行為の元においている。もしインターセックス運動が、ジェンダー化された身体という理念化・規範化された概念への対抗なら、ジェンダーアイデンティティ障害の診断への抵抗は、主体の心理的・社会的組成とみなされている予見可能な一貫性をもつジェンダーアイデンティティが果たして存在するのか、という疑問を呈している。


仮に女の子が男の子になりたい場合や自己のジェンダーを生涯にわたって変えたいと欲望したら、彼女の欲望、行動等を病理的とみなす診断の元に彼女をおくことになる。彼女が成人に達したとき証明書が必要になる。彼女は自分の欲望を実現させるためには診断書を必要とする。同時に診断書が暗示し実行している、彼女の欲望の病理化に反対していることにもなる。重要なのはこの矛盾をどう組み替えればよいかということ。診断を保険で扱う必要があるので階級の問題とも関係し、診断の手段として利用しつつ、逆説的に診断の妥当性や合法性を確固たるものにすることから権力の概念とも関係する。後者の場合、権力の行使がこの運動の核心に矛盾を生じさせる。トランスジェンダーの選択の自由を保障するはずだったし、その選択の病理化するアイデンティティ規範に異を唱えるものだった。この両方を行う道はある。この緊張が決定的な自己矛盾として存在しないように組織換えする方法を見つけ出すということ。


同性婚の運動は、合衆国の中で権利・資格の概念を混乱させ同時に拡大させている。平等についての憲法上の問題を「結婚」まで広げること。同時に、同姓婚の問題であるかのように語られると、親密な者同士の理想的な形として結婚の権利獲得を捉えることになってしまう。無論、同姓婚を認めるべきだという意見と、結婚こそ理想だという考えはまったく別。後者は、結婚自体を強力な規範的主張にする。


sexual politicsにかかわっている人、性的領域をもっと自由に組織化したい、財産や権力の問題を解きほぐしたい人には承服しがたい。しかし、問題化はむずかしい。同性婚が右翼から「不自然」「文明破壊」「神への侮辱」と攻撃されているときにはなおさら。「運動」が達成しなければならない目標は3つ。1.結婚の法的権利を拡大すること。2.性的生活の多様な方法を合法化することで結婚が唯一の選択ではないことを主張すること。3.結婚を望む同性愛者への同性愛嫌悪に対抗すること。


最後の視点は重要。「新しい親族関係の配置」という観点から考えることも重要。親族関係の形態は、生活を組織化する原理として結婚や再生産に頼っているわけではない。結婚の権利のためにいかに戦うかを考えるためには、財産、相続、子供についての議論を「結婚」の議論と離して考える必要がある。結婚によって仲介されないが正当な結びつきというのは存在する。いかなる進歩主義的なsexual politicsにおいてもその中心におかれるべき。


インターセックス運動がジェンダー化された身体、割り当てられたジェンダーに欲望を収斂させようとするものに抗うなら、親族関係の規範もまた不安定化されねばならない。最後の到達点は、結婚の生物学的再生産にとらわれない親族関係に合法性を与えることによって成り立つ。「運動」の核心は以下の問いをたてること。≪結婚の外であれ中であれ、法的・文化的に承認され、かつその承認から自由でいるためには、どのように性的規範を組織化することが必要か≫。


トランスジェンダーの運動を、性的差異をずらしたり取り込んだりする試みだとして憂慮を示す立場のフェミニストは、一般の価値観が二つの運動を必然的に出会わせているということを忘れている。ジョン・スコットの主張のとおりジェンダーを歴史的カテゴリーとして捉えるなら、いかにジェンダーが機能しているかを知るために思考枠組みを修正し続けていくこと。トランスな人々は、差別、失職、公的な場でのハラスメント、暴力の危険にさらされている。他方でジェンダーを歴史的カテゴリーとして理解するということは、身体文化的な配置の継続的な作り直しの可能性に開かれる。


解剖学やセックス。インターセックスの運動があらわしているように、セックスは文化の枠組みがなければ存在しないと言う考えを受け入れることでもある。あたかも自然で必要不可欠な特質であるかのように女性性を女の身体に帰着させようとすること自体が、規範的枠組みの中で女性性を生物学的女に割り当てジェンダーそのものを動かすメカニズムになっている。


男性的、女性的といった言葉は変化する。そこには社会的歴史があるし、誰が・誰に・どのように創造するかによって地勢的な境界や文化的制約を持つ。ジェンダーをさす言葉は固定化するのではなく常に作り直しのプロセスの中にある。セクシュアリティの組織化とジェンダーの二つの作り直しは、gender politicsの領域を現在規定している各瞬間に常に起こっている。どんな未来がsexual politicsに残されているかは、私たちの生存能力と前もって緊張関係を排除することなく緊張関係をネゴシエイトする能力にかかっている。


規範の問題から精神分析的理解へと議論を移す。自己同一化の病理化は、一貫したジェンダーという規範的概念を打ち立てている心理学の理論に強化されていると考えるから。


精神分析家の中には、少年同士のホモセクシャル的愛着を母親への否認と論じた人もいる。ここでは関係性の切断として理解されている。その背景には、他者との関係は一時的であり、その関係性の切断はすべての関係性の切断になるという考えがある。それを否認と捉えるのは簡単すぎないか。自分を女の子だと感じる男の子は、「否認」ではなく、「正しく」感じるような規範とは異なる見方をしているのではないか。Ken Corbettが「関係性を求める空想上の企て」と読んだものとして、ジェンダーを与える自己同一性を捉えることは不可能か。


規範は単に外的なものではなく、心理は文化規範から自由なものではない。規範は押し付けられるだけでなく、自身の出現の条件となっている。文化規範と見えているものが、主体の心理的理想をなすものとして内部にすべりこんでいる。ジェンダーは外部に位置づけられている構造であり、人は外でジェンダー化されている。とはいえ、ジェンダーが単に外部に存在するというわけではない。外部は同時に内部である。


文化規範は、内的形態をとったときに終わるのではなく、心理的様式、モダニティを呈している。それなしでは文化規範が機能しないものとなる。心的内面をあらかじめ存在する構成要素と考えることもできない。内的と呼ばれるものは外部にあるものと内部にあるものの断絶を作ったものの帰結。しかもこの断絶は常に起こり、起こることに失敗している。問題になっているのは、一方で自己は境界をひかれた存在であり、同じく境界を引かれた他のものとは異なるということ。一方は境界付けられるというものへの永遠の課題は、次々に起こる調整に対する応答によって解決することも解決しないことあるという間の差異であるということ。


ジェンダーと自己同一性について考えると、社会的言語と心理的言語の間を往復することになる。男の子に同一化しようとしている女の子は社会的に期待されている心理とは合致しない、という社会的説明をすることになる。この説明は社会的な少女のあり方を、心理的自己同一化から切り離して不一致が起こっていると決めかかっている。ジェンダーをわたる自己同一化は、社会的事実を名づけるやり方に変更を強いるものだと言うこともできるのでは。


男の子と呼んでほしいと頼むという「訴え」は社会的叙述の変更を求めるものになる。これは2つの行為。1.自分自身を名づける行為。2.呼びかけの行為、「あなた」に対する呼びかけ。自己同一化を心理的現実だけの問題だというわけにはいかなくなる。このような自己同一化は、呼びかけという形態をとっている。背景にあるのは、「承認」は社会的現実の一部をなしているということ。


別の名前・代名詞(he/she)で呼んでほしいと呼びかけることは2つの意味がある。1.社会的な承認の言語を変更することで社会的現実作り変えること。2.心理的なことがらをはっきりと社会的現実であるとみなしてくれと要請すること。ただし、心理的なものから社会的なものへの移行は、表現のない状態からある状態へ、ということではない。自己同一性が仮に語りえないものだとしても、別のシステム、別の動作で表現されることはないと考える理由はない。この要求がなされたとき、恐怖、羞恥は明確な申し立てに変容する。


バトラーが目指そうとしているのはジェンダーを与える自己同一性を「関係性を求める空想上の企て」と思い描くこと。非関係性に帰着する否認、ナルシスティックな解決として捉えるというモデルに抗うこと。ジェンダーにかかわる行為をめぐる羞恥の感覚は、関係性からの撤退の原因となる。



(にじんで読めない)フロイトの「悲哀とメランコリー」を再読したバトラー。メランコリックな人=絶えず不平を抱えている人。欠乏に注意を向け露呈させる。喪失感はあるが何を失ったかは不明。対象喪失を自我の一部の喪失に転移する。悲哀は世界を不毛にするが、メランコリックは自我を不毛にする。外的なものがなくなり、欠乏という内的にとってかわるようにみえるが、外的なものが内部に居場所をつくったということ。失った他者をかくまるため内面化する。



メモの最後の1枚、つまり講演の最後と質問部分はほとんど読めない。にじんでるというレベルではなくしわくちゃ。しわくちゃというかボロボロ。これからはクリアファイルに入れよう。講演は最後の締めが肝心なのに。だから紙媒体でちゃんと出たら必ずチェックされたし。当BLOGでもアナウンスします。質問で「バイセクシャルについてどう思うか」「オタクについてどう思うか」などが出てきたが、そのあたりも読めない。ただ、幸いなことにその部分は、「FemTumYum」においてid:tummygirlさんが詳しく感想を書いておられますので是非参考にされたし。


なお、このレポについてはSNSでレポしている方のメモをところどころ参照にしています。だって一人でこんなにメモとれるわけがないし(笑)。SNSでは10人以上がレポしているのですが、転載するのはマナー違反かと思うので紹介は避けます。ただし、それらに目を通したおかげで、自分のメモで抜け落ちている部分をかなり埋め合わせることができたことを明記しておきます。みんな結構しっかりメモしてるので本当に役立ちました。ただし、コピペはしてません。


さて、SNSという、クローズドな場での文章を引用・転載するのは極力控えているchikiですが、以下のコメントだけは大事な証言だとも思ったので紹介させていただきます。



「ペドフィリア――幼児を性愛の対象にしてしまうことですが、日本ではオタク文化によって、それが社会的に広がっているんです」というふうに司会者が続けたのを聞いて、オイオイ、そのまとめは違うだろっ!  現実の幼児に欲望を向けるペドフィリアと、オタク的欲望や萌えはまったく違うものだ。なのに司会者はそれを完全にごっちゃにしてしまっている。元の質問は知り合いが書いたもので、まったく違うニュアンスの質問だったのに。

 ところがさすがはジュディス・バトラー。こういう、誤解を呼んでも不思議はない質問のされ方だったにもかかわらず、「ペドフィリアの幻想と、現実の子どもへの搾取行動は区別されなければならない。行動を非難すべきであって、欲望を非難すべきではないし、欲望は分析される必要がある」 これにはちょっと感心しましたね。やっぱりバトラーはタフ。疲れたけど、信頼感は得られた講演でした。


質問を聞いたとき、「なんて質問をする聴衆がいるのだろう」とか思ったのだが、質問者ではなく要約にちょっとバイアスがあったということみたいです。なるほど。心の中で罵倒してごめんなさい。最後は「バトラーはヲタの味方」とメモしておこうっと(こら)。