義理の祖父に、特攻隊「伏龍」について聞いてきた

今年の8月15日、16日に帰省しまして。その際、義理の祖父に、戦争中の話を色々聞かせてもらいました。帰る前から、「レコーダー持っていくから、戦争のことを聞かせてほしい」と伝えていたら、色々と資料も用意してくれていました。ありがたや。


義理の祖父は、「伏龍」の隊員でした。「伏龍」を簡単に表現すると、潜水服を着て、爆雷のついた竹槍を持ち、水中に潜って、近づいてきた敵に自爆攻撃をするというものです。「水際特攻隊」「幻の特攻兵器」「人間機雷」等、様々な異名がついています。その時に聞いた話は、TBSラジオで「人間機雷『伏龍』隊員だった義理の祖父との対話」と題して放送したのですが、貴重な証言だと思うので、放送したインタビュー部分の文字起こしを掲載したいと思います。



以下、文字起こしと、ごく簡単な補足のみ掲載。

チキ:TBSラジオでですね、家族に戦争体験を聴くという企画をやっていまして、以前も少しおじいさんにお話を伺ったんですけど、今日はしっかりと伺っておきたいなと思って、色々と質問を持ってきまして。
義祖父:私なんか、9か月しかいないからさぁ。
チキ:9か月というのは、予科練でしたっけ?
義祖父:そうです。
チキ:ただ、いまの若い人、僕も含めて「予科練」というのがどういったものなのかとか、そこでどういう訓練していたかとか、知らないんですよ。
義祖父:私は第一岡崎海軍航空隊におりました
チキ:第一岡崎海軍航空隊、これの第7期生。お義祖父さんは何年生まれでしたっけ?
義祖父:私は4年の12月20日生まれ。
チキ:昭和4年予科練に入ったのは何歳の時ですか?
義祖父:ええと、19年の11月15日だから、その時まだ14歳。(誕生日は)12月20日だからね。
チキ:予科練ってどうやって入るんですか?
義祖父:1次試験があって、2次試験は三重の航空隊に行って受けてきて、それで採用通知が来る。
チキ:三重まで受けに行くんですか?
義祖父:二次検査はね。
チキ:遠いですね。
義祖父:旅費は国から(出る)。町役場の兵事係にもらいに行ってきて、それから行くんですけど。
チキ:でも汽車でいくんですよね。1日で帰ってこれない。
義祖父:ええと、1泊したと思うんですけど。
チキ:どんな試験だったかって覚えてますか?
義祖父:視力の検査、聴覚の検査ね。
チキ:身体測定。体力は測るんですか?
義祖父:体力はそんな計りませんでしたね。
チキ:体の調子を観たり、適性を観たり?
義祖父:そうですね。それで椅子を回転させて、それから降りて何秒まで直立するかとか。
チキ:今でいう、バット回しとかして、クラクラになりながら歩けるかとか。それで合格して?
義祖父:ええ。
チキ:予科練って、基本的には兵隊になるための学校ということになるんですか?
義祖父:そうですね。予科練ってあの、飛行予科練修練生だから「予科練」って言っていて。その予科練を卒業して飛行練習生になって、それで飛行機の操縦の練習をするんですけどね。
チキ:なんで予科練に入ろうと思ったんですか?
義祖父:その当時はね、社会も、極端に言うと、国から家から教育から軍国主義だから。結局、死んでも国のために尽くすというのは一般的な常識でしたからね。
チキ:じゃあ、そこに行って自分も立派な兵隊になろうと?
義祖父:まあ、立派かどうかわからないですけど(笑)
チキ:その時の気持ちって覚えてますか?
義祖父:20歳くらいでもう死んじゃうかな、と思ってましたね。
チキ:じゃあ例えば家族を作ろうとかっていうのは?
義祖父:そんなことは全然考えてなかったですね。
チキ:14歳で予科練に入った時というのは、とにかく訓練を受けるんだ、勉強をするんだということに尽きるわけですね。


※義理の祖父はインタビュー中、「私なんかカスだからさ」「雑草兵だから」と繰り返していた。優秀なのが集められた一期生と比べて、私なんて、雲泥の差ですよ、と。戦争が続く中で、予科練での訓練期間も短縮され、大量採用の方針がとられることになった。大量採用の自分は、それ以前までの先輩と比べて優秀ではない、ということのようだった。

チキ:予科練に入った時の事って覚えてますか?なんか勉強とか。
義祖父:勉強はしましたね。それから手旗はもちろんやるし。
チキ:手旗信号。それは船と船のやり取りに使うものですね。あとは整備。整備っていうのは、船の仕組みを学んで…
義祖父:いや、飛行機のエンジンの。でも20年の3月には空襲が激しくなって教務が停止しましたからね。もう勉強しなくなっちゃったんですよ。
チキ:それからは何をされていたんですか?
義祖父:それからは教材の番兵をやったり。
チキ:番兵。教材を見守っていたんですか?
義祖父:そうですね、交代で。あとは防空壕の穴掘りとか。それから、隣が「第三航空隊」って言って実施部隊があったから、その飛行場の埋め立て工事もちょっとやったりしましたね。
チキ:予科練時代というのは、寮みたいなところにみんなで泊まっているんですか?
義祖父:まあ兵舎ですね。うちの航空隊は新しくできた航空隊でしたから、兵舎も平屋でオンボロで。
チキ:ということは共同生活になるわけですよね。共同生活の時の思い出ってありますか?
義祖父:一番厳しかったのは、19年から20年にかけて全然火の気がなかったこと。暖房っていうのは全然無かったんですね。だから皆、手が凍傷になるわけですね。
チキ:とにかく寒かった。
義祖父:寒かったですね。
チキ:薪やストーブが無かった?
義祖父:そんなものは全然なかったですね。
チキ:それはもう、古い設備だけで、そういう物は兵事に回すんですか?
義祖父:新しい航空隊ですから、そういう設備は全然なかったですね。
チキ:そういう物は回してもらえなかった。
義祖父:終戦の20年は結構雪が降ったんですよね。素手で雪かきをするわけです。あとは暖房がないですからね。
チキ:風呂も、そのあと入って温まるっていうことは?
義祖父:全然ない。
チキ:じゃあ雪を手でかいて、その寒いまま部屋に戻って手をこするしかないわけですか。みんなで「寒い寒い」って言ってましたよね。
義祖父:そうですね。
チキ:当時、物資が無かったって聞くんですけど、いかがですか?
義祖父:官品はちゃんとありましたね。軍服から小銃なんかも一人一人渡されてましたね。
チキ:食べ物はどうでした?
義祖父:食べ物はやっぱり少なかったから、当時は寝ることと食べることしか考えがなかったですね。
チキ:寝る時間も短かったんですか?
義祖父:寝る時間は結構あった。それと毛布を防空壕に入れちゃうんですね。それで寝る前に出してきて。毛布が冷えてるから、明け方になってやっと温まってきたらもう起床なんですね。
チキ:食料はどんなものを食べていたか覚えていますか?
義祖父:食料はもちろん麦飯ですからね。麦と白米を混ぜたやつですね。
チキ:おかずはどうですか?
義祖父:おかずは、岡空の時は野菜ばっかでしたね。
チキ:なんか葉物とか出たんですか?
義祖父:葉物は…ちょっと記憶がないですけど。ただセリがよく出たことは覚えています。暖かくなってね。
チキ:それはこの辺で採れるからですか?
義祖父:そうですね。
チキ:地域によって食べるものも色々と違ったんですね。
義祖父:今度は久里浜行ったときはモヤシとイワシばっかですね。
チキ:肉類なんかは全然?魚とか?
義祖父:たまには肉類もでますよ。でもお腹みんな空くから、干し柿なんか配給になりますよね。それをいつまでも舐めてたなんて人もいますよね。それで食当番やって、食籠を下げに行くとき、残飯を食べたのがバレてバッタをいくつももらったり、裸にされたのもいましたね。中には、夜に抜け出して民家にいってうどんを呼ばれたりして、罷免になって郷里に帰されたのもいましたけどね。それから、軍隊でひどいのは、「盲腸だ」って切られて3人くらい死んでますね。
チキ:3人、盲腸で死んだんですか?手術で?
義祖父:そうですね。
チキ:当時はそんなもんなんですか?盲腸の手術で?
義祖父:それで私もね、岡空に入るとき衛生兵が血液検査するんですよ。それでO型だって言われたんですよ。それでずっとO型だと思ってたんですよ。それで(戦後)、私が消防の分団長をやってて、献血してくれって言われて仕方がなくやったら、「分団長はB型ですよ」って。
チキ:B型だった。当時の血液検査は雑だったんですね。
義祖父:雑ですね、衛生兵。それで、さっき話した盲腸の手術は輸血が必要だって。私なんかも行けばよかったんだけど、呼ばれて。O型は何の血液でも適合するから、輸血用の血液を採るって言われたんですけど、B型の血液いれたらなぁって。ちょっと心配になったりしましたけどね。
チキ:当時はもう、何から何までそんな調子なんですかね。


※1945年、予科練はほとんど機能しなくなり、6月には凍結。その後、練習生は各部隊に配属されていく。義理の祖父は7月に入り、「特攻に志願しないか」と声をかけられる。予科練に入って9か月での転属だった。

  • 伏龍隊志願

チキ:志願しないかっていうのは、どういう流れでそういう話になったんですか?
義祖父:上層部からの命令か何かじゃないのかね。水際特攻隊に行きたい者は志願しろって。ただし、50mだか100mだか泳ぎが出来ないとダメだっていうことだったんですよね。
チキ:水泳は得意だったんですか?
義祖父:それほど得意じゃないけど、海は近くだからね(※実家は神奈川西部)。時々、海水浴っていうか海で泳ぎましたからね。
チキ:じゃあ、陸でずっと暮らしている人より海は慣れているという感じだったんですかね?
義祖父:ま、さほど何ていうわけでもないですけど、100m位は泳げますからね。
チキ:他になにか問われたりしました?
義祖父:いや、別にないですね。
チキ:じゃあ誰か探しているときに、お義祖父さんに「志願しないか」と。
その時、伏龍っていうことは、志願しないかと言われた時は、存在をしっていたんですか?
義祖父:内容自体は知らないです。ただ、水際特攻隊ということで志願したんです。
チキ:じゃあ、海軍の特攻の一つだという認識。当時、特攻自体は結構知られていたんですか?
義祖父:結構、特攻はしていたと思うんですけどね、あの時。ちょっと70年も経つからわからないんですけど。
チキ:「神風」とか、飛行機の特攻は(知られていた)…?
義祖父:神風の特攻は、皆で話ました。会話の中で、何か大西(瀧治郎)中将が発案して特攻が始まったらしいよとかね。そんな話はしましたけど。
チキ:その後も特攻の歴史を語る上では、大西という名前はよく出ますよね。特攻って、当時はどんなイメージがありました?
義祖父:特攻って自爆ですからね。「死」ということしか頭になかったですね。
チキ:それは例えば「怖い」とか、「それでもやるんだ」とか。
義祖父:教育が「死んで国のために尽くせばいいんだ」というものでしたし、私なんか15歳でしたから、死ぬなんてなんとも思ってなかったですからね。
チキ:じゃあ、特攻っていうものがこれからもっと増えるんじゃないか、それぐらいの印象ですか?
義祖父:いや、増えるっていうか、特攻隊になって死んで国のために尽くせればいいということだけですね。
チキ:特攻で死ぬと躍進するようですね、階級が二階級特進ですね。その「志願しないか」って言われた時は、特進の事とかも頭をよぎるんですかね。
義祖父:どうですかね。人によって違いますからね。ただ、私の場合は、志願して分隊士と面会するんですよ。家族の身上調査的なことを聴かれて。で、兄は(戦艦)武蔵に乗っていたもので、そんな話をしたらちょっと分隊長の顔が曇ったんですよ。その時はもう武蔵は沈没していて、それで私がまた伏龍特攻隊で、っていうことで。ちょっと分隊士は気持ち的に心配したのか、どうなのか。顔が曇った感じはしましたね。
チキ:それは例えば、お母様が息子を次々亡くすことへの心配になるんですか?
義祖父:分隊士は結局、兄の武蔵が沈没したから戦死しているんじゃないかということと、弟の私が特攻隊で命を落とすんじゃないか。二人が死ぬということの、なんていうかねぇ。
チキ:気の毒な感じ。それでも仕方がないという状況だったんですかね。
義祖父:そうですね。


※1944年10月、大西瀧治郎の提案以降、各部隊で様々な特攻(=特殊攻撃)が行われていくようになる。「神風」など飛行機の特攻が有名で、映画にもなったりしているが、他にも様々な特攻があった。回天、蛟龍、海龍、震洋、桜花などなど。伏龍はそのひとつで、1945年に黒島亀人少将が発想したと言われる。
※海軍はもともと、飛行機搭乗員を養成するため多くの予科練習生を募集したが、この頃には乗る飛行機もなくなってきていた。そのため予科練出身者は、他の様々な特攻の乗員に選抜されたものの、なお多数の余剰員を残していた。この「余剰員」を活用しようという着想のもとで、伏龍特攻隊が採用された。
※兄が武蔵で死んでいるという話をした時の、分隊士の顔が曇るエピソードが印象的だった。特攻隊への「志願」については、様々なバリエーションがあるが、その際にも家族の話は頻出している。例えば下記。

 夜半前に何人かが班長(下士官)に起こされ、分隊長(中尉)室に一人ひとり呼ばれた。
「貴様は次男だな。貴様が死んでも家は構わんな。特攻隊の募集が来ている。参加せい」
「はいっ」
「よし。出発は明日だ。次っ」
 廊下へ出て、廊下の曲がり角にはめ込まれていた鏡の中に映る自分の顔に笑いかけようとしたが、顔は引きつり、真っ青であった。
瀬口晴義『人間機雷「伏龍」特攻隊』(講談社、2005)内、猪川重徳(甲種予科練14期)の手記引用部分

班長は大きなため息を吐くと、静かな口調で私に問いかけた。
「門奈、お前は確か長男だったな」
「はい」
「御両親は元気か」
「ここへ来てからは一度も便りを受けておりませんが、多分、元気だと思います」
「そうか、弟がいたな、幾つになる」
「弟は一人おります。小学校四年ですから……十一歳になります」
「お前がいなくても、家が困るようなことはないな」
「はい、大丈夫です」
 と答えたが……私はおや? と思った。すでに「長男だったな」とたずねられたときから私は妙な気がしていた。(…)
「詳しいことはやがて分かる。このまますぐ船着場へ行け、よその分隊の者も来ているはずだから」
門奈鷹一郎『海軍伏龍特攻隊』(光人社NF文庫、1999)

人間機雷「伏龍」特攻隊

人間機雷「伏龍」特攻隊


※形式的には「志願」だが、実質的には命令に近いものもあった。この頃は、「別の家族がまだ残っているなら大丈夫だろう」という発想があったことが強くうかがえる。

  • 伏龍隊での訓練

チキ:予科練の時代から、今度は7月の末には伏龍の部隊に入っていくわけですよね。伏龍は実戦には行かなかったですよね。
義祖父:いかなかったですね。
チキ:伏龍の部隊ではどんな事をされたんですか?
義祖父:最初は、船の上から海中にはじめて降りるわけですね。はじめ3mくらいかね。それで、だんだん慣れて、海中を歩くようになるんですけどね。
チキ:潜水服、ヘルメットのやつをつけて。あれ、重くないですか?
義祖父:あの当時、私なんかは練習用だけしか着用しないですけども、練習用でも60キロくらいで。実戦用では68キロってみんな書いてありますけどね。で、体重は40キロくらいでしたから、船の上歩くのは大変でした。
チキ:(陸上で)転んだら、一人じゃ起きられないですよね。なかなか。
義祖父:海の中では心配ないですからね。水圧で浮くぐらいですから。
チキ:あれって、呼吸の仕方も工夫がいるみたいですね。
義祖父:鼻から吸って口から吐くですからね。
チキ:あれは何でそうしているんですか?
義祖父:一番は酸素を持たせるために、吐いた空気を清浄缶っていうので清浄して、残った酸素はまた使うってことでしたから。でもあの呼吸法は無理がありますよね。私も一度、海底で躓いて、口から自分の一酸化炭素を吸って意識朦朧として引き揚げられたことがありますけどね。
チキ:あれは、ソーダに吐いたやつを吸わせて。逆に(ソーダを)吸ってしまうと内臓をやられてしまうと聞きましたが。
義祖父:それは苛性ソーダが破損したりして、海水が入って死亡したっていうようなこと。
チキ:では一酸化炭素の中毒でクラクラすることと、ソーダでやられることが危険だったんですね。海の中へ沈んでいきますよね、服を着て。それで機雷というか爆雷の付いた棒をもって。それもまた重いんですよね。
義祖父:いや、そこまでは私なんか、機雷なんか持って練習はしなかったですね。
チキ:そこに至るまでに練習は終わったということですよね。竹やりに爆弾が付いているものを持って訓練するまではいかなかったんですよね。先輩が訓練しているのは見た事ありますか?
義祖父:いや、見た事ないですね。
チキ:最初は3mから初めて、だんだん慣らしていく。
義祖父:そう。
チキ:海の中と船から見ている人とで交信が必要じゃないですか。
義祖父:ですから、命綱を腰につけていて、たしか海底に着くと長短短かな。
チキ:たしか長短短で。
義祖父:海底に到着したっていうね。
チキ:「海底ニ到着セリ」って伝えるみたいですね。
義祖父:で、船の上から見ても排気の気泡があるから、動きがわかるわけですね。右に行けとか、左に行けとか、まっすぐ行けとか、信号を送るわけですね。
チキ:調べたら、長短短が「到着」。「右に行け」が長で、「左に行け」が長長。で、「とまれ」が長短ってなっていますけど。大体こんなもんですかね。
義祖父:そうですね。
チキ:これ、信号ってロープで引っ張ってクイクイーっていうので、長短短。わかるものですか?
義祖父:わかるらしいですね。それでやってましたからね。
チキ:潜水服着て、そこにロープ付けて長短短って引っ張られて。あるいは引っ張り返して。波とかもありますからね。よくそれで伝わりましたね。
義祖父:海底は波はないですからね。あれですけども。それから、水中ではまっすぐ歩けないから、ものすごく前傾姿勢で、自分の足が見えるくらいにして歩くんです。
チキ:もう全身を前に、ダイブするぐらいの気持ちで、ようやく前に進んで行けるというような。最終的には、お義祖父さん、何m位まで歩いたんですか?
義祖父:一番深い時は15m。
チキ:その時はまだ訓練ですから命綱がありますよね。でも本番をもしやるとしたら、命綱もないし、上と下との連絡もないわけですよね。
義祖父:本番の時は、50m間隔で三段構え待機していて、上陸したら突くというような話は聞いてましたけどね。
チキ:あれは50m位離れないと誘爆するから?
義祖父:そうらしいんですけど、でもその前に艦砲射撃で待機しているところを撃たれたら、もう皆。伏龍なんて無謀な特攻だったんだって思いますよ。


※伏龍の装備は、ゴム製の潜水服、かぶと、2本の酸素ボンベ、清浄缶、そして鉛のおもりで総重量68キロほど。これに15キロの五式爆雷を付けた竹の棒を手に持ち、水中に潜む。敵の上陸船がきたら浮き上がり、五式爆雷を突きあげるという自爆攻撃だ。この潜水服は、元々は特攻兵器として用意されていたものではない。米兵がまいた機雷を掃海するため、水中で活動できるようにと、1945年の1月頃に開発がはじめられていたものだった。3月頃には実用可能の域に突入していたとされるが、その技術を特攻に応用する形となった。


  


※実践で使用されることはなかったが、訓練中にも事故が多発した。伏龍には、独特の呼吸法が必要だった。鼻から酸素を吸い、口から吐く。逆に口から吸うと、炭酸中毒になってしまう。また、空気をろ過するために、苛性ソーダを利用していたが、破損トラブルによって水と混ざってしまうと、沸騰して逆流する。これを飲み込むと、内臓が焼かれてしまうのだ。こうした事故で訓練中に多くの兵士が亡くなっているが、「調達した酸素ボンベの中に、空のものが多く含まれていた」ために死者がでたという証言もある。

 犠牲者が多かったもう一つの原因が酸素ボンベです。「伏龍」で海に潜るのに、酸素ボンベを2本背負います。当然、ボンベの中の酸素は満タンじゃないといけないのですが、酸素会社がまともに入れてくれないんです。ボンベを50本とか100本頼んでも、10本くらいしか、ちゃんと酸素を入れてくれませんでした。観ただけでは酸素が入っているのか、空なのかわからない。教員もにわか仕込みの教員ですからね。助かった人に聞くと、海中に潜って酸素が満杯あると思って見たらゼロと表示されて、それを見た瞬間、もう駄目だと思ったらしいです。
 あまりに酷いので交渉に行ったら、酸素会社の人も海軍のOBで、「先任下士官、タバコを都合しろ」と言うんです。それで酒保に飛んで行ってタバコを7000本くらい、当時、段ボールがなくて木箱と入れて、すぐに届けたんです。そしたら、あくる日から酸素ボンベは全部満杯で来るわけです。その後は酸素ボンベが原因の犠牲者は出ませんでした。
 にわか部隊ですから、上の人が酸素の供給まで目が届かないんです。また、酸素会社に行くのは35〜36歳くらいの補充兵ですから、帰ってきて上官に「酸素を買ってきました」と言うだけで、中身を確認することもなく、正直に報告していないんです。「なぜ、ちゃんと貰って来ない」となると、海軍ではすぐビンタが飛んできますからね。ビンタを貰うのが嫌だから、補充兵は「全部貰ってきた」とうその報告をするんです。そんな理由で、最初の犠牲者が出たのだと思います。
 私が、酸素ボンベのせいで亡くなっているのではないかと気付くまで、7名ずつ、2回なくなっているんです。殉職者の数は正確には分かりません。私は35〜40にんくらいと思うんですけど、人によっては100人以上とか毎日何十人も死んだって言いますね
『特攻 最後のインタビュー』(ハート出版、2013)内、海老沢喜佐雄(伏龍隊先選下士官)インタビューより


特攻 最後のインタビュー

特攻 最後のインタビュー

  • 伏龍の非現実性(未放送部分)

チキ:伏龍の話に戻りますけど、証言をみると、面ガラスってあるじゃないですか。
義祖父:面ガラスは、締めますよね。それで船にあがってきて、面ガラスを開けるとほっとしますね。
チキ:あの面ガラスを締める時に「キュッ」って音がするので、その音はずっと忘れないと聞いたことがありますけど。
義祖父:そうですか、私は音は記憶がないですけど。ただ、呼吸が鼻から吸って口から吐くですから、面ガラスが閉まると、いまからその呼吸をしなきゃいけないのかと負担が先に横切りますから。
チキ:練習中に死ぬんじゃないかっていう思いってありましたか?
義祖父:練習中は死ぬなんて思いはなかったですね。
チキ:当時は何を訓練していたんですか?
義祖父:だから海底にもぐって右に言ったり、左に行ったり。それから上陸水艇が来たときにどういう状態かっていうから、ちょうど面ガラスをここまで、海底から上がる練習ですね。海底を蹴って、頭のここに排気弁がありますからね、ここで空気を出しながら行くと、丁度、この面のところに。で、空気の出し方が悪いと、海上バーンってあがっちゃいますよね。
チキ:上に行ったり、底にしずんだり。でも船って上陸するときに、船だって速いじゃないですか。バーッて来たときに、海底を蹴ってあがって行って、自爆攻撃するわけですよね。難しいですよね?
義祖父:そうですね、いま考えるとね。
チキ:誘爆も避けなくちゃいけないから、仲間同士も離れて。それぞれ孤独に待ちながら。その酸素って、そんなに長くは持たないですよね。
義祖父:そうですね。でも2本背負ってましたからね。4時間か5時間はもったでしょうね。
チキ:じゃあ、「来る!」ってわかった時にサッと沈んで、数時間以内に来たら攻撃…難しそうですね。
義祖父:上達すると、陸から海に歩いて入る練習もしていたみたいですけどね。私なんかはしてないですけど。
チキ:それだけ重いものを背負って、どんどん訓練を重ねていって。これで観ると、背中に酸素ボンベを背負って、長い竹やり。これ本当に竹なんですか?
義祖父:竹なんだと思いますね。
チキ:お腹のところに鉛の板を。これは沈むため。
義祖父:それと後ろに酸素を背負うから、平均をとるためというのもあるんじゃないですかね。
チキ:前傾するような感じじゃないと歩けないですよね。多少、ひざとかは伸縮するものですか。ゴムですよね?
義祖父:そうですね。
チキ:じゃあ、それで屈伸ぐらいは。
義祖父:そうですね。
チキ:じゃなきゃ蹴れないですよね、海底を。
義祖父:それで、胴体に鉄の輪が入りますから、足だけはピチっとくっついちゃうんですね。潜水服が。


※伏龍は、そもそも実践に投入されるのかさえ疑わしいものだった。4、5時間ほど潜水できるが、どのタイミングで潜るのか。各兵士が50メートル以内にいると機雷が誘爆して死ぬので、50メートル以上離れなくてはならないが、それでどうやって連携するのか。そもそも上陸前の攻撃でやられるのではないか。浮き上がるときの空気でばれるのではないか。隠れるために水中要塞やコンクリートでタコツボをつくるという案もあったが、それは作れるものなのか、そもそも役に立つのか。いつ来るかわからない敵に対して、残りの酸素を気にしながら、水中に潜むという極限状態では、精神がもたないのではないか――。ツッコミは無数に浮かぶ。そもそもおよそ計画なんてものはなく、場当たり的な発想で生まれた特攻部隊であり、作戦もあとづけで考えようとして苦悩するような代物だった。
※7月末。当時の総理大臣、鈴木貫太郎が、伏龍の訓練を視察に来ている。訓練を見た鈴木総理は「不適」、つまりは「これじゃむりだろう」と反対した。それに対して関係者が、「きっと何とか使用できるようにしますから」といって了解を得て、訓練を継続していった。結局、伏龍は実戦で使用されないまま終戦を迎える。無謀な作戦は、訓練中に多数の死者を出すという結果だけを招いた。


チキ:当時は作戦の事とかっていうのは聞いてたんですか?
義祖父:作戦のことは、今言ったように50m間隔で三段構えでいろっていうだけのことですね。あとは終戦になって、降伏文書の調印の時に、東京湾ミズーリ号を機雷で爆破しようかなんて話はあったんですけどね。
チキ:それは伏龍によって?
義祖父:ええ。ミズーリ号にぶつけろなんて計画が一時あったようですね。で、行きたいものは「熱望と書け」とかさ。
チキ:あの、熱望以外の選択肢は何があったんですか?
義祖父:書かせたのは「熱望」と「望」と「否」の三種類ですね。それで私も迷って、終戦後にミズーリ号に突っ込んでもしょうがないじゃないかなと思ったけど、一応「熱望」って書いたんです。それで、私たちは終戦後22日まで練習を続けていましたからね。だから、練習終わってあがってきたら、ある士官から「戦争終わったのに何で練習してるんだ」って。それで23日になったら「熱望と書いた者はすぐ帰郷だ」って言われて帰って来たんです。
チキ:「熱望」の人がなぜ先に返されたんですか?
義祖父:いやぁ、わからないけど、それだけ無謀な事を志願したヤツは先に帰した方がいいと思ったんじゃないですかね。原因は私もわかりませんよ、全然。
チキ:それだけ偉い奴だからということではなくて、危険だから…?
義祖父:じゃないですかね、わかりませんけども。
チキ:その間の訓練は、変わらずずっと同じ訓練?
義祖父:ええ。
チキ:15日に玉音放送が流れたという情報は知っていたんですか?
義祖父:その時は皆、通信学校にみな集められて、天皇陛下から重大な発表というか、お話があるから、皆聴くようにと。その時、ラジオがガーガーして、私なんかはよくわからなかったんですよね。そしたら、皆が「戦争に負けたんだ」ってね。
チキ:それを聞いたときにどうでしたか?
義祖父:悔しいのと、ほっとしたのと両方ですね。
チキ:日本が負けるとは思っていなかったんですか?
義祖父:全然思っていなかったですね。その当時は何も知らないですからね。
チキ:勝つと思っていましたか?
義祖父:まあ、なんとかなるんじゃないかと。勝つというか、何とかなるんじゃないかという気はありましたね。だから、沖縄にアメリカ軍が上陸したときも、まだその当時は勝つと思っていましたからね。
チキ:15歳で終戦を迎えたわけですね。じゃあ、お義祖父さんは伏龍の訓練は、大体1か月弱という感じですよね。
義祖父:1か月いったかいかないかぐらいじゃないかと思うんですよね。
チキ:7月の末から、8月15日、それから1週間ですから。1か月以内ということですよね。でも、その7月末にそうした命令が下るということは、まだまだ備えていたんですね。終戦間際に。いまふり返って見て、特攻や伏龍ってどう思いますか?
義祖父:いやぁ、馬鹿げてたなぁって思いますよ。実戦に使えないでしょ。それで海底に蛸壺掘るんだなんていっても、海底がそんなに簡単に掘れるとは思えないし。
チキ:あの、海底に要塞を作るとか、蛸壺を作っておいて。そこで潜んでおいて。来たぞと言う時に、自主判断で出て行って、突くんだということを想定していたみたいですね。蛸壺っていうのは、ちょっとわからないですね…。伏龍以外にも「龍」が付く特攻がいくつかあったみたいですね。なんだっけな…
義祖父:だから伏龍なんて最低の特攻ですからね、私もあまり話す気にならなかったんですけどね。特攻なんか、結局なんですかね。1億総玉砕というか、皆、特攻になるのは何とも思ってないからね。私は15歳だったから、何も知らないで特攻に入ったけど、予備学生とかね、教育を受けて世間の事を知ってる人が特攻に行くっていうのは辛かっただろうなと思いますよね。


※穏やかな義祖父であるが、「最低の特攻」というフレーズが飛び出てきたのが印象的だった。また機会があれば話を聞きたいと思う。



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特攻 最後のインタビュー

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