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2006-04-15 毒を食らう気。

毒だぜ。

「新教育基本法案」へのツッコミ本番。

昨日、急いで「現行教育基本法と「教育基本法改正案」の比較 」を作りましたので、役立てば幸いです。


さて、ネット上を巡回してみると、特に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」部分を中心に、「法案」へのツッコミが少しずつ行われているようなので、まとめていきたいと思います。皆様からの「自分もツッコミしたよ」TB大歓迎です。



前文へのツッコミ

○われわれ日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うこと。

○この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進すること。

○日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り開く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定すること。


重要な変更部分はやはり「この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進すること」ってところですね。「真理と平和」が「真理と正義」へと変更され、「伝統」と「公共の精神」が加わりました。「公共の精神を尊び」というフレーズ自体は、一見問題がないようにも思えるけれど(公共=国、ではない)、保守的な教育言説においては「公」ではなく「共」ばかりが強調されがちに思うので、今の国家には分不相応、荷が重い言葉だと思います。


それから「伝統」という言葉。伝統というのは常に選択の対象になっており、何が伝統であるかさえ共有されていない現状、あるいは伝統の再帰的な選択が機能していない状態では、単に「上の世代の思い出」でしかなかったりするので注意が必要。「伝統を継承し、新しい文化を創造」という言葉からは、選択的意思も導き出せるとは思うし、「今までよかったことは、これからもよい」というような伝統主義的発想は導き出されないようにも思うけれども、わざわざ加える必要は感じません。基本法に書くまでもなく、伝統は常に・既に選択的に継承・改変されていくもので、なぜこの点を強調しなければならないのかが不明。いっそ「歴史を学び」とかにした方がまだマシに思うけれど、どうだろう。



随分マスターワードを並べましたね。それが何かの意味を喚起していた時代は、もう過ぎ去ってしまったのに。国民国家の癒着を堅固なものにしたい、というおじ(い)さん連中の心意気は分からんでもないが、どうあがいてももう無理ですぜ。やるんなら伝統や文化というポジティヴな連続性だけじゃなくて、それに戦争責任や同化政策といった負の連続性も加えないと。これからの国家は、そういう正負双方の連続性が想像される場になってもらいたいものですね(それがアジアで生きる国家の正当な国益ってものです)。そして国民は、国家と連続していると同時に切り離されてもいるという曖昧な位置を利用して、国家を批判していかないと。国家の側の人間は、永遠にナショナリストであっていただかないと困る(自分たちの私益に走っちゃったら困る)ので、頑張って「愛国心」を称揚していただきたい。ただし、国を愛するということは国の嫌な部分も見なくちゃいけないっていうことで、そんないい部分ばかり見て永遠に続いていく理想的な恋愛関係なんか存在しないわけで(一時の熱にほだされた「ひと夏の恋」ぐらいのもの)。

「愛国心@今日もぐだぐだ」id:pilateさん)

「個人の自由と尊厳/普遍」という回路から「集団/秩序/伝統」という回路への価値観のシフトを見て取るのは、素直な解釈というものでしょう。秩序と伝統は考えなくても出てくる。個人の自由と尊厳そして普遍という対象は、反省=内省なしでは取り出せない。

というわけで、まあなんというか、「普遍」というものを対象に考えるという「文化」は日本には根付かなかったんだね、ということを改めて感じたこの法案でした。理解できないものが見えないというのは、当然の流れです。

「新教育基本法案全文 @めもり〜り〜く」id:lapisさん)

伝統はある民族・社会・集団の中で受け継がれて来たということなので、教育基本法では日本という国で受け継がれて来たものを指すのだと思うが、日本という国は時代によってその領域が変わっている。大和朝廷が統一した時代には東北地方は一部しか入っていない。縄文時代ならば東北も含まれる。琉球王国は本格的に領域になったのは明治時代だ。北海道も明治時代からだ。沖縄の伝統は取り入れるのだろうか。在日韓国朝鮮人は戦後60年日本で生活して来た。彼らの風俗などもわが国ではぐくまれた伝統になるのだろうか。

日本の政治的伝統といえば江戸幕府ではなく天皇制になるのだろう。身分制度といえば士農工商や部落があるがこれも伝統だっただろうが捨て去った。伝統も時代と共に取捨選択されるものだろうと思う。

伝統の具体的内容は具体的には下位の法律や通達で示されるのだろうが、恣意的な判断は許されない。以前も書いたが国家には教育権は無いので国家が尊重すべきものを決めるのはおかしいと思う。

「「伝統をはぐくんできたわが国」とは何を意味するのだろう。@飯大蔵の言いたい事」(飯大蔵さん)

日本国は大日本帝国の相続者であり、そこには連続性が認められる。しかし、明治維新は、徳川幕府に対するクーデターであり、そこには体制の断絶が認められるから、大日本帝国−日本国の伝統は江戸時代にはさかのぼらない。したがって、日本国民が継承すべき伝統とは、大日本帝国以来の伝統、帝国臣民の文化、ということになる。

これが与党案要綱前文の主語「われわれ日本国民」が継承すべき文化として、もっとも合理的な解釈である、と思うがどうだろうか。

「「われわれ日本国民」とは誰か@恐妻家の献立表−葦の原に穴掘って」id:t-hirosakaさん)

中華人民共和国教育法

第7条 教育は中華民族の優秀な歴史的文化的伝統を継承,発展させ,人類文明が生んだすべての優れた成果を吸収しなければならない

「改正」案はこれを連想させるんですけど。「われわれ日本国民」が(歴史的に)いつ頃から「民主的で文化的」な「伝統」をもつようになったんですか?

「前文の「伝統」をめぐる批判@Inductive Substraction」id:kurahitoさん)

60年近い歴史と伝統のある現行教育基本法は継承しなくていいわけですな。

「「改正」案の前文に重箱の隅をつつくようにつっこんでみる(てゆーかボケ?)@kmizusawaの日記」id:kmizusawaさん)

最後のウケた。



第一条へのツッコミ

(教育の目的)第一条

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた、心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならないこと。


「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」が削除され、「必要な資質」に書き換えられる。何が必要な資質なのかは、他の条文と照らし合わせられることになりますが、特に第二条の1〜5に明記されていることがこの場合の「必要な資質」とされるでしょう。1〜5を見ると、2に「個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性をはぐくみ、自主および自律の精神を養うとともに、職業および生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと」とあるので、「個人の価値」などが削除されたわけではない点に注意。意味は変わってますが。というわけで、第二条とセットで見る必要があります。


(教育の目標)第二条 

教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとすること。

一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体をはぐくむこと。

二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性をはぐくみ、自主および自律の精神を養うとともに、職業および生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

一項の「豊かな情操と道徳心」と「健やかな身体」がひっかかる。なぜって、個人的に、道徳は倫理の対比で捉えており、「道徳=共/倫理=公」という認識がある。小室直樹さんなんかも「道徳とは強者のルール」って言ったりするもので。


二項は現行1条と比較されるべきものです。現行1条と比較すると、「個人の価値」は尊ばれるものから「尊重して、その能力を伸ば」されるものに変わっています。これは、妙な優生学と結びつかないように注意が必要。別条で歯止めがあればいいのだけれど、例えば改正案の第四条に「すべて国民は、等しく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず」と書かれているて、むむむとうなる。「能力に応じ」るとは、どういうことを指すのか、能力とはアプリオリに存在するものなのか。また、特に第四条第二項で「障害のある者が、その障害の状態に応じ」とある。障害の有無によって条項を変えているのが気になる。第一項には「人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって、教育上差別されないこと」とあるが、ここには「身体」は含まれていないのだ。第一条の「健やかな身体をはぐくむ」というのが教育の目標になっていることから、恣意的な解釈に対する歯止めとしての機能は不十分にも思える。


もうひとつ、「職業および生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと」が明記されていることもひとつの大きな変化です。


第2条第2号に「職業および生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと」というのが新たに盛り込まれています。今さらながらと言えばそうですが、改めてこういう規定が明文で設けられることの意味はやはりそれなりにあるのだろうと思います。キャリア教育の根拠規定ということになるのでしょう。

一方で、現行第7条(社会教育)では、「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない」となっていて、「勤労の場所」で行われる教育、すなわち企業内教育訓練というものが、教育の重要な柱の一つとして明確に位置づけられていたのですが、改正案(第12条)では「個人や社会の多様な学習に対する要望に応え、社会において青少年および成人などに対して行われる教育は・・・」となっていて、逆に生涯学習としての職業教育訓練という視点が薄れているようにも見えます。(…)

一体、普通教育じゃない職業教育も含めて義務教育とすることは、憲法違反なんでしょうか。これは、実はかつて現実にあった議論のようです。終戦直後、ドイツのように、18歳までデュアルシステムによるものも含めて義務教育とするという意見もあったのですが、憲法の義務教育は普通教育という規定を理由に否定されたという話があります。しかし、それはなんだか本末転倒のような感じがします。

高校の義務化を考えなくても、たとえば義務教育である中学校に職業教育を導入するのは憲法違反、教育基本法違反なのか、と言う問題は、今でも発生しうるわけですよね。

「教育基本法改正案における「職業」@EU労働法政策雑記帳」(hamachanさん)



次。三項に「男女の平等…を重んずる」と書かれているのは、もしかすると現行第五条よりも「男女平等」が強調されることを意味するかもしれない。但し「その発展に寄与する態度を養うこと」はひっかかる。フェミニストにもバックラッシュにも双方に評判の悪い「ジェンダーチェック」もOKということになってしまうけれど。


四項。だから、態度ってなによ。


五項。改正案の目玉です。「それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」というセンテンスは、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」という表現によって、一応は「軍事的外交はナシよ」というアピールになっている。但し、いわゆる「愛国心」の問題点は、「軍事国家になってしまう!」的なところに限定されるわけではない。むしろ、思想・信条の自由、および「統治権力の暴走をチェックできるか/チェックできるだけの能力を国民に与えられるように設計されているか」という問題の方が重要であるとさえいえる。その意味で、一番気になるのは「態度を養う」というところ。



≪他国尊重…二重基準に≫

「国という用語を使う場合、統治機構は含まないことを明確にすべきだ」とした公明党の主張を踏まえ、「愛国心」の規定では「心」は「態度」に変え、国ではなく「わが国と郷土」に。さらに「他国を尊重」との表現が加筆された。

文科省内からは「内面にとどまる『心』ではなく、外形的に表出する『態度』を養うことを教育目標に掲げる方が、効果は大きい」といった期待感も出ている。

一方で、自民党内からは「この記述ではわが国については『統治機構を含まない』としているのに、他国については統治機構も含めて尊重すべきと規定したことになる」(文教関係議員)と批判が強い。(阿比留瑠比、安藤慶太)

「残るあいまいさ 教基法改正案 @産経新聞」

(↑の記事を受けて)こんなことを言い出すから教育基本法の改正に反対をしている。「外形的に表出する『態度』を養うことを教育目標に掲げる」というのは、「私はこんなに強く愛国心を持っています」と具体的に態度で示せということだ。

「愛国心ある人なら手を叩こう、愛国心ある人なら手を叩こう、愛国心あるなら態度で示そうよ。ほら、みんなで手を叩こう」

「今から愛国心を測るテストをします。不合格の人は居残りで愛国心について学んでください。」

「愛国心はこうやって表現するんですよ。そこ、手は指先まで伸ばして。」

こんな時代が来たらどうしよう。

「このようなことを言い出すから反対をする@今日行く審議会」id:kaikai00さん)


ついついつられて「クニ好きなら手を挙げよう♪クニ好きなら手を挙げよう♪クニ好きなら態度で示そうよ、さあみんなで手を挙げよう♪(ジーク・ジャパン!)」という替え歌を思いついてしまった。もちろん心の問題に限定されているかのように書かれていても、それは必ず「態度」の問題と重ね描きされるので、本質的には同じ。ただ、より露骨になったということでしょうか。


で、産経の最近の記事はすごいですね。どのメディアにも「特に脇の甘くなってしまうテーマ」があるのだけれど、こういう意見の分かれやすい、それでいて大きな争点の時には特にそれが浮きぼりになる。もちろん「国民」がこういう「祭」を重ねてリテラシーを身につけていくことは重要なので、そのためのよいサンプルにはなりそう。ところで、仮に「他国の統治機構を無視するような教育をしないように」と自国の統治権力に歯止めをかけておくことは矛盾ではないのだけれども。「自民党内」は、「統治権力を含めた国を愛せ」という本音が見え隠れしているゾ。


前回練習問題を行ったときも言ったことですが、重要なので繰り返します。「右/左」というのは本質的な問題ではありません。仮に「国を愛するように」と明記され、その場合の「国」に統治機構をも含めた場合、もし「サヨ独裁政権」のようなものが誕生したとしても、基本法が歯止めとして機能しないばかりか「強制」として働いた場合はその「サヨ独裁政権」を愛さなきゃいけなくなるわけです。だから、「オデ、国を愛してるしー」「ヤター。保守国家の誕生だー」的な感覚で賛成している人は、もう少しじっくりと考えたほうがいいと思う。


(「北朝鮮も尊重するのか」という不満の声が上がるなど異論が続出…)こういうことしか言えない政治家に呆れる。他国を尊重するというのはその程度なのだろうか。そういう政治家に限って同じことを他国から言われたら腹を立てる。国会で「この他国とはどこからどこまでなのでしょうか」「この国は含まれますか」などと他国の範囲について質問するのだろうか。そして文科省は「範囲はここまでで、この国は含まれません」などと答弁するのだろうか。

「呆れてしまう論議@今日行く審議会」id:kaikai00さん)

 最近目に付く単因論は愛国心にまつわる言動である。

  • ニートが増えたのは国民の愛国心が足りないからで、愛国心教育を行えば解決する。
  • 治安の悪化は国民の愛国心が足りないからで、愛国心教育を行えば解決する。
  • 少子化は国民の愛国心が足りないからで、愛国心教育を行えば解決する。
  • ライブドア事件に象徴される拝金主義は愛国心の欠如が原因で、愛国心教育を行えば解決する。
  • 耐震偽装問題に代表される職業モラルの崩壊は愛国心の欠如が原因で、愛国心教育を行えば解決する。
  • オリンピックで日本がメダルを取れないのはは愛国心の欠如が原因で、愛国心教育を行えば解決する。

 赤提灯レベルではこんなくだらない意見を平気な顔をして言う人が少なくない。こういう人間こそ、日本人の誇りが足りないのではないのか?英知の欠片もない言動を糞尿の如く垂れ流す光景は見るに耐えない。

「単因論を排す@Sapporo Life」id:kechackさん)


戦後教育を受けてきたはずの人が、自分には「正しい愛国心」があることを前提に「基本法に愛国心を書かないといけない」と主張しているのは面白い。現行法では「愛国心」が書かれていないのに、これだけ自称「愛国者」が多いということは、基本法に「愛国心」って書いていても書いていなくても実際は関係ないってことですね。じゃあ、書かなくていいじゃん(もちろんこの論理は冗談です)。


まず内容の問題として「伝統と文化をはぐくんできた我が国と郷土」というのが何を指し示しているかと、「愛する」とはどのような行為であるかという点が挙げられる。また、国(や社会)に対して教育を受ける側がなんらかの行動や態度を示す必要が生じるようになるのではないかという危惧がある。かつて国旗国家法が成立したときに、当初は教育現場での強制はしないということだったにもかかわらす、特に東京都で見られるような学校と教師に対する締め付けとして利用される事態が既に起こっていることは、今回の教育基本法の改正の試金石として参照しておくべき事例であると思う。

「教育基本法改正案@うずまき日記」id:aoi-soraさん)

僕が嫌なのは、そこから先の話で、愛国心教育を導入しても結局は何も変わらなかった時に、今まで「愛国心教育は日本を救う」と言っていた人達が、「実は愛国心教育と、青少年の問題は関係がなかったのではないか」と再考したりは全くせず、「問題が解決しないのは、愛国心教育が徹底されていないからだ。更なる愛国心教育を!」と噴き上がるのが、目に見える様だからだ。

その結果、「問題が解決しない→愛国心教育の強化→それでも問題が解決しない→更なる愛国心教育の強化」といった、愛国心教育スパイラル状態になってしまうのではないかと思わず妄想してしまうけど、本当になってしまいそうで少し心配。今回の教育基本法『改正』案が、そのスパイラルの入り口だったりしたら凄く嫌だな。

「愛国心教育スパイラル?」id:opemuさん)

思い浮かぶのは、たとえば国旗掲揚・国歌吹奏(斉唱)の時に起立し、大声で歌を歌っていることは、「愛国心」の発露だろうか?表面的に儀礼に従うだけだったら、本心で国をなんと思っていようができる。「面従腹背」。こんなことが、「愛国心」の有無の判断材料になったり、指標になるんだろうか?現実には愛国心はともかく、各教育委員会の国からの評価基準にはなっているようだが。(…)

逆に、「愛国心」があるからこそ政府批判をし、社会批判をするのだ、という論理も成り立つだろう。(…)

もし法律に盛り込むことによって、何等かの具体的な「服従」を求めるものであるとするならば、それは「間違い」とはっきり主張したい。「文脈」といったのはそういうことで、文言そのものが持っている意味と、現実に適用される段階では意味あいが変わって来る可能性がある、という点だ。愛国心」がなんらかの行動の評価基準になる、そんなばかばかしいことはない。そんなレベルに「愛国心」を使うんなら、「愛国心」がかわいそうだ。

「「愛国心」ねえ・・・。@虎哲徒然日記」(虎哲さん)



基本法の性格についていろいろご指摘いただいた。

「基本法は、自国の統治機構に対する国民からの命令」という部分は、たしかにこのように考えることはできますが、それも一つの解釈であり他の解釈も成り立ちます。国民が制定者である憲法と異なり、教育基本法の制定者は統治機構の一つである国会です。それゆえ、アプリオリに「国民からの命令」ということはできません。

上記のような見解に立たれるとしても「〜と考えられる」「という見解が通説である」などの留保を付しておい方が議論の基礎が確かになるのではないかと思います。

(コメントより)

「教育基本法は教育の憲法だ」とか、現行教育基本法を重視する人たちは言うが、それは事実上重要だという意味で言ってるんであって、法理論上憲法と同じく国民からの国家への命令ということにはなり得ません。法律には変わりないからね。たまたま法律の名前が「基本法」だからといって、それが「法理論上国家への命令だ」なんて書いてる文献があれば教えてもらいたいものです。

(コメントより)

「基本法」なるものの法的性格ななにか、と問いを立てると対象が大きくなるきらいがあるとワタシは考えるので、「教育基本法」=教育に関する特殊法の重要な1つの法的な特徴はナニか、と問いを立てていこうと思っています。最高裁大法廷判決で以上のようにいわれていたわけで、現在のところこの判例の線に沿って*2教育に関する裁判は判示されています。

ここでは、いろいろ限定が付されていますが、「教育関係法令の解釈及び運用については、法律自体に別段の規定がない限り、できるだけ教基法の規定及び同法の趣旨、目的に沿うように考慮が払われなければならないというべき」とされ、教育に関する立法や行政・その解釈と運用(=国家権力の総体)は「教基法の規定及び同法の趣旨、目的に沿」って拘束されるべき、と、読めるわけです。

「教育基本法の“根本法規”性―北海道学力テスト最高裁判決より@ONO-Masa Home Page (はてな出張所)」id:annntonioさん)

教育基本法における教育の語は、教育行政=公教育を念頭において用いられているようにみえます。そうだとすると、教育の目的・理念を遵守すべき主体は、国民というよりは、国家ということになりそうです。が、しかし、前述の旭川学テ事件判決は(…)国民教育権の制約法理について必ずしも論じていないからです。

そうだとすると、教育基本法で宣明された理念は、一定の範囲で教育権限を有する国家に対する命令である、との考え方は十分なりたつと思われます。

「私見@+ C amp 4 +」id:swan_slabさん)


この辺はひとつの肝なので、しっかり調べよう。それまでは一部訂正します。



第四条へのツッコミ

(教育の機会均等)第四条

(1)すべて国民は、等しく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって、教育上差別されないこと。

(2)国および地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育が受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならないこと。

(3)国および地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならないこと。


既に述べたとおり、一項に「身体」が含まれず、二項に「障害」が明記されているのは意見の分かれるところ。「その障害の状態に応じ」ということは、むしろその「障害の状態」を基準として定める別の法が議論の対象になるかも知れない。



第五条へのツッコミ

(義務教育)第五条

(1)国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負うこと。

(2)前項の普通教育は、個人の能力を伸ばし、社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家および社会の形成者として必要な資質を養うことを目的として行われるものとすること。

(3)国および地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担および相互の協力の下、その実施に責任を負うこと。

(4)国または地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しないこと。


第一項「9年の」が削除。幼稚園を義務教育化しようという話も出ているようなので、それに合わせているのかな。十一条とも関係があるだろうし、あるいは高校とかも視野にいれているのかもしれない。第二項の「国家および社会の形成者として必要な資質を養うことを目的」とは、第二条に書かれている5つの項目に対応していると思われる。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」も、必要な資質になるということでしょか。




第六条へのツッコミ

(学校教育)第六条

(1)法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体および法律に定める法人のみが、これを設置することができること。

(2)前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならないこと。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならないこと。


元の2項「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」は九条と対応。新たに「体系的な教育が組織的に行われなければならない」が加えられ、「この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高める」が加えられる。「必要な規律」が何かは明記されず。



第七条、第八条へのツッコミ

(大学)第七条

1 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

2 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。

(私立学校)第八条

私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。

一瞥したところ、現状の反省を踏まえた上での法案には、少なくとも僕には思えない。たとえば、第七条の大学に関してだが、国連国際人権規約社会権規約第13条2項(C)の「高等教育における無償教育の漸進的導入」を考慮すると、第四条4項の義務教育無償と対応する規定が必要になるはずだとおもう。

 ついでに書くと13条2項(c)を留保しているのは、社会権規約批准国151ヶ国中ルワンダ、マダガスカル、わが国の3ヶ国だが、留保していた理由として現行教育基本法があったと主張するのだろうか?それとも日本の大学は国際標準と違うことを明示するために憲法に盛り込んだのだろうか。(この件についてはhttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/fp1100pc/un/un05.htmlhttp://university.main.jp/blog3/archives/cat69/index.htmlなどを参照)

また、改定案第八条に私立学校助成が載っているが、私立学校振興助成法が成立したときの国会付帯決議(私立学校の経常費の半額を補助せよ)が実現していない、具体的には1980年の29.5%をピークに漸減し、ここ数年はわずか12%程度にまで落ち込んでいるという現状(たとえば、ttp://www.bekkoame.ne.jp/~kfpu/publication/news83.htm)

は、教育基本法に明文化されていないせいなのだろうか?また、この法案どおりになったら、経常費の半額補助という国会決議は実現するというのだろうか。

「教育基本法が諸悪の根源なのか?@日々是忙殺」(藤間真さん)



第九条へのツッコミ

(教員)第九条

法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならないこと。このためには、教員の身分は尊重され、その待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならないこと。


現行6条第2項では「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。」とあり、「崇高な」「絶えず研究と修養に励み」「養成と研修の充実」が加えられていることがわかる。



第十条へのツッコミ

(家庭教育)第十条

(1)父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとすること。

(2)国および地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会および情報の提供その他家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならないこと。


十条は新たに策定。特筆すべきは、「父母その他の保護者」の役割が明記されたこと、そして「一義的責任」が加わったことです。どちらも、結構なマジックワードとして機能するので、注意が必要です。



第十五条へのツッコミ

(宗教教育)第十五条

(1)宗教に関する寛容の態度および宗教に関する一般的な教養ならびに宗教の社会生活における地位は、教育において尊重されなければならないこと。

(2)国および地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならないこと。


「宗教に関する一般的な教養」の部分が加えられました。これが加わることで、宗教教育の具体的な実地を必要とされることになるのでしょか。もちろん、宗教教育に反対もしませんし、必要なことだとも思いますが、「宗教に関する一般的な教養」を加えるのにどのような理由があるのかはちょっと分からない。



第十六条へのツッコミ

(教育行政) 第十六条

(1)教育は、不当な支配に服することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担および相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならないこと。

(2)国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならないこと。

(3)地方公共団体は、当該地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならないこと。

(4)国および地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならないこと。


「日教組ツブシ」の目標であった「不当な支配に服することなく」が削除されなかったことが話題になっていますが、前後を見ると、これまでは「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」であったのに対し、「不当な支配に服することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担および相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならないこと」に変更されており、かなり意味が変わっています。


「不当な支配に服することなく」が残ったことで、「日教組がのさばる!」と騒いでいる人が結構いましたが、これはあまりに表面的で、基本法に対する見解が「いま・ここ」に限定されていることを露呈している、あるいはどうも前後の文脈を無視しているように思います。まず、「不当な支配に服することなく」っていうのは、最近作られてる保守系の教職員団体に対しても適応される。その点、例えば「不当な支配に服することなく」を単純に削除した場合、統治権力が「保守」的な状態であれば「保守」的な人は「不当な介入」をされずにすむかもしれないけれど、いずれ「サヨ的」な国家が生まれて「サヨ的」思想を強制していたとしても、それに対して「保守的」な抵抗をすることが不可能になってしまう。かように、「国を愛するがゆえの統治権力への抵抗」も視野に含めた議論であるかは疑問。


「国と地方公共団体との適切な役割分担」がどのようなものかは、第二項、第三項、第十七条、および「他の法律」によって位置づけられるようです。十七条を見る限り、どうもトップダウン的なツリー構造を強く意識しているようにしか見えないです。「古くなったので、現状に合わせること」というのが改正の根拠付けのひとつであったように思いますが、そうはなっていないような…。



「改正」を批判してるからって「左」が正しいわけじゃない

しかしこの問題には左派にも責任がある。第一に、左派もまた青少年をイデオロギー闘争の対象にしてきたこと。左派の文言として用いられる、「教育基本法を改正して「愛国心」を押し付けると戦争を肯定するようになったり、他者への想像力が失われる」というものもまた、青少年を莫迦にした物言いでしかない。第二に、左派の少年犯罪に対する認識が、その大部分において右派と共有していることである。というのも、右派が少年犯罪の根源として「愛国心」や父性の欠如を槍玉に挙げるのに対し、左派は少年法・教育基本法の改悪に反対しながらも少年犯罪の根源を「適切な愛」なるものの欠如、あるいは「ライフハザード」などというわけのわからぬものに求め、結局のところ澤口俊之や「ゲーム脳」などといった疑似科学を肯定してしまう。

「俗流若者論ケースファイル79・読売新聞社説@新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜」後藤和智さん)

「愛国心」を批判するのは容易だ。しかし、細分化されていく世界の中に不器用な形であれ合意を見出そうとする努力は必要だと思う。もちろん、その合意を「愛国心」の法制化のように上から押し付けるのは好ましいことではないが、今回の広田の議論に関する限り批判が先にたって「愛国心」に対する対案が見えないので割り引かざるをえない。批判としては正当だが、何も考えずに「左折」するのもちょっと怖い。

「愛国心の交差点 @今日もぐだぐだ」id:pilateさん)

さて、「国・郷土を愛する」についてですが、しばしば、国が国民の心の問題に介入するのはけしからんという議論がみられます。じつにそのとおりです。しかし、ここで原理主義に陥ると大変なことになります。

現行基本法は「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」と実質的な規範を真っ向から打ち出しており、国家が国民の心に介入するな、との批判があれば、その批判は現行基本法にも同様に当てはまります。個人の尊重のあり方も一様ではないし、平和の希求の仕方も多様でありえます。何が伝統かの解釈は一様ではないはずだ、との批判は、たとえば平和の希求の解釈にも同様に幅があるはずだとの結論を導きます。

「国や郷土を愛するということについて@+ C amp 4 +」id:swan_slab


メタな視点から。

《教育基本法の改正論者の典型的なレトリックは、「教育の現状には問題がある。また、これからの日本は○○のようになるべきだ。だから教育基本法を××のように変える必要がある」というふうなものである。しかし、ここには、いくつかの論の飛躍がある。第一に、教育の現状に問題があるということと、だから教育基本法を変えなければならないという主張の間にある、論の飛躍である。第二に、教育の現状に問題があるということと、だから「××のように」変えねばならないということとの間の飛躍である。第三に、「これからの日本は○○のようになるべきだ」という像の妥当性や合意の問題である。第四に、仮に「これからの日本は○○のようになるべきだ」と認めてみた場合に、「教育基本法を××のように変える」のが果たして適切な方策かどうか、という問題である。》

「広田照幸『《愛国心》のゆくえ』教育基本法改正という問題@ことばのリハビリ」id:mushimoriさんによる、広田照幸さんの引用)


教育基本法改正問題についての論評を続けましょう。今回は、『毎日新聞』4月15日付のコメントを取り上げることにします。

 ジャーナリストの桜井よしこさんの発言です。桜井さんといえば高名なジャーナリストですが、高名であることは全ての問題に通じているわけではないということの典型のような発言です。

 「今の法には道徳的価値観の記述がない」「教育勅語の廃止が子供の歪みを生んだ」という桜井さんの発言を読むと、この問題について何も分かっていないということが、良く分かります。このような方にコメントを頼む新聞社の見識が問われるというものでしょう。

 第1に、法律に「道徳的価値観」を書き込むことの是非が全く意識されていません。本来、法とは行動を規制するものであって、価値観を規制するものではありません。したがって、「道徳的価値観」を書き込んでいないのは当然でしょう。

 特定の「道徳的価値観」を法に書き込むことが、個人の思想や信条、内心の自由を犯すことになる危険性について、桜井さんはまったく意識していません。これは、ジャーナリストとしては、驚くべきことです。

 第2に、教育勅語を評価する発言も驚くべきものです。勅語は「軍国主義によって悪用されただけで『勅語それ自体は悪いところがない』」というGHQのヘンダーソン教育課長の発言を肯定的に引用し、教育勅語の内容は悪くないと主張されています。

 教育勅語によって教育が支配・統制され、マインドコントロールによって人々を戦争へと駆り立てていった歴史をご存知ないのでしょうか。そこに示された「道徳観」がかつて軍国主義に「悪用」されたのであれば、同じような「悪用」が今後も繰り返される恐れがあるというべきではありませんか。

 第3に、「教育勅語の廃止」と「子供の歪み」を直結させる発想も、驚くべきものです。「子供の歪み」とは何を意味しているのかはっきりしませんが、よしんば、それがあるとしてもその原因は様々でしょう。

 何を根拠に、「教育勅語の廃止」こそが、その原因だと主張されるのでしょうか。もし、教育勅語が廃止されなかったなら、「家庭や家族の大切さや道徳が欠落」することはなかったと言えるのでしょうか。法にそれが書かれていれば身に付くなどという発想自体、教育というものを良く分かっていないと言わざるをえないでしょう。

 さらに、桜井さんは、最後のところで、次のようにコメントしています。

加えるべきは、戦後日本に欠落してきた日本人の道徳と心の涵養である。その意味で国を愛する心の是非が争点となったが、祖国愛は万国普遍の価値観であり、それを否定すること自体が、戦後の片肺教育の影響ではないか。

 「日本人の道徳と心の涵養」を法に書き加えれば、それが身につくかのように考える発想はここにも見られますが、問題はその後の部分です。「国を愛する心の是非が争点となった」というのは、真っ赤な嘘だからです。

 そのような「争点」は存在していません。「国を愛する心」など必要ないと言っている人が、一体どこにいるのでしょうか。

 「争点」となっているのは、このような「心の是非」ではなく、それを法に書き込んで教育の目標とすることの是非です。桜井さんは、この違いが分からないのでしょうか。それとも、分かっているのに、わざと論点をすり替えたのでしょうか。

「4月17日(月)何も分かっていない@五十嵐仁の転成仁語」(五十嵐仁さん)

ここで批判されているのは15日付けの毎日新聞に掲載された櫻井よしこのコメントだが、この手の短絡的理解(に見せかけた巧妙なすり替え)は至るところで行われている。私が興味を持っている「教育」「家庭」「学校」「福祉」などの分野でも、驚くべき論理の飛躍、根拠や合理性のカケラもない思いこみに充ちたことを堂々と言いつのる人が多い。

メディアに露出するような人たちがそこまでバカだとは思えないので、多くは一般受けする「分かりやすさ」ネライなんじゃないかと思う(すり替え)。

例えば、学校教育批判では「日教組が悪い」とか。日教組以外の教職員組合が複数あること、組織率がどのくらいか、組合員の年齢構成がどうなっているか、そこから導き出される結論として職場での影響力 etc etc。そういう事実を一切すっとばして「日教組が悪い」。こんなに実情からかけ離れて高く評価され叩かれる組織もないんじゃないかと思う。

「騙されちゃいけない@覚え書き」id:sava95さん)



参考リンク

「教基法改正関係社説」



※どんどん追加していく

「よみがえる利権〜「法律の定めるところにより」という「逃げ口上」@マスメディアが民衆を裏切る、12の方法」

改正案全体を丁寧に検証しています。


「教育基本法改正案について@はぎわら_m の部屋」

第五条について検証しています。


「教育基本法 第2条@ほどよい司書の日記」
「教育基本法改正案の検討」

27日版の改正案を丁寧に検証しています。


「教育基本法ね」

基本法を独自の視点から分析していらっしゃいます。


「教育基本法第7条の経緯@EU労働法政策雑記帳」

パーペキに無視してしまった7条について分析してくださっています。




※適宜更新中。自分もツッコミましたって方は、TBをいただけるとご紹介できます。