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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-12-09-Sun 説教要旨 「わたしの家は、祈りの家」 牧師 佐藤義子

[] 21章12−17節

12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。

13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」

14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。

15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、

16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。

はじめに

 本日、待降節第2週目に入りました。先週、キャリー牧師が説教で語られたように、「待降節は多忙な日々をスローダウンして平静になり、『誰が現実にすべてを支配しているか』を思い起こす時」として過ごし、父なる神様が、私達を罪の支配から救い出す為にイエス様を遣わして下さったことに心を向け、今も変わらぬ愛のもとで私達を導いて下さっていることを感謝しつつ過ごしたいと思います。

宮清め

 今日の聖書は「宮きよめ」と呼ばれている大変有名な個所でもあります。平和の象徴である「ろば」に乗ってエルサレムの町に入られたあの柔和なイエス様が宮にいた人々を追い出された、という出来事に私達は驚かされます。イエス様のご生涯においてこのような力をもって対処されたのは、おそらくこの時が初めの終わりではなかったかと思います。なぜイエス様はそのようなことをなさったのかをご一緒に考えてみたいと思います。

神殿における売買

 イスラエルの人々にとって神殿は大変大きな存在でした。過越しの祭りや、仮庵の祭り、七週の祭りなどの大きなユダヤ教の祭りの時には世界各地からエルサレムに集まり、犠牲の捧げもの(牛や羊、貧しい人は鳩)をささげました。これらは聖なるものとして無傷であることが求められ、持ち込む場合は祭司による検査が必要であったので,人々はすでに神殿当局に認可されて売られていた動物や鳩を神殿で買い求めていました。献金も古いヘブルの貨幣と定められていた為、両替が必要でした。

神経をマヒさせる日常の光景

 イエス様が神殿でご覧になったのは、動物や鳩を売り買いする人々、両替人の台がずらりと並び、そこでお金を計算し取引する人々でした。おそらく動物の鳴き声や人々の声の飛び交う騒々しいこれらの光景は、イスラエル人にとっては見慣れた姿であったのでしょう。しかしそこは神殿の境内であり、異邦人はそこでしか祈ることが出来ませんでした。

神殿は祈りの場所

 神殿(教会)は神の家です。神殿で人は神様に心と思いを向けます。神殿での仕事は祈りです。人は、神様が自分と共にいて下さり、祈りを聞いて下さり、神様の憐れみといつくしみの中に自分が置かれていることを確信して神様と語るのです。神殿の境内で商売をしていた人達は、祈る目的でそこにいたのではなく、そして、買い求める人達は律法の規定にあるからそれを購入するのであり、それをすることが神の前で自分の責任を果たすことだと考え、そのことが自分達の信仰の証であり、その安心感にどっぷりつかっていたと考えられます。

イエス様の教え

 イエス様はイザヤ書56:7とエレミヤ書7:11を引用され、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」と言われました。彼らが神殿に依存しているのは神への祈りの為ではなく、神殿があたかも強盗の隠れ家のように、商売の為、自己正当化の為に利用して、日々の生活が神様から離れていることを、実力行使で示されたということでしょう。

私達の教会生活

 私達は今日の聖書から、毎週礼拝に教会に向かう時の自分の意識を吟味したいと思います。「祈りの家に行く」との思いで毎週来ているのか、又、ここでの礼拝が、神様の前で悔い改めの時、ゆるしをいただく恵みの時、感謝をささげる喜びの時、祈る力をいただく励ましの時、となっているか・・。イエス様がこの出来事を通して伝えようとされたことをしっかり受け止めたいと願うものです。