【デング熱】陰謀流言の拡散者がその後、さらにこじれていく姿を見るに

デング熱に関する報道が連日行われている。世界的にはもともと感染者が多い病気だが、現代の日本では珍しい。情報不足によることもあってか、いくつかの陰謀流言が発生していた。その流言は、次のような理屈で成り立っていた。

  • これまでもデング熱の症例はあったようだ
  • ならば、今年だけこれほど騒ぐ必要はないはずだ
  • にもかかわらず、なぜこれほど大きく取り上げられるのか
  • きっと、何かの大きな政治的意図が背景にあるに違いない
  • たぶん、その意図とはこういうもの(デモつぶし、内閣批判からのスピン、被曝の影響隠し、他多数)だろう


こうした陰謀流言には、まず下記の前提が抜け落ちていた。

  • これまでも、デング熱の症例はあったが、それらは「海外渡航歴のある人の症例」であった
  • しかし今年デング熱が話題となっているのは、「国内での感染」が増えているからである
  • 人から人へと直接はうつらないが、蚊を媒介しての拡大するため、「国内での感染」の今後に特に注意が向けられている
  • メディアも両者を区別するため、「国内での感染者」というフレーズで取り上げることが多い


陰謀流言の論拠の一つに、「去年のデング熱感染者は249人、今年は81人」というフレーズもあった。まず、2014年はまだ終わっていないので、この数字だけをみて「過去より少ないじゃないか」と受け止めるのは誤りだと気づく必要がある。実際、この数字の元グラフには、「6月27日段階」「2014 年は第26週の報告数」という注釈がついていた。すなわち、その後の増加分が計上されていないもので、比較に意味がない。


この陰謀流言が最も拡散されたブログ記事は、9月24日現在で4.4万もの「いいね!」を獲得している。著名な芸人が言及したことも含めて話題となった。



このエントリが掲載される前日の4日には、「デング熱騒動は捏造だった?!(魚拓)」というタイトルの記事が掲載され、それから「デング熱報道で隠したかったものとは?(魚拓)」が掲載されたという順番だ。2エントリの間でも、疑問符をとり、陰謀への確信を強めていることが分かる。


この記事、および拡散された陰謀流言に対し、複数の記事が問題点を指摘した。検証系ブログのうち、最も読まれたのは、「デング熱も怖いけどこんなデマが拡がるのも怖い。去年のデング熱の国内での感染者数はゼロだよ!」(6日)および「デング熱関連のデマ拡散中――信じたい記事を疑うことも必要です」(9日)という記事だろうと思う。いずれも、実際のデータ、国内感染の意味などを簡単に説明しているものだ。


こうした批判のコメント等を受け、批判対象となったブログはその後、「間違えましたので訂正します」と応答するのではなく、むしろ自説を補強するため、エントリを立て続けに掲載していった。流言拡散の場面でよく見る、「批判を受けて意固地になる」典型的なパターンにも見えるが、さらにブログの記事傾向を見ると、政府批判をしたいというバイアスが強いうえに、もともと陰謀論と親和性が高いブロガーのように見える。以下が、その後の記事の流れ。

  • 7日の記事では「まだデング熱だと騒いでいるのか!バカバカしい(魚拓)」を更新。批判コメントを載せたユーザーのIPアドレスを晒し、「関係者が火消ししてる証拠」と言及している。
  • 8日の記事では、「国立感染症研究所と言うのも怪しい組織である(魚拓)」を更新。過去にも国内感染があった可能性が否定できないということを根拠として出発し、ワクチン業界陰謀説(デング熱ワクチンの効き目を確かめるために、メーカーが意図的に大量のデングウイルス蚊を放した、という説)へとつなげている。
  • 9日の記事では、「真実を求めて・批判するブログたちとネトウヨたち(魚拓)」を更新。批判をしているのは「宜しく思わない輩、拡散されては困る輩」であり「ネトウヨ」であると説明。8日記事からコメントが減ったのは、自分が批判者の論拠を崩したからだと主張している(荻上注:普通は、大多数のビジターは5日記事しか読まないため、継続ウォッチャーが減ったことが理由だと予想するだろう)。コメント欄には、ビジターからの「ブログを中断させる程の圧力がかかるということは、 裏返せば貴ブログの勲章であります」というレスもついている。
  • 10日の記事では、「番外編:ブログ批判をした小川たまか氏とその検証(魚拓)」を更新。自分を批判したライターはそれぞれのビジネスのために書いているのだと主張。国内感染と国外感染を分ける必要はあるのか、どの国で感染しようと危険なものは危険、デングをエボラに置き換えてみれば分かると記述している(荻上注:人から人へと感染しないデングと、人から感染しやすく致死率がより高いエボラを置き換えること自体が無茶である)。さらにはメディアが世論操作している可能性について言及している。


今回の件に限らず、流言を拡げた人がその後、批判を受けてより意固地になるケースが少なくない。自説を補強するための論拠を探し、同調者と共鳴しあって先鋭化することもしばしばある。


こうした現象を見ると、「中和の技術」という社会理論を思い出す。人は、自分が間違ったことをしている人間だと思い続けることにストレスを感じる。そこで人はしばしば、自分の罪悪感を緩和してくれるロジックに飛びついてしまう。そうやって、認知的なモヤモヤを「中和」してくれる技術には、いくつかのパターンが見受けられる。簡単に言えば、弁解や弁明、居直りや逆ギレのメソッドというのは、似通っているよね、というお話。


もともと「中和の技術」の典型パターンとしては、(1)責任の否定(2)加害の否定(3)被害者の否定(4)非難者への非難(5)高度の忠誠への訴え、が列挙されている。非行研究が発端だが、流言拡散を批判されたときの反応にひきつければ、つぎのような感じになる。

  • (1)責任の否定:「ただRTしただけで、なぜ責められなくてはならないのか」「もし本当だったら大変だから拡げた。むしろ<そういう不幸が実際にはなくてよかった>で済ませるべきだ」
  • (2)加害の否定:「間違いであったとしても、良かれとしてやったのだ」「良い話なら拡散してもいいではないか」「誰に迷惑をかけたというのだ」
  • (3)被害者の否定:「誤解される方が悪いのだから、普段の行いを正すべきだ」「相手にはこういう問題もある。そんな相手をなぜ庇うのか(お前は○○信者か」
  • (4)非難者への非難:「お前は間違いを犯したことがないのか」「自分を批判する暇があるならもっと有意義なことに時間をつかえ」「言い方がむかつく。お前は何様なのだ」「批判しているのは<工作員>や<御用>の類で信用できない」
  • (5)高度の忠誠への訴え:「自分たちが騒いだことが問題提起となったのだ」「自分を批判するような言説は、まわりまわって言論弾圧や自粛につながるからやめるべきだ」


批判時の反応にはこの他、以下のようなパターンがあると感じている。

  • (6)"部分的な正解"へのこだわり:「こういう事実はかすっていた。ならば、ほぼ正解と言っていい。だから拡散の意義はあった」
  • (7)自浄作用の強調:「後で自浄作用が働くはずだから、予防として、確かめずにRTすること自体を責めるべきでない(つまり自分を責めるべきでない)」
  • (8)被害性の強調:「少し間違えたからって大げさだ。私は傷ついた。私こそが新たな被害者である」
  • (9)ヒロイズムの強化:「圧力には屈しない。これだけ必死で批判したがる人がいるのは、不都合な勢力がいる証拠」
  • (10)派閥化:「否定陣営には問題がある。彼らの言葉に耳を傾けてはいけない。助け合いながら、<私たち>こそが正しいと言い続けよう」


もちろんパターンに当てはまるからと言って流言というわけでもない。非難者の行為や論理が問題となることもある。しかしそれにしても、こうした事例は実にたくさん見かけられる。


一般には、「流言」は根拠があいまいなままに情報が広がることで、対してデマゴギーの略である「デマ」は政治的意図を持って作為的に流される嘘であると区別される。でも、その情報を受け取り、それを信じて伝達する過程においては、それが「流言」なのか「デマ」なのかという区別はあまり意味を持たない。というのも、一定以上の拡散をみたニセ情報は、たとえ当初は「デマ」として流されたものであっても、それをそれぞれの<善意>に基づいて流す人の方が多くなるからだ。


同様に、拡散した元の人も、当人の自意識としては「善意」や「真実」のためにやっているのであり、「政治的意図」をもっているわけではないと捉えているケースも多いだろう。ある意味では、「聞く耳を持つ」からこそ、「中和の技術」を用いたレスポンスが見られるようにも思える。ただいずれにせよ、流言の検証や中和の試みの最中にあっては、相手を説得することが困難で、よりこじれるような場合にもしばしば遭遇する。そもそも検証作業自体が、流言の拡散よりも遥かに手間と時間と労力がかかるなか、説得話法にも注意が求められることを考えると、本当に骨が折れるようなあと痛感している。


デング熱については本日、シノドスにこのような記事を掲載しました。あわせてどぞー。

「感染拡大のデング熱! 蚊の生態からわかることとは 嘉糠洋陸×森澤雄司×荻上チキ」
http://synodos.jp/science/10816