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2009-10-19 定住外国人の地方参政権について このエントリーを含むブックマーク

【土・日曜日に書く】政治部・阿比留瑠比 参政権付与を早まるな - MSN産経ニュースid:munyuu さんのブコメコメントをつけたらトラックバックが来ました。


■外国人参政権に賛成しているのは日本語が不自由な人間ばかりだな。

id:seiryu95によるブクマコメント。

> munyuu 平成7年判決は、外国人に地方参政権を付与しないことが違憲だと主張した原告の上告を棄却したもの。判決のどこにも地方参政権を付与することが違憲だなんてかかれていない。

http://b.hatena.ne.jp/seiryu95/20091018#bookmark-16812491

原告の上告を棄却したということは、「外国人に地方参政権を付与しないこと」は合憲ということ。

学説にも外国人参政権が違憲という説は存在するし。

日本における外国人参政権をめぐる動き

平成7年判決

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9#.E5.B9.B3.E6.88.907.E5.B9.B4.E5.88.A4.E6.B1.BA

傍論」を盾に必死なようだけど、在日朝鮮人のような犯罪傾向の高い外国人を日本の政治に参加させて、日本人に何の得があるのか説明して欲しいものですな。

 やはり判例の基本的な理解をされていなかったようです。

 平成7年判決(正確には最高裁平成7年2月28日第三小法廷判決)の事案は、永住資格を有する在日韓国人である原告らが、居住地の選挙管理委員会に対して選挙人名簿に登録することを求めて異議の申出(公職選挙法24条)をしたが、この申出が却下されたため、この却下決定の取消を求めて訴えを提起したというものです。

 この訴訟の中で原告らは永住資格を持つ外国人には憲法上地方参政権が認められていると主張しました。

このような憲法上の主張に対して、最高裁は憲法15条は「右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。」とし、93条2項は「我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。」として、その上告を棄却しました。


 ここで注意すべきことは、最高裁は原告らの「憲法15条及び93条2項が外国人の地方参政権を保障している」という主張を否定したに過ぎず、それ以上に外国人に地方参政権を付与することを憲法が禁止しているなどという判断は全くしていないことです。


 外国人に対する地方参政権に対する憲法の態度としては以下の3つの可能性があります。

1.禁止説

  これは、外国人に地方参政権を付与することは憲法に反するという説です。この説を採用する場合、仮に外国人に地方参政権を付与する法律が制定されたとしてもその法律は違憲ということになります。

2.許容説

  この説は、憲法は外国人に地方参政権を付与することを禁止も要請もしていないとするものです。この説に立つ場合、憲法の要請でない以上外国人に地方参政権を付与する法律がないことは違憲となりません。他方で、国が法律により外国人に地方参政権を付与したとしても禁止説に立たない以上、かかる法律も違憲とはなりません。

3.要請説

  この説に立つ場合、外国人に地方参政権を付与しないことは違憲となります。


 では、平成7年判決において最高裁はいかなる説に拠っているのでしょうか。

 最高裁第三小法廷は、原告らの要請説に基づく主張を排斥していることから、要請説に立たないことは明らかです。しかし、最高裁はそれ以上に外国人に地方参政権を付与することが憲法に反するとまでは主張していません。すなわち、平成7年判決の判決理由では、最高裁が禁止説に立つか、許容説に立つかは明らかではないのです。

 ちなみに、平成7年判決は傍論で外国人に法律で地方参政権を付与することは憲法上禁止されていないが立法政策の問題であるとしています。この傍論では最高裁は明確に許容説の立場を採ることを明らかにしているのですが、仮にこの傍論がなかったとしても平成7年判決が外国人地方参政権について禁止説に立つか許容説に立つかは明らかでないと言えるだけで、平成7年判決が禁止説に立っているとは断言できないのです。

 従って、munyuuさんの

munyuu 国際, 政治 最高裁の判例で外国人参政権は憲法で明確に禁止されていると出ている。傍論と判例の区別ができないバカが必死(w  id:bogus-simotukare←判決と判例の区別はつけよう。あと、傍論は判決理由ではない。id:seiryu95←学説です

 という主張は明らかに間違っていると言えます。

 munyuuさんの主張は

原告の上告を棄却したということは、「外国人に地方参政権を付与しないこと」は合憲ということ。

というものですが、外国人に地方参政権を付与しないことは合憲≠外国人に地方参政権を付与することは憲法で禁止されている、ということはすでに説明したとおり。munyuuさんの間違いは、最高裁の取りうる態度について禁止説か要請説化の二者択一であると考えたところにあるのではないかと思います。禁止説か要請説かの二者択一の場合、要請説を採らないことは禁止説を採ることにつながりますが、その前提が崩れた場合、すなわち禁止説と要請説の他に許容説というものが存在する場合には、not要請説=禁止説とはならないのです。

2009-10-13 コメント欄への返答1 このエントリーを含むブックマーク

 前の「在留特別許可について」という記事に権兵衛さんがコメントされました。かなり長文となったので新たな記事を起こします。


 貴方は、しっかり勉強しているようなので、こちらに書くのがふさわしいのでしょう。長文かつ駄文を先にお詫びしておきます。

 まず確認しておきたいのですが、あなたは玄倉川さんのBlogでコメントされていた方ということでよろしいでしょうか?


 先ず、取消訴訟については、在留許可の取消処分の取消訴訟ですから、訴訟では、22条の4第1項各号に掲げる取消事由が存在するかどうかを争うことになります。

つまり原告敗訴判決は、処分の取消事由が存在しないことを確認するものであって、処分が権限の濫用・逸脱によってなされたものかどうかを判断するわけではありません。この部分の立論は完全な誤解です。


 なるほど、確かに今回の事案では姉妹の両親は、自らが残留孤児の子孫にあたるか否かを争っていたと思いますから、この訴訟の主な争点が取消事由の有無になっていたということは理解できます。理論的には、取消事由に該当する場合になお在留許可の取消処分が裁量の逸脱濫用に当たることも考えられなくはないが、実際上は問題とならないという理解でよろしいですか?取消訴訟の判決文が手に入らないため推測に頼らざるを得ません。もし判決文の所在をご存じでしたら是非ともご教授下さい。

 ただ、このような理解によったとしても、裁判所の判断が取消事由の有無についてなされたものであれば、裁判所の判断を前提にして、なお国が在留資格を取り消さないという判断をしたとしても、それは裁判所の判断には抵触しないと思うのですが(あくまで22条の4は「できる」とするに留まっており、国に取消を義務付けているわけではありませんから)、その点はいかがでしょうか。


 従前のガイドラインの基準でも大丈夫という主張のようですが、従前のガイドラインであっても、最高裁までいって処分が確定したケースで在留許可を認めた例は、カルデロン典子さんのケースだけのはずです。それ以外は、最高裁の判断を、尊重する形で、退去強制を実行していると思います。それだけに今回のケースはレアなケース、方針転換を図った、と「も」いえます。

 私はこの理解は妥当ではないと思います。今回の事案やカルデロン紀子さんのケースがレアケースであるのは、最高裁の判断を尊重したからというよりは、単に退去処分又は在留資格の取消処分を求めた国がその方針を変えなかっただけではないでしょうか。国が在留資格の取消処分をする場合、単に在留資格がないことを確定させることを目的とするのではなく、その後の退去強制につなげる意思まで有していると考えるのが普通です(取り消した上で在留特別許可を与えるつもりであれば、入管法の構造上取消訴訟よりも先に決着がついているはずですから)。従って、在留資格の取消を求めた国にとって、最高裁により取消訴訟の棄却が確定したのであれば、退去強制につなげようとすることは当初の意図に従ったごく自然なことであり、それを国は在留資格の取消処分の撤回若しくは在留特別許可を出すつもりであったが、最高裁の判断を尊重してしなかったのだとする理解はかなり不自然なものであるように思います。

 最高裁の判決確定後に退去強制を実行しないことがレアケースであった理由は以上のように単に国が当初の意思を貫徹したからに過ぎないと考えれば、長期間にわたって政権交代が生じなかった日本において、このような事例がレアケースであり続けたのはごく当たり前のことです。このように考えれば、千葉法相が在留特別許可を出したことがレアケースであることは、それ自体裁量の逸脱・濫用とする根拠にはならないと考えます。

 そして、ご承知のようにガイドラインが挙げている積極事由・消極事由がかなり抽象的な文言と例示にとどまっている以上、その具体的な解釈は判断者ごとに幅が出てくるのは避けられないことであり、千葉法相の判断がガイドラインの文言から導き出せないようなものであれば格別、判断者の交代による解釈の変遷はそれ自体裁量の逸脱・濫用とする根拠とはなり得ないと思います(その意味で千葉法相の判断が方針変換を図ったものか否かは論ずる実益がないというべきでしょう)。


 そして、情報が少ない現状で今回のケース自体が適切かどうかを判断する気がない(ブログ主には失礼です、それは単なる推測に過ぎず、マスコミ情報だけで勝手に有罪無罪を判断するのと変わりがないですからそれ自体無価値(自己満足)だと個人的に思う)ので、三権分立に反するのかを具体的に述べません(主張としては十分成り立ちうるし反論も十分主張しうる)が、ただ、政権交代だから、裁量の中身を替えてよいという主張には違和感(というか反感)を覚えます。

 この点については誤解があると思います。私は、政権交代により裁量の中身が変わったからといって、その変わったことのみを以て裁量の逸脱・濫用の根拠とすることはおかしいと主張しているに過ぎません。千葉法相の判断が裁量の逸脱・濫用に当たると主張されるのであれば、もっと別の根拠を持ってくるべきなのです。


 今までの行政法学の流れの中では、裁量統制を論じるのは、法的安定性を確保して、人権保障を全うするためです。大臣交代の度に裁量の行使基準が変更することを是認するというのは、処分の対象者の法的地位を不安定にして、処分の法的安定性が破壊されます。そういうことがないようにするための、裁量統制論なのであって、広汎な裁量を是認しない流れの中で、それを是認する人々は、議論をまるで理解していないとしか思えません。

 たぶんこのあたりが権兵衛さんと私の最大の対立点であると思います。

 確かに権兵衛さんの仰るように、一般論として裁量統制の必要があることは否定できないでしょう。しかし、他方で裁量統制を過度に重視すると、そもそも法務大臣に裁量を認めた趣旨を没却してしまうのではないでしょうか?

 在留特別許可の制度趣旨は複数あると思いますが、その一つに通常の定型的な退去強制事由に該当するがなお人道上日本への滞在を認めることが人道上望ましいと言える場合にその者の救済を図ることが挙げられると思います(ガイドラインの文言もそのような趣旨を前提としているといえます)。このように在留特別許可自体が定型的な処理による不都合性を回避するための制度である以上、その判断に一定の裁量を認める必要があります。もちろん裁量権統制のために、裁量の行使基準を設定することは、少なくともこのような事例においては救済されるべきという範囲を明らかにする点で意義があると思います。しかし、これが一旦設定した行使基準に該当しない場合には救済すべきでないという主張に発展することは問題であると考えます。

 何故かというと、特別在留許可を出すべきか否かは一つの基準に該当するか否かによって決せられる場合だけでなく(この部分は基準として明確化しておく必要があるという点には異論はありません)、複数の要素の総合考量により決せられる場合があるからです。後者の場合、考慮の対象となる要素も定型的なものばかりではなく、またそれを判断の際にどの程度重視するかを一義的に決定することが困難であるため、その範囲で一定の裁量を認める必要があります。これを認めず、一義的な基準を要求する場合、それは定型化することが困難な事情(特に不利な事情)の存在を想定して、その場合でもなお在留特別許可を認めるのが妥当な場合を想定する必要が生じ、その結果在留特別許可を出すべき場合として明確化される範囲は現在法務大臣の裁量が肯定される範囲よりもかなり縮減せざるを得ません。これでは法的安定性を重視するあまりかえって具体的な妥当性を犠牲にすることにつながり、定型的な判断から漏れた場合に人道上の配慮により在留を認めるという在留特別許可の制度趣旨を没却してしまいます。

 


 例えば、この次政権交代をして、基準が前の自民党政権よりも厳しくなった場合、今回のケースを是認していた人々は、厳しくなった基準を裁量だかといって是認できるのでしょうか?私はそれならば、批判をするつもりはありませんが、今後人権とか憲法という言葉を口にしてもらいたくはないです。私はこのケースでは、確実に平等原則違反が生じていると思います。

 この平等原則違反の主張についてもやはり本末転倒な感を否めません。

 権兵衛さんの主張によると、法的安定性を重視し、平等原則を守るために、本当であれば人道上在留を認めるべき場合であっても、在留を認めるなということになりかねないことを自覚されているでしょうか。今回在留許可を出すのであれば過去に退去命令が確定した者に対しても同様の基準で許可を出すべきであるという主張であれば解りますが、ここで平等原則に則って、本件姉妹に在留特別許可を与えなかったとしても、それは過去の法務大臣の判断によって許可が与えられず強制退去になった者の人権の保護には何らつながりません。

 私が厳しくなった基準を批判する場合、その理由はあくまで新基準によると人道上、及び憲法の趣旨から保護する場合であるにもかかわらず許可がなされないことであって、政権交代により基準が変わったことそれ自体ではありません。今回千葉法相の判断を擁護するのもその判断が具体的な事案において人道上の配慮という在留特別許可制度の趣旨に適うからであって、政権交代があったから判断基準をいかに変えても問題がないなどという理由で擁護しているわけではないことをご理解下さい。


 他にも、基準の定立は、基本的には、立法行為ですから、本来的には立法作業の中で解決すべきだと思っています。入管法22条の4はある程度の不許可要件を定めているのを裏返しにして、50条の要件自体を法定することは可能といえます。

 前述したように、許可される場合のうち定型化される範囲において基準を明確化することに異論はありません。ただ、50条が非定型的な総合判断を必要とする以上、在留許可制度における法務大臣の裁量を明文の規定に完全に解消することはできないと思います。




 50条の要件を法定することにはメリットもあります。行政事件訴訟法で義務づけ訴訟が存在するので、50条の要件を備えることを訴えて、裁判所に義務付けの判断をしてもらえることです。

今現在の50条の広汎な裁量というのは、本当に広汎すぎて、義務付けが出来ませんから、多少の要件は必要になりますが、義務づけの対象にもできるように変更したほうが良いでしょう。

この場合、三権分立に疑義が生じることはなくなるでしょうから、理論的にも実際的にもきちんとした解決が出来ます。


 法定する場合のメリットは理解できますが、これが三権分立とどのようにつながるのかよく分かりません。

kurokuragawakurokuragawa 2009/10/31 18:33 権兵衛さんはせっかく名乗ったのにこちらを「通り過ぎた」みたいですね。もったいないというか、青龍さんに返答の労を強いた(?)のに失礼というか。

seiryu95seiryu95 2009/11/02 20:50 >玄倉川様
 まあ、「通りすがり」であることに拘っていたことから、権兵衛さんのこのような対応は予測の範囲内でした(かなり詳細な反論がされていたことからもしかしたらと期待したのですが)。
 権兵衛さんの指摘の中には、私の事実誤認を気づかせてくれたものもあり、彼との議論はそれなりに有意義なものだったと思うのですが、それだけに中途半端な議論に終わってしまったのが残念です。

2009-10-12 在留特別許可について このエントリーを含むブックマーク

 今回の中国人姉妹に対する在留特別許可について、間違った情報に基づく非難が目につくので、私の理解している範囲で反論をしておこうと思います。

1.強制退去命令の取消訴訟について

  批判者の中には、この姉妹が提起した退去命令の取消訴訟について最高裁で敗訴が確定したにもかかわらず、千葉法相が在留特別許可を出したことを以て、「人治主義」とか「法律無視」とか批判する人がいます。

 しかし、これは裁判所において、この取消訴訟で何が判断されたのかを理解していない主張です。

 まず、本件の姉妹は当初中国残留孤児の子孫として在留資格が認められたが、後に残留孤児の子孫であることが疑われ在留資格が取り消されています。このような在留許可のと理消しについて規定する出入国管理及び難民認定法22条の4は「次の各号に掲げるいずれかの事実が判明したときは、法務省令で定める手続により、当該外国人が現に有する在留資格を取り消すことができる。」と規定しており、22条の4各号に該当する場合であっても必ず在留資格を取り消さなければならないわけではありません。同様に退去強制について規定する同法24条も「次の各号のいずれかに該当する外国人については、次章に規定する手続により、本邦からの退去を強制することができる。」と規定しており、退去事由に該当するものについても必ず退去させなければならないとするのではなく、国に一定の裁量を認めています。

 このように、行政処分について一定の裁量が認められる場合、当該処分の取消が認められるためには、当該処分について裁量の逸脱または濫用があることを要します(行政事件訴訟法30条参照)。従って、本件の姉妹についてなされた退去命令の取消訴訟においても当該命令が(24条各号該当性を前提として)裁量の逸脱・濫用に当たらなければ、退去処分の取消訴訟は棄却されることになります。

 係る取消訴訟においては裁判所は、争点を「退去命令に裁量の逸脱・濫用があったか否か」と設定し、事実認定もその範囲でなすのが通常です。すなわち、退去処分が法務大臣の裁量を逸脱・濫用してはいないが退去処分をしなかった方が妥当だと裁判所が心証を得た場合であっても、裁判所はあくまで「退去命令は法務大臣の裁量を逸脱・濫用したものとはいえない」として取消請求を棄却することになるのであり、国側も当該姉妹も争っていない「国が退去処分をしないことが裁量の逸脱・濫用となるか」または「国が退去命令を出すべきか」について判決の中で判断を下すことは通常ないといえます(本件取消訴訟において裁判所がそのような判断を判決で示したという話も聞きません)。

 このような取消訴訟について最高裁が上告を棄却し、原告姉妹の敗訴が確定した場合であっても、そこで示された裁判所の判断は、あくまで「退去命令に裁量の逸脱・濫用はない」というものであり、その裁量の範囲内で法務大臣がいかなる判断をすべきかという点については前述したような特別の判断が示されていない場合を除いては、判決の効力を問題にする以前に、そもそも裁判所は判断していないことになります。

 以上をわかりやすく説明すると退去命令に対する裁判所の心証としては

(1) 退去命令を出すことが法務大臣の裁量の逸脱・濫用に当たる場合

(2) 退去命令を出すことは法務大臣の裁量を逸脱・濫用しているわけではないが、裁判所としては退去命令を出さない方が妥当だと考える場合

(3) 退去命令を出すことは法務大臣の裁量を逸脱・濫用しているわけではなく、裁判所としては退去命令を出すべきか出さざるべきか判断がつかない場合

(4) 退去命令を出すことは法務大臣の裁量を逸脱・濫用しておらず、裁判所としても退去命令を出さないことが法務大臣の裁量の範囲を超えているとまでは考えないが、退去命令を出すべきだと考えている場合

(5) むしろ退去命令を出さないこと(または在留特別許可を出すこと)が法務大臣の裁量を逸脱・濫用すると裁判所が考えている場合。

の5つのパターンが考えられます。

 しかし、退去処分の取消訴訟で争われるのは?にあたるか否かであって、(1)にあたらない場合に裁判所が(2)から(5)のどの立場をとっているかは(裁判所が判決の中で敢えて言及している場合を除いては)そもそも判断がなされていないということです。

 従って、(1)にあたらないという裁判所の判断と裁量の範囲内で法務大臣が特別在留許可を出すことは何ら矛盾しないのです。

2.在留特別許可について

 次に、批判者の中には在留資格が取り消されたにもかかわらず、千葉法相が在留特別許可を出したことが法治主義に反するという人がいます。

 しかし、そもそも在留特別許可について定めた入管法50条が退去強制に対する異議に理由がない場合でも同条各号に該当する限り特別に在留を許可することを認めている以上、在留資格を取り消された、退去強制に対する異議に理由がない場合であっても、それだけで法務大臣の在留特別許可が違法となるとは到底言えません。

 そして、入管法50条が「法務大臣は、前条第三項の裁決に当たつて、異議の申出が理由がないと認める場合でも、当該容疑者が次の各号のいずれかに該当するときは、その者の在留を特別に許可することができる。」と規定していること、及び同条1項4号が「その他法務大臣が特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき。」と規定していることからすると、在留特別許可にあたっては法務大臣にかなり広範な裁量が与えられているといえるでしょう。

 もちろん前述したように、裁量行為であっても、裁量の逸脱・濫用がある場合には在留特別許可も違法となることはあり得ます。そして前述のように裁判所がこの点について判断していないとしても、本件の在留特別許可が裁量を逸脱・濫用しているという主張はあり得るでしょう。

 ただ、その場合なぜ裁量の逸脱・濫用といえるかを批判者の方できちんと論証する必要があります。残念ながら批判者の中にこの点をきちんと主張している方は見つけることができませんでした。

 この点について法務大臣は明確な理由を示していませんが、私は以下のような理由を考慮したのだと考えています。

 (1) 本件姉妹は両親とともに中国残留孤児の子孫として入国した。この点について在留資格の前提となる残留孤児の子孫か否かについて姉妹の両親が詐術を用いた可能性はあるが、少なくとも当時9歳と7歳であった姉妹についてはそのような詐称についての責任はなく、両親について退去させた後にこの姉妹についてのみ在留特別許可を与えたとしても入管行政に支障が生ずるような悪影響が出ることは考えにくいこと。

 (2) 本件姉妹は入国から現在に至るまで、日本で平穏に生活していること。

 (3) 本件姉妹は、それぞれ9歳・7歳の時から日本で生活し日本での生活の方が本国での生活よりも長くなっており、我が国への定着性が認められること。

 (4) 本件姉妹は、いずれも現在大学に進学しており、退去処分がなされれば、学業を途中であきらめなければならず、当人の不利益が大きいこと。

 これらの理由のうち(1)(2)は入国管理局が出している在留特別許可に係るガイドラインのうち、消極要素の(1)(2)に該当しないことに対応し、(3)(4)は積極要素のうちの(4)人道的配慮を必要とする特別な事情があるとき、に対応します。

 すなわち、本件の在留特別許可は、従来のガイドラインに照らしても、十分在留を許可する理由があると考えます。

 また、これまでの政権では本件と似たような事例において在留特別許可が出ていなかったことを挙げて、裁量権の逸脱・濫用を主張する方もみえるようです。しかし、政治家である法務大臣に広範な裁量が認められる以上、政権交代により、従来と考え方の異なる者が法務大臣として在留特別許可を出したとしてもそのことだけを取り上げて裁量の逸脱・濫用とすることはできません。このような主張を認めれば、政権交代があっても法務大臣は従来の法務大臣の価値判断に拘束されることになりますが、これは政治家である法務大臣に広い裁量を認めたことと矛盾するでしょう。

 このような広い裁量を認める以上、政権交代前に在留特別許可を出されなかった者と、政権交代後に在留特別許可を出された者との間に不平等が生じたとしても、同様の理由からそれだけで裁量権の逸脱・濫用とはならないでしょう。

 また、在留特別許可について運用を変えるのであれば、その前にガイドラインを改定し、裁量基準を明確にすべきであるという主張もあります。確かに、法務大臣の裁量行為についても、判断の明確性を担保するために事前にガイドラインを策定しておくことが望ましいといえますし、うんようを変える場合にはガイドラインの改定をすることが望ましいといえるでしょう。しかし、本件について見ると前述のように従来のガイドラインによっても十分在留特別許可を出せる事案であったこと、政権交代後間もないことからガイドラインの改定が間に合わなかった可能性があることを考慮すると、ガイドラインの改定を行わずに在留特別許可を出したことが不適当であるとはいえないと思います。

権兵衛権兵衛 2009/10/12 20:53 貴方は、しっかり勉強しているようなので、こちらに書くのがふさわしいのでしょう。長文かつ駄文を先にお詫びしておきます。

先ず、取消訴訟については、在留許可の取消処分の取消訴訟ですから、訴訟では、22条の4第1項各号に掲げる取消事由が存在するかどうかを争うことになります。

つまり原告敗訴判決は、処分の取消事由が存在しないことを確認するものであって、処分が権限の濫用・逸脱によってなされたものかどうかを判断するわけではありません。この部分の立論は完全な誤解です。

次に、今回の在留許可の件ですが、入管法50条は広汎な裁量権を与えていますが、どのような場合でも許されるというわけではないのはご理解されていると思います。

従前のガイドラインの基準でも大丈夫という主張のようですが、従前のガイドラインであっても、最高裁までいって処分が確定したケースで在留許可を認めた例は、カルデロン典子さんのケースだけのはずです。それ以外は、最高裁の判断を、尊重する形で、退去強制を実行していると思います。それだけに今回のケースはレアなケース、方針転換を図った、と「も」いえます。

そして、情報が少ない現状で今回のケース自体が適切かどうかを判断する気がない(ブログ主には失礼です、それは単なる推測に過ぎず、マスコミ情報だけで勝手に有罪無罪を判断するのと変わりがないですからそれ自体無価値(自己満足)だと個人的に思う)ので、三権分立に反するのかを具体的に述べません(主張としては十分成り立ちうるし反論も十分主張しうる)が、ただ、政権交代だから、裁量の中身を替えてよいという主張には違和感(というか反感)を覚えます。

今までの行政法学の流れの中では、裁量統制を論じるのは、法的安定性を確保して、人権保障を全うするためです。大臣交代の度に裁量の行使基準が変更することを是認するというのは、処分の対象者の法的地位を不安定にして、処分の法的安定性が破壊されます。そういうことがないようにするための、裁量統制論なのであって、広汎な裁量を是認しない流れの中で、それを是認する人々は、議論をまるで理解していないとしか思えません。

例えば、この次政権交代をして、基準が前の自民党政権よりも厳しくなった場合、今回のケースを是認していた人々は、厳しくなった基準を裁量だかといって是認できるのでしょうか?私はそれならば、批判をするつもりはありませんが、今後人権とか憲法という言葉を口にしてもらいたくはないです。私はこのケースでは、確実に平等原則違反が生じていると思います。

今を助けるために裁量だからと擁護するのは心情としてわからなくはないですが、その論理は、裁量ならば何をやっても良いという、人権蹂躙に肩を持つのと同義です。

他にも、基準の定立は、基本的には、立法行為ですから、本来的には立法作業の中で解決すべきだと思っています。入管法22条の4はある程度の不許可要件を定めているのを裏返しにして、50条の要件自体を法定することは可能といえます。

この辺は様々立論できるところですが、政権交代だから、変えても良いという意見には賛成は出来ません。

権兵衛権兵衛 2009/10/12 21:20 すみません。補足です。

50条の要件を法定することにはメリットもあります。行政事件訴訟法で義務づけ訴訟が存在するので、50条の要件を備えることを訴えて、裁判所に義務付けの判断をしてもらえることです。

今現在の50条の広汎な裁量というのは、本当に広汎すぎて、義務付けが出来ませんから、多少の要件は必要になりますが、義務づけの対象にもできるように変更したほうが良いでしょう。

この場合、三権分立に疑義が生じることはなくなるでしょうから、理論的にも実際的にもきちんとした解決が出来ます。

以上です。

2009-04-10 絶望と出口のない怒り このエントリーを含むブックマーク

元詐欺師・逮捕歴有りの新風のオヤジが在日韓国人青年に喧嘩売る→ぶっ倒され泣き言(笑) - dj19の日記 経由

 【維新政党・新風弁士韓国人に襲われる

http://www.youtube.com/watch?v=twIFPj2RpbM

 この動画を見て心底気分が悪くなった。

 韓国人の青年に対して、「大嫌いだから、大っ嫌いなんだよ、この日本から叩き出してやるよ、え、ゴミが、朝鮮人。」とヘイトスピーチを浴びせかける維新政党・新風の弁士。

 腹に据えかねた韓国人の青年がつかみかかると、弁士は暴力をふるわれたとアピールしながらさらに罵倒を続ける。


 だが、問題は、今の日本の法体系ではこの弁士の言葉の暴力からこの韓国人の青年やその背後にいる韓国人・朝鮮人を守ることが困難であるという事実だ。


 現時点では、特定の個人ではなく民族等の集団に対するヘイトスピーチを処罰する法律は日本にはない。処罰されるべきヘイトスピーチと保護されるべき言論とを明確に区別することが困難だからだ。我々は、名誉毀損罪の前身である讒謗律が、政治家に対する批判を封じ込める道具として使われた過去を知っている。だからこそ、ヘイトスピーチだから処罰しろと単純に叫ぶことができない。

 ヘイトスピーチをするような街宣活動を許可するなともいえない。表現内容に行政が介入して言論を抑圧することは、言論の自由に計り知れないダメージを与えると知っているからだ。

 言論には言論で対抗すべきかもしれない。しかし、彼らがやっていることは議論の中で意見の正しさを競うことではない。ひたすら特定の集団に対する差別意識を発露させるだけなのだ。彼らに対していくら、主張が間違っている、問題があると反論したところで、彼らは同じヘイトスピーチを繰り返すだけだろう。我々がHPやBlogでいくら非難したところで、彼らをそれを無視するという選択肢を有している。

 では、彼らと同じように彼らに対してスピーカーでがなり立てればいいのだろうか。いやそれも難しい。彼らを追いかけてスピーカで反論する。一歩間違えばストーカーだ。言論の内容ではなく、音量や追跡によるプレッシャーによって相手を黙らせようとすることは言論の内容で競おうとする言論活動の建前とは相容れないからだ。

 このように考えると、あの弁士らのヘイトスピーカから、在日韓国人・朝鮮人を守ることが実に困難である。さらに絶望的なのは、あの弁士たちを守り、差別的言論を放任させているのが、他ならぬ我々の良識と人権意識であるということだ。そう、弱き者の権利を護るための人権意識とそれを支える良識が、あの良識や人権意識とは対極にいるあの弁士たちを放任している。

 しかもそれがわかっても、あの弁士たちの権利を守るなと、良識をなげうってでもヘイトスピーチを止めさせろと、私は叫ぶことができない。その先にあるかもしれない、言論弾圧が頭をよぎるからだ。弁士たちに対する怒りにはまさに出口がない、これほどの絶望があるだろうか?

 それでも、私たちは、この問題から逃げることはできない。ヘイトスピーチによる被害を防止しつつ、しかも言論弾圧に陥らないような針のように狭い道を探さなければならない。そんな道があると信じることが、この絶望と出口のない怒りから私を救ってくれる。