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2018-08-12

虚構を信じる力が人類社会の発展を可能にした

なぜ私たち人類はこの世の中にこれほどまでに高度に発達した社会システムを地球上に作り上げることができたのであろうか。これに関して、ハラリ(2018)は、私たち人類の祖先は数十人からなる小さな生活集団で何百万年も進化してきたので、大規模な協力のための生物学的本能には欠けているという。ハラリによれば、人類発展のカギを担うのが、7万年〜3万年まえに生じたと思われる認知革命である。これは遺伝子の突然変異によって、新しい思考方法、新しい意思疎通の方法が生まれたことを意味する。その結果として言語とともに人類が獲得した決定的に重要能力が、虚構、すなわち架空事物について語る能力である虚構のおかげで、人類は単に物事想像するだけでなく、集団でそれができるようになり、多くの見知らぬ人同士が協力する社会システムの構築が可能になったのである


大規模な共同社会を作るためには、秩序が必要である人間生物学的基礎が可能にする秩序は、せいぜい数十人単位の小さな集団レベルである人間以外の生物は、物理的存在のみに行動が規定され、物理的存在に対する行動の反応は、DNAが変化しないかぎり変化しない。つまり、物理的存在および生物学的基礎を超える何かがないと、今の人類の生物学的基礎だけでは、数百人、数千人、数万人といった規模の人々が協力するような秩序は生み出せないはずである。しかし、人々の間に「虚構」「神話」が生みだされ、人々がそれらを信じるようになったことで大規模な秩序が生まれたのである。実際、複雑な人間社会には想像上のヒエラルキーと不正差別必要であり、たいていの社会政治的ヒエラルキーは、論理的基盤や生物学的基盤を欠いており、偶然の出来事神話で支えて永続させたものにほかならないとハラはいうのである


ハラリによれば、虚構の正体は、共同主観性である近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通神話に根差している。国家における共通の国民神話、司法制度を基礎づける共通の法律神話、法と正義人権。これらのうち、人々が創作して語り合う「物語」の外に存在しているものは1つとしてないのである。宇宙には神は1人もおらず、人類の共通想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義存在しない。すべてが虚構なのであり、これらが人間社会の秩序を生み出し、人間社会を変化させる力の正体なのである。共同主観的ものは多くの個人主観的意識を結ぶコミュニケーションネットワークの中に存在するので、たとえ1個人が信念を変えたり死んだりしてもほとんど影響がない。共同主観性による想像上の現実は、嘘とは違い、誰もがその存在を信じているもので、その共有信念が存続するかぎり、その想像上の現実人間社会の中で力を振るい続ける。


これらの虚構の中で、とりわけ人類による世界統一に向かう普遍的な秩序の構築に貢献したものが3つあるとハラはいう。1つ目は、貨幣による秩序で、経済的な秩序である。2つ目は、政治的もので、帝国という秩序である。3つ目は、普遍的宗教の秩序である農業革命以降、人々がこの3つの虚構を信じることにより、人間社会が大きく発展した。そして、500年ほど前には科学革命が起こり、近代科学がスタートした。宗教という虚構代替という役割を担うことになる科学の革命で生まれたのが、「未来現在より豊かになる」という進歩思想である。そしてこの「進歩思想」という虚構に支えらえた科学が、帝国主義資本主義と結びつき、3つの間に生じたフィードバックループのおかげで、ヨーロッパを中心とする文明が爆発的な進歩を遂げ、ヨーロッパが世界覇権を握るまでになった。


とりわけ「探検征服」の精神構造と、それを支える価値観神話、司法の組織、社会政治体制といった「虚構」がヨーロッパで生まれたがために、ヨーロッパ主導の文明・経済の爆発的発展が起こったのである。具体的には、資本主義のもとで人々が「将来は富の総量が増える」と信じることで、政治と経済の機関が科学研究資源提供し、その結果として得られた科学的発見による新しい力で政治と経済の機関が新しい資源を獲得し、その1部が再び科学研究投資されるというサイクルが繰り返された。このような投資サイクルが劇的な経済発展につながり、無尽蔵ともいえるエネルギーと原材料が手に入るようになり、物質的に豊かな社会が実現したのである。このように、科学と帝国資本の間のフィードバックループが、過去500年にわたって近現代の人類の歴史を動かす最大のエンジンだったのである

文献

ユヴァル・ノア・ハラリ 2016「サピエンス全史(上・下)文明の構造と人類の幸福」河出書房新社

2018-07-28

闘うための哲学書案内

小川・萱野(2014)は、ものごとの本質言葉をつかって批判的、根源的に探究していく学問である哲学について、22冊の古典を紹介しながら、混迷の時代を闘い抜く知を身に着けるヒントを提供しようとしている。いわば、人生を闘うための哲学ガイド提供しようとしているわけである。具体的には、以下の哲学書を紹介し、対話形式解説している。


饗宴』プラトン

『ニコマコス倫理学』アリストテレス

『方法序説』ルネ・デカルト

『リヴァイアサン』トマス・ホッブズ

『統治二論』ジョン・ロック

『社会契約論』ジャン=ジャック・ルソー

『国家論』バールーフ・デ・スピノザ

永遠平和のために』イマヌエル・カント

『法の哲学ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

『自由論』ジョン・スチュアート・ミル

職業としての学問』マックス・ウェーバー

『存在と無』ジャン=ポール・サルトル

全体性と無限』エマニュエル・レヴィナス

技術への問い』マルティン・ハイデッガー

監獄の誕生』ミシェル・フーコー

『悲しき熱帯』クロード・レヴィ=ストロース

『イェルサレムのアイヒマン』ハンナ・アーレント

正義論』ジョン・ロールズ

『正しい戦争と不正な戦争』マイケル・フォルツゥアー

『学問のすすめ』福澤諭吉

『善の研究』西田幾多郎

風土』和辻哲郎

文献

小川仁志・萱野稔人 2014「闘うための哲学書」(講談社現代新書)

2018-07-25

すでにあるリソースを最大限に活用して優れた成果を出す

ソネンシェイン(2014)は、私たちが持つリソースに制約があっても、「すでにあるもの」だけでもっと成果をあげ、もっと強い組織を築き、もっと仕事を楽しみ、もっと大きな幸福を手にできる考え方があるといい、それを「ストレッチ」という言葉説明している。これは「成果をあげるためにはリソース必要」「豊富なリソース=優れた成果」という考え方が適切ではないことを示唆している。むしろ、手持ちのリソースを最大限に活用すること、困難な状況下でも臨機応変に解決策を見出す能力リソースフルネス)こそが重要であることを示唆するものである。ストレッチとは、単に制約を克服するための創意工夫ではなく、変化に強い働き方、生き方につながり、つねに成功を収め、よりよい人生を過ごすための「人生観」にもつながるのだとソネンシェインはいう。


ソネンシェインによれば、リソースを追い求める(これをチェイシングという)のではなく、リソースが少なく制約があるほうが成功する理由がある。その理由の1つは、限られたリソース自我の一部として体験する(これを心理的オーナーシップという)ことを通じて、自分の持っているリソースに対する見方をがらりと変え、リソースを意外な方法で転用することにある。人はリソースが豊富だと、それを見たままに受け止め、従来のままのやり方で利用してしまうが、リソースが乏しいときは、その制約を受け入れたうえで、限られた資源を最大限しようという態度が生まれる。従来の方法にとらわれないでもっと自由に発想し、創意工夫するようになるのである。また、やたらとリソースを追い求め、結果的リソースを無駄遣いしてしまうのに比べ、リソースを追い求めず質素倹約を心がけることで、手持ちのリソース再利用しようとする発想が生まれる。これも、既存リソースを他の分野に活用したり、異なる使い方で再利用するなどの「有効活用」につながるわけである


限られたリソースを最大限に活用するストレッチの能力を高める方法として、ソネンシェインは、マルチコンテクスト(マルチC)の重要性を強調する。マルチCとは、さまざまなコンテクストに対象を当てはめることで、多様な経験を積むことによって磨かれる。別の言い方をすれば、ある分野の専門家ではなく、アウトサイダー視点を持つことである。そうすることで、特定リソースを思いもかけない使い方で活用するアイデアが生み出される。ある特定の状況に対して用いられる特定リソースを、まったく違う状況のまったく違う問題を解決するために利用することを可能にするということである。さらに、しっかりと計画を立てるまえに行動し、行動の結果から何かを学び、行動を修正するなどを繰り返す中で、リソース活用が進むことも考えられる。ソネンシェインは、この他にも、ポジティブな期待を維持することでリソース活用する方法や、本来水と油のように交わらない異なるリソースであっても、リソースに対する考え方や接し方そのものを変えることでリソースを組み合わせ、融合させ、新たな価値を生み出す方法なども紹介している。


このように、限られたものであってもすでにあるリソースを最大限に活用して成功するためのトレーニングとして、ソネンシェインはいくつかの方法提唱している。例えば、「リソースを増やそうとせず、きっぱりと要らないという」「いまあるリソース活用できるポテンシャルがあるのに眠っているものがないか探す」「新しい経験を得るための探検をする」「集中しすぎない」「新しい隣人を探す」「いまあるリソース毎日感謝する」「自分がどんなリソースを持っているのか再確認する」「計画なしに行動してから事後的に計画をつくる」などがある。

文献

スコット・ソネンシェイン 2018「ストレッチ 少ないリソースで思わぬ成果を出す方法」海と月社

2018-07-13

「理性」で読む「西洋美術史」

木村(2017)は、いつも講演で「美術は見るものではなく読むもの」と伝えているという。つまり、美術は「感性」で見るものではなく、「理性」で読むものだというのである。美術史を振り返っても、西洋美術は伝統的に知性と理性に訴えることを是としてきたと木村はいう。つまり、古代から信仰対象でもあった西洋美術は、見るだけでなく「読む」という、ある一定メッセージを伝えるための手段として発展してきたわけで、それぞれの時代の政治、宗教哲学風習価値観などが造形的に形になったのが美術品であり建築なのだと木村はいうのである


とりわけ美術史は欧米人にとって必須教養であり、欧米社会における重要共通認識コミュニケーションツールだと木村はいう。ただ、欧米での「美術史」はいわゆる「アッパークラス感」が強くでる学問であることは事実で、ある一定以上の階級以上の人たちにとっての必須教養だったということである。欧米の美術館が誇る芸術作品は、時の権力者が制作させたものがほとんどであり、王室の美術コレクション一般公開したものや、上流階級の人々のコレクションが寄贈されたものだというのである。このように、美術品とは、ある一定知識教養をもった人たちが発注収集したものであって、こうした社会を牽引した人々が作り上げてきた文化が脈々と受け継がれ、根付いてきたのが現代の欧米のエリート社会なのだということを木村示唆するのである


このような視点に基づいて木村解説する西洋美術史をざっと概観すると次のようになる。まず、古代ギリシア時代から中世にかけては、「神」中心の世界観が生まれ、その世界観が美術に反映されていた。古代ギリシアでは、神が喜ぶものとして、あるいは兵役で男性が体を鍛えることが必須であったことから、裸の男性美が彫像の中心的テーマであった。その後、古代ローマ文化がギリシアの文化を継承しながら西洋文明における古典文化として現代まで継承されるようなローマ独特の発展をしたが、そこでは「美」の追求から「写実性」の時代に移行し、後世に影響を与えたローマの大規模な公共建築も出現した。そしてローマ衰退とともにキリスト教社会が到来し、ロマネスク、ゴチックなど「目で見る聖書」としての宗教美術が発達したのである


その後、ヨーロッパ都市経済の発達とともに都市の市民文化が成長し、ルネサンス、北方ルネサンス、ベネツィア派など芸術のイノベーションが起こった。「人間」の地位向上とその尊重が見られるようになり、古代の美が再生を果たしたということもできる。また、プロテスタントの誕生とともにカトリックとの勢力争いからバロックなどの新しい宗教美術も生まれ、オランダ独立市民階級の台頭も、市民に向けた描かれた多種多様なオランダ絵画を生み出すことにつながった。


一方、フランスでは、ルイ14世がつくりあげた絶対王政によって、政治のみならず美術も中央集権化され、独自の「フランス古典主義」が生まれると同時に「芸術家=知識人」という強烈なエリート意識が社会に浸透していった。その後「王の時代」からロココ文化のような「貴族の時代」に移行し、理性に訴える建築、絵画、室内装飾に対して、感覚に訴える色彩を重視したものが台頭するようになり、「理性」と「感性」の戦いが勃発した。その後フランス革命やナポレオンの台頭で「新古典主義」が幕を開けても、理性と感性の戦いが復活したりしたのである


そして、産業革命から近代社会、近代美術が発展する時代が到来する。近代社会の発展によって生じた格差や現実を描くレアリズム、文化的後進国であったイギリスの発展に伴う国力や文化の増強、工業の発展と都市のブルジョアジーの台頭によって田園風景絵画への需要などから生まれたバルビゾン派、「何を描くか」ではなく「どう描くか」に焦点をあてた時代を反映した印象派の登場、そしてアメリカンマネーで開かれた現代アートの世界といったように、各時代の歴史や価値観、経済状況と各時代の美術の意味が綿密に結びついているがゆえに、美術、美術史を「理性」で読むことの重要性を木村は重ねて強調するのである

文献

木村泰司 2017「世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」」ダイヤモンド社

2018-07-07

重力の正体は粒子や波なのか、それとも全く別のものか

ニュートンが万有引力の法則発見したことにより、自然科学は劇的に発展した。しかしニュートンは、ただ万有引力があるといっただけで、なぜ離れた物体同士が引き合うのかについての理由を説明しなかった。したがって、古典力学においては、理由はわからないが離れた物体同士が引き合っているのが真実なのだと説明するにとどまり、観測事実による証拠があることを除けば、ロジックはテレパシーとかオカルトとさして変わらない。よくわからないが魔法のような力(=重力)が世の中に存在するのだというのにとどまるのではなく、なぜ、離れた物体同士が引き合うのか、そのような遠隔力の正体は何なのかを突き止めることが自然科学の使命でもある。


重力理論を解説する大栗(2012)は、このような話の他にも、重力には不思議なことがいくつもあり、重力理論は完成していないという。しかし、アインシュタインは相対性理論(相対論)によって遠隔力としての重力が生じる理由を説明し、その間接的な証拠も見つかっているという。そして、相対性理論と、現在のところそれとはかみ合わない量子力学とを融合することで、さまざまな力を統一的な理論で理解することが目下の課題であると考えられている。それでは、これまでの自然科学で分かってきた「重力の正体」とは何なんだろうか。あるいは何である可能性が高いのか。アインシュタインの理論から導かれる結論を先にいうならば、重力の正体は粒子や波なのではないかということになる。


大栗によれば、時間や空間が伸び縮みすることを前提としたアインシュタインの重力理論では以下のように重力が生じる理由を説明する。まず、アインシュタインの一般相対論では、物体の「質量」も空間を歪め、時間を伸び縮みさせ、それらの変化が、物体運動に影響を与えるとする。例えば、紙のような2次元の世界を想定し、そこに円があるとする。その円に質量があると、3次元の世界において質量の分だけ紙が沈むもしくは凹むように2次元の世界が歪む。その際、欠損角が生じて、本来ならば360度であるはずの中心核が300度のように小さくなってしまう。つまり、空間が歪むことによって、本来あるべき空間の一部が失われているので、その分だけ、2つの物体が近づくことになる。大栗によれば、遠く離れた者同士を引っ張る重力という実体存在するというのは幻想であり、アインシュタインが解き明かした重力の正体は、空間や時間の歪みであったのである


さて、アインシュタインの相対論では光が中心的な概念となる。そもそも、アインシュタインの相対論は、電力や磁力がどう生じるかを説明する電磁気学の理論と重力を扱うニュートン力学の矛盾を解消する方向で確立されたものであり、その理論枠組みを用いると、光とは電場や磁場の振動が波のようにして伝わっているもので、電磁波の1つとして理解できる。さらにアインシュタインは、光が粒子であることも明らかにしている。つまり、電磁波は波でもあり粒子でもある。このような背景もあり、アインシュタインの理論では、時間と空間の曲がりが波となり、その波が光速で空間を伝わることで重力が生じることを予測したという。これを重力波と呼び、重力の正体ではないかと考えられる。また、光が波でもあり粒子でもあるのならば、重力の正体も波でもあり粒子(重力子)でもある可能性がある。


これまでの話で、重力とは何か、重力の正体は何かという問いが、空間や時間とは何か、空間や時間の正体は何かという問いに置き換わりつつあることが分かる。このような問いに答えるためには、宇宙を扱うの超マクロのレベルから素粒子を扱う超ミクロのレベルまでのすべてを、相対論や量子力学などを総動員して統一的に理解する必要があるが、相対論と量子力学は現在のところ矛盾した部分がある。そのような中で、この2つの理論を融合し、空間や時間とは何かという問いに答える統一理論として期待されているのが超弦理論であると大栗はいう。その超弦理論の研究で明らかになったホログラフィー原理によれば、重力に関する問いが空間や時間に関する問いに変化し、重力が幻想であることが分かるのと同じように、空間そのものもある種の幻想であって、より基本的な概念で置き換えられる可能性があるというのである


文献

大栗博司 2012「重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る」(幻冬舎新書)

2018-07-03

なぜ超弦理論では空間が9次元なのか

大栗(2013)は、素粒子理論の最先端でもある超弦理論(あるいは超ひも理論)を、その歴史的背景も含め、分かりやすく解説している。超弦理論は、物質をつくっているのは粒子ではなく、「ひも」のように拡がったものであると考える理論で、重力の働きによって空間や時間が伸び縮みすると考えるアインシュタインの一般相対性理論と、ミクロ世界法則記述する量子力学との間にある深刻な矛盾を解決する理論として提案されたものである。まだ実験や観測によって十分に検証されてはいないが、素粒子について記述する究極の統一理論の最有力候補として期待されているという。


大栗によれば、超弦理論で物質の基礎を「弦」(ひも)と考えることで素粒子論が抱える問題を解決する鍵になるポイントがいくつかある。そのような問題の1つに、物質の基礎を粒子(点)だとする素粒子論では、エネルギーや質量が無限大になってしまうケースが出てきてしまうという問題がある。これは、点は部分を持たないものであるという特徴に由来している。また、素粒子論では、素粒子の間に働く複数の力の中に重力が含まれていないため、重力を説明できない。前者については、「くりこみ」という方法により無限大の問題を別の次元(より小さなミクロ世界)の問題に先送りすることができたのだが、重力を考慮したとたんに「くりこみ」による先送りができなくなってしまうという。大栗は、物質の基礎を弦と考えることで、無限大の問題を解消するとともに、重力を扱うことができるようになることを示唆するのである


さらに、現代素粒子論では、物質の基礎としての素粒子が17種類あり、大きさをもたない点状の粒子なのに、そんなにたくさんの種類があるのは不思議である。これに対し、超弦理論では、すべての素粒子一種類の弦で説明することができるという。つまり、バイオリンの弦がその振動状態によってさまざまな音を奏でるように、素粒子の弦にもさまざまな振動状態があり、すべての素粒子がその振動状態から現れると考えるのである。そして、ここからが本題であるが、これまでの多くの物理理論では、古典力学のニュートンの方程式であれ、電磁気力のマクスウェルの方程式であれ、重力のアインシュタインの方程式であれ、次元の数を選ばず、どんな次元の空間でも設定可能であったのに対し、超弦理論では、このような特徴をもつ弦を扱う空間を9次元として扱うのである。つまり、超弦理論では、9次元の空間しか許さないというように次元の数が決まるという、物理法則としては前代未聞のものだと大栗は論じるのである


ではなぜ、超弦理論では空間が9次元なのか。その理由は、他の物理学理論では次元をいくら増やしても理論として矛盾しない構造になっている(よって3次元空間に当てはめるのは便宜的)のに対し、超弦理論では9次元でないと理論が矛盾するようにできているからである。そしてその仕組みの鍵は、なんと数学におけるオイラーの公式にあると大栗はいう。ここで大栗が指し示すオイラーの公式とは、1+2+3+4+…と整数を足し続けるとそれが-1/12に収束するという驚愕の式である。正の整数を無限大に足し合わせていくと負の数になるという信じられない式であるが、この式が超弦理論が9次元であることを示すのに活躍するわけである


大栗の説明をかいつまんで記述すると次のようになる。まず、光子に相当する弦のエネルギーについて考える。弦の振動状態を考えるときに、弦のゆれる方向の振動パターンの数が次元数から進行方向を差し引いた(次元数-1)となり、それぞれの方向の最低エネルギーが周波数(自然数)の節の数としてあらわされるため、1+2+3+4+…となる。よって、弦全体の最低エネルギーは、すべてを重ね合わせることで(次元数-1)×(1+2+3+4+…)となる。そして、光子に相当する弦の最低エネルギーは、それに振動を起こすために必要な2を足したものになる。これが特殊相対性理論とつじつまが合うためには、光子の質量(=最低エネルギー+振動エネルギー)がゼロでなければならない。しかし、2も次元数-1も負の数にはなりえないため、矛盾しないためには(1+2+3+4+…)が負の数でないといけない。そこで先ほどのオイラーの公式(1+2+3+4+…=-1/12)が登場するわけである計算の結果、次元が25次元の場合にのみ、光子の質量がゼロになる。よって、超弦理論の前の「弦理論」においては次元数が25になり、超弦理論では、別の重要な条件を加味することによって9次元に決定されたわけである


上記のとおり、超弦理論では、9次元の空間で考えないとつじつまが合わないように理論が構築されているわけだが、次元を「コンパクト化」することにより、3次元空間の理論としても扱うことができるという。つまり、ある数学的に存在する6次元空間(カラビ=ヤウ空間)を使って9次元空間をコンパクト化することによって、3次元空間の性質やその中の素粒子模型がうまく説明できるというわけである。しかし、カラビ=ヤウ空間にはいろいろな種類があり、その中からなぜ特定の空間がコンパクト化に適しているのかは不明であった。それについて、超弦理論の形成寄与した1984年第一次超弦理論革命1995年の第二次超弦理論革命を経て超弦理論が発展する過程で、ウィッテンによって10次元の超重力理論が生みだされ、私たちの空間概念根本から覆すことになったと大栗はいう。その驚くべき発見とは、10次元の超重力理論は、9次元の超弦理論において素粒子間に働く力(結合定数)の量を次元として加えたものだというである。このことから特定の次元における結合定数が大きくなると理論が複雑化していくが、実はそれは次元が1つ増えた簡単な理論に置き換えることが可能だということが分かったのである


このことから大栗は、「空間」というのは実は私たちにとって根源的なものではない可能性を示唆する。つまり、私たちが普段経験する暑さや寒さ、熱さや冷たさといった「温度」が実は幻想であって、根本的には分子のエネルギーに還元されることが分かったのと同様に、私たちがふだん3次元だと思って慣れ親しんでいる空間も実は幻想であり、より基本的ものから導き出される二次的な概念にすぎないかもしれないということである。ニュートン力学においては空間は絶対的ものであり、物理的現象の外側にある入れ物であった。アインシュタインの相対性理論では、空間は絶対的ものではなく、曲がったりゆがんだりするものとなった。そして超弦理論では、空間は根源的なものではなく、もっと基本的な何かから導き出されるものである可能性があるというのである。そして時間についてもそれは絶対的ものではなく幻想である可能性を大栗は指摘するのである


大栗博司 2013「大栗先生の超弦理論入門」(ブルーバックス)

2018-06-16

入試現代文での小説文問題は客観的分析力を測定するためにある

出口(2014)は、文系理系を問わず受験生が受けるセンター試験のような試験においても現代文で小説が出題されるのは、なにも文学的センスを測定しているわけではなく、客観的分析力や思考力を測定しようとしていることを示唆する。むしろ小説文であるからこそ、客観的分析力をテストするのに適していることさえも示唆する。それゆえに、小説問題を含め、厳選された入試現代文の良問は、社会人などが現代俯瞰する知と本物の思考力、とりわけ現代に不可欠な客観的分析力を鍛えるのに最良の教材であるというのである。それはどういうことか。


娯楽として小説を楽しむ分にはどのような読み方をしようが個人自由であろう。しかし、とりわけセンター試験において入試問題として小説文を出す限り、悪門を出題することはできないと出口はいう。入試問題学力を測るものである。よって、小説問題で測定しようとしているのは、文中にある客観的な情報から、傍線を引いた登場人物のセリフの心情を答えたりするものなのである。あくまで客観的分析力を測っているということなである。出口によれば、そもそも入試問題は長い小説の途中の一か所を切り取って作られているわけだから、その時代がどんな時代で、主人公がどんな人物なのか、ほどんど情報が得られない中で受験生登場人物の心情を答えることになるのである。ここが試験としてのミソで、客観的分析力を測定しているという事実理解せず、普通に小説を読む感覚問題文を読んでいる人は、出題分の内容をいくらでも主観的解釈することが可能なので、そのような勝手解釈で解答をしてしまい、間違えることになるのである


次のように考えるともっとわかりやすいかもしれない。われわれは主観を通じて世界を見ているため、実際に見ている世界虚像であり、歪んでいる。文章にしても、目の前のテキストを必ずしも客観的に読んでいるわけではない。しかし、どんな世界であっても、それを自分の「主観」という狭いフィルターで変換してしまうと、結局すべては自分主観的世界の中で消化され、その世界は何一つ豊かになることはないと出口はいう。そこで必要なのが客観的分析力なのである入試現代文の評論問題であれば、それが論理的思考力を測定しようとしていることは明らかなので、受験生意識的にそのように文章論理を追いかけて理解した上で解答しようとするだろう。それに対して、小説こそ、客観的分析力を身に着けた受験生がその学力に基づいて主観的自分排除して解答しているのか、あるいは、客観的分析力が身についていない受験生客観性を無視して「主観」という狭いフィルター文章自分なりに勝手解釈してしまう傾向があるのか、どちらなのかが如実に分かるというわけである現代社会に求められる能力、そして正解を得るのに必要学力は前者であることは明らかである


繰り返すが、文学作品として小説を読む場合は、通常1ページ目から順次読み進めることで想像力を働かせ、脳裏に浮かぶ自分体験したことのない世界を楽しむというような読み方でも問題はないだろう。しかし、入試問題でとして小説を出題する場合はまったく違う目的に基づいているということなである


出口汪 2014「センター現代文で分析力を鍛える」大和書房

2018-06-10

量子力学が示す世界像の本質

森田(2001)は、私たち自身を含めたこの世界のすべてが量子力学が扱う微小的な対象から成り立っていることを考えると、ミクロ世界の「真の姿」を理解することは、私たちが日常的に生活しているこの世界を、ひいては私たち自身理解することにもつながるだろうと主張する。しかし、私たちが見たり触れたりする日常的な世界記述する古典力学と異なり、量子力学は私たちが直接見たり触れたりできるないものを扱っている。そのようなミクロ世界対象として構築された量子力学が、仮に完成されたものであって完全なものであるとするならば、古典力学の住民である私たちの常識では理解できないような不思議解釈が登場する。森田によれば、そのような量子力学の標準的解釈の特徴は、大きく分けて「物理量の実在否定」「非局所相関」「状態の収縮」「粒子と波の二重性」がある。


「物理量の実在性の否定」というのは、「ミクロ物質の物理量は測定するまで明確な値をもっていない、あるいはもっているかどうかを議論することは無意味である。なぜならばミクロ世界本質的に確率論的な世界なのであって、原理的に予測不可能であるから」ということである。言い換えるならば、「測定によって物理量は決定される」という意味である。「非局所相関」とは、ある出来事が空間的に十分に離れた別の出来事に瞬間的に影響を与えるという現象である。先の測定前の物理量の実在性を否定する立場からは、例えば2つの電子1と2のスピンについて、電子1のスピンを測定することによって瞬間的に電子2のスピンが実在することになるので、「非局所相関を認める」という解釈が生まれる。「状態の収縮」とは、量子力学では複数状態が重なり合っている形で系の状態記述することで完全な情報を表現するのに、測定を行うことによって重なり合いが収縮してしま現象を指す。シュレディンガー方程式ではこのような状態の収縮を記述できないため、状態の収縮を認める立場と認めない立場がある。「粒子と波の二重性」は、光や電子などが粒子であることを支持する実験結果と、波であることを支持する実験結果と両方あるため、「光や電子は粒子でもあり波でもある」と解釈することである。それに加え、粒子と波は相いれない概念であるため、光や電子が粒子でもあって波でもあることが同時に支持される実験結果はなく、「測定していないときは波として振る舞い、測定すると粒子として振舞う」という解釈でもある。


森田によれば、量子力学においてどのような解釈をとろうとも、量子力学が実験的に確かめることができるものについては一致している。したがって、どの解釈が正しいのかを実験で確かめることはできない。また、私たちの常識から外れる解釈が出てくるのは、反対しようのない実験事実にも常識と反することがでてくるからであるという。そのような中、上記に挙げた標準的解釈問題点は「状態の収縮」にあると森田は指摘する。状態の収縮のメカニズムは少なくとも既存の量子力学の枠内では説明できないのみならず、状態の収縮を認めてしまうと物理量の非実在性や非局所相関も認めることになる。標準解釈のように状態の収縮を説明しようとする解釈として、既存の量子力学を少しだけ修正する「GRW理論」や、既存の量子力学の枠内で、環境との相互作用で波としての振る舞いが消えるとする「デコヒーレンス理論」があるが、両者とも状態の収縮の説明成功したとはいえないと指摘する。


状態の収縮を仮定しない解釈としては、まず、物理量の実在性や決定論世界観を守ろうとする「軌跡解釈」というのがある。これは「粒子でもあり波でもある」のではなく「粒子もあるし波もある」と解釈する。光の場合であれば、光の正体は粒子であるが、それが実際に存在するガイド波に導かれて動くとする。しかもその粒子は決定論的な法則に従って運動するという。軌跡解釈では、状態の収縮を認めず、物理量の実在保証するが、非局所相関を認めざるを得ない解釈である森田は指摘する。これに対し、量子力学の枠組みを変えることなく、状態の収縮も認めず、決定論的な世界観や物理量の実在性を守り、なおかつ非局所相関も避けようとするのが「多世界解釈である。この解釈は、たくさんの世界があり、測定を行うごとに世界がつぎつぎと分かれていくという考え方である。多世界解釈は、状態時間発展がシュレーディンガー方程式によってのみ決定されるという決定論であるが、この解釈でも実在性と局所性は守れないと森田は指摘する。


そのほかの解釈として森田が挙げるものとして、多世界解釈とほぼ共通しているが、世界はただひとつしかないとする「裸の解釈」「多精神解釈」「単精神解釈」があり、歴史が並行していくつも存在するという「一貫した歴史解釈」、位置を含めたすべての物理量が状況依存であるとする「様相解釈」があるが、それぞれいくつかの問題がある。そこで最後森田が紹介するのは「未来現在に与える影響」を考慮する解釈である。要するに逆向き因果を想定するのだが、現在状態過去未来状態の両方から決定されると考える「交流解釈」や「時間対称化された解釈」がその例である森田は、多世界解釈時間対称化された解釈を組み合わせると、測定の段階では世界複数に分かれても、最終状態複数世界がふたたび1つになると考えることで、状態の収縮、非局所相関、非実在性の問題が解消される可能性があると指摘する。ただし計算上マイナス1の確率が出るなどの問題があるという。

文献

森田邦久 2011「量子力学の哲学」講談社現代新書

2018-06-07

中国とは何か、中国人とは何か、中国語とは何か

岡田(2004)によれば、中国という言葉現在のように国全体の呼称として使われだしたのは、19世紀から20世紀初めの頃である。それ以前、例えば清の時代には、皇帝が君臨する範囲を呼ぶ呼称がなかったという。では、どのようないきさつで自分の国を中国と呼ぶようになったのだろうか。


もともと中国と呼べるような場所というのは、夏・殷・周の昔から都のあった陝西省・河南省・山東省に限られていたと岡田はいう。それに対して、1616年に後金国を建てた満洲人が自壊した明の後に北京に入って統治を始めたことで満洲と中国が統合され、中国を意味する満州語が、外を意味する外藩と区別される意味で使われた。そして、秦の始皇帝の頃から外国人が使っていた「秦」の外国語読みが「チャイナ(China)」となり、それがポルトガル経由で日本に伝わって「支那」となった。それを知った清国が、自国を「支那」、自国人を「支那人」と呼ぶようになったが、発音に由来するこの言葉自体には意味はないので、代わりに「中国」を使うようになったのだと岡田解説する。


ただし、岡田によれば、「中国」のもともとの意味は、「国の中」である最初意味としては、「国(國)」とは城壁をめぐらせた「都」を指すものであったから、都の中ということになる。しかし、国(國)はそのうち指し示す範囲が広がって、日本語の「くに」にあたる「邦」と同じ意味になったが、漢の高祖となった劉邦に失礼だということで邦よりも国が使われるようになったという背景もあるという。


このような経緯から、「中国人」とは、元来は「都市の民」「商売の民」を表す言葉なのだと岡田示唆する。中国の城郭都市は市場商業都市であったのであり、中国文明商業文系であり都市文明だといえるからである。このことから、「中国人」というのは1つの民族を指し示す言葉ではないことが分かる。中国人という人種もなかったのである


皇帝が秦を建てる以前は、東夷西戎、南蛮、北狄の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返したが、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民中国人であり、人種としては、蛮、夷、戎、狄の子孫だと岡田はいう。つまり、中国人というのは文化上の概念なのである


城壁で囲まれた中国の都市は、その城壁によって外側の「蛮、夷、戎、狄」の世界から区別されていた。そして、いかなる種族出身者であれ、城壁の中の都市に住みついて、市民の戸籍に名を登録し、市民義務である夫役兵役に服し、市民職種に応じて規定されている服装をするようになれば、その人は中国人華夏」の人だったというわけである。そして首都および地方都市では、市場が都市の原型となり、皇帝を頂点とする大商業組織となっていったのである。そのような背景のもと、各地で使われた商人言葉中国語の原型である


岡田によれば、中国語普通呼ばれているものは多くの言語集合体であって、その上に漢字使用が蔽いかぶさっているにすぎない。漢字の原型らしいものは華中の長江地域で発生し、この方面から河川をさかのぼってきたらしい夏人が漢字の原型を華北にもたらした。それらは、実際に人々が話す日常言語構造とは関係なく、ある簡単原則にしたがって排列するようになった。漢字表意文字であることから、このような使用法が言葉を異にする人々の間の通信手段として使えるようになり。文字通信専用の人工的な言語となっていった。つまり、中国語は、市場取引にもちいられていた片言を基礎とし、それを書き表す不完全な文字体系が二次的に生み出したものなのだと岡田は指摘する。

文献

岡田英弘 2004「中国文明の歴史」講談社現代新書

2018-06-06

壮大な実験国家としてのソビエト連邦

1917年革命から生まれ、1991年崩壊した社会主義国家としてのソビエト連邦(ソ連)は、20世紀の歴史上に巨大な存在感を持っていると松戸(2011)は指摘する。


松戸によれば、ソ連は、啓蒙主義・社会主義・マルクス主義というヨーロッパ近代に生まれて発達した思想を受け継いで成立した国家であり、ヨーロッパ近代の発展を可能として資本主義経済の歪を克服することを目標に掲げた国家であった。そしてまた、これもヨーロッパ近代産物である民族自決という思想を受け継ぎ、少なくとも形式的には民族自決の実現を試みた国家であったという。つまり、ソ連は、ヨーロッパ近代理念や制度のなかから生まれたと同時に、そうした理念や制度に対抗しようとした国家であったといえる。


ソ連が掲げた社会主義、マルクス・レーニン主義は、貧困や搾取階級対立など資本主義に強く見られた矛盾問題を解決する処方箋であるかのように受け止められ、ソ連の計画経済が、優先すべき分野に人的物的資源を注ぎ込むことによって大規模な工業化と軍事大国化を成し遂げたことから、第二次世界大戦直後や1950-1960年代独立を果たした諸国には魅力的に映り、親ソ国を増やしたと松戸はいう。これにより、西側先進資本主義諸国が、社会主義の要素を取り込む社会政策実施した福祉国家化することを促したという。東西冷戦、東西間競争の下、ソ連が福祉国家政策実施していた以上、西側諸国も対抗せざるを得なかったということである


上記のような意味でも、日本を含む西側先進資本主義国にとっても、ソ連社会主義という「対抗文明」の存在役割は決して無視できるものではなかったというのである。しかし、ソ連の壮大な実験は、多大な困難と犠牲自国民に、そして時には他国民にも強いた末に失敗に終わったのだと松戸は結論づける。ソ連という国家は20世紀の歴史上、実に壮大な実験国家であったわけだが、このような失敗は決して繰り返されるべきではない。だからこそ、ソ連の歴史に学び得ることを見出し、学び尽くす努力をすべきであると松戸は言うのである

文献

松戸清裕 2011「ソ連史」ちくま新書

2018-05-27

哲学とは何か、役に立つのか

中嶋(2001)は、哲学は、医学や法学のように技術としては何の役にも立たないという。しかし、哲学は、有用であること、社会に役立つこと以外の価値を教えてくれるという。そのような哲学はいったい何なのか。役に立つとすれば何の役に立つのか。


中嶋によれば、哲学はすべてのことを徹底的に疑うことから出発する。哲学の問いとは、この世のありとあらゆることに対する「なぜ?」という単純な問いかけである。例えば、時間・因果律・魂・自由意志存在・善・美などが「何であるのか」。そのような問いかけは、普通の人が前提としている善悪の骨格を揺さぶる。世間の人々が議論しないところにメスを入れて、そこに詰まっている問題をえぐり出してみせる。そうしていると、人生大事と思われているものは取るに足らぬように思え、逆に取るに足らぬと思われていることが輝いて見えてくると中嶋は指摘する。


哲学では、本当に重要問題に立ち向かう。それは「私は生きておりまもなく死ぬ、そしてふたたび生き返ることはない」というこの一点をごまかずに凝視することだ中嶋はいう。このどうすることもできない残酷さを冷や汗の出るほど実感し、誰も逃れられないこの理不尽な徹底的な不幸を自覚する。ここに「死者の目」が獲得される。これは、宇宙論的な目であり、童話の目、子供の目にも近い。つまり、中嶋によれば、哲学は、「死」を宇宙論的な背景において見つめることによって、この小さな地球上のそのまた小さな人間社会のみみっちい価値観の外に出る道を教えてくれるのである。そしてそれは同時に本当の意味で私が自由になる道であり、自分自身に還る道だと中嶋はいうのである


自分自身に還るあるいは「自分自身になる」とは、必ずしも世のため人のためになることや「よいこと」を含んでおらず、むしろ「よいこと・悪いこと」といった枠を超えたもっと根本的な意味があると中嶋はいう。それは、何かよいこと、価値あること、役に立つこと、ためになること等々を目指すのではなく、「生きること」そのもの目標にするという面がある。だが「生きること」そのことを問題にすると必ず「死ぬこと」が影についてまわる。このように「自分自身になること」は一生の課題であり、誰も横取りできない、私だけに与えられた課題なのだと中嶋はいうのである


さて、哲学においては、あらゆることを徹底的に疑い、それを、言語を用いて論理的精緻に語り尽くそうとするわけだが、最終的な答えはなくとも、納得がいくまで取り組むのであれば、今まで見えてこなかったものが少々見えてくるかもしれないと中嶋はいう。だといって、私が死ななくなるけでもなく、存在しなくなるわけでもなく、時間が止まるわけでもない。世界はすべてあるようにあるだろう。しかし、世界の見え方が確実に変わってくるというのである世界は当然のものではなく不思議ものとして立ち現れてくる。世界の骨格が揺らぎだしてくると中嶋はいうのである


このような哲学の具体的な思考プロセスを、中嶋がニーチェの「永劫回帰」を徹底的に考察した際の骨格を例示することで紹介しよう。中嶋理解するニーチェの「永劫回帰」とは、物質が有限で時間が無限だとすると、物質の組み合わせは有限であるから、すでにこれまで無限回の同じ組み合わせが生じていたはずであり、「今私がここでこうしていること」もすでに無限回生じたはずである。とすると、さらに未来永劫にわたって「私がここでこうしていること」は無限回生じることであろうということになる。しかし、中嶋はこの概念はかずかずの間違いから成り立っていると考える。まず、単純に物質が有限で時間が無限であるという前提がおかしい。次に、たとえそうだとしても、物質の組み合わせが有限であるというのは、物質をそれ以上分割不可能なアトムに分解できるという前提があるからで、これがおかしい。それから、今私がこうしていることはこれまで無限回生じたことになるが、無限回を経て現在に至るということは不可能からおかしい。こうした単純な疑問が次々と出てきて「永劫回帰」などという奇怪な概念は一滴も呑み込むことはできないと中嶋はいう。


上記の例が示すように、何事もトコトンまで考えると、すべてが疑問になってくる。例えば、「私」や「時間」が不思議不思議で、気がついてみるといつのまにかそれを考えてしまっている。しかし、私はそれを自由に追究できる。なぜならば、この人生絶対的に禁じられたことは何もないからである。そして、あらゆることに疑問をもち、トコトン考えると、世界の見え方が確実に変わってくるというわけである。いままで平凡に見えていた日常些細なことが、これほど不思議面白いことに気づくのである

文献

中嶋義道 2001「哲学の教科書」講談社学術文庫

2018-05-21

量子力学における多世界解釈とは何か

和田(1994)は、いわゆる物体の振る舞いと、それを構成している原子の振る舞いが想像以上にまったく異なる様相を示すことを指摘し、それゆえに量子力学という新しい物理学が誕生しなければならなかったのだという。量子力学によって原子の世界表現するには、従来の物体に対する見方本質的に変えなければならないことが分かっているというのである。そして、量子力学がこの世界根本原理だとしたら、原子1つ1つのみならず、それから構成される物体人間、天体、そして宇宙全体も同じ原理説明されるべきものなのだと和田は主張する。そのような従来とは本質的に異なる世界見方の中で、和田は「多世界解釈」を中心に議論を展開している。


量子力学で明らかになったミクロ世界の特徴は、例えば電子の振る舞いにおいてエネルギーが飛び飛び(整数倍)の値しか持たないことである。これを「量子飛躍」とか「量子跳躍」と呼ぶが、これを説明するのにシュレーディンガーが構築したのが、波動方程式である。波動方程式では電子のエネルギーの値を振動数として理解するわけだが、それは同時に、電子を数学的には波として表現することでもある。電子を波として捉えるシュレディンガー方程式は、電子の振る舞いにかんする様々な観測事実をなんの矛盾なく説明できる。つまり、電子は波の性質を持っている。しかし、電子は粒子の性質も持っていることも観測事実から分かっているため、粒子としての電子の状態特定しようとすると、シュレディンガー方程式では電子の位置を確率的にしか決めることができない。つまり、電子の波は確率波だと解釈される。これは、電子はどこかにあるのだがその位置がわからないので確率で表すという意味ではなく、本質的意味において電子の位置は確率的にしか決まらないことをシュレディンガー方程式が示しているのである。しかし、実際に電子の位置を測定してみると1か所に定まるので、その時点でシュレディンガー方程式でいうところの波が収縮してしまったかのように見える。以上の話が示すのが、量子力学における「粒子と波の二重性」と「波の収縮」という論点である


古典力学では、電子にしろ他の粒子にしろ1つの粒子は一か所にしか存在しえない。しかし量子力学では複数状態共存しており、しかもお互いに影響を受けながら変化している。そして各状態には共存度という数字が付随しており、粒子の各位置ごとに共存度を並べると、波の形をしている。和田は、電子は各状態では一か所にしかないのだから電子をあくまで粒子であると考えてもよいが、複数状態共存しているのだから、電子は波のようにも見えるのだと解釈する。これが「粒子と波の二重性」の1つの解釈である。とりわけ「多世界解釈」においては、人間も含めて世の中すべてのものが電子と同様に「波」として表されなければならないという。それはどういうことかというと、ミクロ世界で無数の電子の状態共存していると同時に、マクロ世界でも無数の世界が同時に共存しているということである。つまりこれは、シュレディンガー方程式における波が収縮することを認めない立場であり、ミクロ世界マクロ世界の間には断絶がなく連続しているという前提のもと、波を波のままで解釈しようという立場であるミクロ世界の観測事実矛盾なく説明できるシュレディンガー方程式をもっとも素直に解釈する立場であるともいえる。波の高低は、無数の世界共存度を示している。


また、和田によれば、多世界解釈では、無数の世界共存しているのだから過去においても、共存する無数の世界に基づく考えられるすべての歴史的経路が足し合わさった形で現在状態形成していると解釈する。つまり現在状態を導いた過去の歴史(経路)も1つに特定することはできない。ただこれは、波を波として理解する限り、そう解釈するのがもっとも素直であるという態度を示しているともいえる。マクロ世界については、「波の収縮」を認める立場であるコペンハーゲン解釈においては、観測するときに波の収縮が起こるので、マクロ世界は1つしかないと主張する。一方、多世界解釈においては、マクロ世界でも複数世界共存していると考える。ただ、共存する状態はお互いに無関係である独立かつ無関係世界が多数存在すると考える。そして、量子力学で共存度が完全に計算できている限り、世界がどのような共存度で共存しているか完全に分かっている。量子力学で表される世界人間が観測する時にその結果を断定できないのは人間の側の問題だと和田は考える。そもそも人間という存在精神という機能も、世界の中の1つの現象であるから複数状態の外側に立って全体を見通すことはできない。つまり人間も1つ1つの状態の中に存在し、自分存在している世界しか観察することはできない。つまり、量子力学は自然を完全に記述しているのだが、人間はその一側面しか見ることができないのだと和田は主張するのである

文献

和田純夫 1994「量子力学が語る世界像―重なり合う複数の過去と未来」(講談社ブルーバックス)

2018-05-03

数学という学問の本質

中村・室井(2014)によれば、「数学」は人間理性が作り上げた最も古くて、最も深く、最も純粋な学問であるざっと5000年の歴史がある中で、時を超え、民族言葉の違いも乗り越え、同一の真理を追究しつづけてきた学問であるともいえる。このような数学という学問の本質は何か、そしてすでに発祥から5000年も経過したと思われる数学はこれからもさらに発展していく余地があるのだろうか。


これに関して中村・室井は、「数学」とは現実存在するものから高度の「抽象化」「理想化」を行って得られる「数」や「直線」「平面」などを対象として、それらの間に成り立つ「普遍的」で「完璧」な関係を見つけた体系化したものであると述べる。例えば、数学では計算や図形の性質を調べたりするが、これらの目的は「代数法則」や「幾何学の定理」などを整理しておき、いつ誰がどのような目的に使っても正しい答えが得られるようにしておくことである。つまり、この世界存在する普遍的法則をきちんと捉え、それらの間に成り立つ法則を体系的にまとめておく。そのためには抽象化必要であり、抽象度の最も高いものの1つが数概念なのである


また、数学では現実存在するものを単に抽象化するだけでなく、現実にあるもの人間の頭の中で理想化して「直線」や「平面」をつくる。これらの抽象概念人間の頭の中にしかなく、現実世界には存在しない。つまり、数学という学問は最も深い意味において「想像力の科学」ということもできるのである。つまり、「数学」は時代の要請に応えるために必要性に迫られて作られた学問であると同時に、「理想化」という操作を経て作られた学問でもあり、頭の中でつくられた学問であるといえるのである


実際、数学は人類の科学の発展に寄与し、ありとあらゆる分野における「縁の下の力持ち」と捉えられている。なぜ数学がそれほどまでに大きな力を発揮できるのか。中村・室井によれば、それは現実世界モデルとした「抽象化」と「理想化」に加え、古代ギリシアにおいて「証明の発見」があったからである。つまり、「抽象化」によってどんな場合にも使えるという「普遍性」を獲得し、「理想化」した相手に「証明」つきで理論を組み立てることによって、一度「正しい」と証明されればそれが永遠の命となるような「永遠性」を獲得したのである


物理学などの自然科学は現実に起きる現象分析する学問だから本質的現実から逃れられないのに対して、数学は頭の中で作り上げた抽象概念論理の働きで組み立てるものなので、人間理性の活躍でどんどん自分の道を進むことができるのだと中村・室井はいう。そして、これまでの数学の歴史を踏まえた見解として、数学は将来においてもいかなる限界をも乗り越えて発展を続けていくに違いないと中村・室井は主張するのである

文献

中村滋・室井和男 2014「数学史 ―数学5000年の歩み― 」共立出版

2018-03-26

読解→鑑賞→批評の関係

高田(2014)は、文章表現を前にして、人間の心の動きは、読解―鑑賞―批評という順序をとるという。もちろん、読解は自然に鑑賞につながり、鑑賞は自然批評につながるのでこの3者はしばしばあいまいな形で混在することも認めるのだが、あえて3つに区分して考えようとしている。


まず、「読解」とは、次の2つの関係についての課題を解くことだと高田はいう。1つ目は「言語とそれが差し示す事物との関係」で、2つ目は「1つの語と他の語との関係である現代記号論に当てはめるならば、第一の分野は意味論であり、第二の分野は構文論である。この2つの分野を明確に把握することが読解なのだという。


言語というものは、文字による表現でも音による表現でも、それ自体は物理的な事象である。例えば、「橋」という語と、それが指し示す「橋」という物との間に生じる1つの因果関係は決して直接的・物理的な因果関係ではない。言語とそれが指し示す事物との結びつきや、言語とその知覚、事物とその知覚の結びつきは、特定人間のそれぞれの間に形成された約束なのだと高田はいう。このような社会の約束を個人主観によって曲げたり変化させてりすることは許されない。したがって、読解という営みは、あくまで、客観的に、対象である文字言語自分の外に置いて、その文字言語に負わされている社会的約束を忠実に把握することにほかならないのだというのである


次に、「鑑賞」においては、「言語とそれを使用した人間との関係」と「表現者と読者との内的関連」が重要性格となると高田示唆する。読解では、言語自体の解明(構文と言語が指し示す事物との関係)が問題であったが、鑑賞の場合は、「誰かによって」のほうが問題となる。例えば、文学について考えると、文学一般共通する基本的性格は、万人の共感を欲する作者の心情だという。よって、作者の表現自分の内にある感銘をおぼえるかどうか、表現者の心が、自分の心とつながりを持つかどうか。これが鑑賞が問題とするところなのである。つまり、鑑賞というのは、ある表現を、読解の上に立って自己内面に取り入れることである


そして、「批評」に関しては、鑑賞によって表現自己の心の内に取り入れようとする際、「対象自己内面にどう配置するか」「評価客観性」を念頭に置きながら、鑑賞の結果を表明することである批評基本的には対象肯定であるべきだが、「つまらない」「おもしろくない」「間違っている」などの否定的表明も含む。例えば、ある人の精神の内側に、これまでの読書体験から得られた、種々様々な表現の秩序だった蓄積がある。その秩序の中に今回の表現位置付ける。つまり配置する。ただしこのような内的世界における配置は、あくまで主観的批評である。このような主観的批評を、不断自己批判自己精神とその活動とへの不断反省)を通じて客観的批評に高めていくのだと高田はいうのである

文献

高田瑞穂 2014「現代文読解の根底」ちくま学芸文庫

2018-03-23

非競争戦略のメカニズム

山田(2015)は、業界リーダー企業と戦うことなくビジネスを有利に進めることを可能にする「競争しない競争戦略」について体系的に解説している。山田によれば、競争することはメリットもあるが、お互いに消耗戦に陥るなどデメリットも多い。消耗戦になればどうしても体力のあるリーダー企業に軍配が上がる。よって、孫子も説くように、戦わずして勝つことが最良の戦略であるならば、それは業界リーダー企業とどう組していこうかが焦点となる下位企業のビジネスにも当てはまるということである


競争戦略メカニズムポイントは、業界リーダー企業の戦略布石を良く理解し、その戦略布石を封じこめるような策をとることである。具体的には、リーダー企業と「棲み分ける」か「共生」をすることで、リーダー企業が自分領域に入ってこれない(入ってくると損をする)ように仕向けることである山田によれば、リーダー企業の戦略布石は、周辺需要の拡大(市場パイを拡大させる)、同質化政策(チャレンジャー企業の差別化商品模倣していく)、非価格対応(下位企業の安売り競争に応じない)、最適シェア維持(利益率を維持するためあえてシェアを高めない)がある。これらの戦略布石を封じ込めるか、逆手にとることが、非競争戦略の基本となる。


山田提唱する非競争戦略のうち「棲み分け」は、ニッチ戦略と不協和戦略に分類できる。ニッチ戦略とは、リーダー企業の持つ戦略資源と、当該企業がしかける市場が不適合になるような戦略である。例えば、リーダー企業の持つ経営資源から見て、当該企業が開拓した市場が規模的に小さすぎるため、そこに参入するとリーダー企業の高い固定費により赤字になってしま場合や、その市場開拓するための経営資源が非常に特殊で、相対的に豊富な経営資源を持っているリーダー企業であってもその特殊資源を今から保有するのは割に合わない場合である。このようなニッチ戦略をとる企業がリーダー企業から攻め込まれないようにするためには、市場規模をあまり大きくしないこと、利益率を高くしないこと、市場を急速に立ち上げないことが挙げられる。とりわけ、量と質の二軸を念頭において市場限定させることで、リーダー企業にとって攻め込むには不適合である(割に合わない)市場を維持することができるわけである。つまりリーダー企業に追随(同質化)されないよう、さじ加減で市場規模をコントロールしながら成長するということである


棲み分けのもう1つの戦略である不協和戦略は、当該企業がしかける競争のやり方と、リーダー企業の経営資源もしくは戦略が不適合となるような戦略である。この戦略は、リーダー企業が下位企業に対して仕掛けやすい同質化政策ブロックする役割を担っている。つまりリーダー企業が同質化したいのにできない場合と、同質化できるのにしたくない場合を作り出すのである。例えば、リーダー企業の企業資産市場資産負債化するような戦略や、これまでリーダー企業が顧客に対して発信していた論理矛盾するような戦略もある。さらに、リーダー企業が強みとしてきた製品サービスと共喰い関係にあるような製品サービスを出すという戦略もある。不協和戦略は、下位企業が「資源を持っていない」ことを強みとする戦略である山田は指摘する。棲み分けにおいては、リーダーの強みを弱みに転化させる要因を探り出し、先手を打って仕掛けていくことが大切だという。


もう1つの競争戦略である「共生」は、協調戦略と言い換えることができる。協調戦略ポイントは、企業のバリューチェーン価値連鎖)の中に競合企業のバリューチェーンの一部を取り込むことで協調していく戦略や、相手企業のバリューチェーンの中に入り込むことで協調していく戦略がある。また、競合企業のバリューチェーンの形を変えずに、その一部を代替したり新たな機能を追加することで入り込むという戦略もある。例えば、自社のコアコンピタンス領域積極的に他社から受託するて協調するコンピテンス・プロバイダーや、特定機能だけを提供して競合企業のバリューチェーンに入り込むレイヤーマスター、また、相手バリューチェーンの中に新たな機能を追加するマーケットメーカー、新たな機能を追加する上で他社製品も巻き込むバンドラーなどの戦略がある。つまり協調戦略では、オープン(競合を誘引する部分)とクローズド(自社が設ける部分)を組み合わせることで、相手企業のバリューチェーンに入り込んだり、自社のバリューチェーンの中に機能製品を取り込むなど、他者積極的に働きかけていくことが必要だと山田は説く。

文献

山田英夫 2015「競争しない競争戦略」日本経済新聞出版社

2018-02-03

成功するビジネスモデルの鉄則

山田(2017)は、成功企業に潜むビジネスモデルについて解説するなかで、成功するビジネスモデルのツボとして「持続的なコスト優位」と「持続的に強い競争構造」の2つを挙げている。まず、持続的なコスト優位を築くためには、今かかっているコストをいかに下げるかではなく、どのようなところに自社で費用を投じ、どこには投じないかを決定し、最初からコストで回る仕組みを構築することが重要だと説く。例えば、特定活動を削るのではなく「やらない」。その活動を止めてしまうわけである。また、特定活動を「顧客にやってもらう」。企業のコストの一部を顧客転嫁するわけである。さらに、「仕組を変えてまったく違うコスト構造をつくる」ことで、競合よりも2割コストが安いという程度ではなく、10分の1のコストにするなどを実現して圧倒的なコスト優位を築くことである固定費を変動化することで、収入が減っても倒産のリスクを防げぐ方法や、サンクコストになってしまった機会や設備顧客のために稼働させることによってサンクコストを回収する方法もある。


一方、持続的に強い競争構造については、いわゆる伝統的な企業(レガシー企業、リーダー企業)との競争と、自社が構築したビジネスモデルと同じビジネスモデルの企業との競争念頭に置くことが求められる。レガシー企業との競争においては、まず、レガシー企業の資産負債化することが重要であるリーダー企業が蓄積してきた資産には、企業側に蓄積された「企業資産」と、ユーザー側に蓄積された「市場資産」があるが、これらの資産が大きければ大きいほど、それらの資産が足かせとなって、新しいビジネスモデルを仕掛けてきた企業に同質化できないことを利用するのである。次に、相手企業が持っていない機能の付加を通じてバリューチェーンの中に入り込む方法がある。同じビジネスモデルとの競争においては、先発者は、追随者が出現することを前提として、模倣されにくいビジネスモデルを構築することが求められるという。

文献

山田英夫 2017「成功企業に潜む ビジネスモデルのルール――見えないところに競争力の秘密がある」ダイヤモンド社

2017-12-18

人生に最も役立つ「高校国語教科書」

出口(2015)は、高校国語教科書は名作の宝庫であると同時に、その深い内容を高校生理解するのは至難の業であるという。よって、高校国語教科書は大人がやり直してこそ真に役立つのだと主張する。そもそも国語ほど実際に役立つものはないと出口はいう。おそらくどんな科目よりも、国語で得た学力は生涯役にはずだというのである。それは何故かといえば、誰もが文章を読み、考え、話し、書くといったささやかな繰り返しの中で成長し、教養を身につけ、コミュニケーションをし、その結果として大きな仕事を成し遂げることができる。そしてその中核に「国語力」があるからである


高校国語教科書は名文の宝庫であって日本語の力を鍛え、読解力や記述力、会話力を身につけ、思考力や感性を磨き上げるのに適した教材だと出口はいう。しかし、国語教科書には、相反する方向性をもった二種類の教材が混ざっているため、教える側も教えられる側も無自覚に同じ国語の教材として扱ってしまい、その結果、国語は役立たないといった誤解や混乱を生じさせているのではないかという。国語教科書の教材の1つ目は、文章論理的に読むことにより、考える力をつけるもので、評論が中心である。筆者の伝えたいことは何で、それをどのような論理説明しているのかを読み取るものである文章論理的に読むことができるようになれば、論理的な話し方、論理的な考え方、論理的文章の書き方が分かってくるのである。また、優れた評論理解することによって、私たちが今暮らしている現代社会を新たな角度から捉えなおすことも可能となる。もう1つの教材は、人生や世の中の深淵と直に向き合わせるものであり、文学や哲学、いわゆる西洋でいう教養につながるものである。こちらは、答えのない深い問題をどこまでも凝視し続けるものである


出口によれば、高校国語教科書評論とは、筆者の主張を不特定多数の読者に向かって論理説明した文章のことである。よって、筆者の立てた筋道、すなわち論理を負うことによって、正確に筆者の主張を読み取ることが重要である。出口は、山崎正和「水の東西」、清岡卓行「失われた両腕」、丸山眞男「「である」ことと「する」こと」などを題材として取り上げ、「イコール関係」「対立関係」「因果関係」という論理の3つの基本を用いた正しい意読解の仕方を解説する。まず、評論においては、具体と抽象論理の鍵である論理力を鍛えるときは、具体と抽象意識することが大切だというわけである評論においては、筆者の主張(抽象)と、具体例・体験など(具体)が、「イコール関係」として展開される。筆者が自分の主張を伝えるときに、裏付けとなる証拠を列挙することで読者の注意を惹き、理解を促すのである。さらに、評論において押さえておかなければならないのが「対立関係である。こちらは、筆者が自分の主張を伝えるときに、あえて反対のものを持ち出すことで論を展開しようとするものである。そして3つめに重要なのが「因果関係という論理展開である。筆者が、Aという主張を前提に、次のBという主張を述べるとき、AとBの間には因果関係が成り立たなければならない。


文学作品の読解の仕方で重要なのは、いくら文学には感性が大切で人それぞれ受け取り方が違うといっても、誤読主観的な読みの上には、どんな鑑賞も成り立たないということである国語学習の目的は正確で深い読解力の養成にある。まずは作品を正確に、深く読解することが何よりも大切で、そうすれば、名作である限り、必ず次になんらかの感動が沸き起こってくるのだと出口は主張する。客観的に深く読解することなく、自分の狭い価値観から作品を歪めて解釈していては真の学力は身につかない。出口は、この現代の時代を捉えるためには「近代」という時代概念を深く理解することが必要だという視点から、森鷗外「舞姫」、夏目漱石「こころ」、中原中也「サーカス」などの作品を題材として、私たちが現代価値観自分生活感覚から文学作品を再解釈するのではなく、様々な時代状況の中で人間の心を伝えてくれる文学作品を、作者の息づかいに従って、本文を根拠にして客観的に読解し、そのうえで、作者や登場人物との対話を通して答えのないところで物事を深く考えることの重要性を説くのである

文献

出口汪 2015「やりなおし高校国語:教科書で論理力・読解力を鍛える (ちくま新書)」

2017-12-16

上場企業の意味と責任

村上(2017)は、上場企業の意味責任について、日本では、そもそも上場とは何か、企業は何のために上場するのか、正確に理解している人が少ないように思うと述べている。村上によれば、株式を上場することは、英語で"Going Public"(非上場化は"Going Private")ということであり、私企業が社会の「公器」になることである。上場とは、株式が広く一般に売買されるようになることである。よって、上場企業の経営者には、決められたルールに従って株主や株を買おうとする人たちのために必要な情報を開示し、投資家の期待に応え続ける覚悟をもって、透明で成長性の高い経営をしなければならない。もはや、経営者が思い通りに株主を選んだり好き勝手を行うことはできなくなるのである


上場にはメリットデメリットがあると村上はいう。上場のメリットは、株式の流動性が高まって換金しやすくなることと、資金調達がしやすくなることである。この2つが必要ない場合には上場する必要はないと村上はいう。例えば、現金が豊富だったり設備投資不要なために資金調達必要がない企業や銀行からの借入余力が十分にある企業である。このような企業は上場のメリットを活かしているとはいえない。株式発行による直接金融資金調達する必要のない企業は、上場を廃止して非上場になることを検討すべきだという。一方、上場のデメリットは、IRなど必要部署とその人材の確保、株主総会の招集通知など多くのコストがかかることと、誰でも市場で株式を購入できるわけであるから、いつ誰が自社の株主になるかわからないことである。「誰が買ってもいい=誰でも株主になれる」状態経営上望ましくないのなら、上場をやめて非上場企業になるという選択肢検討すべきだと村上は主張する。


上記のような上場企業の意味責任から、上場企業においては投資家経営者監視する仕組みとしてのコーポレート・ガバナンスが必須となると村上説明する。上場企業では、従業員取引先などと同様、株主の立場権利が重視されなければならないのである。公器としての上場企業に資金提供することで、企業が生む利益のみならずリスクも全部背負っている株主が、投資した資産をいかに守るかということがコーポレート・ガバナンスの根源である。上場企業の経営者は、従業員適材適所に配置しやる気を出させて効率よく働いてもらうことや良い取引先を見つけて良好な関係を築き、従業員に安定した生活をもたらすことの責任に加え、株主の視点をもって社員を引っ張っていくことが、企業価値すなわち株主価値を向上させていくうえで非常に重要なのだと村上は主張する。


コーポレート・ガバナンスのひとつの指標が、投下した金額に対して利益がどの程度生まれているかを示すROEである。企業がROEを高めるためには、当期純利益を高めるか、純資産を減らすかという2つの方法しかないと村上解説する。つまり、利益を高める努力をするか、自己株式の取得や配当などで投資家利益を還元していく努力必要だということである運転資金として手元に確保する必要を大きく超えた余剰資金をため込むのではなく、より高い利益を求めて積極的投資に回すか、投資の機会が少ないのなら投資家に還元すべきだというのである投資家は必ずその資金を成長のために資金必要としている別の企業に投資する。そうすることで資金の好循環が生まれ、社会全体で資金効率的活用される。日本の多くの上場企業のように余剰資金を何も生み出さない状態で手元で寝かせてしまうと、それはそのまま塩漬けとなり、社会としても成長のために積極的資金必要とする企業に資金が回らず、市場は停滞し、経済全体が沈滞してしまうと村上はいう。


要するに、上場企業における株主と経営者関係においては、株主はあくまで資金の出し手であって、投資先の企業が行っている事業専門家ではない、その分野もしくは企業が成長すると期待し、法律で規定されている権限によって経営を託すのである。よって、経営者は、託された資金をいかに効率的活用して成長していくか、事業プロフェッショナルとして先を見通した計画を立て、できる限り情報開示をしなければならない。すべての株主が企業と平等コミュニケーションをとり、株主と投資先企業がwin-winとなることが重要だと村上説明するのである

文献

村上世彰 2017「生涯投資家」文藝春秋

2017-12-03

ざっくりとした西洋思想入門

齋藤(2011)は、2500年の西洋思想史をざっくりとと3つの山脈でひとつかみする解説を試みている。そもそも思想哲学とは何かについて、齋藤は「困難を乗り越えるための薬」であり「悩みや疑問への処方箋」だという。なぜならば、西洋思想が目指した目標は「世界のすべてを説明しつくしたい」であって、そこには「世界はどうなっているのか」という大きな問題から「どう生きればよいのか」といった身近な問題まですべて包含されているからである。そのような西洋思想の歩みというのは、過去思想批判し、それを乗り越えようとしてきたことの歴史であり、それをざっくりと捉えると3つの山脈でひとつかみできそうだというのである


齋藤によれば、第一の山脈は、西洋思想の始まりからアリストテレスによる体系化が影響力を持った時代で「世界本質を1つの原理説明したい」という欲求が追求された時代である。その考え方の代表例がプラトンの「イデア論」であり、それがキリスト教と結びつき、神の存在証明の追究に向かっていった。それに対して第二の山脈は、デカルト、カント、ヘーゲルらに代表される「近代合理主義」の時代で、キリスト教支配から脱却し、人間認識力、合理的思考力を信頼し、近代自然科学の発展やフランス革命などの市民革命などの動きとも相まって、精神が時代さえをも動かすといったように、「人間理性」や「精神」を重視する哲学の追究がなされ、西洋哲学体系が完成されたかに見えた。そこには、デカルトによる「原点を定めてすべてを位置付けたい」という発想や、カントによる「人間の理性は認識限界を乗り越えることができる」という発想や、ヘーゲルによる「単なる人の理性を超えた絶対精神は、世界を動かす原動力となる」という考え方などが生まれた。この時点で、人間的理性至上主義の体系が完成したというわけである


しかし、第三の山脈である「現代思想」において、その完成されたかに見えた体系を壊す、すなわち「既存価値観に挑戦状を叩きつける」ことで乗り越えようとする動きが見られ、合理主義の背後にある何らかの「とらわれ」や。合理的ではないなんらかの原動力に着目されるようになった。例えば、ニーチェは、私たちはありもしない真理という幻想で自らを縛りあげているのではないかと疑問を呈し、すなわち一人ひとりが「精神奴隷」になっているのではないかと言い、勇気を持って現在の迷いの中にいる自分自身を乗り越えていく「超人」になることの重要性を主張した。自分自身ポジティブ肯定する強さすなわち「力への意志」が人間だけでなく世界を動かすのだと言った。また、ハイデガーは、私たちが存在していることは、モノが存在していることとは根本的に異なり、私たちの存在は、自らの死を含む過去現在未来が折り重なった時間とは切り離せない「時間的存在」であり、自ら世界を作りつつ、その中で生きる「世界内存在」だと語った。フッサールは「本質直観」「間主観性」というコンセプトなどで自分たち生活世界大事にする現象学を発展させ、その延長から身体重要性を訴えるメルロ=ポンティなどの思想が生まれた。


さらには、ダーウィンの進化論、フロイトの精神分析、マルクスの資本論などの思想が生み出され、構造主義流行するなどの現代思想現在も進行していることを示している。例えば、フロイトやマルクスの思想は、人間の下部構造にあるものも社会の下部構造にあるものも、性や金銭(経済)といった人間の欲望を満たすものであることを示すものであった。また、ソシュールの言語学では、言語のもの意味はなく、あるのは「差異」(ある言葉と別の言葉の違いが作り出す体系)のみであるとし、言葉の体系が異なれば、その言葉を使っている人たちの社会構造文化が違うため、もの見方世界のとらえ方までもが異なることを示そうとした。レヴィ=ストロースの思想は、見えないところでそれを動かしている原理人間社会全体の背後にもあることを示そうとした。このような時代には、要素と要素間の関係からなる全体としての「構造」が重視される「構造主義」が流行し、関係性、システム、関数といった概念を重視し、この世には絶対的ものはなく、すべて相対的であるといった思想が影響力を持つようになったと齋藤は指摘している。


このように、齋藤は、西洋思想の歴史には膨大なパッションとエネルギーが詰まっており、力をもった思想は常に世界に強い衝撃を与えて、人々のもの見方を変えてきたのであるため、思想を学ぶことは、実は私たちの人生というものを大きく変換させるかもしれない、非常にスペクタクル冒険なのだと思うとして解説を締めくくっている。

文献

齋藤孝 2011「齋藤孝のざっくり!西洋思想」祥伝社

2017-10-30

真の自由を獲得するための勉強法

千葉(2017)は、フランス現代思想や分析哲学など複数の現代思想をベースにした「勉強論」を展開している。とりわけ前半は、言語論をベースに、私たちが受けている束縛を打ち破り、今より多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるための勉強法を論じている。すなわち、真の自由を獲得するための勉強法である千葉解説を私なりに理解すると以下のようなことになろう。


まず重要なのは、この世界は「言語」が編みあがったものとしてでできていることである千葉言葉を借りれば、私たちは「言語によって構築された現実」を生きている。人々の社会的相互作用によって言語が編みあがってできた世界すなわち(世界言語)が、一般知識や社会構造権力の基盤となり、私たちの動きをコントロールし束縛している。「わたし」そのものも、他との関係性を示す言語世界によって構築されている。その中で、私たちは特に意識していなくても、あるいは意識していないからこそ、人間が作り上げた言語が織りなした世界の有り様に沿って(盲目的に)行動しているわけである。例えば私たちは平日の朝、何の疑いも抱かず満員電車に揺られて通勤するようなことを毎日繰り返している。千葉は、このような状況を「環境コードにノッてしまっている」と表現する。


しかし、「言語そのもの」はもともとはそのように人間を束縛するものではなかった。そこに気づくことで、環境コードの束縛から逃れ、新たな可能性を見つけ出すためのヒントが得られる。私たちが使っている言語は、生まれてから他者言葉をどのように使うかを真似ながら脳にインストールしてきたものであって、そのプロセスを介して自分の外にあったものの考え方の基本的な方向付け(コード)も同時にインストールされてしまっている。私たちが世界の有り様にコントロールされ、束縛されていることは、言い換えれば、言語的なコントロールを受けていることだともいえる。しかし、「言語そのもの」は、そのようなコードから切り離されて存在しうる(言語現実から分離している)ことも忘れてはならない。


どういうことかというと、言語は、私たちに環境コードに従うことを強いるものであると同時に、逆に、そのような環境コードに対して「距離をとる」ために使用することが可能だということである。つまり、私たちが、言語によって構築された環境コントロールされているということを、一歩距離を置いて(幽体離脱したように)眺めることが可能なのである。言い換えるならば、現在において私たちが経験している世界は、人間によって言語的に構築されたものであるが、言語性質言語はそれ自体として結局はただの音にしかすぎない)からしてそれは必然的ものではなかったはずである。そこに気づき言語構造基盤の根本まで深く入っていき、言葉用法意味根本的な部分に変更を迫ることにより、構築されたものを分解・破壊し、再構築する、すなわち新たな別の可能性を切り開くことも可能である。ただし、「世界言語であるので、言語の外の世界に飛び出ることはできない。あくまで「世界言語」が再構築されるということである。そこでは、自分自身言語的にバラバラにし、多様な可能性が再構築されては、またバラバラにされ、再構築される。これが繰り返されるわけだが、これが千葉のいう、勉強による自己破壊である


上記は、千葉によれば「言語現実から切り離して自由に操作できる、言語操作によって無数の可能性を描くことができる」ということになる。いま属している環境にない可能性を、言語の力で想像できるからこそ、私たちは夢や希望を抱くことができる。そのためには、日常的に私たちが行っている言語使用、すなわち「道具的な言語使用」(外部目的的)に加え、おもちゃで遊ぶように、言語を使うこと自体目的自己目的的)になっている「言語玩具使用」が重要になってくると千葉は指摘する。勉強法とは、言語をわざと操作する意識を育成することで、別の可能性を考えられるようになることである。別の言い方をすれば、深く勉強するとは、言語偏重の人になるということだと千葉は言うのである。その後、千葉は、著書において、玩具的な言語使用を通じた勉強法として、アイロニー(ツッコミ)、ユーモア(ボケ)、ナンセンス(ツッコミとボケの極限形態)の特徴と使い方を紹介し、それに基づいた具体的な勉強法についても言及している。

文献

千葉雅也 2017「勉強の哲学 来たるべきバカのために」文藝春秋