国籍と国家2
国籍と価値観の続きです。
素朴な疑問さんの主張の中では繰り返し「共同体」というものが出てくるのですが、その内容は極めて曖昧なもののように思います。
これまでのやりとりでも明らかなように、同じ日本国籍を持ちながら、私と素朴な疑問さんの政治的立場は大きく異なりますし、何を以て「共同体」の利益と考えるかも、それ以前にいかなる範囲を「共同体」として認識するかさえも異なっています。
このことからいえるのは、ある国の国籍を有するから、特定の政治的立場に立つとはいえないし、いかなる「共同体」にいかなる意味での帰属意識を持つかも規定されないということです。このことは価値相対主義を取り、思想信条の自由を保障している日本国においては当然のことです。
国籍を取得すればその人の価値観も変わり、その人の主観において所属する共同体も変わってしまう、という素朴な疑問さんの主張は、全て国籍とはこうあるべしという素朴な疑問さんの価値観が前提となっていますがそのような前提には何の根拠もありません。
そもそも、素朴な疑問さんが主張されるように、国籍によってどこの共同体のために行動するかが一義的に決まってしまうのであれば、在日韓国人が日本国籍を取得するということ自体が考えれないのではないように思います。韓国籍を有する人が、必ず韓国のために行動する意思を持つという前提が正しいのであれば、日本国籍を取得するということは、韓国ではなく日本のことを考えるようになるということになり、当初の前提と矛盾します。
国籍変更という制度が、決して例外的なものではなく一般的におかれているということは、ある国籍を有しているから国籍国の「共同体」のために行動するという前提自体に問題があることを示しているのではないでしょうか。
素朴な疑問さんの主張は万事、この誤った主張を前提にされていますが、前提に問題がある限り、そこから出される結論もおかしなものになってしまうでしょう。
素朴な疑問さんは、戦争になった場合に日本のために戦うかは場合によるという私の考え方を「普通の日本人」の考え方とは見なさないようです。そのこと自体は自由なのですが、それの傍証として9.11やフォークランド戦争に加えてムッソリーニの当初の支持率を無邪気に出してくるのには危うさを感じます。
ある国籍を有し、その国の共同体のために行動することを当然とする価値観がいかなる結果をもたらしたか、これはムッソリーニ政権の末路を見れば一目瞭然なのですが、この結末をみた後で当初のムッソリーニ政権の支持率の高さを持ち出して、国家のために戦うことの当然さを主張することに疑問を抱かないのは歴史に学んでいないといわざるを得ません。9.11についても、国家のためというお題目のために、国民がイラク戦争に雪崩を打って賛成した結果がどうなったか、それを知っていれば無邪気に国家のために戦うことに賛成することもまして国家のために戦うこともできないことは明らかです。
素朴な疑問さんは、私の名古屋「ナショナリズム」と日本についての「ナショナリズム」とはレベルが異なると主張されますが、スポーツでどこを応援するかという点ではどちらも変わりないし、それが政治的な立場と関係がない点でも変わりません。
スポーツでどこを応援するかという趣味に属する問題と、政治的立場を簡単に直結させてしまう思考方法には問題があるように思います。
両者を結びつけるのは、素朴な疑問さんの有する「共同体」への過剰な思い入れでしかなく、それが根拠のない曖昧なものにすぎないことは既に示しました。
>しまうまさん
本来なら、彼らも「素朴な疑問」氏が考えるような共同体の利益に沿う場合もあるだろうし沿わない場合もあると言わなければならないはずなんですがね。日本の国籍を持っていると何故か魔法のように素朴な疑問氏の考え通りに振舞ってくれて、そうでなければ自分の意に反して振舞うはずだというわけなんでしょうかw
この点は私も「幸いなことに、日本国では国籍取得の際に日本国への責任を持つように洗脳するようなことはしないのです。」と皮肉っておいたのですが、素朴な疑問さんには通じなかったようです。多分、彼の中ではそのような考えはドグマとなっているのではないでしょうか。
このような単純でナイーブな議論こそをseiryu95さんは否定しておられたと思うんですが。なぜ、国籍を同じくするだけであなたの考える国益と私やseiryu95さんが考える国益が一致するとナイーブにも確信できるのでしょうか?
素朴な疑問さんの主張を聞いていると、「共同体」を構成する個々の構成員のありようとは別個に、特定の内容を持った「共同体の利益」というものが予め存在しているように考えているように思うのです。
しかし、何がその「共同体の利益」と考えるかは個々の構成員を離れて存在するのではなく、むしろ構成員間の議論を通じて形成されていくものだというのが私の考えです。このような考え方からは、「共同体の利益」について、議論を通じて形成されたものと異なる考え方をもした者が存在するのは当然の前提となりますし、異なっているがゆえに共同体の一員でないという主張自体がナンセンスなものになるのです。