ラブレー『ガルガンチュア』

『ガルガンチュアとパンタグリュエル』第一之書。
ガルガンチュアは、父グラングジエ、母ガルガメルのもとに生まれた。母は牛の臓物を食べ過ぎたある日、急に産気づき、アナタのちんぽこのせいでこんなに苦しまなくちゃならないの、などとグラングジエと馬鹿な会話を交わしていたところが、出てきたのは赤子ではなく「悪臭のする皮きれ」で(67)、要するに脱肛していたわけであるが、処置のためには括約筋を引き締める薬をふりかける必要があった。生まれようにも生まれる穴が無いってんで、ガルガンチュアは、その誕生の瞬間を、母ガルガメルの左耳から飛び出す華々しさで迎えたのだった。生まれたばかりのガルガンチュアは「のべつまくなしにうんちをしていた」(73)。5歳になったある日、父グラングジエに意気揚々とこう語りかけた。

「ぼくはね、長い間、熱心に実験をくりかえして、これまでにはない、なんともみごとで、具合もよくて、高貴なお尻のふきかたを発明したんですよ。」(113)

「それがね、わかったんです」と、ガルガンチュアがいった。「もうすぐ、結論を教えちゃいますからね。ぼくは、まぐさや、わらや、麻くず、動物の毛くず、毛糸でふいてみた。それに紙なんかもためしてみたけどね、
紙などで、ばっちいおけつをふいたとて、
いつもふぐりに、かすぞ残れり。」
「なんじゃ、おまえ、おちんちん小僧のくせに、酔狂にも歌などひねりおって。さては、もう酒の味をおぼえたんだな?」
「もちろんですよ、王様とうさん。……でも、ここはひとつ、「脱糞人に雪隠が話しかける歌」というのを聞いてやってください。
うんち之助に、
びちぐそくん、
ぶう太郎に、
糞野まみれちゃん、
きみたちのきたないうんこが、
ぼたぼたと、ぼくらの上に、
落ちてくる。
……(116−117)

渡辺一夫訳では、「かみなどできたなきしりをふくやつは、いつもふぐりにかすのこすなり」。ここから、ガルガンチュアの天才を確信したグラングジエの、的外れなエリート教育が始まる。
荒唐無稽なお話で笑い飛ばしながらどんどん読めるのだが、しかし、ただ笑ってばかりですむというものでもない。エラスムスを父と仰いだユマニスト・ラブレーの博識は訳注を通じても窺えるけれど、ここでは渡辺一夫の名著『私のヒューマニズム』(講談社現代新書6)から次の一節を引いておきたい。

ラブレーの念頭には、人間がいかに高等な学問や崇高な芸術に携わり得ようとも、みんな、用便をせずには生きていけないものだという、ごく平凡な、しかし、とかく忘れられやすい人間の姿が、つねに宿っていたらしく思われます。……/ラブレーは各自が、このような、ある意味ではみじめな人間を十分に自覚してこそ、ゆがみのな人間が生まれるということを考えていたのではないかと思われます。したがって、性器や糞尿の話にしても、わたしたちの興味をそれだけに集中させるというようなところは、まったく見あたりません。きたない話だという印象がないとはいえませんが、それはさらりとして健康的であり、いわゆるエロやグロのじめじめした陰性なところはまったく感じられないのです。(63−64)

『私のヒューマニズム』では、エラスムスとルター、ラブレーとカルバンがそれぞれ比較されている。例えば、「ユマニストとして生き通すエラスムスの、金縛りに合ったような一見みじめな姿と、ユマニストたることを放棄せざるをえなくなって、行動的革命家となったルターの一見勇敢な姿との対比」は、1524年頃から始まる「自由意志論」をめぐる対立として顕在化するが(52)、渡辺先生はエラスムスの方に思想的評価を与えている(昨日、ケレスティヌス5世へのダンテの仕打ちがあまりにひどいと述べた理由とも関連する)。

たしかに、エラスムスによって代表されるユマニスムは、ルネサンス期において、一見みじめな、弱い、無力なもののように思われます。/しかし、……多くの人間が、一つであるべき神のために、二つの異なった殉教をするというおろかしさを知っていたのがユマニストだったのです。(52)

「それはキリストとなんの関係があるのか」という出発点に立ち戻ったのが、ユマニストらの思想だった。ラブレーとカルバンにも同じことが当てはまり、カルバンが『寛容について』から出発しつつもジュネーブでの教会設立という方向に向かったのに対して、ラブレーは一貫してユマニストとしての風刺の姿勢を崩さなかったのである。
宮下先生の解説では、ミラン・クンデラにとってラブレーが枕頭の書だったことが記されている。「ユーモアの特質とは、ふれるものすべてを多義的な存在にすることだ」と強調するクンデラは、次のような文章を書いている。

ユーモアとは、この世界の多義性、他者を裁くことについての人間的な無資格性を明るみに出す、すばらしい閃光である。ユーモアとは、人間的事象の相対性にたいする同意の陶酔、確信というものはないという確信から生ずる不思議な快楽である。(中略)心を締めつけられながら、私はパニュルジュがひとを笑わせなくなる日のことを思うのである。(450)

ミラン・クンデラには懐かしい思い出があり、大学2年のとき、フランス語の授業で『小説の精神』のエッセイを読まされ、非常に感銘を受けたことがあった。しかし、この文章も、極めてすばらしいものだ。「…他者を裁くことについての人間的な無資格性……確信というものはないという確信から生ずる不思議な快楽。」
訳者の宮下志朗先生にも、大学2年生のときフランス語の授業を担当していただいたことがあり、あのときは何気なく読み進めていた小説が途中でホモ小説だと判明するという、なんともラブレー的な(?)逸脱的展開を味わわされた(懐かしい!)。
ホイジンガエラスムス』については、これをぜひ→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20051031エラスムスラブレーについては、これも→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20060322http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20060323http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20060324

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)

いまいち。不調。

本業が思わしく進まず、低調な精神の回復のために、読書にふける。昨日今日で読んだ名著が紹介しきれない。田辺茂一『わが町・新宿』(旺文社文庫)、サン=テグジュペリ野崎歓訳『ちいさな王子』(光文社古典新訳文庫)。両方とも圧倒的にすばらしかった。
『ちいさな王子』は、キツネの話がすごく良かったし、飲み水が尽きたあとの夜の砂漠を、いまにも壊れてしまいそうな王子を抱えながら歩く場面がすばらしく美しかった。
光文社古典新訳文庫では、バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』も読んだが、気持ち悪くなって途中でやめた。

ちいさな王子 (光文社古典新訳文庫)

ちいさな王子 (光文社古典新訳文庫)