榊原英資×西部邁×藤原正彦公開討論会「今、日本人に求められるもの」レポ

7月1日、新宿紀伊国屋ホールにて行われた、榊原英資×西部邁×藤原正彦公開討論会「今、日本人に求められるもの」(『表現者』刊行一周年記念公開討論会)に行ってまいりました。その模様を簡単にレポします。



富岡幸一郎(司会)
表現者』刊行一周年記念ということで、「今、日本人に求められるもの」という内容の討議したい。『表現者』は真正保守保守論壇とは一線を画し、独自のスタンスを貫いている。現在、小泉内閣が最後の時期を迎えている。まずは小泉構造改革とはなんだったのかを考えてみたい。ちょうど昨日、ブッシュ大統領と日米同盟の再確認をした。そこで産経新聞は、日米同盟が強化されて日本がようやく普通の国になったと書いた。冗談じゃないと思った。日本は本当に主権国家なのかというのは疑問で、戦後日本はこの60余年間、アメリカ型近代化、アメリカナイザーションによって日本人の伝統など、さまざまなものが破壊されてきたのではないか。国際化という名のアメリカナイゼーションに踊らされされてきた日本人が、誇るべき国柄を長らく忘れてきたのではないかと思っている。まずは小泉政権の5年間について話してみたい。


藤原正彦
一言で言えば、国柄がよくぞここまで壊されたという感じ。小泉政権だけでなく、官僚、財界も含め、皆でよってたかって国柄を壊してきた。もっともいけないのは国民。私にとって祖国日本の敵は国民。日本が昔から誇っていた、他国と異なる国柄をかたっぱしから壊してしまった。「普通の国」になるほかなくなっている。日本はこれからも永遠に「異常な国家」であり続けなければならないのに、「普通の国」になったら人口は中国の12分の1、国土は20分の1、経済力も文化力も学問も防衛力も10分の1から25分の1の国になる。国柄を保たないと、資源もない東洋の小さな島国はやっていけない。そのような国柄を壊したのは大罪。


富岡幸一郎(司会)
榊原さんはずっとアメリカと国際交渉を通じてタフに渡り合ってきた方。榊原さんは、アメリカと交渉していると日本のマスコミから後ろから撃たれるという問題を指摘していた。アメリカナイゼーションアメリカからくるわけでなく、日本の内部から出てきているという問題もあると思う。その点についてもお話いただければ。


榊原英資
アメリカナイゼーションは戦後ずっと進んでいる。小泉はそれを極端な形で強調した。終了間際にアメリカにいってエルヴィスの物まねをする、その程度の男。ただ、テレビ時代には受ける。内容がなくても数秒で結論を言えばなんとなく印象に残る。それが異常な支持率を維持した。明治維新ウェスタナイゼーションがあって江戸時代を否定し、戦後にアメリカナイゼーションがあって戦前を否定した。二重の意味での否定が戦後の日本にはあった。その中で日本は伝統や文化を失っていった。国際交渉をやっていて一番つらいのは後ろから弾が飛んでくること。もちろん後ろから撃つという戦略はどの国もやっていることだけど、日本の国民は簡単にはまってしまう。交渉のときに一番強みになるのは、日本人であること、日本文化を知っていること、伝統をしっていること。日本人が国際舞台で活躍するときは必ずそう。デザイナーにしても音楽家にしても、日本的な美意識をもっているのが強み。そのうえでクリエイティブなことができる。アメリカの猿真似をしたら負けるにきまっているが、竹中などはずっとそうやってきた。経済停滞はアメリカ的なものを全部入れればどうにかなると。アメリカはそういう圧力をずっとかけてきたが、交渉をすると国民からバッシングを受けた。我々ひとりひとりのメンタリティの中で、アメリカ的なもので日本を、あるいは西洋的なもので日本を否定するというものが相当染み付いている。保守の中にもそういうメンタリティをもっている人もいる。それは新米保守。保守というのは本来は伝統を重んじ、場合によれば西欧に物を言う。ところがアメリカに従うのが保守だと。いったいこの国はどうなっているのか(笑)。


西部邁
二人が具体的な話をしたので、屁理屈を述べさせてもらう。昭和が終わるころ、中曽根は戦後の総決算と言っていた。それから数年たって小泉が戦後の終焉と言っている。奇妙なことを言うと思った。平成に入ってから、まして小泉政権になってから、むしろ戦後の完成を迎えたと思う。アメリカニズムの真骨頂は、近代化というよりも近代主義。歴史や伝統と無関係に、近代主義の理念を純粋に追求する。戦後日本に起こっていたのは、そのような意味でのアメリカ化、近代主義化だった。但し、平成の明まではあらゆる領域で戦前派、戦中派がリーダー層に残っていたので、アメリカ化、近代主義化は進められたが、日本的なものは残存していた。アメリカ化は進められながらも、一戦を画し、「国柄」の違いは歴然としていた。それがどんどん乏しくなり、世代交代がいっせいに行われ、アプレゲール(戦後派)――ヨーロッパでは第一次世界大戦後派のことを指すが、日本では第二次世界大戦後派――が、あらゆるジャンルのリーダー層に躍り出てきて、平成改革が推し進められた。これは戦後が完成の域に近づいた、アプレゲールの全面勝利が起こったのがこの18年間であるとまとめられるのではないか。


自由民主党に限らず、自由民主主義、Liberal democracy、略してLDの問題について。ライブアもLDと略すが、日本の自由民主主義はライブドアみたいなもの。結構利口で真面目な一億何千万人が、なぜかくもなさけなくふがいないのか。なぜ私に言わせれば本当の日本人は1万人に1人しか、つまり1万2800人しか本当の日本人がいないのか。それは自由民主主義の穿き違えがあったんだと思う。


Lのことを考えてみる。自由があるためには秩序が必要。その秩序はどこからやってくるかといえば、まともな自由主義であれば、やれ東大総長が言ったから、やれ小泉が言ったからなどではなく、自分たちの感性を表すことができるのが自由と考える。ではその感覚や理屈や態度のベースは何かといえば、日本の歴史の中で生きてきたということであり、それは日本の歴史を踏まえた秩序があったうえではじめて日本の国民の心の自由というものがあるということ。Dもそうで、デモクラシーでは、世論に基づいて代表者が選ばれたり政策が方向付けられる。では国民の世論や常識はどこからやってくるかといえば、その辺の間違った教科書などではなく、新聞の見出しやテレビキャスターの発言などではない。国民の歴史的な常識でなくてはならない。


アメリカという、歴史なきところに作られた実験国家で生まれた自由民主主義。それと歴史破壊をした、幸いにしてつぶれた社会主義。どちらも近代主義のひとつの派生物。冷戦構造のときは両者の対立といわれるが、どちらも近代主義の派生物で、東で純粋化された近代主義と、西で純粋化された近代主義全体主義に基づいた実験国家と、個人主義に基づく実験国家…つまり近代主義の全体派と個人派の内ゲバみたいなものだった。今はサヨクといえば社会主義の流れを汲む人だと思われているが、もともとは左翼というのはフランス革命の時に出てきた言葉で、そのときには社会主義なんてなかった。左翼の定義は、歴史なきところに個人の自由、歴史の常識なきところに科学や効率などを開花させようとするもの。それを戦後日本は、アメリカに近づくのが反左翼、ソ連に共感するのが左翼だと間違って思い込んでいた。その思い込みを半世紀も続けていた。半世紀も誤解すればどんな民族でも頭は狂う。問題だったのは広い意味での知識人。国民の中で最悪に罪が大きいのは知識人。学者、ジャーナリスト、専門家含め。半世紀間も間違った記事や演説をやり続けてきた。一番正しいのは、秦の始皇帝に習って、焚書坑儒すること。間違った本は全部焼く、間違っていることを言う知識人は全部生き埋めにする。そういうことでも言わない限り、もはやこの国は泥水につかって水位が上がって呼吸困難の状態。私はもうじき死ぬが、若い諸君には一言。泥水から浮かび上がるきわめて困難なことについて議論しようではないかと。


富岡幸一郎(司会)
西部さんは明日テレビに出るそうで、そのときにも是非、焚書の話はしていただきたい。LDの話ですが、小泉改革のひとつは市場原理主義。『拒否できない日本』を書いた関岡さんが、一方的にアメリカの要望を受け入れてきた日本という問題を描いている。中でも重要なのは経済の問題。


藤原正彦
私は「原理主義」と名のつくものは全て嫌い。ブッシュのキリスト教原理主義イスラム原理主義市場原理主義。ある程度の市場原理は必要。しかし市場原理の根本的な考えは、規制をとっぱらって自由に、公平に競争するということ。公平に競争したんだから勝った方が全部もらっていいじゃないかと。これが欧米の理屈。私はこのような理屈は頭から認めていない。例えば6年生と1年生が公平に戦う、これは日本人にとっては古来から卑怯で許されないということであった。欧米の小賢しい論理、屁理屈。私にとって、自由も平等も民主主義も、共産主義と同様、欧米の論理が作った人為的な構築物にすぎない。論理的に筋が通っているだけで、人類という生物にあっているかは全く別問題。少なくとも日本において、人類に対して市場原理を当てはめるというのは歴史的誤りであると確信している。あのような経済学をつくり、ノーベル賞をもらった学者がアメリカにはたくさんいるが、私は彼らに脳みそがあるかどうかさえ疑っている。


榊原英資
堀江や村上といった個別の問題ではなく、日本の民間セクターの腐食の構造の問題がいくつか出てきたということ。90年代、日本バッシングが出てくる中で、企業も改革してきたが、そのプロセスの中で、利益を出すということ自体が目的化してしまった。村上が、「お金を儲けることは悪いことですか」といったが、「悪いことだよ」と言ってやりたい。きちっとした仕事の結果としてお金がついてくることはいいことだが、金儲けを目的とすることは悪いこと。マックス・ウェーバーが書いているように、資本主義の精神の背後には倫理やある種の精神がある。それを忘れて金儲けして悪いことではないというような感覚は、村上だけでなく広く広がっている。日本経済そのものが停滞というプロセスを経たが、経済人の倫理やモラルが腐っている。それをサポートしたのが、竹中や木村剛らが進めた構造改革


竹中は、製造業は終わった、これからはニューエコノンミーだ、ITだ、M&Aだ、額に汗して物を作る時代は終わったのだといっていた。しかし資本主義の原点は物づくり。それを忘れさせてしまったのがこの5年間。企業倫理の破壊を反省しなくてはならない。村上ファンドインサイダー取引という犯罪をして儲けた。しかし儲けの8〜9割は出資していた企業にいっている。ブラックマネーで儲けた人が山ほどいる。日本のそうそうたる企業がそんなことをやっている。財界の中心、政界の中枢にそういう人たちがいる。そのことを皆が意識しなければいけない。


西部邁
資本主義、主義としてのキャピタリズムは、必ず世の中を犯罪者、道徳観の崩壊を大量発生させる制度だと前から思っていた。コレはマルクス派のような意味ではなく、もっと当たり前のこととして言っている。資本は利潤を稼ぐためには、シュンペーターが言ったようにイノベーション、新しい変化を作り続けるというのが基本的なパターン。革新一般に反対するわけじゃないが、限度を超えて広がり始めると、ルールの問題に相当する。ルールには法文や不文の慣習などがある。人間関係や地域社会、家族構成、人間の欲望が音を立てて変わり始めれば、古いルールは変革した状況に対応できなくなる。ルールを作るためには、法律でも時間がかかるし、まして道徳が定着するためには長い時間を必要とする。そこに変革をおこすとルールが不安定化する。その間隙を突くように、法の網や道徳の目をかすめとれると考えるマモニスト、拝金主義者に大きなインセンティブを与える。その結果、世の中は勝ち組/負け組だとなってくる。ルールが不安定化しているから、ルール解釈をめぐって意見が衝突し、法廷に持ち込まれる。アメリカが訴訟社会になっているのはそういう理由がある。トクヴィルが『デモクラシー・イン・アメリカ』で、アメリカのデモクラシーがうまくいくためには、一つは法律家が公正な見地から裁くということ、一つは世俗を超えた宗教的見地が必要だといっている。しかしアメリカでは法廷における勝ち組/負け組が持ち込まれている。なぜそんな社会を日本が真似しなければならないのか。アメリカから送られたトロイの木馬みたいなもの。日本にバラバラ入ってきて、最後の虐殺行為をやっている。


これは資本主義だけでなく、進歩主義にも当てはまる問題。変化というものに対して、新しければいいと思って始まっている。口を開けば進歩、進歩といっている。例えばIT革命。IT革命のように、コンピューターを使って5年後や10年後を確率的に予測できるようになるというのであれば、家族であろうが国家であろうがやりやすいだろうが、そんな確立を歴史現象に当てはめるのは根本的に間違い。歴史現象は不可逆で、一度しか起こらない。人の欲望も組織も変わっていない金融業会の取引というような限定されたものの一部なら当てはめられるかもしれないが、ものづくりは長期計画の下に人を集め、組織をつくって作るもの。そんなものをITで予測できるわけがない。それなのにIT革命だとなってきていて、経済全体が衰弱したものになる。アメリカは、日本にはものづくりで負けるから、得意分野の金と情報で勝とうとしてきた。おサルさんたちをどう働かせればいいかと考えた。それをさもすばらしいことのように、あろうことか経済団体の連中が15年間毎日繰り返して言ってきた。それではいかに強い経済でも滅びる。


メビウスの環というものがある。内と外、表と外が分からなくなるようなもの。私たちの社会はそうなっている。この半年でも、偽装事件や日銀総裁の問題など、誰が上か下かわからなくなってきている。まともな秩序は長く国柄にのっとってできるのに、破壊したほうが面白いなどといってルールの根本を引っこ抜き、ルール解釈をめぐって色々な混乱が起こってくる。


そういう人は、あいつの顔を見てみろ、あいつの友人を見てみろというような感じで、これまでアンタッチャブルとみなされたことがこれまではあったのに、そのような秩序感覚、批判感覚をつぶすのがいいことだとしたとたん、アンタッチャブル的な、不可触な、ウラの世界にいて当然の人たちが表に出てきた。こうなったら45年前の気分がもどってきて「アンタッチャブルよ、徹底的に破壊してくれ」と思う。インサイダーが使っている論理をアウトサイダーが使っているのだから、インサイダーが悪い。アウトサイダーに理屈や活動の場まで提供しているのだから。そこで自分のような不可触賎民たちがいっせいに蜂起すれば、われわれの社会がどれだけ間違っているか、体制派の人も気がつくだろう。そういう光景を見ながら死にたいというのが最後の望み。


富岡幸一郎(司会)
経済人のモラルの崩壊についてトロイの木馬の話をされたが、中に入っていたのは中国兵。経済界が小泉靖国参拝に反対し、追悼施設を求めている。小泉が靖国にいくかどうかも注目を集めているが、靖国問題はそんなに昔から起こっているのではなく、言われだしたのは85年。しかしA級戦犯は78年に合祀されており、その間20回参拝しているのに抗議はなかった。中国の国内事情を転嫁したもので、これは参拝に行くか行かないかという問題だけでなく、アジア外交をどうするかも問われている。靖国についてどう思うか。


榊原英資
私は総理は行くべきではないと考えている。中国が外交カードに使っているのは間違いないが、この問題は戦後の決算をしていないということ。あるところで靖国に行くべきでないと書いたら、東条さんの娘さんから手紙をもらった。東京裁判のことを調べてくれと。私も東京裁判は不当裁判だと思う。勝者が敗者を事後的に裁いた。戦争犯罪という意味なら、広島、長崎の方が大きな問題。東京裁判は裁判ではなく、正統性がない。言論人としては受け入れられない、しかし、国家としては受け入れた。国家として公式に受け入れたことを、後で違うと言うのであれば、それをアメリカに対して言わなくてはならない。中国や韓国に言ってもしょうがなく、まずはアメリカに言わなければならない。それをやらないのであれば、他の国から「あなた方は東京裁判の結果を国家として受け入れているのだから、どうして首相が行くのか」といわれてもしかたがない。私人が行くのは別で、私は受け入れてないと言う事はできる。しかし国家として受け入れたものだから、論理としては行くべきではないと考える。


しかし、第二次世界大戦とはどういうものだったかを整理しなくてはならない。ひとつは、欧米からアジアを解放するという面があった。あれを機に次々と植民地が独立した。インド独立を助けた。インパル作戦を成功さえすれば、インドを独立させたのは日本だということになっていた。劇団四季が『南十字星』という劇を作ったように、相当貢献した。もう一つの側面は、欧米と同じように侵略戦争をしたという面。そういう二面性をはっきり認めて、言うことは言う。国としては外交的な問題がいろいろあるから別としても、少なくとも論壇ではそういうことをやるべき。うちの親父は秘書官だったので、死刑はおかしいといい続けていた。当時の日本人も怒り狂っていたはずだが、それをどっかで忘れてしまった。東条さんの娘さんがそういうのは当然だと思う。当然だと思うが、靖国問題はそういう問題を我々に提起している。


アジア外交は日本にとって重要で、長い歴史をみても、中国とどう付き合うかというのが一番難しい問題であった。明治以降は欧米との付き合いだが、中国、韓国とどう付き合うのが日本の外交だった。ただ感情的に反発するのではなく、正面からどういう外交をするのかを検討するのは重要。それはイデオロギーとか条理ではなく、徹底的なプラグマティズム、リアリズムで考えなくてはならない。


西部邁
今日はぶつかろうと思ってきたのに、ほとんど賛成。東京裁判戦勝国の見せしめ裁判。ただ、古来、勝った方が負けたほうを見せしめすることは常にある。法を超えた復讐やみせしめなどの文化的儀式をして終わりとするのは戦争の慣例。愚かなのは日本で、それを法律的な裁判だと思っている。そしてアメリカも正式な裁判であるかのように振舞った。国際法違反したのはお前らのほうが多いじゃないかと、言論の世界では常識として言っていかなければならなかった。そういうことをやらないから、だからA級戦犯などというくだらない概念がいまでも残っている。靖国神社は英霊を祀る場所。英霊とは秀でた魂。それは、日本という国家にとって名誉ある戦死を遂げてくれた人のこと。名誉といえば、この戦争に全面的に正義がなかったとしても――明らかにある種の、自存自衛を超えた覇権的な侵略の意味を帯びたのは認めるが――しかし明治維新からの総括で言えば、ベースのところで正義を確認できうる戦争だと日本人が認めなければ、戦死者に名誉を与えることはできない。


小泉も、「個人が何回行こうが勝手だ」と言っている。首相がですよ? お前なんか個人じゃないだろうと。世も末です。民主党の小沢も変なことを言う。「戦死じゃないから祀らない」といっている。しかし、見せしめ裁判で首くくられることは戦死だと思うのが普通。日本は長い間二枚舌外交をやってきた。靖国などのように、対外的に謝りながら、対内的には正義あるものだと説明していた。それを隠れてやる。あざけられて当然。自分の夢物語だが、5項目か10項目の総括をして、あの戦争でどうしても肯定したいところはここ、反省したいことはここということを明確に書き、その作業を一巡させるくらいまでやったうえで、堂々と靖国参拝をするようになるべきだと思う。そうして、参拝しない首相は即刻失格という状態を作らないといけない。


富岡幸一郎(司会)
私も昨日、友人と靖国問題について議論した。友人には霊感がある。首相が行っても、あまり霊が集まっていないらしい。しかし、天皇陛下サイパンに行ったときは、とても集まっていたと。15日に参拝したら、どうなるか気になる。


藤原正彦
日本の歴史観は戦後のGHQ日教組によって完全に進められた。70歳以下の人はほとんどそれを信じている。例外的な人だけ自分で勉強している。これを総括する必要がある。侵略の面もあったが、アジア解放したという側面もあった。明治のころから日本を苛め抜いてきた白人に対する怨念もあった。侵略の側面を否定するのは右翼の間違った考え。総括することが重要。


現実問題としては、もっと大人になる必要がある。アメリカに言われて経済改革に次々にやってきたことは屈辱。中国や韓国に靖国問題についてピーチクパーチク言われて、国を挙げて議論する。私には耐え難い。次の首相を靖国問題で決める、そこまで落ちぶれたのか。そんなものはいなせばいい。中国がそれほど生意気なことを言うなら、イギリスにやられたことに対して謝罪を求めたか。インドも、朝鮮も、ベトナムも、謝罪を要求したか。誰もしない。謝罪を要求すれば、首をすくめて手を開かれるだけだと分かっている。なぜ日本の首相がそうしないのか。それに興奮して、そういうならなおさら行くとかいう展開になっている。なぜピーチクパーチクに対して大人の対応ができないのか。総括をして、決着するまでは大人の態度として、公式参拝は控え、個人的には毎日行けばいい。宣言していくなんてことがもう屈辱。行きたければ個人的に毎日いけばいい。


富岡幸一郎(司会)
8月15日は特に意味もない普通の日。それこそ毎日いけばいい。昭和18年に東条内閣で大東亜会議があった。西欧列強の体制に対してアジアが支配から独立するかと真剣に語り合っていた。ビルマの初代首相は、回想録で日本の時代に厳しい意見を言っているが、その人ですら、あの会議はアジアの新しい時代を開いた会議だと評価している。


榊原英資
日本の植民地解放運動は、民間サイドでもサポートしていた。そういう側面はあった。その部分を正当に評価することは論壇として必要。南京事件を正当化してもしょうがない。何人だ何人だって話ではない。植民地解放という理念を日本が持っていた、そういう部分があったということは認めないといけない。防衛戦争の面があったのも事実で、するべきでなかったという面もある。もう一度整理する必要がある。


西部邁
欧米からのアジアの解放という理念について、欧米から解放された後アジアに何をもたらす、何々へと解放するという積極的な理念は出しえなかった。アメリカに屈服したのは、リベラルデモクラシーというのを積極的な理念であるかのように受け取ってしまった。アジア共同体ということでいえば、当時も今も、各国が国柄、ナショナリズムを認め合う、そして衝突するところはルールを互いに捜し求めるという意味での、ナショナリズムの複数化、多様なナショナリズムに基づく相互関係は重要。コミュニティといえば、アジアに画一的な理念があればまとまるというニュアンスがあるかもしれないから、アソシエーション。そういえばサッカーもアソシエーションが語源。かなり互いに蹴っ飛ばしたりするが、ルールがある。互いのナショナリズム、ルールをめぐって、蹴飛ばしあいもする。どのように調停するかを考える、そういうものとしてアジアを考えなくてはならない。日本での自称保守が言い続けている安全と生存、かつても自存自衛といっていたが、そうではなく自律自尊、互いのナショナリズムの喧嘩や調停をする、長期的なゲーム、自律自尊の構えが必要になってくる。短期的視野に基づくものだけでは、日本の自尊心を疑われる。そうなるとアソシエーションでのゲームは出来なくなる。それもリアリズムに組み込まれるべき。


富岡幸一郎(司会)
現代、これからアジアに対してどういう理念を表現するか、どういう指導者が求められるか。


藤原正彦
一番に求めるのは教養。教養とは文学、歴史、芸術、思想など一見役に立たないようなものをバッチリ身につけ、それを背景にして国民とは桁の違う大局観を持つ人。日常の判断は、ある程度の知能指数があれば処理できる。大局観は、歴史観や人間観、日本人が昔から持っていた情緒や感受性やもののあはれ、世界に誇る美しい形、これらは武士道精神からくるもの。自愛、誠実、正義、勇気、惻隠、弱者や敗者への涙、共感、名誉と恥、こうした武士道精神を身につけた人。そうすれば自然と大局観や国家戦略を形作ることが出来る。政治家も財界も官僚も学者もこのような人はいなくなってしまった。教養を得るための唯一の手段である活字文化の衰退がここまできた。しかし是非こういう指導者を探したい。


榊原英資
日本は島国。侵略されたことがないのでユニークな土壌がある。教養があるということは、日本人が日本人であるということ。交渉をしていて感じるのは、日本人であるということが強みと言うこと。そしてそれを海外に発信できる能力が重要だということ。発信できるということは教養が広いということ。異質なものを理解するということ。それが指導者には求められる。狭い意味でのナショナリズムではいけない。他の国を、かなり深く知っており、そのことで日本を彼らのコンテクストに入れて発信できるということ。


それと、一神教多神教の違いも重要。アジアは多神教的で、自然に対する態度が欧米とは違う。インドと日本で考えても、表面的には違うがどこかで通じ合っている。無常観や輪廻転生など、似ている。そこに欧米と違った理念があるということを意識してもいい。


西部邁
アメリカのイラク問題について考えたとき、アメリカから多くの情報がもたらされた。フセイン大量破壊兵器をもっている、バグダットは国際テロリストの根拠地である。前者は100%嘘、後者は90%嘘。そのあと、イラク民主化。なぜアメリカ的な民主化なのかという意味で、これも70%嘘。ほとんどまがい物の情報がめぐっている。発信している人にはスペシャリストが多いが、スペクシャリズムの語源は、スペクト、見るということ。自分がたまたま見えたものにだけ、ほとんど偏執的にこだわるということ。そういう人が発信している。


ものの本に、徳の過剰は不徳に転ずと書いてあった。指導者は、様々な徳の中でバランス、平衡をとれることが必要。いつも状況のなかに降り立って、きちんと判断し、言葉巧みに周囲を説得できる、実践的能力が必要。エリートはエレクト、選ばれた人ということ。神から選ばれし者という感覚がある。日本には宗教感覚はほとんどないが、何によってエリートを判別できるのかという難問題がある。神も仏も持ち出せないなら、国柄の歴史というもの、歴史上のことをリファーしながら生かしていくという歴史感覚というものが仄見えるかどうかということが重要。ワンフレーズの小泉を、日本は5年間も支持してきた。はっきり申し上げて、もうダメなのではないか。


――この後、質疑応答に移り、『表現者』の今後を祈る閉幕の言葉で終了。