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2015-04-02

曽野綾子氏が『新潮45』にて、産経コラムの一件を「愚痴」っていた

曽野綾子氏が『新潮45』(2015年4月号)の連載コラムで、産経新聞のコラムをめぐる騒動について触れている。南アフリカを例に出し、人種に基づいて居住区を分けた方がいいと主張する内容のコラムを産経新聞に記したことから、発想が人種隔離政策「アパルトヘイト」そのものだと批判を浴びた一件だ。


『新潮45』での連載タイトルは「人間関係愚痴話」であり、今回のコラムのタイトルは「第四十七回 『たかが』の精神」となっている。何が「たかが」なのか。その答えは本文に書いている。


麹町の大使館に着くまでの間に、私はシスター(※引用者注:曽野氏が通訳を頼んだ知人)に「ねえ、『たかが』って英語でなんて言うの?」と尋ねた。

「たかが、って、どういうこと?」

「たかが小説家のエッセイです、と言ってほしいのよ。いい小説家もいるけど、悪い小説家もいるのが、この世界の特徴です。でもいずれにせよ、たかが、なのよ」

(…)ただ私は作家だから、どこの国にもこっそりと規則を破る人間はいるだろう、そういう人たちをある種の作家は好んで描くものだと思う。それも人間性の一種なのだ。その可能性を大使にご説明するのに、「たかが作家の書くことですから、本気になさることはないのです」とシスターに言ってもらう必要性を、私は予知していたのである。

(…)皆が情熱をこめて要求した、作家の「謝罪」とは一体どういうものなのだろう。作家は古来、いい人であるとか、学問的に正しいとか、徳の高い人であるとかいう保証はどこにもなかった。今もない、と私は思っている


つまりコラムの趣旨としては、「たかが」小説家の文章に対して騒ぎすぎだ、というもののようだ。そのため内容も、連載タイトルにあるように、自分を批判した者たちへの「愚痴」がメインとなっている。たとえば、「特定非営利活動法人 アフリカ日本協議会」をはじめとした数々の抗議文に対して、次のように記している。


しかし一作家が、誰かを代表するということもなく、自分の考えを書いていることに対して、さらに私が現実に人種による差別的行為をしたり、示唆したりしているのでもないのに、謝罪と記事の撤回を要求する、ということに私は驚きを感じた。今の日本はこういう国だったのか、と理解した。

(…)一人の人間の中にも、必ず悪魔と天使の要素が、それぞれに存在する。しかしその比率を、人間、ことに他人が断じたり裁いたりしてはいけない、と私は思っている。


また、メディア各社の取材、およびネット上での反応に対しては、次のように記している。


肩書一つ正確には書けなかった新聞や通信社が、こうやってヘイト・スピーチを繰り返し、そこに覆面のツイッターが群衆として加わって圧力をかけ、どれだけの人数か知らないが、無記名という卑怯さを利用して、自分たちは人道主義者、曽野綾子は人種差別主義者、というレッテルを貼ることに無駄な時間を費やしている、その仕組みを今度初めて見せてもらって大変ためになった。私は覆面でものを言う人とは無関係でいるくらいの自由はあるだろう。


曽野氏にとっては、自分が「アパルトヘイトを肯定した」と評価されることは「ヘイト・スピーチ」にあたるという認識のようだ。批判相手をひとまとめにし、聞く価値のないものだと矮小化するのは、流言拡散者もよく用いる手段ではある。ちなみに、「そういう意図はなかった」「自分を批判するのは時間の無駄」といった表現も、流言拡散者がよく口にする。


だが曽野氏の「応答」では、肝心の「自分の文章がアパルトヘイト肯定に読めるか否か」という点について論理的な説明がなされない。物書きであれば、自分の意図とは別に、文章がどう読まれるかが重要となるにもかかわらず、本人の意図や作家論などに回収してしまっている。これは「逃げ」のように思えるが、おそらく曽野氏の場合は「無自覚」だ。「天然」と表現する人もいるかもしれないが、この言葉は軽すぎるように思える。そもそも「黒人」という大括りなワードでその人の行動を語る行為そのものが問題ではないか――。以前、ラジオ番組で曽野氏にインタビューした際、そうした趣旨の質問を行ったが、氏はまったくピンときていなかった。曽野氏は、黒人は他の人種とは「実際に」行動様式が違うという認識で、そのことを前提に話をすることは「差別ではなく区別」であり問題ないと信じているようだった。


ところで、コラム冒頭では、曽野氏が南アフリカ大使館に招かれ、モハウN・ペコ駐日特命全権大使とやりとりしたことが紹介されたうえで、次のような話を聞いたということが記される。


まずその時、私が明らかに当時知らなかったことを大使に教えられたので、その点を私はここで真っ先に報告したい。それは「パス法」と呼ばれる明らかに黒人を差別した法律で、我が家の秘書に出してもらったウィキペディア(日本語版)によると、南アに住む十八歳以上の黒人すべてが、身分証明書を白人地区内では常に携行しなければならない法律だった。これはアパルトへイトの象徴的悪法だったので、一九九一年に廃止されている。私が南アを初めて訪問したのは一九九二年だから、この法律は前年から正式に効力を失っているので、私の説明役を買って出てくれた政府側の女性も、もう過去のことに触れる必要はないと思ったのかもしれない。しかしそれ以前には黒人はこの身分証明書を提示しなければ家の売買も居住もできなかった。従って一つのマンションにどういう人が何人なら住めるか、ということはパス法で厳しく管理されており、その検査に通った人も勝手に一族全員を呼び寄せて二十人も三十人もに【ママ】住まわせるなどということはできないし、そんな人は一人もあり得なかった、と大使は明言された。私はそういうお話は、私の書くものの中で一番早い機会に原稿にいたします、とお約束したので、その後一番早く締め切りが来たこの『新潮45』の冒頭でこうして報告するわけだ。


曽野氏は大使からは、コラムに書いたような実態は存在しないのではないかという指摘を受けたようだ。その事実を記すのは重要だ。たとえウィキペディアであっても、苦手なネット(曽野氏は僕のインタビュー時、ネットのことを「エレキ」と表現していた)を使ってまで確認しているようでもある。ただし曽野氏はその後の文章で、次のように記している。


近代的なマンションでは、使える水の量に制限がある。屋上のタンクの容量は、一軒当たり、四、五人が住む計算しかしていない。しかし(大使はそういう例はないとおっしゃったが)たまたまこっそり大家族を招じ入れる不心得な家族がいると、マンションの水はすぐ枯渇するだろう。私が聞かされた実例なるものは、例外か話の上で全くの虚構か今となってはわからないけれど、私自身は話を捏造していない。


自分は聞いた話を書いた。自分の意図としてはアパルトヘイトを肯定したつもりはない。そんな自分の文章に騒ぐなんて大げさであり、非難する側にこそ問題がある、ということのようだが、これでは先に大使の言葉を引用したのが台無しである。


確認しておくと、曽野氏は産経コラムにて、ここでいう「不心得な家族」を「黒人」という人種の特徴だと括り、「白人は逃げ出し」たと書いた。「聞かされた実例なるもの」を、自らの主張のために記したのは曽野氏であり、そこには氏の「思想」が宿る。ある時は大家族主義だと褒め、ある時は不心得な家族と難じているが、黒人と白人を「区別」して語っていることには変わりなく、その発想に基づいて提言する氏の態度・思想こそが批判されていることに、まだ無自覚のままでいる。また、聞いた話を書いただけだから責めるなというのであれば、あらゆる誤報もスルーされてしまうことになる。もしかしたら曽野氏にとって「記者と作家の区別」を行っているだけなのかもしれないが、もちろん僕はそんな「作家論」は支持しない。


さて、曽野氏のコラムには、僕の名前も出てくる。


私の方もインタビューを申し込んで来た各社の担当者に一つずつ質問をさせてもらうことにした。私はいつも仕事には義務だけでなく、人間探求に関する勉強や楽しみの部分も残しておきたかったからだった。私は談話を欲しいと言って来た記者自身が、私がエッセイの中に登場させた水のでないマンションに仮にいたとしたら、住み続けるかどうかに答えて欲しいと言った。別に「社を代表なさらなくていいんです。あなたの個人的なお答えでいいんです」と私は言い、イエスでもノウでも、返事をくれたところには、回答をすることにした。週刊文春、共同通信のうちの一人、ジャパンタイムズ、朝日新聞、週刊ポスト、光文社、の記者たちは電話口で即答をくれた。読売新聞は、そのような問いには答えない、と言ったので、私も返事を書かなかった。テレビ局の女性は、散々条件を挙げ、苦悩を声ににじませたあげく、叫ぶように「私は住みます!」と答えた。また共同通信のうちの一人は「住み続けます」だったので、私は「どんなふうにして?」とつい尋ねてしまった。すると「水を運んだりして」ということだった。荻上チキ氏は、ご自分の名前のついたラジオ番組を持っていらして、それに出るようにと言われたので、私は同じ質問をした。すると「まず水が出るように試みる。水がないと自分はいられないが、それは人種差別の故ではない」という答えだった。そんな条件は改めて言わなくても誰もがやることだ。やはりこの方は、人道的ではない、と言われることが非常に怖い方なのだな、と思って聞いていたが、私は約束通り録音取材に応じた。


事実、曽野氏にインタビューを申し込んだ際、氏から条件として、「水のでないマンションにあなたは住み続けるか」という質問に答えろと伝えられた。僕はこの時まず、「馬鹿な質問をするものだな」と率直に思った。さらに、曽野氏の場合、仮に「はい」とでも答えたら、「ほれみたことか」とでも言いそうだ、それほどいちから説明しないと伝わらないのだろうか、と思った。そこで、「イエス/ノー」で答えることはせず、「改善の方法を模索した上で、水が出ない状況が続くなら引っ越しを考える。ただしそれは、隣人が黒人だから、ではない」と答えた。


氏の「人間探究」によれば、この答えは「人道的ではない、と言われることが非常に怖い」からだと解釈されたようだ。実際は、氏の問いに疑念を抱いていたゆえの回答だったのだが。ただ加えておくと、自分は特段「人道的」だと思わないが、それでも確かに僕は「他人から人道的ではないと評価される」ことを怖いとは思っている。そして、社会が「人道」を放棄することが怖いからこそ、産経新聞というメディアに曽野氏のコラムがそのまま載ったことも怖かった。だからこそアパルトヘイトの問題をラジオ番組で取り上げたし、シノドスでもとりあげている。それに対し、あくまで僕などが過剰に「人道的」ぶっているだけだと位置づける曽野氏の認識もまた、怖い。日本財団で南アフリカ支援にも関わった人物でもある氏にしてこの認識……。逆に、氏のコラムを「怖い」と思った人たちが少なからずおり、抗議の声をあげたことは、とても心強く思える。


なお、産経新聞は、次のような見解を示している。


「コラムについてさまざまなご意見があるのは当然のことと考えております。産経新聞は、一貫してアパルトヘイトはもとより、人種差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」

「コラムはアパルトヘイト政策を日本で行うよう提唱したものではなく、曽野氏ご自身の体験から、生活習慣の違う人同士が一緒に住むのは難しいという個人の経験を書かれたものと受け止めています。ただ、このコラムを掲載したことで、不快な思いを抱かせてしまったことは私たちの望むところではなく、大変遺憾に感じています」

http://www.sankei.com/column/news/150306/clm1503060007-n1.html


一方で他記事では、曽野氏擁護の記事も掲載している。


http://www.sankei.com/column/news/150220/clm1502200007-n2.html

http://www.sankei.com/life/news/150222/lif1502220012-n2.html


今後、移民問題などがクローズアップされていく中で、様々な問題がごちゃまぜになり、個々のトラブルや事例を「人種」や「国」に還元して語る言説がますます出てくることが予想できる。その意味では、問題を先取りして提示して見せたコラムでもある……が。そうした「誤った語り口」を解きほぐしていくことで、誤った暴力や政策を生まないようにすることが重要なんだよね。というわけで、自分のメディアだけど、秀逸な論考なので下記をリンク。


【参考】

「文化が違うから分ければよい」のか――アパルトヘイトと差異の承認の政治

亀井伸孝 / 文化人類学、アフリカ地域研究

http://synodos.jp/society/13008