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2017-12-16

上場企業の意味と責任

村上(2017)は、上場企業の意味責任について、日本では、そもそも上場とは何か、企業は何のために上場するのか、正確に理解している人が少ないように思うと述べている。村上によれば、株式を上場することは、英語で"Going Public"(非上場化は"Going Private")ということであり、私企業が社会の「公器」になることである。上場とは、株式が広く一般に売買されるようになることである。よって、上場企業の経営者には、決められたルールに従って株主や株を買おうとする人たちのために必要な情報を開示し、投資家の期待に応え続ける覚悟をもって、透明で成長性の高い経営をしなければならない。もはや、経営者が思い通りに株主を選んだり好き勝手を行うことはできなくなるのである


上場にはメリットデメリットがあると村上はいう。上場のメリットは、株式の流動性が高まって換金しやすくなることと、資金調達がしやすくなることである。この2つが必要ない場合には上場する必要はないと村上はいう。例えば、現金が豊富だったり設備投資不要なために資金調達必要がない企業や銀行からの借入余力が十分にある企業である。このような企業は上場のメリットを活かしているとはいえない。株式発行による直接金融資金調達する必要のない企業は、上場を廃止して非上場になることを検討すべきだという。一方、上場のデメリットは、IRなど必要部署とその人材の確保、株主総会の招集通知など多くのコストがかかることと、誰でも市場で株式を購入できるわけであるから、いつ誰が自社の株主になるかわからないことである。「誰が買ってもいい=誰でも株主になれる」状態経営上望ましくないのなら、上場をやめて非上場企業になるという選択肢検討すべきだと村上は主張する。


上記のような上場企業の意味責任から、上場企業においては投資家経営者監視する仕組みとしてのコーポレート・ガバナンスが必須となると村上説明する。上場企業では、従業員取引先などと同様、株主の立場権利が重視されなければならないのである。公器としての上場企業に資金提供することで、企業が生む利益のみならずリスクも全部背負っている株主が、投資した資産をいかに守るかということがコーポレート・ガバナンスの根源である。上場企業の経営者は、従業員適材適所に配置しやる気を出させて効率よく働いてもらうことや良い取引先を見つけて良好な関係を築き、従業員に安定した生活をもたらすことの責任に加え、株主の視点をもって社員を引っ張っていくことが、企業価値すなわち株主価値を向上させていくうえで非常に重要なのだと村上は主張する。


コーポレート・ガバナンスのひとつの指標が、投下した金額に対して利益がどの程度生まれているかを示すROEである。企業がROEを高めるためには、当期純利益を高めるか、純資産を減らすかという2つの方法しかないと村上解説する。つまり、利益を高める努力をするか、自己株式の取得や配当などで投資家利益を還元していく努力必要だということである運転資金として手元に確保する必要を大きく超えた余剰資金をため込むのではなく、より高い利益を求めて積極的投資に回すか、投資の機会が少ないのなら投資家に還元すべきだというのである投資家は必ずその資金を成長のために資金必要としている別の企業に投資する。そうすることで資金の好循環が生まれ、社会全体で資金効率的活用される。日本の多くの上場企業のように余剰資金を何も生み出さない状態で手元で寝かせてしまうと、それはそのまま塩漬けとなり、社会としても成長のために積極的資金必要とする企業に資金が回らず、市場は停滞し、経済全体が沈滞してしまうと村上はいう。


要するに、上場企業における株主と経営者関係においては、株主はあくまで資金の出し手であって、投資先の企業が行っている事業専門家ではない、その分野もしくは企業が成長すると期待し、法律規定されている権限によって経営を託すのである。よって、経営者は、託された資金をいかに効率的活用して成長していくか、事業プロフェッショナルとして先を見通した計画を立て、できる限り情報開示をしなければならない。すべての株主が企業と平等コミュニケーションをとり、株主と投資先企業がwin-winとなることが重要だと村上説明するのである

文献

村上世彰 2017「生涯投資家」文藝春秋

2017-12-03

ざっくりとした西洋思想入門

齋藤(2011)は、2500年の西洋思想史をざっくりとと3つの山脈でひとつかみする解説を試みている。そもそも思想哲学とは何かについて、齋藤は「困難を乗り越えるための薬」であり「悩みや疑問への処方箋」だという。なぜならば、西洋思想が目指した目標は「世界のすべてを説明しつくしたい」であって、そこには「世界はどうなっているのか」という大きな問題から「どう生きればよいのか」といった身近な問題まですべて包含されているからである。そのような西洋思想の歩みというのは、過去思想批判し、それを乗り越えようとしてきたことの歴史であり、それをざっくりと捉えると3つの山脈でひとつかみできそうだというのである


齋藤によれば、第一の山脈は、西洋思想の始まりからアリストテレスによる体系化が影響力を持った時代で「世界本質を1つの原理説明したい」という欲求が追求された時代である。その考え方の代表例がプラトンの「イデア論」であり、それがキリスト教と結びつき、神の存在証明の追究に向かっていった。それに対して第二の山脈は、デカルト、カント、ヘーゲルらに代表される「近代合理主義」の時代で、キリスト教支配から脱却し、人間認識力、合理的思考力を信頼し、近代自然科学の発展やフランス革命などの市民革命などの動きとも相まって、精神が時代さえをも動かすといったように、「人間理性」や「精神」を重視する哲学の追究がなされ、西洋哲学体系が完成されたかに見えた。そこには、デカルトによる「原点を定めてすべてを位置付けたい」という発想や、カントによる「人間の理性は認識限界を乗り越えることができる」という発想や、ヘーゲルによる「単なる人の理性を超えた絶対精神は、世界を動かす原動力となる」という考え方などが生まれた。この時点で、人間的理性至上主義の体系が完成したというわけである


しかし、第三の山脈である「現代思想」において、その完成されたかに見えた体系を壊す、すなわち「既存価値観に挑戦状を叩きつける」ことで乗り越えようとする動きが見られ、合理主義の背後にある何らかの「とらわれ」や。合理的ではないなんらかの原動力に着目されるようになった。例えば、ニーチェは、私たちはありもしない真理という幻想で自らを縛りあげているのではないかと疑問を呈し、すなわち一人ひとりが「精神奴隷」になっているのではないかと言い、勇気を持って現在の迷いの中にいる自分自身を乗り越えていく「超人」になることの重要性を主張した。自分自身ポジティブ肯定する強さすなわち「力への意志」が人間だけでなく世界を動かすのだと言った。また、ハイデガーは、私たちが存在していることは、モノが存在していることとは根本的に異なり、私たちの存在は、自らの死を含む過去現在未来が折り重なった時間とは切り離せない「時間的存在」であり、自ら世界を作りつつ、その中で生きる「世界内存在」だと語った。フッサールは「本質直観」「間主観性」というコンセプトなどで自分たち生活世界大事にする現象学を発展させ、その延長から身体重要性を訴えるメルロ=ポンティなどの思想が生まれた。


さらには、ダーウィンの進化論、フロイトの精神分析、マルクスの資本論などの思想が生み出され、構造主義流行するなどの現代思想現在も進行していることを示している。例えば、フロイトやマルクスの思想は、人間の下部構造にあるものも社会の下部構造にあるものも、性や金銭(経済)といった人間の欲望を満たすものであることを示すものであった。また、ソシュールの言語学では、言語のもの意味はなく、あるのは「差異」(ある言葉と別の言葉の違いが作り出す体系)のみであるとし、言葉の体系が異なれば、その言葉を使っている人たちの社会構造文化が違うため、もの見方世界のとらえ方までもが異なることを示そうとした。レヴィ=ストロースの思想は、見えないところでそれを動かしている原理人間社会全体の背後にもあることを示そうとした。このような時代には、要素と要素間の関係からなる全体としての「構造」が重視される「構造主義」が流行し、関係性、システム、関数といった概念を重視し、この世には絶対的ものはなく、すべて相対的であるといった思想が影響力を持つようになったと齋藤は指摘している。


このように、齋藤は、西洋思想の歴史には膨大なパッションとエネルギーが詰まっており、力をもった思想は常に世界に強い衝撃を与えて、人々のもの見方を変えてきたのであるため、思想を学ぶことは、実は私たちの人生というものを大きく変換させるかもしれない、非常にスペクタクル冒険なのだと思うとして解説を締めくくっている。

文献

齋藤孝 2011「齋藤孝のざっくり!西洋思想」祥伝社

2017-10-30

真の自由を獲得するための勉強法

千葉(2017)は、フランス現代思想や分析哲学など複数の現代思想をベースにした「勉強論」を展開している。とりわけ前半は、言語論をベースに、私たちが受けている束縛を打ち破り、今より多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるための勉強法を論じている。すなわち、真の自由を獲得するための勉強法である千葉解説を私なりに理解すると以下のようなことになろう。


まず重要なのは、この世界は「言語」が編みあがったものとしてでできていることである千葉言葉を借りれば、私たちは「言語によって構築された現実」を生きている。人々の社会的相互作用によって言語が編みあがってできた世界すなわち(世界言語)が、一般知識や社会構造権力の基盤となり、私たちの動きをコントロールし束縛している。「わたし」そのものも、他との関係性を示す言語世界によって構築されている。その中で、私たちは特に意識していなくても、あるいは意識していないからこそ、人間が作り上げた言語が織りなした世界の有り様に沿って(盲目的に)行動しているわけである。例えば私たちは平日の朝、何の疑いも抱かず満員電車に揺られて通勤するようなことを毎日繰り返している。千葉は、このような状況を「環境コードにノッてしまっている」と表現する。


しかし、「言語そのもの」はもともとはそのように人間を束縛するものではなかった。そこに気づくことで、環境コードの束縛から逃れ、新たな可能性を見つけ出すためのヒントが得られる。私たちが使っている言語は、生まれてから他者言葉をどのように使うかを真似ながら脳にインストールしてきたものであって、そのプロセスを介して自分の外にあったものの考え方の基本的な方向付け(コード)も同時にインストールされてしまっている。私たちが世界の有り様にコントロールされ、束縛されていることは、言い換えれば、言語的なコントロールを受けていることだともいえる。しかし、「言語そのもの」は、そのようなコードから切り離されて存在しうる(言語現実から分離している)ことも忘れてはならない。


どういうことかというと、言語は、私たちに環境コードに従うことを強いるものであると同時に、逆に、そのような環境コードに対して「距離をとる」ために使用することが可能だということである。つまり、私たちが、言語によって構築された環境コントロールされているということを、一歩距離を置いて(幽体離脱したように)眺めることが可能なのである。言い換えるならば、現在において私たちが経験している世界は、人間によって言語的に構築されたものであるが、言語性質言語はそれ自体として結局はただの音にしかすぎない)からしてそれは必然的ものではなかったはずである。そこに気づき言語構造基盤の根本まで深く入っていき、言葉用法意味根本的な部分に変更を迫ることにより、構築されたものを分解・破壊し、再構築する、すなわち新たな別の可能性を切り開くことも可能である。ただし、「世界言語であるので、言語の外の世界に飛び出ることはできない。あくまで「世界言語」が再構築されるということである。そこでは、自分自身言語的にバラバラにし、多様な可能性が再構築されては、またバラバラにされ、再構築される。これが繰り返されるわけだが、これが千葉のいう、勉強による自己破壊である


上記は、千葉によれば「言語現実から切り離して自由に操作できる、言語操作によって無数の可能性を描くことができる」ということになる。いま属している環境にない可能性を、言語の力で想像できるからこそ、私たちは夢や希望を抱くことができる。そのためには、日常的に私たちが行っている言語使用、すなわち「道具的な言語使用」(外部目的的)に加え、おもちゃで遊ぶように、言語を使うこと自体目的自己目的的)になっている「言語玩具使用」が重要になってくると千葉は指摘する。勉強法とは、言語をわざと操作する意識を育成することで、別の可能性を考えられるようになることである。別の言い方をすれば、深く勉強するとは、言語偏重の人になるということだと千葉は言うのである。その後、千葉は、著書において、玩具的な言語使用を通じた勉強法として、アイロニー(ツッコミ)、ユーモア(ボケ)、ナンセンス(ツッコミとボケの極限形態)の特徴と使い方を紹介し、それに基づいた具体的な勉強法についても言及している。

文献

千葉雅也 2017「勉強の哲学 来たるべきバカのために」文藝春秋

2017-10-09

文章から学ぶ「思考の形態学」

花村(2016)は、文章読本という形ではあるが、様々な例文によって文章思考パターンとして抽出して紹介することにより、思考トレーニング材料提供しようとしている。文章読本は10からなり、それぞれ、異なるパターン思考形態を紹介するような形式になっている。


第1章では、たった1つの言葉に1冊の書物にも匹敵する思想が込められていることがあるという「単語は巨大な思考単位である」というパターンを紹介している。語義縮小パターンでは、「XをAだと考える輩がいるが、それは間違っている。Aではなくて本当はBなのだ」という思考を示す例文が紹介されている。語義拡大パターンでは、単語言語現象をはるかに超え出て用いられることから大風呂敷型のような思考であると花村はいう。第2章では、言語の由来を考えるという「創造的な解釈作業」によって、根源的な思考こじつけに陥らない知恵の両方を手に入れることができると花村は論じる。


第3章では、確実の思考というパターンを扱っている。方法論的懐疑と論理を用いて、確実に言えることは何なのかを追究していくような思考である。例えば、デカルトは少しでも疑わしいものをすべて消去していくことで最後にたどり着くものが確実だという論理を用いている。また、明確な思考をするために、多義的言葉にあらかじめ意味限定しておくという「定義思考」も紹介している。第4章では、全体と一部の思考と称して、思考が普遍性を獲得すると、一部の例外のみで反証されてしまうという「全部と一部との緊張した対立」が避けられないこと、それに対し、「〇〇もある」という特殊命題のレベルを含めて論理に組み込む「量化の思考」や、「換喩」(メニトニー)のように1部を挙げて全部の代用にすりょうな「代用思考」を紹介している。


第5章では、問いを明確にすることで深い思考可能にしてり新たな思考を促したりする「問いの思考」を紹介している。文章では、疑問文を作ることに対応する。また、自問自答や対話をしてみる。問うことで常識に揺さぶりをかけることも可能である。問いで始まる疑問を解決の方向にもっていく思考法の典型が科学であり、答えのない驚きなどにとどまってそれを表現するのが形象的思考で、感動の誇張された表現とも解釈できる。第6章では、視点の転換を促す「転倒の思考」を紹介している。ベルグソンによれば、ひっくり返すことは「わらい」の1つのパターンであり、新たな視点をもたらすことにもつながる。


第7章では、槍は人間の手の延長であるとか、衣服は皮膚の延長であるなどの文章に見られる人間拡張の思考を紹介している。古来からあるこうした素朴な思考は、現代技術文明を考えるのに有効だと花村はいう。それに対して、第8章は、人間以外のもの人間であるかのようにみなす擬人法思考を紹介している。擬人法によって思考対象が生き生きととらえられるようになるだけでなく、人間境界曖昧かしている先端領域では擬人法思考活性化しているという。


第9章は、ある仮説を極限まで押し進めたときにいったい何が起こるのかを考える「特異点の思考」を紹介している。特異点の思考は、常識に安住する思考に揺さぶりをかける強靭破壊力のある思考だと花村はいう。例えば、数学の証明技術まで洗練された背理法のような背理の思考である否定的仮定推し進めて受け入れがたい帰結を示し、それとは反対の命題肯定承認しようとする思考である。「〇〇しないと、こうなるぞ」というように背理を使うことが命令になっているという例もある。特異点の思考一種思考実験で、この論理をどこまでも押し進めていったらどうなるのかを問い詰めるわけである


最後の第10章が「入れ子思考である。これは、世界入れ子構造になっていることに着目する思考であるそもそも思考とは、無数の入れ子構造のなかにある人間がその外側を探求しようとする終わりなき試みなのだと花村はいう。

文献

花村太郎 2016「思考のための文章読本」

2017-04-08

中国史から学ぶ中国大陸の地政学

片山(2016)は、外側からはなかなかうかがい知ることのできない中国を理解するために、中国史が役立つことを指摘している。まず、中国を理解する上で重要なのが、中国には北の南の2つの中心があるということである片山によれば、4世紀以前は、中国史の主な舞台は、中国大陸における黄河中下流域の「中原」あるいは「華北」といわれる地域に限られていたが、長い年月をかけて長江下流域の「江南の開発」が進んだことで、中国史は北の「中原」と南の「江南」の2つの中心を持つことになった。その後、中国史は、「中原」と「江南」というお互いに深く依存しながらも相容れない性質を持った2つの地域の相克や興亡によって織りなされるようになった。とりわけ、隋の時代に中原と江南という2つの世界大運河で結ばれたことで、中国史の複雑な愛憎劇の幕が上がったように思うと片山は述べている。


片山によれば、もともと「中原を制するものは天下を制す」という言葉が示すように、中国大陸において中原は中国を統一する強大な権力を築くために重要な地域であった。中国歴代王朝の都の多くが長安や洛陽など中原の中心に置かれていたのはそのためである。一方、江南は日本に似た高温多湿の気候で水稲が栽培されていたが、江南の開発により生産力の上昇や商業の発達を招き、経済の中心になっていった。江南は過剰な生産力を抱えているため、さらに豊かになるためには、中原という広大な市場必要である。一方、中原は腹や物欲を満たすために江南の農産物や特産品が必要で、それを買うためには政治の中心となって、権力を築き、税金を取り立てなければならない。中原はその権力によって得た税金で軍事力を養い、北方から遊牧民族の侵入にも備えなければならない。このような状況によって、隋から宋に至る歴史の中で、中原が政治と軍事を担い、江南が経済や文化を担うという分業が確立していったのだと片山解説する。


中国大陸を、中原と江南の2つの中心を持つものとして理解すると、中国において儒教道教という水と油のような思想が長いあい共存していた理由が見えてくると片山はいう。例えば、江南は食べ物には困らないので江南の世界に引きこもり、緑滴る豊かな自然のなかで、山水と戯れ、なるようになるという老荘思想を地で行くことができる。江南は常に政治のくびきから離れ、変化する自然にすべてを委ねて、自由放任で生きていたいと望んできたわけである。江南は必ずしも中原必要としないので中国の統一に関心がなく、中原大運河や万里の長城のような巨大公共事業や軍事力増強のための重税を課すと、それに耐えきれず分離派になりやすいのだと片山はいう。一方、中原は江南なしには生きていけないため、なんとか江南を引き留めようとしてきた。儒教中原思想となり、道徳規律を重んじることで、勝手気ままな江南を制御しようとしてきたわけである。したがって、中国を統一するのは常に中原勢力であって、江南が中国を統一したことは一度もないのだと片山は指摘する。


上記を含む中国史の知識を援用すれば、なぜ第二次世界大戦後に中国共産党が中国国民党を倒して中国を統一することができたのかの理由を紐解くことができることを片山示唆する。その理由の1つは、共産党が北に拠点を置いて、南に攻め入ったからである。共産党は、南の瑞金から農民を結集して軍隊組織しつつ、「長征」によって北の延安に拠点を移した。北から南に攻め入って中国全土を統一するのが中国史の必勝パターンなのである。また、中国史においては、これまで王朝の重税や圧政に農民が耐えられなくなると反乱が起こり王朝が倒れることが繰り返されてきた。よって、中国共産党は農民を結集することで農民反乱のパターンを作って既存勢力を倒すことに成功し、内戦終了後は、毛沢東の「大躍進政策」や「文化大革命」など、農民の前に立ちはだかる社会全体の敵やノルマを設定し、それに勝ったり乗り越えたりする運動演出することで、農民に自分たち権力主体であり、新しい国の主役であることを信じこませてきた。そのおかげで、共産党は権力を維持できたのだと片山は指摘している。

文献

片山杜秀 2016「大学入試問題で読み解く 「超」世界史・日本史」(文春新書)

2017-02-22

ビジネスモデルのニューパラダイム

長沼(2015)は、2025年ビジネスモデルと称して、次の社会の輪郭、次世代ビジネスモデル、ロボット時代の哲学的共通基盤などについて論じている。長沼によれば、今、経済は新たパラダイム入り口にある。資本主義は格差を広げつつけ、ビジネス短期決戦となりギャンブル化しつつあるなかで、共有経済圏、贈与経済、取引コスト限界コストゼロ社会の兆しが見えてきている。これらの多くは情報技術をはじめとする急速な技術革新によってもたらされたといってよいだろう。


そのような中で長沼は、今後ビジネスモデルの全要素が変化すると予言する。まず、利益の最大化を目指してきたビジネスモデルが、社会的な影響力や貢献価値を高めていくことを目指すようになるという。これは、コストゼロ社会になっていくのでビジネスモデル利益化を急ぐ必要がなくなることに関連している。つまり、限りなく低いコストで多くの人々に影響を与えるようなビジネスモデルを作っていけば、多くの人々にとってはタダ同然の価値あるサービスであっても、後になってから一部のユーザーからの支払いだけでもビジネスを持続させることが可能利益が生まれてくるようなケースを示唆している。


次に、ビジネスモデルを支える人材は、従業員からクラウドソーシングに代わると長沼は予測する。人間ではなく、ロボットへの継続課金やロボットに外注するボットソーシングも将来活用されることになるだろう。また、顧客提供するものは、標準品から個別品になっていくという。同じ商品を何個も作り、在庫して販売するという大量生産モデルは、個々人のニーズに合わせたオーダーメイド型のモデルに代わっていくということである物流についても大きな変化が見込まれる。まず、必ずオンデマンドの要素が入り、3DプリンタやIoTなどの普及で地産地消が可能になる物流顧客が自ら組み立てるなどの物流可能となり、さらに群衆物流に参加するクラウドシッピングなども増加していくであろう。これは、最終製品を運ぶ代わりにデジタルデータを運び、現場で最終製品を作る、通勤客など定期的に移動している人々を利用する、などのアイデアから生まれるものである


利用モデルについては、モノを売って買った顧客が所有する「所有モデルから、共有資産アクセスして利用する「利用モデル」に変化するだろうと長沼はいう。これは、モノの消費の考え方から、モノに付随している便益の直接的な消費を意味している。本来顧客が欲しいのは便益であるから、モノの所有を介さずにそれを消費できるならばそのほうがよいというわけである。それからコストゼロ社会、共有経済が進むにつれて、人が持つ24時間という有限性を奪い合う競争ビジネスモデルが変化していくことからマーケットシェアではなくマインドシェア重要になるという。同じ製品カテゴリーマーケットでのシェアはあまり重要でなくなるということである。そのため、顧客へのアプローチは、単純に顧客に買わせる、消費させるのではなく、「好きになってもらう」ことが何よりも大切になると長沼は指摘する。


最後に、企業もクローズドカンパニーからオープンカンパニーに移行すると長沼は予測する。これにより、社会に対して真の影響力や価値をもたらすソーシャル・イノベーションが加速するというのであるオープンプラットフォームを構築することで参加者が増えれば、ビジネスは急速に拡大するというわけである。上記のような予測を踏まえ、次世代ビジネスモデルの実現に向けた次のようないくつかのアドバイス提示している。

文献

長沼 博之 2015「ビジネスモデル2025」ソシム

2017-02-20

心とはいったい何か

「心」はいったい何かについて根源的に考えようとするのが、心の哲学である。例えば、将来、ロボットに心が宿るのか。これに対する何らかの答えを得ることは、そもそも心とは何かについて根源的に考えることなしには可能ではない。この点について、金杉(2007)は、入門書的な著作において、心とは何かについてどのように考えればよいかの基本的アプローチすなわち論点を紹介している。


金杉による第一論点は「心の因果性である。これに絡む問いは、心は物質的な存在なのか、非物質的な存在なのかという点で、前者が物的一元論後者心身二元論である。何らかの物理的刺激(原因)に反応して、特定人間行動(結果)が生じる場合に、そこには心が因果関係的に介在していると考えられる。つまり、刺激→心1(例:欲求)→心2(例:期待)→行動というような因果関係図式である。しかし、金杉によれば、二元論ではこの説明がうまくいかない。なぜならば、物理的刺激→脳状態1→脳状態2→行動という物理的世界のみの因果関係説明に、非物理的世界としての心を位置づけるのが難しいからである。一方、一元論であれば、特定の脳状態と心を同一視する(心脳同一説)、脳による機能と心を同一視する(機能主義)で物理的刺激から行動までの因果関係論理的説明できる。よって、心の因果性を考える限りにおいては、心身一元論に軍配が上がると金杉は解説する。


第二の論点は「心と意識である。金杉は、意識という心の基本的特徴を考える際には、物的一元論には大きな課題が残されているという。例えば、意識に現れる質的特徴としての「クオリア」については、他者状態を観察することが不可能である。そこで、自分には「赤」に見えているものが、他者には生まれつきまったく違う色に見えているという可能性、例えば白と黒が自分相手とで入れ替わっている可能性(クオリアの逆転)を論理的排除できない。これは心脳同一説や機能主義などの物的一元論とは矛盾する。何故ならば、物的一元論が正しければ、同じ脳状態あるいは同じ機能を脳が果たしている時には、クオリアも同じであるはずだからである


第三の論点は「心の志向性」である志向性とは、あるものが何かを表していたり志向していたりするという特徴で、志向性を持つものは「表象」、表象対象は「表象内容」または「志向内容」と呼ばれる。志向性を持つ心の内容には、信念、欲求感情、知覚が含まれる。すべての心の状態志向性を持つのかどうかについては意見が分かれるが、志向性を持つ心の状態においては、心はどのようにして何かを表象するのかという問いがある。これについて多くの論者は命題的態度すなわち「〜ということ」で表現される特定の心の状態は構文論的構造を持つ言語表象であると考えているという。そうすると、もし命題的態度が脳状態に他ならないのであれば、脳状態もその内在的特徴として構文的構造を持たなければならない。脳状態に構文的構造が認められれば物的一元論を大きく支持することになるのだが、それは神経心理学の成果により否定されてしまったと金杉はいう。また、なぜ心に志向性があるのかについて、因果説明表象対象表象の原因である)と目的論的説明表象が進化論的目的に沿っている)があるが、どちらも十分な説明だとは結論できないという。


第四の論点は「心の合理性である。これは、欲求や信念といった命題的態度が他の命題的態度や行為を理に適ったものとして説明できる関係性を指す。合理的説明は、命題的態度や行為を、ある理由に基づくものとして理解する営みである。金杉によると、機能主義が正しければ、命題的態度や行為の間の合理的関係は、それらの間の因果関係に支えられて初めて成立する。つまり、ある命題的態度が原因となって、他の命題的態度が生じ、それが原因となって行為が発生するという具合である。そして、機能主義の下では、個々の命題的態度は個々の脳状態によって実現される。しかし、上記で記したように、脳状態には命題的態度に対応する構文的構造を見出すことができないことが明らかになったため、個々の命題的態度が個々の脳状態によって実現し、それが因果関係で結ばれているという説は成り立たない。よって、この点に関しては物的一元論の有力な立場であると考えられてきた機能主義否定されることになるという。また、消去主義は、そもそも命題的態度が常識心理学の「理論的存在者」にすぎず、常識心理学はいずれ誤った理論として否定されるため、命題的態度そのもの存在否定されると説く。金杉は、この考え方はわれわれの常識に反しすぎているという。


上記の点において金杉は、因果性から自律したものとしての合理性によって命題的態度を解釈する「解釈主義」の立場をとれば、命題的態度の実在性は担保されると説く。つまり、ある人の行為命題的態度を合理的ものとして解釈することは、それらの間に因果関係があることとは無関係だと考えるのである。しかし、ときどき生じる命題的態度や行為との不合理な関係をどのように説明するかに解釈主義課題があり、局所的な不合理性各部分が支えつつ、全体として合理性が維持されることを求めるようなものとして合理性を捉えるべきだと金杉は論じる。


第五の論点は「心の認識」であり、自分他人がどのような心の状態にあるかを認識するという心の基本的特徴である。ここでのポイントとなる他我問題では、他人の心をその人の行動から類推して知ることができる(類推説)という考えに関して、物質的な体と非物質的な心を想定する心身二元論では「自分に成立している心と行動との間にある相関関係は、どの人にも成立している」とは言えないので、類推説が成り立たなくなると金杉は解説する。一方、心と行動との結びつきを本質的ものとする行動主義では、心の状態を、ある条件が成立すれば特定の行動が生じるという「行動への傾向性」として理解する。この原理に従えば、我々は他者の心の状態類推できるという意味他我問題が生じないが、行動主義では個々の心の状態単独で行動と結び付けるという問題点があると指摘する。むしろ、実際には、複数の心の状態が全体として行動に結びついていると思われる。その面においては、解釈主義のほうが、心の全体論性格をうまく汲み取った全体的行動主義として理解することが可能なのだと金杉は主張するのである


自分の心を知る「自己知」については、金杉は、かなりの程度「不荷謬性(自分の心が特定状態にあると信じているときは、心はその状態にある)」「自己告知性(自分の心が特定状態にあるときは、心がその状態にあると信じている)」の両方が成立すると論じる。さらに「直接性(自分の心がその状態にあるという信念は、行動の知覚や類推を介さずとも直接的に形成される)」も成り立つという。さらに、これらの自己知のプロセスは負荷謬性と自己告知性の両方が成立する「内観」という知覚によるものだという知覚モデルを紹介するのだが、この知覚モデル説明も満足のいくようなものではないと指摘する。結論として金杉は、「心とは何か」については、我々は現状では決定的な答えを出すことはできないという見解を示している。

文献

金杉 武司 2007「心の哲学入門」勁草書房

2017-02-13

日本史Aと世界史Aをマスターして「超したたか」に生きる

佐藤(2015)は「新明解国語辞典(三省堂)」の「したたか」の意味を次のように紹介している。「逆境に立たされてもくじけることなく、いかなる手段や奇計と思われる策を弄してでも危機や困難を乗り越えよう(非難世間の思惑などを気にせず、自己利益立場を守ろう)とする強い生命力精神力を備えているととらえられる様子」。その他「強くて、容易には屈しないさま(明鏡国語辞典)」などの定義も紹介している。そして、これからの時代を生き残るためには、このような「したたかさ」が大切だと主張する。つまり、われわれ1人ひとりが強くなり、試練に遭遇することがあっても、容易に屈せず、しっかりした知的羅針盤(視座)を持つことの重要性を説くのである。では、どのようにして「したたかさ」を身に着ければよいのか。


佐藤は、物事に対する自分なりの視座を持つために最低限必要な要素として、(1)基礎教養を身につける(歴史、哲学思想宗教、文学、経済、数学など)、(2)情報収集、(3)基礎教養収集した情報の運用、(4)内在的論理を探る、の4つを挙げる。そのうち、最も重要なのが、他者存在を前提とした作業である「内在的論理を探る」ことであり、1〜3はそのための前提条件だという。また、いくつかの基本的思考パターンすなわち「思考鋳型」を鍛える必要があるともいう。3,4の基礎教養収集した情報の運用力を向上させ、内在的論理を探ることを技術として身につけることにより、思考鋳型が鍛えられるというのである。そして、鍛えた「思考鋳型」で、物事自分なりに考え、解釈する訓練を重ねていると、やがて「他人には見えないもの」が見えるようになる、つまり、したたかになるというわけである


佐藤は、基礎教養の中でも、歴史、とりわけ近現代史の有用性を説く。イギリスの歴史教科書を例として取り上げているが、主に実業高校の授業で使われている日本の歴史教科書日本史A」と「世界史A」を読み込むことの有用性も主張している。「日本史A」と「世界史A」は、自国に都合のよい記述が抑えられ、価値中立的知識が身につくようになっている。例えば、「日本史A」にはビジネスパーソンにとっての必要知識が満載で、それらがバランス良く詰め込まれているという。日本の近現代史を中心に日本が世界とどのようにつながってきたのかを重視して書かれており、読み物として面白いという。実際、現代ビジネスパーソンには国際感覚が求められており、その根幹を作る必須の基礎教養は、国民国家の輪郭が明確になり、相争い、ときに協調してきた流れが記述されている近現代である。どのような歴史の積み重ねを経たうえで、いまの自分が立っているのかを認識することは「お前はどう考えているのか」を絶えず問われる国際的ビジネスの場では欠かせない。その意味で「日本史A」「世界史A」を読み込むことが有効なのだと佐藤はいうのである


日本史A」と「世界史A」をしっかり読み、ビジネスパーソン必要な基礎教養を身につけた上で、その知識を他の知識と結び付けて活用する訓練をすることで、「思考鋳型」が鍛えられるというわけである。また佐藤は、「要約」と「敷衍」の重要性を指摘する。例えば、テキストを丸暗記する。そうしたうえで、キーワードに基づいて記憶再現する。その方法の1つが、要約することである。そしてもう1つが敷衍であり、記憶した事項をより詳しく説明するわけである。あるいは別の言葉で言い換えてみる。記憶した内容を他人説明するつもりで行うとよいと佐藤は助言する。

文献

佐藤優 2015「超したたか勉強術」(朝日新書)

2017-02-09

「こころ」はどのように進化してきたのか

「こころ」は人間だけが持っているのか。それとも動物も持っているのか。将来「こころ」を持つロボットが登場するのか。このように「こころ」とは何かに関する疑問は尽きることがない。ダーウィンの進化論が正しいとするならば、「こころ」も進化の産物であり、人間のみが「こころ」を持っていると考えるのは不自然となる。人間に近いサルや犬は「こころ」を持っているが、カエルは単に環境に適切に反応する精巧で複雑な生物機械であって「こころ」は持っていないと言えるのか。そうだとすると、どこに境界線があるのか。いったいどのように考えればよいのか。


進化論的発想に従うならば、私たちに「こころ」があるのは、それが生き残るために有利だったからである。つまり、私たちは、環境対応しながら、生きるためにあれこれ考えて行動するわけである。そしてなぜそのような行動をするのか知っている。そのようなこころの働きは、もっとも単純な「原型」のようなものがあって、それが長い時間をかけて進化してきた結果だと考えられる。この点について、デネット(2006)は、脳の設計についての単純化された枠組みとして「生成と選択による進化階層」を提唱している。環境対応して生き残ることが進化論的にみたこころの本質だとするならば、デネットは、単純な階層から新たな階層が加わるたびに、その段階にある生物の動きはより良く、効率的になっていくと説明する。


デネットによれば、最初の段階として出現したのが「ダーウィン生物であるダーウィン生物は、遺伝子の新しい組み合わせや突然変異によって生化学的構造が異なる生物表現型の予備軍が現れ、その中から自然淘汰によってもっともすぐれた設計を持った表現型が選択され、選択された表現型の遺伝子が増殖することで、その表現型が生き残るというプロセスを続ける段階である。このプロセスが何百万回も繰り返され、設計の優れた動植物が数多く生まれたのだとデネットはいう。


ダーウィン生物の次に出現したのが「スキナー生物である。デネットによれば、ダーウィン生物の段階における自然淘汰の進化プロセスが繰り返されるうちに、「表現型可塑性」という性質をもった生物が出現した。これは、個々の生体の設計が誕生時にすべて決定されているわけでなく、環境から自然選択のプロセス対応して調整される特徴を持っている。これらの生物は、さまざまな行動を生み出しては1つひとつテストをして環境に立ち向かい、生存に役に立つものを見つけ出す。生存に役に立つ行動は強化され、その行動が強化された生物次世代を担う。つまり、スキナー生物は、いろんな行動を盲目的に試行錯誤し、うまくいく行動を強化していった生物自然淘汰をくぐり抜け、生き残っていくわけである


スキナー生物の次に出現したのは「ポパー型生物であるスキナー生物場合試行錯誤の行動を行っているうちに自分の行動の誤りが原因で死んでしまうことがある。それに対し、ポパー型生物は、様々な行動の選択肢を事前に検討する内部的選択環境を持っている。つまり、行動を実行する前に、生体内部で思考実験もしくはシミュレーションをするのである。そのようなプロセスにおいて、愚かな行動は選択肢から消去され、安全だと思われる行動のみを実行する。よって、ポパー型生物は、スキナー生物のように、愚かな行動を実行して死んでしま危険が少ないのだとデネットは説明する。体内に知恵が蓄積されており、頭の中でその知恵を使って行動を事前にテストすることができるというわけである


そして、ポパー型生物のつぎの段階として出現したのが「グレゴリー生物である。ポパー型生物が、内部に情報を蓄積してそれを用いて選択肢の事前選択とテストを行うのに対し、グレゴリー生物は、先祖自分たちによって先に構築された外部環境の一部から情報を取得して用いるので、より高度な事前選択やテストができる。つまり、生存のために道具を使うようになったわけである。そのような道具の中で最も優れたものの1つが、こころの道具すなわち「言語であるとデネットは指摘する。グレゴリー生物の段階になって、文化的環境の中から心的道具(言葉)を持ち込み、外部の情報を利用できるようになったことによって知性は飛躍的に高まったとされる。他者が考案し、改良し、変形させた心の道具を使って、知恵を具体化し、次に考えるべきことについてより良い考え方を学び、より深く限界のない内省力を生み出したのだとデネットはいう。

文献

ダニエル・C. デネット 2016「心はどこにあるのか」(ちくま学芸文庫)

      

2017-01-16

歴史の物語り論とは何か

野家(2016)は、歴史学の方法あり方について、自らの立場としての「歴史の物語り論」を紹介している。ここでいう「物語り(narrative)」とは、ある出来事を別のものと一緒にし、またある出来事を関連性に欠けるとして除外するような、出来事に負荷された構造として説明している。言い換えるならば、物語りの機能は、複数出来事を関連づけ、統一的な意味を与えるコンテクストを設定することであり、物語り文を作ることは、先行する出来事を後続する出来事と関連づけて意味付与を与える作業である。ある出来事単独歴史的意味を持つことはできない。その後に起こった別の出来事と関連付けられてはじめて歴史的意味を獲得する。その関連づけの時間的コンテクストを用意するものが物語り行為なのだと野家はいう。


ここで重要なのは、歴史の物語り論では、「歴史的出来事は物語り行為によって構成される」という考え方に依拠している点である。ここでいう「構成」とは、「存在するもの意味妥当性を算出すること」「意識志向する対象意味付与すること」である。この考え方が前提とするのは、いっさいの記述から独立した「裸の」あるいは「生の」歴史的出来事はありえないということである。つまり、すべての出来事をくまなく見守っている「神の視点」や「理想的年代記作者の視点から、歴史記述から独立した、切り離された歴史的出来事存在を主張する「素朴実在主義」の立場を取らないということなである世界についての「唯一の真なる記述」は存在せず、歴史的出来事が、われわれの言語活動から独立して客観的実在するということはありえないということに等しい。


野家は、過去出来事は知覚することはできないため、過去実在意味は「物語り」のネットワークの中でのみ与えられるという。つまり、過去出来事はわれわれには知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、発掘や史料批判といった作業必要になるというわけである。そこに「想起」や「物語り行為」が関わってくるのである。想起は記憶に頼ることになるが、史料や物的証拠は、外部記憶としての痕跡と考えられる。野家によれば、この考え方は、自然科学における実在の考え方と共通している。つまり、歴史的出来事実在の考え方は、例えばミクロ物理学における「素粒子」の実在と考え方は類似しているということである素粒子人間には知覚できず、知覚できるのは、実験などで確認される素粒子運動の「痕跡」にすぎない。しかし、素粒子実在は、物理学的理論の支えと実験的証拠裏付けによって与えられる。素粒子実在は、背景となる物理学理論のネットワークと不即不離なのである歴史的出来事についても、この世に生じた出来事は、「過去物語り」すなわち「間主観記憶」のネットワークの中に整合的に組み入れられてはじめて「過去にあった」出来事となる。


ここで「理論的存在」が鍵概念となる。理論的存在とは、その実在性を保証する理論体系が常に用意されていることを意味している。例えば、素粒子存在は物理学理論によって、大学の存在は設置基準のような「社会制度」によって、過去出来事存在は「歴史的物語り」によって支えられているということである。つまり、素粒子は、公認された理論と実験などの証拠によって支えられる「理論的存在」であり、歴史的出来事も、公認された物語りと史料などの証拠によって支えられる「物語り的存在であるといえる。また、ここでいう「理論」も「物語り」も、絶対的な真理ではなく、現在公認されたものという意味であり、将来別のものに置き換わる可能性を常に持っている点でも共通している。それに応じて、物理学の世界では「フロギストン」の実在否定されたり、日本史では、神武天皇実在否定されたり鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変わったりするわけである


そして、素粒子実在を支える物理学理論や、歴史的出来事実在を支える過去物語りの妥当性を支えるのが「合理的受容可能性」だと野家はいう。歴史学における「合理的受容可能性」は、手に入る限りの文書史料や発掘史料を「過去痕跡」として読み解き、それらを整合的に組み合わせて合理的推論を積み重ねながら、受容可能な「物語り」を紡ぎだすという作業によって担保されると考えられる。そしてそれは、過去現在とを時間的連続性の中で矛盾なく接続する「通時的整合性」と、過去出来事がそれと同時代の人々の証言や物的証拠矛盾しない「共時的整合性」という2本の座標軸として捉えることができる。よって、歴史の物語り論は、歴史が主観的につくられたストーリー架空の物語)であって、文学と同じようなものだと主張しているわけではない。過去物語りは人類が数千年かけて営々と紡ぎだしたものであり、公認手続きによって「間主観的」に構成されてきたものである。よって、それは歴史的出来事実在を支える一種社会的制度だといえるのである

文献

野家啓一 2016「歴史を哲学する――七日間の集中講義(岩波現代文庫)」

2017-01-04

科学は真実を知るための方法ではない

一般的に「科学」と聞くと、我々人間にとって最も確実な知の方法であり、この世の本質もしくは真実を知るための方法であるかのように思える。確かに、まだ科学と哲学が混然一体となっていた時代には、真実を知るための方法としての科学的方法模索され、確立されようとした時期があった。しかし、例えば野家(2015)が解説するような科学史や科学哲学概観するならば、現在の科学が、真実を知るための方法はいえないことがわかる。


例えば、古代自然哲学者たちは、自然本質理解するための天文学や運動論を展開した。それが、コペルニクスに始まる科学革命の時代には、ガリレオによる「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」という言明に代表されるように、自然界には数学的秩序が存在し、それゆえ自然法則は観察可能な物理量の間の数学的関係として表現されるという思想が普及した。つまり、宇宙そのものに数学が埋め込まれているわけだから、数学は真実を知るための方法であり、物理量の数量的な法則性はこの世の本質を映し出していると考えられるようになっても不思議ではない。


しかしすでに、自然科学的方法確立されたニュートンの時には、自然科学がこの世の真実を追求するという姿勢でなされるものではなかったといえる。ニュートンは万有引力の「発見」によって、天体の運動と地上での運動統一的に説明することに成功したが、ニュートンが「考案」した「万有引力」は、距離を隔てた2つの物体が引き合っていることを示しているのであり、これは素直に考えると、世の中の本質とか真実とは信じがたい。野家によれば、それはむしろ中世の魔術的自然観に回帰するものとさえ考えられたのだ。実際、ニュートンは、数々の自然現象説明予測を成し遂げるためにそのような(架空の)概念を作り出したにすぎないのである


ただ、それでもニュートンの万有引力の法則は、世界本質世界真実を示すものに違いないという信念が世界を覆っていたのだろう。決定論自然観がその代表である。それが間違いであることを決定的にしたのが、野家の解説する「科学の危機」であり、それには「数学の危機」と「物理学の危機」がある。まず、数学の危機においては、非ユークリッド幾何学の発見や、集合論のパラドクス発見によって、数学は真実を映し出すものでも何でもなく、単に形式的整合性や無矛盾性を扱う論理ゲームのようであることが明らかになった。そして、物理学の危機においては、宇宙のようなマクロ世界はニュートン力学では十分に説明できず、光速を一定仮定するアインシュタインの特殊相対性理論が出現した。この理論によると、空間や時間が曲がってしまうことになるのだが、それが真実だというよりも、そうすることで現象説明できるというだけのことである。同様に、微小世界では量子力学が発展し、エネルギーが離散的な値しかとらないとか、量子の位置運動量が確率的にしか決まらないといったことが「発見」された。


物理的に離れた物体がお互いに引き合っているとか、空間や時間絶対的ものではなく、曲がったりするとか、そして、物体位置運動力が連続的ではなく、離散的・確率的にしか決まらないとかの「科学的事実」は、直感的にはこの世の本質とか真実を示しているようには思えない。しかし、野家が解説するように、科学は、狭義には「観察や実験など経験方法に基づいて実証された法則知識」と定義できる方法であり、それ以上でもそれ以下でもないということなである


科学的知識は、単に、観察可能現象に関する、仮の説明(すなわち仮説)にすぎない。しかも、科学哲学におけるポパーの反証主義や、クーンパラダイム論の考え方を借りれば、そういった科学的知識世界像は常に暫定的ものでしかなく、いずれ別の説明世界像に取って代わられる可能性がある。だから、離れた物体同士が引き合うという説明とか、光の早さは常に一定で、むしろ時間や空間が相対的ものであるとか、量子の位置は確率的に決定されるといった、一見すると常識はずれの説明であっても、それが観測可能経験整合的でありさえすれば、それでよいのである。そもそも科学は、この世の本質とか真実を映し出すための道具ではないのだから。それらの常識はずれの説明は、それがこの世の本質なのではなく、そう説明するのが現時点では最も都合が良いというだけの話なのである

文献

野家啓一 2015「科学哲学への招待」(ちくま学芸文庫)

2016-12-24

目的論的意味論で「機能」の概念を自然化する

意味」とは何だろうか。例えば、われわれは「人生意味とは何か」とか「それに何の意味があるのか」と問うたりする。「意味がある」ということは、何らかの目的を実現するための「機能」を持っていると捉えることができる。そこで、「機能」とは何かという問いにもつながってくる。ここで、唯物論立場から意味」や「機能」を捉えようとする戸田山(2014)は、「目的を実現するための手段」という視点から機能」を捉えることをせず、自然科学的な発想、すなわち因果関係論的な発想から機能」を定義しようとする。それは何故かというと、戸田山は「科学的世界像の中で人間とは何かを考える哲学」を推進しようとしているからである。そのような立場からは、例えば、「意味」や「機能」のように、物理的な意味では実在しないと思われるもの、つまり人間自分の都合のよいように勝手につくりだした実体のないものにすぎないと思われるものであっても、科学的世界像の中に位置づけて説明することが重要になってくるのである


さて、科学的世界像の立場から見ると、「目的を実現するための手段」として「機能」を捉えることが不都合になる。何故ならば、それだと、「投げた石が落下するのは、石がもともと属していた大地に戻ろうとするから(大地に戻るという目的を実現するために落下する)」という形で物理的現象説明するようなものからである。科学的世界像では、目的が先に存在して、それを実現するために特定機能が生じるとは考えない。科学的世界像では、このような目的論的説明を、因果論的説明に置き換えてきたのであるから、科学的世界像に立つならば、誰の意志とも関係なく、あるいは人間存在とも関係なく、起こるべくして起こるといった、因果関係的な視点から機能」を捉える方法、すなわち機能の「自然化」を考えなくてはならないのである。しかし、単純に因果関係を当てはまるような「因果意味論」でもうまくいかないと戸田山は言う。因果関係的に何かをもたらすものを「機能」と捉えてしまうならば、「機能不全」を起こしているものを、本来機能を持ったものと同一の意味カテゴリーに含めることができなくなってしまう。本当は、ものが切れない(機能不全の)ハサミでも、正常にものが切れるハサミとおなじ意味カテゴリー(つまりハサミ)として認識されなくてはならない。


そこで戸田山は、「機能」と「本来機能」を切り離し、「本来機能」に焦点を絞る。これで、機能不全のものも、機能果たしているものも、「本来機能」は同じものとして同一の意味カテゴリーに含めることができる。そして、「本来機能」の定義の「自然化」を図る。「本来機能」が自然化できれば、本来機能人間解釈によって決まるのではなく、自然界の側で決まっていると考えることが可能になるので、科学的世界像の中に位置づけることができるようになるのである。つまり、われわれは、「本来機能」を人間側で作り出すのではなく、自然の側で決まっている「本来機能」を発見するだけなのである。そして戸田山は、「本来機能」の自然化を図るのに有用な考えかたとして、ミリカンの「目的論的意味論」を紹介する。この考え方は、因果論的説明と、起源論的説明もしくは発生論的説明を組み合わせたものとして理解することができる。進化の歴史に訴えたものという言い方もできる。


ミリカンの「目的論的意味論」によれば、「Sが持つアイテムAがBという機能を持つ」とは、「SにAが存在するとは、Sの先祖においてAがBという効果を果たしたことが、生存上の有利さを先祖たちにもたらした結果」と同じだとする。こうすることで、Aという機能を、Bという「目的」を実現するための手段というように逆算して考える(ここに存在論的に逆の因果関係が含まれてしまう)のではなく、あくまで、AからBへの方向性を持った因果関係因果論的説明)、そしてそれがSにAがあるということにつながる因果関係(進化論的説明)のみで捉えることができている。つまり、AとBが因果関係でつながっているという科学的事実の中で、進化論的な自然淘汰という因果関係によってAがSに存在しているのであるから、Aの本来機能はBだと言える。Bという効果をもたらすAが自然淘汰によって現在存在する。よって、ここにあるAがBの効果を持たなくても(機能不全であっても)、一般的にはAの本来機能はBである。このように、ミリカンの目的論的意味論によって、「本来機能」の自然化が見事に実現できていると戸田山は説明するのである

文献

戸田山和久 2014「哲学入門」(ちくま新書)

2016-12-21

哲学の仕事は概念をつくること

戸田山(2014)は、われわれが普段使っている概念の内容を分析し、概念必要十分条件を定式化する「概念分析」は、分析哲学の主な方法だとしつつも、哲学仕事はむしろ概念をつくること、すなわち「概念工学」だとと主張する。概念分析概念定義は、理論構築のなかにヒトコマとして埋め込まれている。そして、理論の良さというのは、包括的でたくさんのことを説明できるか、他の理論と整合的かなどの点から評価される。良い理論ができれば、それによって、雑多な現象統合的に説明されるようになるというわけである。よって、単に既存のわれわれの概念分析するのではなく、より良い理論を構築するために新しい概念をつくる作業従事するのが哲学仕事だと表現するのがふさわしいだろうと論じる。


戸田山は、概念作りを生業とする哲学目的は、煎じ詰めれば、人類の幸福生存のためだと説く。幸福生活をもたらしてくれるのは技術産品だけではなく「概念」も含まれるのだという。例えば、人類が最初から持っていたわけではない「権利」という「概念」を歴史のどこかで誰かが生み出し、それに意義を見いだした人々がいたからこそ、権利という概念がわれわれまでリレーされ、われわれの幸せを支えているといえる。誰かが、この概念を生み出すための思想的苦闘を放棄してしまっていたら、現在のような幸福世界はなかっただろうということである。すなわち、概念も人工物であるから、より良い人工物を生み出すことで人類の生存に貢献するという意味では、哲学と工学は似ていると戸田山は言うのである


よって、哲学無用の用どころか、現実を何とか変えようとしている人々が哲学に取り組むことで、人類の生存にとんでもなく役に立っていると戸田山は主張する。また、自分の分野が歯がゆくてしかたがない、その根底を疑い、なんとかもっと面白い研究をやりたいともがく科学者、あるいは科学以外の研究者こそが、哲学を役立てることができるし、実際に役立ててきたのだと戸田山はいうのである。では、哲学的に考えるならば、どこから始めればよいのか。戸山田の言葉を借りれば、「まずは問いを小さく分けて、具体的にする。それを徹底的に考える。そこで得た洞察をできるかぎり一般化し抽象化する」ということになろう。

文献

戸田山和久 2014「哲学入門」(ちくま新書)

2016-11-03

リーダーシップの基本を構成する7つの行動

堀(2015)は、本当のリーダーであるための条件として、7つの行動を挙げる。1つ目に挙げるのが「夢を語る」べき人だということである。したがって、リーダーは、魅力的な目標を設定できるだけの理想化あるいは情熱家という要素を持っている必要がある。また、リーダーは明るさを失ってはならないし、常に価値観を語り続けなければならないという。ただし、目標設定後、現在地認識必要なのはリアリストアナリストとしての資質であり、環境変化を読めるのは、アナリスト資質と、鋭いセンスや勘であり、戦略策定は緻密な数学の能力必要だと堀はいう。つまり、リーダーの語る夢は、実現への道筋が示されなければならないのである


2つ目の行動は「自ら手本を示す」ことである。スポーツの世界では名選手でなくても名監督になれることからいえるように、リーダーとして手本を示すために肝心なのは、才能ではなく、学習することだと堀はいう。よって、リーダーを志す者は、若いうちから幅広い仕事体験しておくべきだというわけである


3つ目の行動は「チャンスを与える」ことである。チャンスを与えることで本人はやる気を起こして頑張るものだし、例え本人の実力が十分でなかったり、自信がなかったりしても、思い切ってチャンスを与えることで本人は成長していくし、自信がついてくる。つまり、若い人にチャンスを与えることは、将来をつくることだと堀はいうのである


4つ目の行動は「考えさせる」ことである相手にいかに深く考えてもらうか、それを常に考えながら行動することがリーダーに求められると堀はいう。


5つ目の行動は「誉める」ことである。人を誉めることはリーダーとしてかけがえのない大切なことだと堀は主張する。組織のメンバーは、誰もがリーダーの励ましの言葉を求め、認められたいという気持ちを持っている。「あなたがやっていることは組織のために役立つ」「あなたの才能や努力は必ず組織のためになる」といった誉め言葉は、言われた人の士気を高め、意欲を引き出す。「ありがとう」のたった一言でも満足感は一層高まるという。また、リーダーが人を誉めるときに重要なのが、結果ではなくプロセスを誉めることだという。そして、人の良さを認め、それを実際に口にできる人間になるためには、自分自身の成長が欠かせないと堀はいう。


6つ目の行動は明日を語る」ことすなわち「前を見据えた語り掛けをする」ことであるリーダー立場にある人は、メンバーに向かって、我慢してほしいという「お願い」をしなくてはいけないときがある。例えば、リーダーには痛みや摩擦を恐れず改革を進めることが必要なときがある。そのお願い、協力を願うためには、リーダー明日を語れなければならないというわけである。「今日我慢すれば明日は必ずよくなる」と語りかけることが重要だと堀は指摘するのである


最後の7つ目の行動は「つねに勝つ」ことである。メンバーは、自らの仕事一所懸命やれば、結果が出せなかったとしても責任は問われない。しかし、リーダーは結果を出せなかったら負けであるリーダーはどんな立派なことを言っても、それが勝利につながらなければメンバーはついてこないと堀はいう。


なお、堀は、リーダー組織のメンバーとなるべき人材に常に求めるべき資質を見極める必要があるとし、自らの会社の採用条件としてのチェックポイントを4つ挙げている。1つ目はIQである。2つ目は協調性代表される性格であり、とりわけ「かわいげ」が大切だという。この「かわいげ」を構成する中心要素は「素直さ」である。3つ目は他人気持ちがわかるといった感性である。そして4つ目が「攻撃力」である

文献

堀紘一 2015「リーダーシップの本質 改訂第三版」ダイヤモンド社

2016-09-23

現代思想におけるコミュニケーション的転回とは何か

哲学思想では、「人間の知の基盤(拠り所)はいったい何か」というような根本的な問いが探求される。高田(2011)は、現代思想においては「コミュニケーション転回」が起こっており、例えば、私たちの世界認識個人で行われるのではなく、多数の人間感覚器を総動員して(個人の直接経験が集約されて)行われるものだと考えるようになっているという。言い換えるならば、「個人知」から共通知」への転回が起こっているということである高田は、過去思想の歴史を振り返ると、個人から共通知への流れは、「超越論的転回」「言語転回」「解釈学的転回」「コミュニケーション転回」の4つの転回を経てもたらされたものだと説明する。


まず、現代思想の主旋律となっているのが、カントによる「超越論的転回」だと高田はいう。なぜならば、この「超越論的転回」が思想界において現代までにつながる大きな方向転換であったからである。これ以前では、世界における存在物・実在物の側から見て、私たちの身体や脳などの中にどのように「認識」が発生するのかを問うていたのに対し、超越論的転回では、認識の側から見て、「存在」がどのように発生するのかを考えるようになったからである。つまり、私たちが感覚器を通じて認識することができる「仮象」をもとに、私たちは理性の働きによって「モノそのもの」「実在」を形成するわけであるが、そこに「飛び越え」「超越」がある(なぜならばモノ自体認識できないから)という考え方である


次に、フレーゲやソシュールの思想を源流とする「言語転回」によって、それまで「モノ中心」「物質中心」の世界観のもとで思考を繰り広げてきた哲学が、「コト」「事実」を中心に置くという新たな枠組みの中で思考を展開するようになったと高田はいう。言い換えれば、「モノ」が世界認識の中心とされていた状態から言葉」に中心が移り、「世界認識視点の中心は、モノにではなく、言葉にある」ということが指摘されたというわけである。モノは、人がそれを認識し、名前をつけ、価値付与することによって初めてこの世界に登場する。よって、モノを発生させているのは、人であり、心であり、社会であり、価値であり、事実(=コト)であるというわけである。ヴィトゲンシュタインによれば、「コト(=事実)」は言葉によって表現されうるものと同じである。この事実を支えているのが、言葉であり、言葉によって紡がれた価値の体系である


さらに、ガダマーの解釈学を機とする「解釈学的転回」によって、言葉に付随する意味価値は、それを発する側(例:作品の作者)によって生み出されるのではなく、それを見たり聞いたりする人間の側に発生するものだと考えられるようになったと高田説明する。例えば、ガダマーの「再生産的解釈」の説明によると、作者が自分の思いに基づいて何らかの「意味」を生産し、それを作品テキスト)に込めるのであるが、それを受け取った側の人間は、別に新たな意味を「再生産」する。ただし、受け取った側が勝手意味生産するわけではなく、テキスト制限もしくは規範として機能し、その枠内で再生産が行われる。つまり、解釈学的転回では、意味や美や価値をある人間創造し、それが他の人に伝達されることによって広がるという考え方から意味や美や価値とは、表現を受け取る読者や鑑賞者や受け手の側において発生するということを明確に示したのである


最後に、アーペルに代表される「コミュニケーション転回」によって、個人認識個人知)を基礎として「共通知」が形成されるプロセスに着目されるようになったと高田は指摘する。つまり、「意味の生成の場」としてのコミュニケーション重要だと捉え、それを思索の基礎に置く考え方へとシフトしたというわけである。つまり、言語転回が「言語を基軸とする」考え方へのシフトを示しているのに対し、そこから一歩進んで、「コミュニケーションを基軸とする」という考え方にシフトしたのである言葉を基軸であり大事であることには違いないのだが、言葉意味はあらかじめ確定されているのではなく、コミュニケーションによって生成・調整されるというわけである。つまり、言葉機能させ、意味価値を生成しているのは、言葉のものではなく、コミュニケーションであるコミュニケーションこそが、意味生成の場だというわけである

文献

高田明典 2011「現代思想のコミュニケーション的転回」筑摩書房

2016-09-03

無から有を生み出すイノベーション思考法

大前(2016)は、これからは「無から有を生み出すイノベーション」を実現することで1個人世界を変える時代だとし、そのための発想力はトレーニングによって培うことができると説く。具体的には、基礎データ自分自身時間をかけて集め、類似例を分析して現状を把握した上で、事実を積み上げて論理構成すること、そしてさらに、その論理から自分想像力を駆使して発想を飛躍させることを、トレーニングを繰り返して身に付けるわけである


大前は、無から有を生み出すイノベーション可能にする11の考え方を紹介している。例えば、ユーザー側に立った視点で、戦略立案する方向性の数を増やす「戦略的自由度」を紹介している。「ユーザーが求めているものは何か」「私たちはそれを十分に提供しているか」「ユーザーが満足していない部分の原因は何か」「それを解決するためにはどういう方法があるか」というような問いを順番に発し、正しい問題目標の設定をした上で、ユーザー目的目的関数)を満たすアイデアをたくさん挙げるわけである


その他にも大前は、以下のような発想法を紹介し、無から有すなわち「0から1」を目指し、その次は「1から100」を目指すよう鼓舞する。

  • 「情報格差」をビジネスチャンスにつなげる
  • 「組み合わせ」で新たな価値創造する
  • 稼働率の向上」と「付加価値」を両立する
  • すでに(世界のどこかに)存在している「兆し(=ヒント)」をキャッチし、来たるべき未来想像する
  • 空いているもの有効利用する
  • AとBがあり、どちらも行き詰まっているときに、その中間に活路を見出す(東京と新横浜の間に品川駅を設置する)
  • 「もしあなたが○○だったら」という他人立場にたつ発想をする
  • すべてが意味することは何かを問うことで、森全体を見る視点に発想を飛躍させる
  • 見えないものを見る力である「構想力」を磨く

文献

大前研一 2016「「0から1」の発想術」小学館

2016-08-30

極めてシンプルな行動経済学入門

行動経済学を、多田(2014)を参考にシンプルに紹介してみよう。まず、行動経済学は「心理学などの知見を取り入れた経済学である。その意味は、伝統的な経済学で前提となっている「すべての経済主体が最適行動をとる」もしくは、経済主体としての人間は「超合理的」「超自制的」「超利己的」であるというものを非現実的であるとして、その代わりに心理学などの知見を利用して修正した「より現実的人間行動」を想定した上で、経済活動に関する理論を構築しようとするものである


もっとも、人間合理的ではなく「限定合理的であるというような知見は過去にもあった。しかし、伝統的な経済学からは、個々人に限定合理性があることは否定しないが、人々の間違いは構造的なものではなくランダムものであるため、市場全体としては限定合理性による影響はないはずであるという反論があった。つまり、個々の人間の実際の行動が合理的行動から乖離することがあっても、それを「誤差」として扱い全体として集合化して考えるならば、誤差は互いに相殺されて代表的個人の(合理的な)行動原理に収束すると考えたのである


しかし、限定合理的人間の行動が、たとえそれが全参加者の一部であっても、合理的人間の行動に影響を及ぼすことを通じて、市場全体に大きなインパクトを与えることが明らかになってきた。例えば、ゲーム理論の実証研究によって、人口のうちわずか1割を占めるにすぎない非合理的参加者存在が、参加者全体の行動を、全員が合理的である場合のナッシュ均衡から大きく乖離させてしまうことなどが明らかになった。また、少数の非合理的生産者貨幣錯覚が、近似合理性の発現や他の合理的生産者の行動に影響を与え、その結果として価格の硬直性が起こるという説明可能となった。さらに、合理的消費者と、消費活動において合理的でない消費者の2つのタイプの消費者を想定することにより、従来のマクロ経済学とはことな現象予測できるモデルも考えられてきた。


伝統的な経済学反論した内容とは異なり、人間現実の行動はランダムにではなくシステマティック合理性から乖離していることも心理学研究などにより明らかになってきた。その例が、代表ヒューリスティクス、利用可能ヒューリスティクスアンカリング効果など、人々が物事判断する際に認知の近道を使っていることに起因するバイアスや、自信過剰認知的不協和などの社会心理学特性である。そして、リスクに直面する人間行動の特性を見事にとらえた「プロスペクト理論」や、人々の現実的お金のとらえ方を表現した「メンタルアカウンティング」の登場により、人々の経済行動をより的確に表現できるようになった。さらに、双曲割引モデルなど、人間の行動が自制的でなく先送りや選好の逆転が起こることを示す研究成果や、人間純粋利己的でないことを示す公共財ゲーム、最後通牒ゲーム、独裁者ゲームを使った研究なども発展した。


上記のように、経済主体としての人間は「超合理的」「超自制的」「超利己的」であるという伝統経済学が前提とする非現実的仮定をより現実的もの修正するための研究成果が蓄積され、それを用いた理論構築による行動経済学が成長しているわけである。その1つの例として、例えば、行動経済学から派生した行動ファイナンスの発展が挙げられる。行動ファイナンス詩論によって、金融資本市場において資産価格がそのファンダメンタズかけ離れた動きをするという現象の背景のかなりの部分を「より現実的投資家の行動」によって説明することができるようになったのである

文献

多田洋介 2014「行動経済学入門」(日経文庫)

2016-07-31

市場の本質を理解して戦略の「勝率」を高める

森岡・今西(2016)は、ビジネス戦略の成否は「確率」で決まっており、その確率はある程度まで操作することができると主張する。つまり、戦略の確率を事前に知り、コントロールしやすい領域とコントロールできない領域を見分け、経営資源をコントロールできる領域へと集中させることで、成功確率を劇的に高めることができると論じるのである。では、それを可能にするのに最も大切なことは何か。それは、ビジネスが行われている「市場」の「本質」を理解することだと森岡・今西は説明する。目に見えている現象に惑わされることなく本質洞察すること。なぜならば、「本質」によって構造が形づくられて、さまざまな「現象」が生まれてくるからである。そして、現象の幾重もの層の奥底に座っている「本質」は、ほとんどの場合は非常にシンプルな顔をしているというのである


では、ビジネスの主戦場でもあり、資本主義世界を形づくっている「市場」の本質とは何か。森岡・今西は、それは「人間の欲望」ではないかという。資本主義とは「人間の欲望」をドライバーにして形づくられている社会ではないかと。人間の「欲」をエネルギーとして使い、人間同士を競争させることで様々な発展と成長を生み出していくわけである人間の欲を本質として資本主義社会は様々な複雑な社会構造を作り上げ、そして我々はその社会構造が生み出す限りなく多くの現象の中で生きているのではないかと森岡・今西は問いかける。その本質によって形づくられた市場構造理解すれば、私たちは成功確率の高い企業戦略を選ぶことができるのだと指摘する。


森岡・今西によれば、市場構造を決定づけているDNA、あるいは震源ともいうべき本質は、消費者の「プレファレンス」(消費者ブランドに対する相対的好意度もしくは好み)であり、それは「ブランド・エクイティー、価格製品パフォーマンス」の3つによって決定されている。シンプルにいえば、市場構造を決定づけているのは、消費者のプレファレンスだということである。そして、消費者のプレファレンスによって決定づけられている購買行動の仕組みはどの商品カテゴリーにおいても同じだと指摘する。どの商品カテゴリーであっても市場構造本質は同じであり、プレファレンスに拘束される消費者の購買行動という全く同じ規則に従って、それぞれのカテゴリー構造形成されているわけである市場競争とはすなわち、1人1人の購入意思決定の奪い合いであり、その核心はプレファレンスである。企業が奪い合っているのは消費者のプレファレンスそのものなのだから、どの企業も消費者視点を最重視して、プレファレンスの向上に経営資源を集中せねばならないと森岡・今西は主張する。

文献

森岡毅・今西聖貴 2016「確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力」角川書店

2016-07-30

経営学の基本を活用したクリエイティブ発想法

クリエイティブになるために「革新的アイデアがひらめくにはどうしたらよいか」という問いに対し、森岡(2016)は、強いアイデアを生み出す確率を高める「イノベーションフレームワーク」について解説している。その要素の1つが、アイデアを生み出すポイントを絞るための「フレームワーク」であり、かつ、その中でもっと重要ものの1つが、経営学の基本を利用した「戦略的フレームワークである


この「戦略的フレームワーク」は、経営学を少しでも勉強したことがあるならば、あまりにも常識的であり、「何をいまさら」という反応が出てきそうである。しかし、実際、森岡のように具体的なクリエイティブ発想法として活用している人は少ないのではないだろうか。


森岡によれば、アイデアを生み出すにあたって、最初に最も大切なことは、何を必死に考えれば良いかわかっていることである漠然と広すぎる可能性の中から、何の手がかりもなくアイデアを探すのは効率が悪すぎる。よって「フレームワーク」という道具を使って、探すべきアイデアの「手がかり(必要条件)」を推理して導き出すというわけである。魚釣りでいえば、どのポイントで釣り糸を垂らすかを決めてから、釣りを始めるのと同じであるアイデアを考えるにあたって「どこに宝が埋まっているか」に予想をつける戦略眼が「フレームワーク」の役割だと森岡はいうのである


森岡が解説するフレームワークの1つである戦略的フレームワークでは、戦略を考えるときのフローを利用して、考えるべきアイデア必要条件を導き出す。ここで何よりも大切なのは最初目的をよく考えて、明確に定義することである。そのうえで、その目的を達成するために、持っている経営資源(ヒト、モノ、カネ、情報、時間ブランドなどの知的財産など)を何に集中するのかを選んで決める。この選択が戦略なのだが、戦略こそが生み出すアイデア範囲を決める「必要条件」になっていることが重要である戦略が決まったところで、考えるべき戦術(つまりアイデア)の範囲が絞れることになる。


このように、戦略的フレームワークでは、「目的」→「戦略必要条件)」→「戦術アイデアそのもの)」という順番で考えることによって、選択肢合理的に絞っていく。それ以外を全く考えなくてもよい「捨てる領域」が明確になることで、最も宝が埋まっていそうなポイント時間努力を集中させるのに役立つと森岡はいう。しかも、方向性が絞れている分、戦略必要条件)が具体的な発想の起点となってくれることが多いとも指摘する。要するに、無駄場所をできるだけ掘らずに、その時間を掘るべき場所に使うので、それだけ早く宝を掘り当てる確率が上がるというわけである

文献

森岡毅 2016「USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?」(角川文庫)

2016-07-19

世界経済を理解するための「地政学リスク」

倉都(2016)は、地政学は、中長期的に世界資本市場市場経済理解する目を養う上で重要であることを説く。とりわけ、現代では地政学リスク市場や経済を錯乱する可能性が高いという。地政学的リスク顕在化が、株価や原油のほか為替市場などにも影響を与え、実体経済にも影響を与えることになるというわけである。すなわち、地政学は、明日相場を揺るがすリスクの母体であるとともに、将来の経済構造を変化させる要素を胚胎する土壌でもあると倉都は指摘するのである


倉都は、地政学リスクを、以下のように類型化している。第一は「宗教対立に潜む経済問題である。例えば、キリスト教世界の中でも、ユーロ圏における南北格差のように、プロテスタントカトリックの間では経済格差が存在し、それが新たな対立のタネを捲いているという。今日の中東をめぐる政治経済を揺さぶる地政学リスクを考えるならば、キリスト教イスラム教対立という側面も浮かび上がってくる。イスラム社会でも、スンニ派シーア派との内部対立や、阻害しされるユダヤ教など、いまや全世界で、宗教対立を理由とする過激派の攻撃など地政学リスクが高まっていると倉都は指摘する。


次に「民族意識と経済の論理」という類型がある。例えば、いま世界的に最も注目を浴びているのがクルド人問題であり、クルド人の最も多いトルコでは民族闘争火種は残ったままであり、それが欧米投資家の「トルコ離れ」を誘い、トルコリラが脆弱な通貨となっていると倉都はいう。ソ連、ロシアにおいても少数民族との武力衝突や破壊行為が発生し、ロシアの株価指数を一気に押し下げる原因となったり、ルーブル安の源流を形成しているという。中国ではチベット民族ウイグル民族問題があり、戦争を起因として同一民族が分離している朝鮮半島も地政学リスクを抱えている。


さらに「イデオロギー闘争と西欧型資本主義への挑戦」という類型がある。ロシア革命を経て建国されたソ連や、共産党によって建国された中華人民共和国は、資本主義対共産主義というイデオロギー闘争の大きなうねりを作り出した。結果的計画経済破綻したが、ロシアや中国において国家主義資本主義という、英米型の資本主義とは一線を画した政策を実行している。これが、異なる経済イデオロギー対立をはらんでおり、それが南シナ海における米中の対立、尖閣諸島における日中の対立などの領土問題に発展していると指摘する。


4つ目の類型として「民主化運動と経済意識」という地政学リスクがある。過去の東欧において自由民主化を求めて勃発した「プラハの春」は、軍事介入によって踏みにじられた。中国の天安門事件も政府による武力制圧に終わったが、その後共産主義圏で共時的な民主化運動が起こり、ベルリンの壁崩壊につながった。その後、ウクライナで民主化をめぐる混乱が生じ、チュニジアにおける「ジャスミン革命」からドミノ式に広がった「アラブの春」は各国における内政の不安定化につながっているという。アラブ諸国の民主化への道が、格付け機関などから国際信用力の低下とみなされたり、投資家がこれらの国々から手を引くことになれば、混迷の出口はますます見えにくくなると倉都は指摘する。


最後の地政学リスク類型が「環境破壊と金融市場である。これは地理的要因と政治的要因の2つが組み合わさっていると倉都はいう。例えば、2011年福島原発事故は、一歩間違えば日本経済を崩壊しかねない恐怖の出来事であった。原発問題は、日本の貿易構造に大きな影響を及ぼしているともいう。二酸化炭素の排出問題についても、先進国と新興国・途上国の間で規制に関する大きな認識のずれが存在する。温暖化ガス問題は、地政学の力学を通じて資本市場様相を変革する潜在力を胚胎しているというのである。さらに、中国からは「PM2.5」という新たな問題も出現している。米国で生じた「シェール革命」は、環境面で大きな問題を生む可能性が指摘されており、地震が誘発されているという見方もあるという。つまり、シェール・ガスやシェール・オイルの生産に伴う環境不安が、エネルギー産業やウォール街を大きく揺さぶる社会運動へと発展する可能性があると倉都は指摘している。

文献

倉都康行 2016「地政学リスク―――歴史をつくり相場と経済を攪乱する震源の正体」ダイヤモンド社