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自由と生存の家・茨城

2011-06-19

住まいの貧困を茨城で考える 開催しました。

f:id:seizonIBK:20110619231127j:image:medium:left2011年6月19日(日)午後2時より、土浦市の県南生涯学習センター・第1和室にて、「家はじめました 住まいの貧困茨城で考える」のイベントを行いました。10名ほどの方が参加しました。

稲葉さんのお話 - 自由と生存の家・茨城
派遣切り当事者Mさんのお話 - 自由と生存の家・茨城

稲葉さんのお話

始めに、講師の稲葉剛さん(NPO自立生活サポートセンターもやい理事長)より、「ワーキングプアハウジングプアからの脱出」と題してお話をいただきました。
(以下、メモ的に)

日本の住宅問題
90年代半ばから路上生活者の支援活動を行ってきた経験から、2008年秋以降の「派遣切り」によって労働者失業と同時に住まいを失う状況は、日雇い労働者層の置かれていた状況が急速に中間層に拡大してきたと捉えられる。
中でも、住宅の問題は日本では自己責任の問題として「甲斐性」などと言われているが、アメリカ国民皆保険制度が無いのを日本人が違和感を感じるのと同様に日本に住宅保障の制度が無いことにヨーロッパの人々は違和感を表明する。ヨーロッパの国々では、住宅セーフティネットがあり、仕事を失っても路頭には迷わせないという合意があって、新宿炊き出しに並んでいる人はヨーロッパでは理解できない。
住宅と「溜め」
困難に陥った時に頼れるさまざまな資源を湯浅誠は「溜め」と言ったが、労働の状況としては、現在失業率は平均5.1%、若年層では10%を超えており、失業していなくても登録型派遣や警備業などの仕事では、仕事がある時のみ働く「半失業」の状況になっている。そのような中で特に東京など都市部では家賃の負担は大きく、収入の3〜4割を住宅費が占めると非常に厳しい状況になる。
日雇い派遣雇用のコマ切れ化の象徴であるとすると、居住のコマ切れ化の象徴は2000年から導入された定期借家制度である。借地借家法では、借家人の権利は守られており、家賃滞納でもすぐに出る必要はないが、定期借家導入後、3ヶ月、6ヶ月といった短期の契約や、滞納があればすぐに退去を求められる例が増えてきている。
そもそも、日本に住宅政策はあったのか?
震災後の被災者への住宅確保は厚生労働省がやるのか、国土交通省がやるのか?はっきりしない。どこが住宅政策を担うのか?
日本の唯一の施策は「持ち家政策」…戦後の労働政策とも共犯関係、「社畜」(佐高信)とも言われる。先日亡くなった笹森清元連合会長によれば、福田内閣の時にオイルショック後、政・官・財で談合した。その中で企業の福利厚生として社宅を充実させてきた。
かつては若いうちは社宅や住宅手当という形で住宅支援をして、一定の年齢になるとローンを組んで家を買うという一定の道筋があった。
この世のありとあらゆる差別の見本市は不動産屋の窓口。失業生活保護、外国人、母子家庭セクシャルマイノリティだからダメ。国によっては入居差別を禁止する法律がある国もある。
一方で、公的住宅、公営住宅がどうなっているか?東京では石原都政下では、都営住宅は増えていない。またUR(旧公団)住宅も事業仕分けの対象になって削減の一途。独立行政法人になって採算性を重視し、超高層住宅をつくっていたが、本来の中・低所得者層の住宅としては意味がなく迷走中。もともとURは東北に少ないが、今回の震災でもあまり活用できていない。削減計画の中にあるから。
UR高幡台団地(日野市)では、耐震不足を理由に住宅を取り壊そうとして、住民の追い出し訴訟も行われている。この結果は今後の低所得者住宅の政策に影響を与えるだろう。低所得者層向けの公的な保証制度をつくれと言っている。
ドイツなどで取り組まれている「社会住宅」、NPOなど非営利団体が住宅を作って低所得者に貸し出した場合、公的な支援を行う仕組みも必要。まさに自由と生存の家が取り組んでいるようなやり方。
震災後の状況
福島では、先の生活が見えないのが一番きつい。
多くの人がすでに土地を去っている。
首都圏に避難してきても、福島原発への出稼ぎが行われている。
加須市での福島県双葉町長の義援金拒否事件が象徴する「お世話になっている」感覚。日本人の権利意識の問題でもある。
生活保護でも一緒。水際作戦に対しては申請同行をして突破してきた。しかし自治体が悲鳴を上げており、政令指定都市市長会で、有期保護や医療費の一部負担などが話され始めた。最近も国と地方の協議が当事者抜きで進められている。このまま有期保護が導入されると命の有期化が進む。
避難所」とは、屋根があって食べ物があればいいという状況。避難所生活を理由に生活保護を停止する例も出てきている。生活保護制度が定めている範囲が本来の生存権ではない。生活保護制度は現在の利用できる資源に制約される。
本当の意味での生存権とは居住権+営生権。「営生権」=働くこと、なりわいを回復することへの支援。被災者も、派遣切りされた方も、救済される存在ではなく権利主体だということを考えながらその人たちと繋がっていきたい。「がんばろう日本」は個別のニーズを押さえつけるようなもの。

派遣切り当事者Mさんのお話

続いて、県内で派遣切りに遭い、失業して住宅も失った茨城不安定労働組合のMさんから、ご自身の体験について報告がありました。

1993年ごろ 派遣業界に入った。
ロッテで寮付の仕事(12時間)働き始めた。
1999年、仕事が少しヒマになったら、毎週10人ずつ切られるようになり、自分も対象になった。住むところをどうしようかと思い、母親に保証人になってもらいアパートを借りた。
その後、家賃が払えなくなり、前の派遣会社で土浦群馬と寮付の仕事を渡り歩いた。
その頃はそれで何とかなると思っていた。
最後は、筑西市ユンボ等の部品を作る会社で働いていて、年越し派遣村もテレビで見て可哀そうだと思っていたら、2009年1月、来月で全員辞めてもらうと言われた。寮は3月15日で大家に返す。会社にいられるのは2月28日まで。
それまでは、派遣会社が次の職場を紹介してくれたが、もうどこにもないと言われた。
そこですぐに離職票を出してもらいハローワーク雇用促進住宅を紹介されたが、入るのにお金が必要だったし、もうほとんど空いていなかった。
働けば寮があるとどっぷりつかってしまっていたと反省した。
ハローワークから「市営住宅に入れる」と言われ市の建築課に連絡を取り、審査の上入居が決まった。
でも、市営住宅に行ってみたら、3DKで真冬に電気も風呂桶も、カーテンもなかった。
それでも、何とか仕事を探そうとしたが、仕事が見つからない。40歳以上は受け付けない、面接を受けても連絡もない。そういう会社が60〜70か所となった。宇都宮市まで自転車で面接を受けに行ったこともある。
だんだん市営住宅の退去期限(6ヶ月)が迫る。そんな時に、同じく派遣切りに遭った昔の同僚がテレビに映っていて、連絡を取った。その人に紹介してもらって菊地さん、加藤さんと守谷駅で会って話をした。生活保護を勧められたがその時はまだ決断できなかった。
新聞で見た総合支援資金を借りようと市の社協に行ったが、まずアパートを探すように言われた。不動産屋を回ったが、失業者は相手にされなかった。
総合支援資金利用の実績のある不動産屋を教えてもらって行ったら保障会社の保障を求められ、申請時に状況を説明したら審査が通らなかった。
その後、東京NPOもやいに連絡取って相談に行って、(本来は対象地域外だったが)どうにか保証人となってもらった。
それで、月29,000円のアパートに入って生活支援費(10万/月)も借りることができ、就職活動している中である会社のアルバイトが決まった。その後、半年ほどの間にその会社でパートナー社員、正社員と奇跡的に採用されることになった。118社目だった。