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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-01-02-Tue

牧師のページ 2013・11月

「朝ごとに」(C.H.スポルジョン著)より


主の木と、主がお植えになったレバノンの香柏(こうはく)とは豊かに潤され」(詩編104:16)

英訳:「主の木は樹液に満ちている

樹液なくして木は栄えることも存在することもできない。活力はクリスチャンに欠くべからざるものである。そこにいのちがなければならぬ。―― 聖霊なる神に注ぎ込まれた生気がなければならぬ。さもなくば私たちは主の木たることを得ない。単なる名ばかりのクリスチャンは死物にすぎぬ。私たちは神のいのちに満たされていなければならぬ。このいのちは神秘である。私たちは樹液の循環を説き得ない。すなわちいかなる力により樹液が上り、いかなる力でそれが再び下がるかを知り得ない。

そのように、私たちのうちにあるいのちも聖なる奥義である。聖霊が人の中に入り、その人のいのちとなることによって新生がもたらされる。しかしてこの信者の中にある神のいのちはキリストの肉と血とを食し、神の食物で養われるが、それがどこから来て又、どこへ行くかは誰にも説明できない。

樹液はいかに神秘であろう。根は地中にはびこり、先端の小さい海綿状組織により養分をとるが、私たちは根が地中の様々のガスを吸収し、鉱物を変じて植物とする過程を見ることはできない。この作用は暗き地下でなされる。

私たちの根はキリスト・イエスであり、私たちのいのちは彼のうちに隠されている。クリスチャン生活の根はクリスチャン生活そのものと同様に隠れたものである。香柏(こうはく)の中の樹液は長く活気を失わない。クリスチャンにおいても神のいのちは彼のうちにあって常に活気に満ちている。―― 常に実を結ぶとは限らないが、内部にあって活動している。信者の徳は、その一つ一つが常に動いているのではない。が、いのちは内部において片時たりとも脈を打つことを止めない。彼は常に神によって生きている。真に健全なるクリスチャンは、その徳を彼の歩みと日常の会話において表わす。もし彼と語るならば、彼はイエスを語らずにはいないだろう。またその行動に注意するならば、私たちは彼がイエスと共にいることを知るであろう。内なる樹液がその行動と日常の会話に流露(*)せざるを得ないからである。

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*流露(りゅうろ):内にあるものが、自然に外にあらわれること。