吉田ドクトリンの真相

普通、吉田ドクトリンの証拠として引用される言説は、宮澤喜一『東京・ワシントンの密談』(1956)の160ページの記述である。

 再軍備などというものは当面とうていできもせず、また現在国民はやる気もない。かと言って政府が音頭をとって無理強いする筋のことでもない。いずれ国民生活が回復すればそういう時が自然に来るだろう。ずるいようだが、それまで当分アメリカに(日本の防衛を)やらせておけ。憲法再軍備を禁じているのは誠に天与の幸で、アメリカから文句が出れば憲法がちゃんとした理由になる。その憲法を改正しようと考える政治家は馬鹿野郎だ。(小熊456−547より重引)

この吉田ドクトリンの信憑性が高いとされる背景には、小熊先生も整理しているとおり、次のような事実があった。

 そもそもダレスは、日本に好意的とはおよそ言えない人物だった。一九五〇年六月に来日したさいには、カクテル・パーティーの席上で、不況が深刻ならばアメリカにパーティー用の紙ナプキンを輸出したらよいと発言し、日本側の不興を買った。……
 吉田はこうしたダレスに、再軍備の負担が日本の不況を深刻化させ、かえって共産主義を伸張させると反論した。その一方、吉田は社会党左派の指導者である鈴木茂三郎勝間田清一に、再軍備反対運動をおこすよう内密に依頼した。国内の反対が強いことを理由に、ダレスの要求を値切ろうとしたのである。(456)

小熊先生の場合、「最終的に吉田は、アメリカ側の要求を容れて限定的な再軍備を認めたが、彼の考えを示すものとして、以下のような発言が伝えられている」(456)という記述に続き、冒頭の引用が示されるわけである。
このあたりの歴史的真実については、原彬久先生も、以下のような人間関係が存在したことに言及している。

 吉田と鈴木を結ぶ接点は、のちの日本医師会会長武見太郎であった。吉田と武見が牧野伸顕大久保利通の次男。1925−35年の内大臣)の長女(雪子)と孫娘(英子)をそれぞれ妻にして姻戚関係にあったこと、武見の患者の一人が鈴木であったことから、「再軍備反対」をめぐるトライアングルは成立する。吉田は武見を使って、「再軍備反対」の鈴木にラブコールを送っていたのである。
 鈴木が吉田・ダレスのやりとりを知る術もないまま、したがって吉田の真意を計りかねながらも、吉田のアプローチにある種の政治的意図を感得していたであろうことは、十分想像がつく。ある日銀座の武見診療所をあとにした鈴木は、車中で待っていた広沢にこう呟いている。「吉田はくせ者だよ。再軍備反対で吉田から激励されたよ」(広沢インタビュー)。(77−78)

しかし、軍備を軽装化し、経済発展に重点化するという吉田ドクトリンは、歴史的事実とは違っているのではないか、との異論が出ている。原先生が「吉田茂の主導した旧安保条約が、日本にとってきわめて不平等性の強いものであったことは自明である」(124)と述べるように、吉田の外交政策は、あらためて客観的に検証されるべき問題を含んでいる。進藤榮一先生は、『芦田均日記』を分析しつつ、こう述べている。

 同時代人の眼を通して見た宰相吉田茂像は、けっして今日の日本大国論の中でほめ賛えられているような宰相ではなかった。戦後民主主義と戦後改革とのかかわりで言えば、吉田はむしろ『日記』の中で、改革を阻む近衛らに近い守旧派として立ちあらわれている。戦後議会政治とのかかわりで見てもまた吉田は、近代的な議会主義者としてよりむしろ、国権主義的で老獪な権力主義者として立ちあらわれている。
 皮肉なことに芦田が、一九四八年夏片山らと共に国公法改定の起草者へと変貌し、五一年一月以降片山らと離れて軍備増強論者へと転換したために、――いやそれ自体芦田の“近代主義的”で西欧中心的な政治外交観の延長でまたあったのだが――、その変貌と激越とも言える転換のゆえに私たちは、保革中道連合政権下の戦後改革の意味を過小評価し、外交から内政を切り離し、……あまりに安易な吉田“保守本流”外交礼賛論へと傾きすぎてきたのではなかったろうか。(273)

それにそもそも、保守合同後は反吉田派が権力を奪還したわけだし、ということだが、このように進藤先生は、芦田の果した役割に目を向けているのである。マルクス・レーニン主義教条主義的立場からすると、社会党の穏健な改良主義、あるいは保守党との連携は、恥ずべき過去と見なされるのだが、実際に片山・芦田政権がなした貢献というのは、評価されるべきものではなかったか、ということである。

 ……サンフランシスコ講和の基本構想は、すでにこの時期外交担当者として芦田らが討議し提示していた初期講和構想の中に凝集されていた。そして何よりも、経済大国への道について言うのなら、“経済復興”と“民主化”の礎石がこの時期、連合政権期にすえられて、通商国家化への道が用意され始めていたのである。……
 ストライク使節団からドレ―パー使節団、五人委員会へと、一九四七年秋から四八年夏にかけ、日本経済の自立化をはかろうとしたワシントンの政策修正の動きは、その点に関するかぎり、東京の総司令部の動きと軌を一にしていた。
 実際芦田が昭電事件によって政権の座を去る四八年秋には、片山も芦田も共に要請していた過度経済力集中排除法の緩和をはじめ経済復興への国内的条件がつくられ、貿易再開への本格化が緒につく。そのため生産力は軒並み上昇に転じ、たとえば繊維についてはこの時期すでに米英に次ぐ世界第三位の輸出量を達成し、インフレの波が収まり、実質賃金の上昇が確保され、経済自立化をさせる条件がほぼ実現され始めていたのである。(270)

それが正しく歴史的に評価されていないのは、社会党自体へのイデオロギー的評価が定まっていないゆえのことである。
以上のような意味でいうと、第一次における吉田内閣、とりわけ経済安定本部の人的構成は、きわめて興味深いものがある。「『戦時中にもまして強力な統制の必要を強調した』マッカーサー占領下にあって、戦前戦中の革新官僚群や企業経営者たちと『国家統制経済』とは再び水魚の交わりを結んだ」からである(原、39)。たとえば、労農派マルクス主義大内兵衛は経済安定本部長官に擬せられ、有沢広巳も就任を打診された。

 吉田自身、本来国家主義者ではなかったにしても、現実の統制経済下にあって、かつての革新官僚和田博雄を重用し、社会党左派の労農派マルクス主義者と疎通していたということは、きわめて示唆に富む事例である。第一次吉田内閣の国家統制経済の施策は、片山内閣とりわけ和田の経済安定本部に継承されていくのだが、和田が企画院時代から第一次吉田内閣に至る国家統制の技法と人材を集約して、「片山安本内閣」を体現していったということは事実である。こうしてみると、和田がそうであるように、勝間田清一、佐田忠隆がそうであるように、そして労農派マルクス主義者たちがそうであるように、日本の社会主義者、とりわけ左派の人々が、事実として「国家」を求め、国家に集約される権力とある種の共振性をみせていることは間違いない。(41)

これが社会主義者たちの柔軟性を意味するのか、無節操さを意味するのかは、個々のケースを判断しなければわからない。
いずれにしても、吉田ドクトリンをナイーブに信じてしまうには、歴史はあまりに複雑だということだ。