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2018-03-26

読解→鑑賞→批評の関係

高田(2014)は、文章表現を前にして、人間の心の動きは、読解―鑑賞―批評という順序をとるという。もちろん、読解は自然に鑑賞につながり、鑑賞は自然批評につながるのでこの3者はしばしばあいまいな形で混在することも認めるのだが、あえて3つに区分して考えようとしている。


まず、「読解」とは、次の2つの関係についての課題を解くことだと高田はいう。1つ目は「言語とそれが差し示す事物との関係」で、2つ目は「1つの語と他の語との関係である現代記号論に当てはめるならば、第一の分野は意味論であり、第二の分野は構文論である。この2つの分野を明確に把握することが読解なのだという。


言語というものは、文字による表現でも音による表現でも、それ自体は物理的な事象である。例えば、「橋」という語と、それが指し示す「橋」という物との間に生じる1つの因果関係は決して直接的・物理的な因果関係ではない。言語とそれが指し示す事物との結びつきや、言語とその知覚、事物とその知覚の結びつきは、特定人間のそれぞれの間に形成された約束なのだと高田はいう。このような社会の約束を個人主観によって曲げたり変化させてりすることは許されない。したがって、読解という営みは、あくまで、客観的に、対象である文字言語自分の外に置いて、その文字言語に負わされている社会的約束を忠実に把握することにほかならないのだというのである


次に、「鑑賞」においては、「言語とそれを使用した人間との関係」と「表現者と読者との内的関連」が重要性格となると高田示唆する。読解では、言語自体の解明(構文と言語が指し示す事物との関係)が問題であったが、鑑賞の場合は、「誰かによって」のほうが問題となる。例えば、文学について考えると、文学一般共通する基本的性格は、万人の共感を欲する作者の心情だという。よって、作者の表現自分の内にある感銘をおぼえるかどうか、表現者の心が、自分の心とつながりを持つかどうか。これが鑑賞が問題とするところなのである。つまり、鑑賞というのは、ある表現を、読解の上に立って自己内面に取り入れることである


そして、「批評」に関しては、鑑賞によって表現自己の心の内に取り入れようとする際、「対象自己内面にどう配置するか」「評価客観性」を念頭に置きながら、鑑賞の結果を表明することである批評基本的には対象肯定であるべきだが、「つまらない」「おもしろくない」「間違っている」などの否定的表明も含む。例えば、ある人の精神の内側に、これまでの読書体験から得られた、種々様々な表現の秩序だった蓄積がある。その秩序の中に今回の表現位置付ける。つまり配置する。ただしこのような内的世界における配置は、あくまで主観的批評である。このような主観的批評を、不断自己批判自己精神とその活動とへの不断反省)を通じて客観的批評に高めていくのだと高田はいうのである

文献

高田瑞穂 2014「現代文読解の根底」ちくま学芸文庫

2018-03-23

非競争戦略のメカニズム

山田(2015)は、業界リーダー企業と戦うことなくビジネスを有利に進めることを可能にする「競争しない競争戦略」について体系的に解説している。山田によれば、競争することはメリットもあるが、お互いに消耗戦に陥るなどデメリットも多い。消耗戦になればどうしても体力のあるリーダー企業に軍配が上がる。よって、孫子も説くように、戦わずして勝つことが最良の戦略であるならば、それは業界リーダー企業とどう組していこうかが焦点となる下位企業のビジネスにも当てはまるということである


競争戦略メカニズムポイントは、業界リーダー企業の戦略布石を良く理解し、その戦略布石を封じこめるような策をとることである。具体的には、リーダー企業と「棲み分ける」か「共生」をすることで、リーダー企業が自分領域に入ってこれない(入ってくると損をする)ように仕向けることである山田によれば、リーダー企業の戦略布石は、周辺需要の拡大(市場パイを拡大させる)、同質化政策(チャレンジャー企業の差別化商品模倣していく)、非価格対応(下位企業の安売り競争に応じない)、最適シェア維持(利益率を維持するためあえてシェアを高めない)がある。これらの戦略布石を封じ込めるか、逆手にとることが、非競争戦略の基本となる。


山田提唱する非競争戦略のうち「棲み分け」は、ニッチ戦略と不協和戦略に分類できる。ニッチ戦略とは、リーダー企業の持つ戦略資源と、当該企業がしかける市場が不適合になるような戦略である。例えば、リーダー企業の持つ経営資源から見て、当該企業が開拓した市場が規模的に小さすぎるため、そこに参入するとリーダー企業の高い固定費により赤字になってしま場合や、その市場開拓するための経営資源が非常に特殊で、相対的に豊富な経営資源を持っているリーダー企業であってもその特殊資源を今から保有するのは割に合わない場合である。このようなニッチ戦略をとる企業がリーダー企業から攻め込まれないようにするためには、市場規模をあまり大きくしないこと、利益率を高くしないこと、市場を急速に立ち上げないことが挙げられる。とりわけ、量と質の二軸を念頭において市場限定させることで、リーダー企業にとって攻め込むには不適合である(割に合わない)市場を維持することができるわけである。つまりリーダー企業に追随(同質化)されないよう、さじ加減で市場規模をコントロールしながら成長するということである


棲み分けのもう1つの戦略である不協和戦略は、当該企業がしかける競争のやり方と、リーダー企業の経営資源もしくは戦略が不適合となるような戦略である。この戦略は、リーダー企業が下位企業に対して仕掛けやすい同質化政策ブロックする役割を担っている。つまりリーダー企業が同質化したいのにできない場合と、同質化できるのにしたくない場合を作り出すのである。例えば、リーダー企業の企業資産市場資産負債化するような戦略や、これまでリーダー企業が顧客に対して発信していた論理矛盾するような戦略もある。さらに、リーダー企業が強みとしてきた製品サービスと共喰い関係にあるような製品サービスを出すという戦略もある。不協和戦略は、下位企業が「資源を持っていない」ことを強みとする戦略である山田は指摘する。棲み分けにおいては、リーダーの強みを弱みに転化させる要因を探り出し、先手を打って仕掛けていくことが大切だという。


もう1つの競争戦略である「共生」は、協調戦略と言い換えることができる。協調戦略ポイントは、企業のバリューチェーン価値連鎖)の中に競合企業のバリューチェーンの一部を取り込むことで協調していく戦略や、相手企業のバリューチェーンの中に入り込むことで協調していく戦略がある。また、競合企業のバリューチェーンの形を変えずに、その一部を代替したり新たな機能を追加することで入り込むという戦略もある。例えば、自社のコアコンピタンス領域積極的に他社から受託するて協調するコンピテンス・プロバイダーや、特定機能だけを提供して競合企業のバリューチェーンに入り込むレイヤーマスター、また、相手バリューチェーンの中に新たな機能を追加するマーケットメーカー、新たな機能を追加する上で他社製品も巻き込むバンドラーなどの戦略がある。つまり協調戦略では、オープン(競合を誘引する部分)とクローズド(自社が設ける部分)を組み合わせることで、相手企業のバリューチェーンに入り込んだり、自社のバリューチェーンの中に機能製品を取り込むなど、他者積極的に働きかけていくことが必要だと山田は説く。

文献

山田英夫 2015「競争しない競争戦略」日本経済新聞出版社

2018-02-03

成功するビジネスモデルの鉄則

山田(2017)は、成功企業に潜むビジネスモデルについて解説するなかで、成功するビジネスモデルのツボとして「持続的なコスト優位」と「持続的に強い競争構造」の2つを挙げている。まず、持続的なコスト優位を築くためには、今かかっているコストをいかに下げるかではなく、どのようなところに自社で費用を投じ、どこには投じないかを決定し、最初からコストで回る仕組みを構築することが重要だと説く。例えば、特定活動を削るのではなく「やらない」。その活動を止めてしまうわけである。また、特定活動を「顧客にやってもらう」。企業のコストの一部を顧客転嫁するわけである。さらに、「仕組を変えてまったく違うコスト構造をつくる」ことで、競合よりも2割コストが安いという程度ではなく、10分の1のコストにするなどを実現して圧倒的なコスト優位を築くことである固定費を変動化することで、収入が減っても倒産のリスクを防げぐ方法や、サンクコストになってしまった機会や設備顧客のために稼働させることによってサンクコストを回収する方法もある。


一方、持続的に強い競争構造については、いわゆる伝統的な企業(レガシー企業、リーダー企業)との競争と、自社が構築したビジネスモデルと同じビジネスモデルの企業との競争念頭に置くことが求められる。レガシー企業との競争においては、まず、レガシー企業の資産負債化することが重要であるリーダー企業が蓄積してきた資産には、企業側に蓄積された「企業資産」と、ユーザー側に蓄積された「市場資産」があるが、これらの資産が大きければ大きいほど、それらの資産が足かせとなって、新しいビジネスモデルを仕掛けてきた企業に同質化できないことを利用するのである。次に、相手企業が持っていない機能の付加を通じてバリューチェーンの中に入り込む方法がある。同じビジネスモデルとの競争においては、先発者は、追随者が出現することを前提として、模倣されにくいビジネスモデルを構築することが求められるという。

文献

山田英夫 2017「成功企業に潜む ビジネスモデルのルール――見えないところに競争力の秘密がある」ダイヤモンド社

2017-12-18

人生に最も役立つ「高校国語教科書」

出口(2015)は、高校国語教科書は名作の宝庫であると同時に、その深い内容を高校生理解するのは至難の業であるという。よって、高校国語教科書は大人がやり直してこそ真に役立つのだと主張する。そもそも国語ほど実際に役立つものはないと出口はいう。おそらくどんな科目よりも、国語で得た学力は生涯役にはずだというのである。それは何故かといえば、誰もが文章を読み、考え、話し、書くといったささやかな繰り返しの中で成長し、教養を身につけ、コミュニケーションをし、その結果として大きな仕事を成し遂げることができる。そしてその中核に「国語力」があるからである


高校国語教科書は名文の宝庫であって日本語の力を鍛え、読解力や記述力、会話力を身につけ、思考力や感性を磨き上げるのに適した教材だと出口はいう。しかし、国語教科書には、相反する方向性をもった二種類の教材が混ざっているため、教える側も教えられる側も無自覚に同じ国語の教材として扱ってしまい、その結果、国語は役立たないといった誤解や混乱を生じさせているのではないかという。国語教科書の教材の1つ目は、文章論理的に読むことにより、考える力をつけるもので、評論が中心である。筆者の伝えたいことは何で、それをどのような論理説明しているのかを読み取るものである文章論理的に読むことができるようになれば、論理的な話し方、論理的な考え方、論理的文章の書き方が分かってくるのである。また、優れた評論理解することによって、私たちが今暮らしている現代社会を新たな角度から捉えなおすことも可能となる。もう1つの教材は、人生や世の中の深淵と直に向き合わせるものであり、文学や哲学、いわゆる西洋でいう教養につながるものである。こちらは、答えのない深い問題をどこまでも凝視し続けるものである


出口によれば、高校国語教科書評論とは、筆者の主張を不特定多数の読者に向かって論理説明した文章のことである。よって、筆者の立てた筋道、すなわち論理を負うことによって、正確に筆者の主張を読み取ることが重要である。出口は、山崎正和「水の東西」、清岡卓行「失われた両腕」、丸山眞男「「である」ことと「する」こと」などを題材として取り上げ、「イコール関係」「対立関係」「因果関係」という論理の3つの基本を用いた正しい意読解の仕方を解説する。まず、評論においては、具体と抽象論理の鍵である論理力を鍛えるときは、具体と抽象意識することが大切だというわけである評論においては、筆者の主張(抽象)と、具体例・体験など(具体)が、「イコール関係」として展開される。筆者が自分の主張を伝えるときに、裏付けとなる証拠を列挙することで読者の注意を惹き、理解を促すのである。さらに、評論において押さえておかなければならないのが「対立関係である。こちらは、筆者が自分の主張を伝えるときに、あえて反対のものを持ち出すことで論を展開しようとするものである。そして3つめに重要なのが「因果関係という論理展開である。筆者が、Aという主張を前提に、次のBという主張を述べるとき、AとBの間には因果関係が成り立たなければならない。


文学作品の読解の仕方で重要なのは、いくら文学には感性が大切で人それぞれ受け取り方が違うといっても、誤読主観的な読みの上には、どんな鑑賞も成り立たないということである国語学習の目的は正確で深い読解力の養成にある。まずは作品を正確に、深く読解することが何よりも大切で、そうすれば、名作である限り、必ず次になんらかの感動が沸き起こってくるのだと出口は主張する。客観的に深く読解することなく、自分の狭い価値観から作品を歪めて解釈していては真の学力は身につかない。出口は、この現代の時代を捉えるためには「近代」という時代概念を深く理解することが必要だという視点から、森鷗外「舞姫」、夏目漱石「こころ」、中原中也「サーカス」などの作品を題材として、私たちが現代価値観自分生活感覚から文学作品を再解釈するのではなく、様々な時代状況の中で人間の心を伝えてくれる文学作品を、作者の息づかいに従って、本文を根拠にして客観的に読解し、そのうえで、作者や登場人物との対話を通して答えのないところで物事を深く考えることの重要性を説くのである

文献

出口汪 2015「やりなおし高校国語:教科書で論理力・読解力を鍛える (ちくま新書)」

2017-12-16

上場企業の意味と責任

村上(2017)は、上場企業の意味責任について、日本では、そもそも上場とは何か、企業は何のために上場するのか、正確に理解している人が少ないように思うと述べている。村上によれば、株式を上場することは、英語で"Going Public"(非上場化は"Going Private")ということであり、私企業が社会の「公器」になることである。上場とは、株式が広く一般に売買されるようになることである。よって、上場企業の経営者には、決められたルールに従って株主や株を買おうとする人たちのために必要な情報を開示し、投資家の期待に応え続ける覚悟をもって、透明で成長性の高い経営をしなければならない。もはや、経営者が思い通りに株主を選んだり好き勝手を行うことはできなくなるのである


上場にはメリットデメリットがあると村上はいう。上場のメリットは、株式の流動性が高まって換金しやすくなることと、資金調達がしやすくなることである。この2つが必要ない場合には上場する必要はないと村上はいう。例えば、現金が豊富だったり設備投資不要なために資金調達必要がない企業や銀行からの借入余力が十分にある企業である。このような企業は上場のメリットを活かしているとはいえない。株式発行による直接金融資金調達する必要のない企業は、上場を廃止して非上場になることを検討すべきだという。一方、上場のデメリットは、IRなど必要部署とその人材の確保、株主総会の招集通知など多くのコストがかかることと、誰でも市場で株式を購入できるわけであるから、いつ誰が自社の株主になるかわからないことである。「誰が買ってもいい=誰でも株主になれる」状態経営上望ましくないのなら、上場をやめて非上場企業になるという選択肢検討すべきだと村上は主張する。


上記のような上場企業の意味責任から、上場企業においては投資家経営者監視する仕組みとしてのコーポレート・ガバナンスが必須となると村上説明する。上場企業では、従業員取引先などと同様、株主の立場権利が重視されなければならないのである。公器としての上場企業に資金提供することで、企業が生む利益のみならずリスクも全部背負っている株主が、投資した資産をいかに守るかということがコーポレート・ガバナンスの根源である。上場企業の経営者は、従業員適材適所に配置しやる気を出させて効率よく働いてもらうことや良い取引先を見つけて良好な関係を築き、従業員に安定した生活をもたらすことの責任に加え、株主の視点をもって社員を引っ張っていくことが、企業価値すなわち株主価値を向上させていくうえで非常に重要なのだと村上は主張する。


コーポレート・ガバナンスのひとつの指標が、投下した金額に対して利益がどの程度生まれているかを示すROEである。企業がROEを高めるためには、当期純利益を高めるか、純資産を減らすかという2つの方法しかないと村上解説する。つまり、利益を高める努力をするか、自己株式の取得や配当などで投資家利益を還元していく努力必要だということである運転資金として手元に確保する必要を大きく超えた余剰資金をため込むのではなく、より高い利益を求めて積極的投資に回すか、投資の機会が少ないのなら投資家に還元すべきだというのである投資家は必ずその資金を成長のために資金必要としている別の企業に投資する。そうすることで資金の好循環が生まれ、社会全体で資金効率的活用される。日本の多くの上場企業のように余剰資金を何も生み出さない状態で手元で寝かせてしまうと、それはそのまま塩漬けとなり、社会としても成長のために積極的資金必要とする企業に資金が回らず、市場は停滞し、経済全体が沈滞してしまうと村上はいう。


要するに、上場企業における株主と経営者関係においては、株主はあくまで資金の出し手であって、投資先の企業が行っている事業専門家ではない、その分野もしくは企業が成長すると期待し、法律規定されている権限によって経営を託すのである。よって、経営者は、託された資金をいかに効率的活用して成長していくか、事業プロフェッショナルとして先を見通した計画を立て、できる限り情報開示をしなければならない。すべての株主が企業と平等コミュニケーションをとり、株主と投資先企業がwin-winとなることが重要だと村上説明するのである

文献

村上世彰 2017「生涯投資家」文藝春秋

2017-12-03

ざっくりとした西洋思想入門

齋藤(2011)は、2500年の西洋思想史をざっくりとと3つの山脈でひとつかみする解説を試みている。そもそも思想哲学とは何かについて、齋藤は「困難を乗り越えるための薬」であり「悩みや疑問への処方箋」だという。なぜならば、西洋思想が目指した目標は「世界のすべてを説明しつくしたい」であって、そこには「世界はどうなっているのか」という大きな問題から「どう生きればよいのか」といった身近な問題まですべて包含されているからである。そのような西洋思想の歩みというのは、過去思想批判し、それを乗り越えようとしてきたことの歴史であり、それをざっくりと捉えると3つの山脈でひとつかみできそうだというのである


齋藤によれば、第一の山脈は、西洋思想の始まりからアリストテレスによる体系化が影響力を持った時代で「世界本質を1つの原理説明したい」という欲求が追求された時代である。その考え方の代表例がプラトンの「イデア論」であり、それがキリスト教と結びつき、神の存在証明の追究に向かっていった。それに対して第二の山脈は、デカルト、カント、ヘーゲルらに代表される「近代合理主義」の時代で、キリスト教支配から脱却し、人間認識力、合理的思考力を信頼し、近代自然科学の発展やフランス革命などの市民革命などの動きとも相まって、精神が時代さえをも動かすといったように、「人間理性」や「精神」を重視する哲学の追究がなされ、西洋哲学体系が完成されたかに見えた。そこには、デカルトによる「原点を定めてすべてを位置付けたい」という発想や、カントによる「人間の理性は認識限界を乗り越えることができる」という発想や、ヘーゲルによる「単なる人の理性を超えた絶対精神は、世界を動かす原動力となる」という考え方などが生まれた。この時点で、人間的理性至上主義の体系が完成したというわけである


しかし、第三の山脈である「現代思想」において、その完成されたかに見えた体系を壊す、すなわち「既存価値観に挑戦状を叩きつける」ことで乗り越えようとする動きが見られ、合理主義の背後にある何らかの「とらわれ」や。合理的ではないなんらかの原動力に着目されるようになった。例えば、ニーチェは、私たちはありもしない真理という幻想で自らを縛りあげているのではないかと疑問を呈し、すなわち一人ひとりが「精神奴隷」になっているのではないかと言い、勇気を持って現在の迷いの中にいる自分自身を乗り越えていく「超人」になることの重要性を主張した。自分自身ポジティブ肯定する強さすなわち「力への意志」が人間だけでなく世界を動かすのだと言った。また、ハイデガーは、私たちが存在していることは、モノが存在していることとは根本的に異なり、私たちの存在は、自らの死を含む過去現在未来が折り重なった時間とは切り離せない「時間的存在」であり、自ら世界を作りつつ、その中で生きる「世界内存在」だと語った。フッサールは「本質直観」「間主観性」というコンセプトなどで自分たち生活世界大事にする現象学を発展させ、その延長から身体重要性を訴えるメルロ=ポンティなどの思想が生まれた。


さらには、ダーウィンの進化論、フロイトの精神分析、マルクスの資本論などの思想が生み出され、構造主義流行するなどの現代思想現在も進行していることを示している。例えば、フロイトやマルクスの思想は、人間の下部構造にあるものも社会の下部構造にあるものも、性や金銭(経済)といった人間の欲望を満たすものであることを示すものであった。また、ソシュールの言語学では、言語のもの意味はなく、あるのは「差異」(ある言葉と別の言葉の違いが作り出す体系)のみであるとし、言葉の体系が異なれば、その言葉を使っている人たちの社会構造文化が違うため、もの見方世界のとらえ方までもが異なることを示そうとした。レヴィ=ストロースの思想は、見えないところでそれを動かしている原理人間社会全体の背後にもあることを示そうとした。このような時代には、要素と要素間の関係からなる全体としての「構造」が重視される「構造主義」が流行し、関係性、システム、関数といった概念を重視し、この世には絶対的ものはなく、すべて相対的であるといった思想が影響力を持つようになったと齋藤は指摘している。


このように、齋藤は、西洋思想の歴史には膨大なパッションとエネルギーが詰まっており、力をもった思想は常に世界に強い衝撃を与えて、人々のもの見方を変えてきたのであるため、思想を学ぶことは、実は私たちの人生というものを大きく変換させるかもしれない、非常にスペクタクル冒険なのだと思うとして解説を締めくくっている。

文献

齋藤孝 2011「齋藤孝のざっくり!西洋思想」祥伝社

2017-10-30

真の自由を獲得するための勉強法

千葉(2017)は、フランス現代思想や分析哲学など複数の現代思想をベースにした「勉強論」を展開している。とりわけ前半は、言語論をベースに、私たちが受けている束縛を打ち破り、今より多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるための勉強法を論じている。すなわち、真の自由を獲得するための勉強法である千葉解説を私なりに理解すると以下のようなことになろう。


まず重要なのは、この世界は「言語」が編みあがったものとしてでできていることである千葉言葉を借りれば、私たちは「言語によって構築された現実」を生きている。人々の社会的相互作用によって言語が編みあがってできた世界すなわち(世界言語)が、一般知識や社会構造権力の基盤となり、私たちの動きをコントロールし束縛している。「わたし」そのものも、他との関係性を示す言語世界によって構築されている。その中で、私たちは特に意識していなくても、あるいは意識していないからこそ、人間が作り上げた言語が織りなした世界の有り様に沿って(盲目的に)行動しているわけである。例えば私たちは平日の朝、何の疑いも抱かず満員電車に揺られて通勤するようなことを毎日繰り返している。千葉は、このような状況を「環境コードにノッてしまっている」と表現する。


しかし、「言語そのもの」はもともとはそのように人間を束縛するものではなかった。そこに気づくことで、環境コードの束縛から逃れ、新たな可能性を見つけ出すためのヒントが得られる。私たちが使っている言語は、生まれてから他者言葉をどのように使うかを真似ながら脳にインストールしてきたものであって、そのプロセスを介して自分の外にあったものの考え方の基本的な方向付け(コード)も同時にインストールされてしまっている。私たちが世界の有り様にコントロールされ、束縛されていることは、言い換えれば、言語的なコントロールを受けていることだともいえる。しかし、「言語そのもの」は、そのようなコードから切り離されて存在しうる(言語現実から分離している)ことも忘れてはならない。


どういうことかというと、言語は、私たちに環境コードに従うことを強いるものであると同時に、逆に、そのような環境コードに対して「距離をとる」ために使用することが可能だということである。つまり、私たちが、言語によって構築された環境コントロールされているということを、一歩距離を置いて(幽体離脱したように)眺めることが可能なのである。言い換えるならば、現在において私たちが経験している世界は、人間によって言語的に構築されたものであるが、言語性質言語はそれ自体として結局はただの音にしかすぎない)からしてそれは必然的ものではなかったはずである。そこに気づき言語構造基盤の根本まで深く入っていき、言葉用法意味根本的な部分に変更を迫ることにより、構築されたものを分解・破壊し、再構築する、すなわち新たな別の可能性を切り開くことも可能である。ただし、「世界言語であるので、言語の外の世界に飛び出ることはできない。あくまで「世界言語」が再構築されるということである。そこでは、自分自身言語的にバラバラにし、多様な可能性が再構築されては、またバラバラにされ、再構築される。これが繰り返されるわけだが、これが千葉のいう、勉強による自己破壊である


上記は、千葉によれば「言語現実から切り離して自由に操作できる、言語操作によって無数の可能性を描くことができる」ということになる。いま属している環境にない可能性を、言語の力で想像できるからこそ、私たちは夢や希望を抱くことができる。そのためには、日常的に私たちが行っている言語使用、すなわち「道具的な言語使用」(外部目的的)に加え、おもちゃで遊ぶように、言語を使うこと自体目的自己目的的)になっている「言語玩具使用」が重要になってくると千葉は指摘する。勉強法とは、言語をわざと操作する意識を育成することで、別の可能性を考えられるようになることである。別の言い方をすれば、深く勉強するとは、言語偏重の人になるということだと千葉は言うのである。その後、千葉は、著書において、玩具的な言語使用を通じた勉強法として、アイロニー(ツッコミ)、ユーモア(ボケ)、ナンセンス(ツッコミとボケの極限形態)の特徴と使い方を紹介し、それに基づいた具体的な勉強法についても言及している。

文献

千葉雅也 2017「勉強の哲学 来たるべきバカのために」文藝春秋

2017-10-09

文章から学ぶ「思考の形態学」

花村(2016)は、文章読本という形ではあるが、様々な例文によって文章思考パターンとして抽出して紹介することにより、思考トレーニング材料提供しようとしている。文章読本は10からなり、それぞれ、異なるパターン思考形態を紹介するような形式になっている。


第1章では、たった1つの言葉に1冊の書物にも匹敵する思想が込められていることがあるという「単語は巨大な思考単位である」というパターンを紹介している。語義縮小パターンでは、「XをAだと考える輩がいるが、それは間違っている。Aではなくて本当はBなのだ」という思考を示す例文が紹介されている。語義拡大パターンでは、単語言語現象をはるかに超え出て用いられることから大風呂敷型のような思考であると花村はいう。第2章では、言語の由来を考えるという「創造的な解釈作業」によって、根源的な思考こじつけに陥らない知恵の両方を手に入れることができると花村は論じる。


第3章では、確実の思考というパターンを扱っている。方法論的懐疑と論理を用いて、確実に言えることは何なのかを追究していくような思考である。例えば、デカルトは少しでも疑わしいものをすべて消去していくことで最後にたどり着くものが確実だという論理を用いている。また、明確な思考をするために、多義的言葉にあらかじめ意味限定しておくという「定義思考」も紹介している。第4章では、全体と一部の思考と称して、思考が普遍性を獲得すると、一部の例外のみで反証されてしまうという「全部と一部との緊張した対立」が避けられないこと、それに対し、「〇〇もある」という特殊命題のレベルを含めて論理に組み込む「量化の思考」や、「換喩」(メニトニー)のように1部を挙げて全部の代用にすりょうな「代用思考」を紹介している。


第5章では、問いを明確にすることで深い思考可能にしてり新たな思考を促したりする「問いの思考」を紹介している。文章では、疑問文を作ることに対応する。また、自問自答や対話をしてみる。問うことで常識に揺さぶりをかけることも可能である。問いで始まる疑問を解決の方向にもっていく思考法の典型が科学であり、答えのない驚きなどにとどまってそれを表現するのが形象的思考で、感動の誇張された表現とも解釈できる。第6章では、視点の転換を促す「転倒の思考」を紹介している。ベルグソンによれば、ひっくり返すことは「わらい」の1つのパターンであり、新たな視点をもたらすことにもつながる。


第7章では、槍は人間の手の延長であるとか、衣服は皮膚の延長であるなどの文章に見られる人間拡張の思考を紹介している。古来からあるこうした素朴な思考は、現代技術文明を考えるのに有効だと花村はいう。それに対して、第8章は、人間以外のもの人間であるかのようにみなす擬人法思考を紹介している。擬人法によって思考対象が生き生きととらえられるようになるだけでなく、人間境界曖昧かしている先端領域では擬人法思考活性化しているという。


第9章は、ある仮説を極限まで押し進めたときにいったい何が起こるのかを考える「特異点の思考」を紹介している。特異点の思考は、常識に安住する思考に揺さぶりをかける強靭破壊力のある思考だと花村はいう。例えば、数学の証明技術まで洗練された背理法のような背理の思考である否定的仮定推し進めて受け入れがたい帰結を示し、それとは反対の命題肯定承認しようとする思考である。「〇〇しないと、こうなるぞ」というように背理を使うことが命令になっているという例もある。特異点の思考一種思考実験で、この論理をどこまでも押し進めていったらどうなるのかを問い詰めるわけである


最後の第10章が「入れ子思考である。これは、世界入れ子構造になっていることに着目する思考であるそもそも思考とは、無数の入れ子構造のなかにある人間がその外側を探求しようとする終わりなき試みなのだと花村はいう。

文献

花村太郎 2016「思考のための文章読本」

2017-04-08

中国史から学ぶ中国大陸の地政学

片山(2016)は、外側からはなかなかうかがい知ることのできない中国を理解するために、中国史が役立つことを指摘している。まず、中国を理解する上で重要なのが、中国には北の南の2つの中心があるということである片山によれば、4世紀以前は、中国史の主な舞台は、中国大陸における黄河中下流域の「中原」あるいは「華北」といわれる地域に限られていたが、長い年月をかけて長江下流域の「江南の開発」が進んだことで、中国史は北の「中原」と南の「江南」の2つの中心を持つことになった。その後、中国史は、「中原」と「江南」というお互いに深く依存しながらも相容れない性質を持った2つの地域の相克や興亡によって織りなされるようになった。とりわけ、隋の時代に中原と江南という2つの世界大運河で結ばれたことで、中国史の複雑な愛憎劇の幕が上がったように思うと片山は述べている。


片山によれば、もともと「中原を制するものは天下を制す」という言葉が示すように、中国大陸において中原は中国を統一する強大な権力を築くために重要な地域であった。中国歴代王朝の都の多くが長安や洛陽など中原の中心に置かれていたのはそのためである。一方、江南は日本に似た高温多湿の気候で水稲が栽培されていたが、江南の開発により生産力の上昇や商業の発達を招き、経済の中心になっていった。江南は過剰な生産力を抱えているため、さらに豊かになるためには、中原という広大な市場必要である。一方、中原は腹や物欲を満たすために江南の農産物や特産品が必要で、それを買うためには政治の中心となって、権力を築き、税金を取り立てなければならない。中原はその権力によって得た税金で軍事力を養い、北方から遊牧民族の侵入にも備えなければならない。このような状況によって、隋から宋に至る歴史の中で、中原が政治と軍事を担い、江南が経済や文化を担うという分業が確立していったのだと片山解説する。


中国大陸を、中原と江南の2つの中心を持つものとして理解すると、中国において儒教道教という水と油のような思想が長いあい共存していた理由が見えてくると片山はいう。例えば、江南は食べ物には困らないので江南の世界に引きこもり、緑滴る豊かな自然のなかで、山水と戯れ、なるようになるという老荘思想を地で行くことができる。江南は常に政治のくびきから離れ、変化する自然にすべてを委ねて、自由放任で生きていたいと望んできたわけである。江南は必ずしも中原必要としないので中国の統一に関心がなく、中原大運河や万里の長城のような巨大公共事業や軍事力増強のための重税を課すと、それに耐えきれず分離派になりやすいのだと片山はいう。一方、中原は江南なしには生きていけないため、なんとか江南を引き留めようとしてきた。儒教中原思想となり、道徳規律を重んじることで、勝手気ままな江南を制御しようとしてきたわけである。したがって、中国を統一するのは常に中原勢力であって、江南が中国を統一したことは一度もないのだと片山は指摘する。


上記を含む中国史の知識を援用すれば、なぜ第二次世界大戦後に中国共産党が中国国民党を倒して中国を統一することができたのかの理由を紐解くことができることを片山示唆する。その理由の1つは、共産党が北に拠点を置いて、南に攻め入ったからである。共産党は、南の瑞金から農民を結集して軍隊組織しつつ、「長征」によって北の延安に拠点を移した。北から南に攻め入って中国全土を統一するのが中国史の必勝パターンなのである。また、中国史においては、これまで王朝の重税や圧政に農民が耐えられなくなると反乱が起こり王朝が倒れることが繰り返されてきた。よって、中国共産党は農民を結集することで農民反乱のパターンを作って既存勢力を倒すことに成功し、内戦終了後は、毛沢東の「大躍進政策」や「文化大革命」など、農民の前に立ちはだかる社会全体の敵やノルマを設定し、それに勝ったり乗り越えたりする運動演出することで、農民に自分たち権力主体であり、新しい国の主役であることを信じこませてきた。そのおかげで、共産党は権力を維持できたのだと片山は指摘している。

文献

片山杜秀 2016「大学入試問題で読み解く 「超」世界史・日本史」(文春新書)

2017-02-22

ビジネスモデルのニューパラダイム

長沼(2015)は、2025年ビジネスモデルと称して、次の社会の輪郭、次世代ビジネスモデル、ロボット時代の哲学的共通基盤などについて論じている。長沼によれば、今、経済は新たパラダイム入り口にある。資本主義は格差を広げつつけ、ビジネス短期決戦となりギャンブル化しつつあるなかで、共有経済圏、贈与経済、取引コスト限界コストゼロ社会の兆しが見えてきている。これらの多くは情報技術をはじめとする急速な技術革新によってもたらされたといってよいだろう。


そのような中で長沼は、今後ビジネスモデルの全要素が変化すると予言する。まず、利益の最大化を目指してきたビジネスモデルが、社会的な影響力や貢献価値を高めていくことを目指すようになるという。これは、コストゼロ社会になっていくのでビジネスモデル利益化を急ぐ必要がなくなることに関連している。つまり、限りなく低いコストで多くの人々に影響を与えるようなビジネスモデルを作っていけば、多くの人々にとってはタダ同然の価値あるサービスであっても、後になってから一部のユーザーからの支払いだけでもビジネスを持続させることが可能利益が生まれてくるようなケースを示唆している。


次に、ビジネスモデルを支える人材は、従業員からクラウドソーシングに代わると長沼は予測する。人間ではなく、ロボットへの継続課金やロボットに外注するボットソーシングも将来活用されることになるだろう。また、顧客提供するものは、標準品から個別品になっていくという。同じ商品を何個も作り、在庫して販売するという大量生産モデルは、個々人のニーズに合わせたオーダーメイド型のモデルに代わっていくということである物流についても大きな変化が見込まれる。まず、必ずオンデマンドの要素が入り、3DプリンタやIoTなどの普及で地産地消が可能になる物流顧客が自ら組み立てるなどの物流可能となり、さらに群衆物流に参加するクラウドシッピングなども増加していくであろう。これは、最終製品を運ぶ代わりにデジタルデータを運び、現場で最終製品を作る、通勤客など定期的に移動している人々を利用する、などのアイデアから生まれるものである


利用モデルについては、モノを売って買った顧客が所有する「所有モデルから、共有資産アクセスして利用する「利用モデル」に変化するだろうと長沼はいう。これは、モノの消費の考え方から、モノに付随している便益の直接的な消費を意味している。本来顧客が欲しいのは便益であるから、モノの所有を介さずにそれを消費できるならばそのほうがよいというわけである。それからコストゼロ社会、共有経済が進むにつれて、人が持つ24時間という有限性を奪い合う競争ビジネスモデルが変化していくことからマーケットシェアではなくマインドシェア重要になるという。同じ製品カテゴリーマーケットでのシェアはあまり重要でなくなるということである。そのため、顧客へのアプローチは、単純に顧客に買わせる、消費させるのではなく、「好きになってもらう」ことが何よりも大切になると長沼は指摘する。


最後に、企業もクローズドカンパニーからオープンカンパニーに移行すると長沼は予測する。これにより、社会に対して真の影響力や価値をもたらすソーシャル・イノベーションが加速するというのであるオープンプラットフォームを構築することで参加者が増えれば、ビジネスは急速に拡大するというわけである。上記のような予測を踏まえ、次世代ビジネスモデルの実現に向けた次のようないくつかのアドバイス提示している。

文献

長沼 博之 2015「ビジネスモデル2025」ソシム

2017-02-20

心とはいったい何か

「心」はいったい何かについて根源的に考えようとするのが、心の哲学である。例えば、将来、ロボットに心が宿るのか。これに対する何らかの答えを得ることは、そもそも心とは何かについて根源的に考えることなしには可能ではない。この点について、金杉(2007)は、入門書的な著作において、心とは何かについてどのように考えればよいかの基本的アプローチすなわち論点を紹介している。


金杉による第一論点は「心の因果性である。これに絡む問いは、心は物質的な存在なのか、非物質的な存在なのかという点で、前者が物的一元論後者心身二元論である。何らかの物理的刺激(原因)に反応して、特定人間行動(結果)が生じる場合に、そこには心が因果関係的に介在していると考えられる。つまり、刺激→心1(例:欲求)→心2(例:期待)→行動というような因果関係図式である。しかし、金杉によれば、二元論ではこの説明がうまくいかない。なぜならば、物理的刺激→脳状態1→脳状態2→行動という物理的世界のみの因果関係説明に、非物理的世界としての心を位置づけるのが難しいからである。一方、一元論であれば、特定の脳状態と心を同一視する(心脳同一説)、脳による機能と心を同一視する(機能主義)で物理的刺激から行動までの因果関係論理的説明できる。よって、心の因果性を考える限りにおいては、心身一元論に軍配が上がると金杉は解説する。


第二の論点は「心と意識である。金杉は、意識という心の基本的特徴を考える際には、物的一元論には大きな課題が残されているという。例えば、意識に現れる質的特徴としての「クオリア」については、他者状態を観察することが不可能である。そこで、自分には「赤」に見えているものが、他者には生まれつきまったく違う色に見えているという可能性、例えば白と黒が自分相手とで入れ替わっている可能性(クオリアの逆転)を論理的排除できない。これは心脳同一説や機能主義などの物的一元論とは矛盾する。何故ならば、物的一元論が正しければ、同じ脳状態あるいは同じ機能を脳が果たしている時には、クオリアも同じであるはずだからである


第三の論点は「心の志向性」である志向性とは、あるものが何かを表していたり志向していたりするという特徴で、志向性を持つものは「表象」、表象対象は「表象内容」または「志向内容」と呼ばれる。志向性を持つ心の内容には、信念、欲求感情、知覚が含まれる。すべての心の状態志向性を持つのかどうかについては意見が分かれるが、志向性を持つ心の状態においては、心はどのようにして何かを表象するのかという問いがある。これについて多くの論者は命題的態度すなわち「〜ということ」で表現される特定の心の状態は構文論的構造を持つ言語表象であると考えているという。そうすると、もし命題的態度が脳状態に他ならないのであれば、脳状態もその内在的特徴として構文的構造を持たなければならない。脳状態に構文的構造が認められれば物的一元論を大きく支持することになるのだが、それは神経心理学の成果により否定されてしまったと金杉はいう。また、なぜ心に志向性があるのかについて、因果説明表象対象表象の原因である)と目的論的説明表象が進化論的目的に沿っている)があるが、どちらも十分な説明だとは結論できないという。


第四の論点は「心の合理性である。これは、欲求や信念といった命題的態度が他の命題的態度や行為を理に適ったものとして説明できる関係性を指す。合理的説明は、命題的態度や行為を、ある理由に基づくものとして理解する営みである。金杉によると、機能主義が正しければ、命題的態度や行為の間の合理的関係は、それらの間の因果関係に支えられて初めて成立する。つまり、ある命題的態度が原因となって、他の命題的態度が生じ、それが原因となって行為が発生するという具合である。そして、機能主義の下では、個々の命題的態度は個々の脳状態によって実現される。しかし、上記で記したように、脳状態には命題的態度に対応する構文的構造を見出すことができないことが明らかになったため、個々の命題的態度が個々の脳状態によって実現し、それが因果関係で結ばれているという説は成り立たない。よって、この点に関しては物的一元論の有力な立場であると考えられてきた機能主義否定されることになるという。また、消去主義は、そもそも命題的態度が常識心理学の「理論的存在者」にすぎず、常識心理学はいずれ誤った理論として否定されるため、命題的態度そのもの存在否定されると説く。金杉は、この考え方はわれわれの常識に反しすぎているという。


上記の点において金杉は、因果性から自律したものとしての合理性によって命題的態度を解釈する「解釈主義」の立場をとれば、命題的態度の実在性は担保されると説く。つまり、ある人の行為命題的態度を合理的ものとして解釈することは、それらの間に因果関係があることとは無関係だと考えるのである。しかし、ときどき生じる命題的態度や行為との不合理な関係をどのように説明するかに解釈主義課題があり、局所的な不合理性各部分が支えつつ、全体として合理性が維持されることを求めるようなものとして合理性を捉えるべきだと金杉は論じる。


第五の論点は「心の認識」であり、自分他人がどのような心の状態にあるかを認識するという心の基本的特徴である。ここでのポイントとなる他我問題では、他人の心をその人の行動から類推して知ることができる(類推説)という考えに関して、物質的な体と非物質的な心を想定する心身二元論では「自分に成立している心と行動との間にある相関関係は、どの人にも成立している」とは言えないので、類推説が成り立たなくなると金杉は解説する。一方、心と行動との結びつきを本質的ものとする行動主義では、心の状態を、ある条件が成立すれば特定の行動が生じるという「行動への傾向性」として理解する。この原理に従えば、我々は他者の心の状態類推できるという意味他我問題が生じないが、行動主義では個々の心の状態単独で行動と結び付けるという問題点があると指摘する。むしろ、実際には、複数の心の状態が全体として行動に結びついていると思われる。その面においては、解釈主義のほうが、心の全体論性格をうまく汲み取った全体的行動主義として理解することが可能なのだと金杉は主張するのである


自分の心を知る「自己知」については、金杉は、かなりの程度「不荷謬性(自分の心が特定状態にあると信じているときは、心はその状態にある)」「自己告知性(自分の心が特定状態にあるときは、心がその状態にあると信じている)」の両方が成立すると論じる。さらに「直接性(自分の心がその状態にあるという信念は、行動の知覚や類推を介さずとも直接的に形成される)」も成り立つという。さらに、これらの自己知のプロセスは負荷謬性と自己告知性の両方が成立する「内観」という知覚によるものだという知覚モデルを紹介するのだが、この知覚モデル説明も満足のいくようなものではないと指摘する。結論として金杉は、「心とは何か」については、我々は現状では決定的な答えを出すことはできないという見解を示している。

文献

金杉 武司 2007「心の哲学入門」勁草書房

2017-02-13

日本史Aと世界史Aをマスターして「超したたか」に生きる

佐藤(2015)は「新明解国語辞典(三省堂)」の「したたか」の意味を次のように紹介している。「逆境に立たされてもくじけることなく、いかなる手段や奇計と思われる策を弄してでも危機や困難を乗り越えよう(非難世間の思惑などを気にせず、自己利益立場を守ろう)とする強い生命力精神力を備えているととらえられる様子」。その他「強くて、容易には屈しないさま(明鏡国語辞典)」などの定義も紹介している。そして、これからの時代を生き残るためには、このような「したたかさ」が大切だと主張する。つまり、われわれ1人ひとりが強くなり、試練に遭遇することがあっても、容易に屈せず、しっかりした知的羅針盤(視座)を持つことの重要性を説くのである。では、どのようにして「したたかさ」を身に着ければよいのか。


佐藤は、物事に対する自分なりの視座を持つために最低限必要な要素として、(1)基礎教養を身につける(歴史、哲学思想宗教、文学、経済、数学など)、(2)情報収集、(3)基礎教養収集した情報の運用、(4)内在的論理を探る、の4つを挙げる。そのうち、最も重要なのが、他者存在を前提とした作業である「内在的論理を探る」ことであり、1〜3はそのための前提条件だという。また、いくつかの基本的思考パターンすなわち「思考鋳型」を鍛える必要があるともいう。3,4の基礎教養収集した情報の運用力を向上させ、内在的論理を探ることを技術として身につけることにより、思考鋳型が鍛えられるというのである。そして、鍛えた「思考鋳型」で、物事自分なりに考え、解釈する訓練を重ねていると、やがて「他人には見えないもの」が見えるようになる、つまり、したたかになるというわけである


佐藤は、基礎教養の中でも、歴史、とりわけ近現代史の有用性を説く。イギリスの歴史教科書を例として取り上げているが、主に実業高校の授業で使われている日本の歴史教科書日本史A」と「世界史A」を読み込むことの有用性も主張している。「日本史A」と「世界史A」は、自国に都合のよい記述が抑えられ、価値中立的知識が身につくようになっている。例えば、「日本史A」にはビジネスパーソンにとっての必要知識が満載で、それらがバランス良く詰め込まれているという。日本の近現代史を中心に日本が世界とどのようにつながってきたのかを重視して書かれており、読み物として面白いという。実際、現代ビジネスパーソンには国際感覚が求められており、その根幹を作る必須の基礎教養は、国民国家の輪郭が明確になり、相争い、ときに協調してきた流れが記述されている近現代である。どのような歴史の積み重ねを経たうえで、いまの自分が立っているのかを認識することは「お前はどう考えているのか」を絶えず問われる国際的ビジネスの場では欠かせない。その意味で「日本史A」「世界史A」を読み込むことが有効なのだと佐藤はいうのである


日本史A」と「世界史A」をしっかり読み、ビジネスパーソン必要な基礎教養を身につけた上で、その知識を他の知識と結び付けて活用する訓練をすることで、「思考鋳型」が鍛えられるというわけである。また佐藤は、「要約」と「敷衍」の重要性を指摘する。例えば、テキストを丸暗記する。そうしたうえで、キーワードに基づいて記憶再現する。その方法の1つが、要約することである。そしてもう1つが敷衍であり、記憶した事項をより詳しく説明するわけである。あるいは別の言葉で言い換えてみる。記憶した内容を他人説明するつもりで行うとよいと佐藤は助言する。

文献

佐藤優 2015「超したたか勉強術」(朝日新書)

2017-02-09

「こころ」はどのように進化してきたのか

「こころ」は人間だけが持っているのか。それとも動物も持っているのか。将来「こころ」を持つロボットが登場するのか。このように「こころ」とは何かに関する疑問は尽きることがない。ダーウィンの進化論が正しいとするならば、「こころ」も進化の産物であり、人間のみが「こころ」を持っていると考えるのは不自然となる。人間に近いサルや犬は「こころ」を持っているが、カエルは単に環境に適切に反応する精巧で複雑な生物機械であって「こころ」は持っていないと言えるのか。そうだとすると、どこに境界線があるのか。いったいどのように考えればよいのか。


進化論的発想に従うならば、私たちに「こころ」があるのは、それが生き残るために有利だったからである。つまり、私たちは、環境対応しながら、生きるためにあれこれ考えて行動するわけである。そしてなぜそのような行動をするのか知っている。そのようなこころの働きは、もっとも単純な「原型」のようなものがあって、それが長い時間をかけて進化してきた結果だと考えられる。この点について、デネット(2006)は、脳の設計についての単純化された枠組みとして「生成と選択による進化階層」を提唱している。環境対応して生き残ることが進化論的にみたこころの本質だとするならば、デネットは、単純な階層から新たな階層が加わるたびに、その段階にある生物の動きはより良く、効率的になっていくと説明する。


デネットによれば、最初の段階として出現したのが「ダーウィン生物であるダーウィン生物は、遺伝子の新しい組み合わせや突然変異によって生化学的構造が異なる生物表現型の予備軍が現れ、その中から自然淘汰によってもっともすぐれた設計を持った表現型が選択され、選択された表現型の遺伝子が増殖することで、その表現型が生き残るというプロセスを続ける段階である。このプロセスが何百万回も繰り返され、設計の優れた動植物が数多く生まれたのだとデネットはいう。


ダーウィン生物の次に出現したのが「スキナー生物である。デネットによれば、ダーウィン生物の段階における自然淘汰の進化プロセスが繰り返されるうちに、「表現型可塑性」という性質をもった生物が出現した。これは、個々の生体の設計が誕生時にすべて決定されているわけでなく、環境から自然選択のプロセス対応して調整される特徴を持っている。これらの生物は、さまざまな行動を生み出しては1つひとつテストをして環境に立ち向かい、生存に役に立つものを見つけ出す。生存に役に立つ行動は強化され、その行動が強化された生物次世代を担う。つまり、スキナー生物は、いろんな行動を盲目的に試行錯誤し、うまくいく行動を強化していった生物自然淘汰をくぐり抜け、生き残っていくわけである


スキナー生物の次に出現したのは「ポパー型生物であるスキナー生物場合試行錯誤の行動を行っているうちに自分の行動の誤りが原因で死んでしまうことがある。それに対し、ポパー型生物は、様々な行動の選択肢を事前に検討する内部的選択環境を持っている。つまり、行動を実行する前に、生体内部で思考実験もしくはシミュレーションをするのである。そのようなプロセスにおいて、愚かな行動は選択肢から消去され、安全だと思われる行動のみを実行する。よって、ポパー型生物は、スキナー生物のように、愚かな行動を実行して死んでしま危険が少ないのだとデネットは説明する。体内に知恵が蓄積されており、頭の中でその知恵を使って行動を事前にテストすることができるというわけである


そして、ポパー型生物のつぎの段階として出現したのが「グレゴリー生物である。ポパー型生物が、内部に情報を蓄積してそれを用いて選択肢の事前選択とテストを行うのに対し、グレゴリー生物は、先祖自分たちによって先に構築された外部環境の一部から情報を取得して用いるので、より高度な事前選択やテストができる。つまり、生存のために道具を使うようになったわけである。そのような道具の中で最も優れたものの1つが、こころの道具すなわち「言語であるとデネットは指摘する。グレゴリー生物の段階になって、文化的環境の中から心的道具(言葉)を持ち込み、外部の情報を利用できるようになったことによって知性は飛躍的に高まったとされる。他者が考案し、改良し、変形させた心の道具を使って、知恵を具体化し、次に考えるべきことについてより良い考え方を学び、より深く限界のない内省力を生み出したのだとデネットはいう。

文献

ダニエル・C. デネット 2016「心はどこにあるのか」(ちくま学芸文庫)

      

2017-01-16

歴史の物語り論とは何か

野家(2016)は、歴史学の方法あり方について、自らの立場としての「歴史の物語り論」を紹介している。ここでいう「物語り(narrative)」とは、ある出来事を別のものと一緒にし、またある出来事を関連性に欠けるとして除外するような、出来事に負荷された構造として説明している。言い換えるならば、物語りの機能は、複数出来事を関連づけ、統一的な意味を与えるコンテクストを設定することであり、物語り文を作ることは、先行する出来事を後続する出来事と関連づけて意味付与を与える作業である。ある出来事単独歴史的意味を持つことはできない。その後に起こった別の出来事と関連付けられてはじめて歴史的意味を獲得する。その関連づけの時間的コンテクストを用意するものが物語り行為なのだと野家はいう。


ここで重要なのは、歴史の物語り論では、「歴史的出来事は物語り行為によって構成される」という考え方に依拠している点である。ここでいう「構成」とは、「存在するもの意味妥当性を算出すること」「意識志向する対象意味付与すること」である。この考え方が前提とするのは、いっさいの記述から独立した「裸の」あるいは「生の」歴史的出来事はありえないということである。つまり、すべての出来事をくまなく見守っている「神の視点」や「理想的年代記作者の視点から、歴史記述から独立した、切り離された歴史的出来事存在を主張する「素朴実在主義」の立場を取らないということなである世界についての「唯一の真なる記述」は存在せず、歴史的出来事が、われわれの言語活動から独立して客観的実在するということはありえないということに等しい。


野家は、過去出来事は知覚することはできないため、過去実在意味は「物語り」のネットワークの中でのみ与えられるという。つまり、過去出来事はわれわれには知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、発掘や史料批判といった作業必要になるというわけである。そこに「想起」や「物語り行為」が関わってくるのである。想起は記憶に頼ることになるが、史料や物的証拠は、外部記憶としての痕跡と考えられる。野家によれば、この考え方は、自然科学における実在の考え方と共通している。つまり、歴史的出来事実在の考え方は、例えばミクロ物理学における「素粒子」の実在と考え方は類似しているということである素粒子人間には知覚できず、知覚できるのは、実験などで確認される素粒子運動の「痕跡」にすぎない。しかし、素粒子実在は、物理学的理論の支えと実験的証拠裏付けによって与えられる。素粒子実在は、背景となる物理学理論のネットワークと不即不離なのである歴史的出来事についても、この世に生じた出来事は、「過去物語り」すなわち「間主観記憶」のネットワークの中に整合的に組み入れられてはじめて「過去にあった」出来事となる。


ここで「理論的存在」が鍵概念となる。理論的存在とは、その実在性を保証する理論体系が常に用意されていることを意味している。例えば、素粒子存在は物理学理論によって、大学の存在は設置基準のような「社会制度」によって、過去出来事存在は「歴史的物語り」によって支えられているということである。つまり、素粒子は、公認された理論と実験などの証拠によって支えられる「理論的存在」であり、歴史的出来事も、公認された物語りと史料などの証拠によって支えられる「物語り的存在であるといえる。また、ここでいう「理論」も「物語り」も、絶対的な真理ではなく、現在公認されたものという意味であり、将来別のものに置き換わる可能性を常に持っている点でも共通している。それに応じて、物理学の世界では「フロギストン」の実在否定されたり、日本史では、神武天皇実在否定されたり鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変わったりするわけである


そして、素粒子実在を支える物理学理論や、歴史的出来事実在を支える過去物語りの妥当性を支えるのが「合理的受容可能性」だと野家はいう。歴史学における「合理的受容可能性」は、手に入る限りの文書史料や発掘史料を「過去痕跡」として読み解き、それらを整合的に組み合わせて合理的推論を積み重ねながら、受容可能な「物語り」を紡ぎだすという作業によって担保されると考えられる。そしてそれは、過去現在とを時間的連続性の中で矛盾なく接続する「通時的整合性」と、過去出来事がそれと同時代の人々の証言や物的証拠矛盾しない「共時的整合性」という2本の座標軸として捉えることができる。よって、歴史の物語り論は、歴史が主観的につくられたストーリー架空の物語)であって、文学と同じようなものだと主張しているわけではない。過去物語りは人類が数千年かけて営々と紡ぎだしたものであり、公認手続きによって「間主観的」に構成されてきたものである。よって、それは歴史的出来事実在を支える一種社会的制度だといえるのである

文献

野家啓一 2016「歴史を哲学する――七日間の集中講義(岩波現代文庫)」

2017-01-04

科学は真実を知るための方法ではない

一般的に「科学」と聞くと、我々人間にとって最も確実な知の方法であり、この世の本質もしくは真実を知るための方法であるかのように思える。確かに、まだ科学と哲学が混然一体となっていた時代には、真実を知るための方法としての科学的方法模索され、確立されようとした時期があった。しかし、例えば野家(2015)が解説するような科学史や科学哲学概観するならば、現在の科学が、真実を知るための方法はいえないことがわかる。


例えば、古代自然哲学者たちは、自然本質理解するための天文学や運動論を展開した。それが、コペルニクスに始まる科学革命の時代には、ガリレオによる「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」という言明に代表されるように、自然界には数学的秩序が存在し、それゆえ自然法則は観察可能な物理量の間の数学的関係として表現されるという思想が普及した。つまり、宇宙そのものに数学が埋め込まれているわけだから、数学は真実を知るための方法であり、物理量の数量的な法則性はこの世の本質を映し出していると考えられるようになっても不思議ではない。


しかしすでに、自然科学的方法確立されたニュートンの時には、自然科学がこの世の真実を追求するという姿勢でなされるものではなかったといえる。ニュートンは万有引力の「発見」によって、天体の運動と地上での運動統一的に説明することに成功したが、ニュートンが「考案」した「万有引力」は、距離を隔てた2つの物体が引き合っていることを示しているのであり、これは素直に考えると、世の中の本質とか真実とは信じがたい。野家によれば、それはむしろ中世の魔術的自然観に回帰するものとさえ考えられたのだ。実際、ニュートンは、数々の自然現象説明予測を成し遂げるためにそのような(架空の)概念を作り出したにすぎないのである


ただ、それでもニュートンの万有引力の法則は、世界本質世界真実を示すものに違いないという信念が世界を覆っていたのだろう。決定論自然観がその代表である。それが間違いであることを決定的にしたのが、野家の解説する「科学の危機」であり、それには「数学の危機」と「物理学の危機」がある。まず、数学の危機においては、非ユークリッド幾何学の発見や、集合論のパラドクス発見によって、数学は真実を映し出すものでも何でもなく、単に形式的整合性や無矛盾性を扱う論理ゲームのようであることが明らかになった。そして、物理学の危機においては、宇宙のようなマクロ世界はニュートン力学では十分に説明できず、光速を一定仮定するアインシュタインの特殊相対性理論が出現した。この理論によると、空間や時間が曲がってしまうことになるのだが、それが真実だというよりも、そうすることで現象説明できるというだけのことである。同様に、微小世界では量子力学が発展し、エネルギーが離散的な値しかとらないとか、量子の位置運動量が確率的にしか決まらないといったことが「発見」された。


物理的に離れた物体がお互いに引き合っているとか、空間や時間絶対的ものではなく、曲がったりするとか、そして、物体位置運動力が連続的ではなく、離散的・確率的にしか決まらないとかの「科学的事実」は、直感的にはこの世の本質とか真実を示しているようには思えない。しかし、野家が解説するように、科学は、狭義には「観察や実験など経験方法に基づいて実証された法則知識」と定義できる方法であり、それ以上でもそれ以下でもないということなである


科学的知識は、単に、観察可能現象に関する、仮の説明(すなわち仮説)にすぎない。しかも、科学哲学におけるポパーの反証主義や、クーンパラダイム論の考え方を借りれば、そういった科学的知識世界像は常に暫定的ものでしかなく、いずれ別の説明世界像に取って代わられる可能性がある。だから、離れた物体同士が引き合うという説明とか、光の早さは常に一定で、むしろ時間や空間が相対的ものであるとか、量子の位置は確率的に決定されるといった、一見すると常識はずれの説明であっても、それが観測可能経験整合的でありさえすれば、それでよいのである。そもそも科学は、この世の本質とか真実を映し出すための道具ではないのだから。それらの常識はずれの説明は、それがこの世の本質なのではなく、そう説明するのが現時点では最も都合が良いというだけの話なのである

文献

野家啓一 2015「科学哲学への招待」(ちくま学芸文庫)

2016-12-24

目的論的意味論で「機能」の概念を自然化する

意味」とは何だろうか。例えば、われわれは「人生意味とは何か」とか「それに何の意味があるのか」と問うたりする。「意味がある」ということは、何らかの目的を実現するための「機能」を持っていると捉えることができる。そこで、「機能」とは何かという問いにもつながってくる。ここで、唯物論立場から意味」や「機能」を捉えようとする戸田山(2014)は、「目的を実現するための手段」という視点から機能」を捉えることをせず、自然科学的な発想、すなわち因果関係論的な発想から機能」を定義しようとする。それは何故かというと、戸田山は「科学的世界像の中で人間とは何かを考える哲学」を推進しようとしているからである。そのような立場からは、例えば、「意味」や「機能」のように、物理的な意味では実在しないと思われるもの、つまり人間自分の都合のよいように勝手につくりだした実体のないものにすぎないと思われるものであっても、科学的世界像の中に位置づけて説明することが重要になってくるのである


さて、科学的世界像の立場から見ると、「目的を実現するための手段」として「機能」を捉えることが不都合になる。何故ならば、それだと、「投げた石が落下するのは、石がもともと属していた大地に戻ろうとするから(大地に戻るという目的を実現するために落下する)」という形で物理的現象説明するようなものからである。科学的世界像では、目的が先に存在して、それを実現するために特定機能が生じるとは考えない。科学的世界像では、このような目的論的説明を、因果論的説明に置き換えてきたのであるから、科学的世界像に立つならば、誰の意志とも関係なく、あるいは人間存在とも関係なく、起こるべくして起こるといった、因果関係的な視点から機能」を捉える方法、すなわち機能の「自然化」を考えなくてはならないのである。しかし、単純に因果関係を当てはまるような「因果意味論」でもうまくいかないと戸田山は言う。因果関係的に何かをもたらすものを「機能」と捉えてしまうならば、「機能不全」を起こしているものを、本来機能を持ったものと同一の意味カテゴリーに含めることができなくなってしまう。本当は、ものが切れない(機能不全の)ハサミでも、正常にものが切れるハサミとおなじ意味カテゴリー(つまりハサミ)として認識されなくてはならない。


そこで戸田山は、「機能」と「本来機能」を切り離し、「本来機能」に焦点を絞る。これで、機能不全のものも、機能果たしているものも、「本来機能」は同じものとして同一の意味カテゴリーに含めることができる。そして、「本来機能」の定義の「自然化」を図る。「本来機能」が自然化できれば、本来機能人間解釈によって決まるのではなく、自然界の側で決まっていると考えることが可能になるので、科学的世界像の中に位置づけることができるようになるのである。つまり、われわれは、「本来機能」を人間側で作り出すのではなく、自然の側で決まっている「本来機能」を発見するだけなのである。そして戸田山は、「本来機能」の自然化を図るのに有用な考えかたとして、ミリカンの「目的論的意味論」を紹介する。この考え方は、因果論的説明と、起源論的説明もしくは発生論的説明を組み合わせたものとして理解することができる。進化の歴史に訴えたものという言い方もできる。


ミリカンの「目的論的意味論」によれば、「Sが持つアイテムAがBという機能を持つ」とは、「SにAが存在するとは、Sの先祖においてAがBという効果を果たしたことが、生存上の有利さを先祖たちにもたらした結果」と同じだとする。こうすることで、Aという機能を、Bという「目的」を実現するための手段というように逆算して考える(ここに存在論的に逆の因果関係が含まれてしまう)のではなく、あくまで、AからBへの方向性を持った因果関係因果論的説明)、そしてそれがSにAがあるということにつながる因果関係(進化論的説明)のみで捉えることができている。つまり、AとBが因果関係でつながっているという科学的事実の中で、進化論的な自然淘汰という因果関係によってAがSに存在しているのであるから、Aの本来機能はBだと言える。Bという効果をもたらすAが自然淘汰によって現在存在する。よって、ここにあるAがBの効果を持たなくても(機能不全であっても)、一般的にはAの本来機能はBである。このように、ミリカンの目的論的意味論によって、「本来機能」の自然化が見事に実現できていると戸田山は説明するのである

文献

戸田山和久 2014「哲学入門」(ちくま新書)

2016-12-21

哲学の仕事は概念をつくること

戸田山(2014)は、われわれが普段使っている概念の内容を分析し、概念の必要十分条件を定式化する「概念分析」は、分析哲学の主な方法だとしつつも、哲学仕事はむしろ概念をつくること、すなわち「概念工学」だとと主張する。概念分析概念定義は、理論構築のなかにヒトコマとして埋め込まれている。そして、理論の良さというのは、包括的でたくさんのことを説明できるか、他の理論と整合的かなどの点から評価される。良い理論ができれば、それによって、雑多な現象統合的に説明されるようになるというわけである。よって、単に既存のわれわれの概念分析するのではなく、より良い理論を構築するために新しい概念をつくる作業従事するのが哲学仕事だと表現するのがふさわしいだろうと論じる。


戸田山は、概念作りを生業とする哲学目的は、煎じ詰めれば、人類の幸福生存のためだと説く。幸福生活をもたらしてくれるのは技術産品だけではなく「概念」も含まれるのだという。例えば、人類が最初から持っていたわけではない「権利」という「概念」を歴史のどこかで誰かが生み出し、それに意義を見いだした人々がいたからこそ、権利という概念がわれわれまでリレーされ、われわれの幸せを支えているといえる。誰かが、この概念を生み出すための思想的苦闘を放棄してしまっていたら、現在のような幸福世界はなかっただろうということである。すなわち、概念も人工物であるから、より良い人工物を生み出すことで人類の生存に貢献するという意味では、哲学と工学は似ていると戸田山は言うのである


よって、哲学無用の用どころか、現実を何とか変えようとしている人々が哲学に取り組むことで、人類の生存にとんでもなく役に立っていると戸田山は主張する。また、自分の分野が歯がゆくてしかたがない、その根底を疑い、なんとかもっと面白い研究をやりたいともがく科学者、あるいは科学以外の研究者こそが、哲学を役立てることができるし、実際に役立ててきたのだと戸田山はいうのである。では、哲学的に考えるならば、どこから始めればよいのか。戸山田の言葉を借りれば、「まずは問いを小さく分けて、具体的にする。それを徹底的に考える。そこで得た洞察をできるかぎり一般化し抽象化する」ということになろう。

文献

戸田山和久 2014「哲学入門」(ちくま新書)

2016-11-03

リーダーシップの基本を構成する7つの行動

堀(2015)は、本当のリーダーであるための条件として、7つの行動を挙げる。1つ目に挙げるのが「夢を語る」べき人だということである。したがって、リーダーは、魅力的な目標を設定できるだけの理想化あるいは情熱家という要素を持っている必要がある。また、リーダーは明るさを失ってはならないし、常に価値観を語り続けなければならないという。ただし、目標設定後、現在地認識必要なのはリアリストアナリストとしての資質であり、環境変化を読めるのは、アナリスト資質と、鋭いセンスや勘であり、戦略策定は緻密な数学の能力必要だと堀はいう。つまり、リーダーの語る夢は、実現への道筋が示されなければならないのである


2つ目の行動は「自ら手本を示す」ことである。スポーツの世界では名選手でなくても名監督になれることからいえるように、リーダーとして手本を示すために肝心なのは、才能ではなく、学習することだと堀はいう。よって、リーダーを志す者は、若いうちから幅広い仕事体験しておくべきだというわけである


3つ目の行動は「チャンスを与える」ことである。チャンスを与えることで本人はやる気を起こして頑張るものだし、例え本人の実力が十分でなかったり、自信がなかったりしても、思い切ってチャンスを与えることで本人は成長していくし、自信がついてくる。つまり、若い人にチャンスを与えることは、将来をつくることだと堀はいうのである


4つ目の行動は「考えさせる」ことである相手にいかに深く考えてもらうか、それを常に考えながら行動することがリーダーに求められると堀はいう。


5つ目の行動は「誉める」ことである。人を誉めることはリーダーとしてかけがえのない大切なことだと堀は主張する。組織のメンバーは、誰もがリーダーの励ましの言葉を求め、認められたいという気持ちを持っている。「あなたがやっていることは組織のために役立つ」「あなたの才能や努力は必ず組織のためになる」といった誉め言葉は、言われた人の士気を高め、意欲を引き出す。「ありがとう」のたった一言でも満足感は一層高まるという。また、リーダーが人を誉めるときに重要なのが、結果ではなくプロセスを誉めることだという。そして、人の良さを認め、それを実際に口にできる人間になるためには、自分自身の成長が欠かせないと堀はいう。


6つ目の行動は明日を語る」ことすなわち「前を見据えた語り掛けをする」ことであるリーダー立場にある人は、メンバーに向かって、我慢してほしいという「お願い」をしなくてはいけないときがある。例えば、リーダーには痛みや摩擦を恐れず改革を進めることが必要なときがある。そのお願い、協力を願うためには、リーダー明日を語れなければならないというわけである。「今日我慢すれば明日は必ずよくなる」と語りかけることが重要だと堀は指摘するのである


最後の7つ目の行動は「つねに勝つ」ことである。メンバーは、自らの仕事一所懸命やれば、結果が出せなかったとしても責任は問われない。しかし、リーダーは結果を出せなかったら負けであるリーダーはどんな立派なことを言っても、それが勝利につながらなければメンバーはついてこないと堀はいう。


なお、堀は、リーダー組織のメンバーとなるべき人材に常に求めるべき資質を見極める必要があるとし、自らの会社の採用条件としてのチェックポイントを4つ挙げている。1つ目はIQである。2つ目は協調性代表される性格であり、とりわけ「かわいげ」が大切だという。この「かわいげ」を構成する中心要素は「素直さ」である。3つ目は他人気持ちがわかるといった感性である。そして4つ目が「攻撃力」である

文献

堀紘一 2015「リーダーシップの本質 改訂第三版」ダイヤモンド社

2016-09-23

現代思想におけるコミュニケーション的転回とは何か

哲学思想では、「人間の知の基盤(拠り所)はいったい何か」というような根本的な問いが探求される。高田(2011)は、現代思想においては「コミュニケーション転回」が起こっており、例えば、私たちの世界認識個人で行われるのではなく、多数の人間感覚器を総動員して(個人の直接経験が集約されて)行われるものだと考えるようになっているという。言い換えるならば、「個人知」から共通知」への転回が起こっているということである高田は、過去思想の歴史を振り返ると、個人から共通知への流れは、「超越論的転回」「言語転回」「解釈学的転回」「コミュニケーション転回」の4つの転回を経てもたらされたものだと説明する。


まず、現代思想の主旋律となっているのが、カントによる「超越論的転回」だと高田はいう。なぜならば、この「超越論的転回」が思想界において現代までにつながる大きな方向転換であったからである。これ以前では、世界における存在物・実在物の側から見て、私たちの身体や脳などの中にどのように「認識」が発生するのかを問うていたのに対し、超越論的転回では、認識の側から見て、「存在」がどのように発生するのかを考えるようになったからである。つまり、私たちが感覚器を通じて認識することができる「仮象」をもとに、私たちは理性の働きによって「モノそのもの」「実在」を形成するわけであるが、そこに「飛び越え」「超越」がある(なぜならばモノ自体認識できないから)という考え方である


次に、フレーゲやソシュールの思想を源流とする「言語転回」によって、それまで「モノ中心」「物質中心」の世界観のもとで思考を繰り広げてきた哲学が、「コト」「事実」を中心に置くという新たな枠組みの中で思考を展開するようになったと高田はいう。言い換えれば、「モノ」が世界認識の中心とされていた状態から言葉」に中心が移り、「世界認識視点の中心は、モノにではなく、言葉にある」ということが指摘されたというわけである。モノは、人がそれを認識し、名前をつけ、価値付与することによって初めてこの世界に登場する。よって、モノを発生させているのは、人であり、心であり、社会であり、価値であり、事実(=コト)であるというわけである。ヴィトゲンシュタインによれば、「コト(=事実)」は言葉によって表現されうるものと同じである。この事実を支えているのが、言葉であり、言葉によって紡がれた価値の体系である


さらに、ガダマーの解釈学を機とする「解釈学的転回」によって、言葉に付随する意味価値は、それを発する側(例:作品の作者)によって生み出されるのではなく、それを見たり聞いたりする人間の側に発生するものだと考えられるようになったと高田説明する。例えば、ガダマーの「再生産的解釈」の説明によると、作者が自分の思いに基づいて何らかの「意味」を生産し、それを作品テキスト)に込めるのであるが、それを受け取った側の人間は、別に新たな意味を「再生産」する。ただし、受け取った側が勝手意味生産するわけではなく、テキスト制限もしくは規範として機能し、その枠内で再生産が行われる。つまり、解釈学的転回では、意味や美や価値をある人間創造し、それが他の人に伝達されることによって広がるという考え方から意味や美や価値とは、表現を受け取る読者や鑑賞者や受け手の側において発生するということを明確に示したのである


最後に、アーペルに代表される「コミュニケーション転回」によって、個人認識個人知)を基礎として「共通知」が形成されるプロセスに着目されるようになったと高田は指摘する。つまり、「意味の生成の場」としてのコミュニケーション重要だと捉え、それを思索の基礎に置く考え方へとシフトしたというわけである。つまり、言語転回が「言語を基軸とする」考え方へのシフトを示しているのに対し、そこから一歩進んで、「コミュニケーションを基軸とする」という考え方にシフトしたのである言葉を基軸であり大事であることには違いないのだが、言葉意味はあらかじめ確定されているのではなく、コミュニケーションによって生成・調整されるというわけである。つまり、言葉機能させ、意味価値を生成しているのは、言葉のものではなく、コミュニケーションであるコミュニケーションこそが、意味生成の場だというわけである

文献

高田明典 2011「現代思想のコミュニケーション的転回」筑摩書房

2016-09-03

無から有を生み出すイノベーション思考法

大前(2016)は、これからは「無から有を生み出すイノベーション」を実現することで1個人世界を変える時代だとし、そのための発想力はトレーニングによって培うことができると説く。具体的には、基礎データ自分自身時間をかけて集め、類似例を分析して現状を把握した上で、事実を積み上げて論理構成すること、そしてさらに、その論理から自分想像力を駆使して発想を飛躍させることを、トレーニングを繰り返して身に付けるわけである


大前は、無から有を生み出すイノベーション可能にする11の考え方を紹介している。例えば、ユーザー側に立った視点で、戦略立案する方向性の数を増やす「戦略的自由度」を紹介している。「ユーザーが求めているものは何か」「私たちはそれを十分に提供しているか」「ユーザーが満足していない部分の原因は何か」「それを解決するためにはどういう方法があるか」というような問いを順番に発し、正しい問題目標の設定をした上で、ユーザー目的目的関数)を満たすアイデアをたくさん挙げるわけである


その他にも大前は、以下のような発想法を紹介し、無から有すなわち「0から1」を目指し、その次は「1から100」を目指すよう鼓舞する。

  • 「情報格差」をビジネスチャンスにつなげる
  • 「組み合わせ」で新たな価値創造する
  • 稼働率の向上」と「付加価値」を両立する
  • すでに(世界のどこかに)存在している「兆し(=ヒント)」をキャッチし、来たるべき未来想像する
  • 空いているもの有効利用する
  • AとBがあり、どちらも行き詰まっているときに、その中間に活路を見出す(東京と新横浜の間に品川駅を設置する)
  • 「もしあなたが○○だったら」という他人立場にたつ発想をする
  • すべてが意味することは何かを問うことで、森全体を見る視点に発想を飛躍させる
  • 見えないものを見る力である「構想力」を磨く

文献

大前研一 2016「「0から1」の発想術」小学館