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日本基督教団 仙台南伝道所 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-03-23-Sun イースター礼拝 「復活の主に出会う」 原口尚彰先生(東北学院大学

[] 1章11−13節

11 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」

12 主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと/見張っている(ショーケード)。」

13 主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」

[] 20章11−18節

11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。

15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

はじめに

 今日は旧約をエレミヤ書から選びました。この個所は預言者エレミヤに神様の言葉が臨み、万国の預言者として立てられるということを語った個所です。そのすぐ後に神様はエレミヤに「何が見えるか」と尋ね、彼は「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」と答え、それに対して神様は「私は、私の言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)」と「シャーケード」と「ショーケード」の似通った言葉を用いています。ヘブライ語の「シャーケード」は「目覚めの木」という意味です。アーモンドは春のまだ浅い時期(他の自然がまだ眠っている時期)に、いち早く白い花を咲かせます。一方、「ショーケード」は、主がご自身の言葉の成就・実現に関して「見張る」という意味です。主の言葉を人々の間に語り継がなければならない預言者のつとめは「人々がまだ眠っている時にいち早く起きだして、来るべき主の裁き・主の救いを語る」ことにあります。

 早春の自然が冬の眠りからやっと目覚めつつある時期に、私達は主の復活を記念するイースターを祝っているわけですが、私達が置かれている状況と、エレミヤ書が伝えている預言者のつとめがおそらく重なるのではないかという思いを込めて、この個所を選びました。

主の復活の証人としてのマグダラのマリア

 今日のヨハネ福音書は、主が十字架につけられ亡くなり、墓に葬られ、その後の週の初めの日(日曜日)の早朝、まだ暗い内に、マグダラのマリアが復活の主に出会った有名な出来事が記されています。ヨハネ福音書は特に主の復活の証人としてのマグダラのマリアの役割に強い関心を持ち、そこにスポットライトをあてています。この福音書によれば、主の十字架を見守っていたのはイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアでした。主の逮捕の時には男の弟子達はみな逃げ去り、対照的にこの女性達は十字架のもとにとどまり、主の最期を看取る役割を果たします。主が十字架につけられ息を引き取られた後、夕暮れになり安息日の開始が迫っていたので、ユダヤ人の願いによりその遺体は取り下げられました。「遺体を木に架けたまま夜を過ごしてはならない」(申命記21章)と規定があったからです。その後、遺体はユダヤの最高法院議員アリマタヤのヨセフが総督ピラトに引き取り方を願い、新しく造られた墓に納めました。これら一部始終を見守っていたのが女性達です。彼女達は安息日が明けるのを待って朝の暗い内から起きだして墓にやってきたのです。その目的は、香油のつぼを持って主の遺体をねんごろに葬ることにありました。他の福音書では女性は三人いますが、ヨハネ福音書はその中の一人、マグダラのマリアに注目しています。

墓で起こったこと

 墓のタイプの一つは崖っぷちの所に横穴を掘り、その中に寝台を置き、遺体を寝かせます。エルサレムには二千年前に遡る墓も残っていますが、その扉の入口には車輪のような大きな石が置いてあり、ころがして開けたり閉めたりします。私は試しに墓の石を押してみました。全く動きません。一人の力では動かない。福音書には石が転がしてあり墓は空であったと記されています。つまり主は復活されて墓を出られた。ところが、この光景を目の当たりにしたマリアも、そのことを聞いたペテロや他の弟子達も、墓が空であることの意味を理解しませんでした。つまり主が復活したということを理解し信じるに至っておりません。彼らが確認したことは、墓がからであること。主の遺体はもうなく、ぬけがらのように亜麻布がそこに残されている、ということだけでした。

理解できず、信じることができない

 「主のご受難そして死と復活」については、エルサレムに向かう途上で、イエスご自身、弟子達に三回も繰り返し教えていました。つまりエルサレムでは祭司長、律法学者、長老達から苦しみを受け、殺され、しかし三日目に復活する、と繰り返し語られていたけれども、死からの復活という超自然的な、日常の我々の経験を超えた事柄に対しては、弟子達といえども理解出来ませんでした。「主の復活」という喜ばしい出来事がそこで起こったにもかかわらず、信じることが出来ない者にとっては依然として悲しみ・恐れが支配していました。マグダラのマリアは、からの墓の前で泣いていました。誰かが自分の慕ってきた主の遺体を持ち去ってしまったと考えました。

キリストの顕現

 マリアに対して、復活したキリストご自身が姿を現した出来事を伝えているのが今日の聖書の個所です。主の遺体があった所に、二人の白い衣を着た天使がいた。その一人が「婦人よ。なぜ泣いているのか」と尋ねたとあります。天使という超自然的な存在が出てくると大概の人は恐れますがマリアは恐れてはいません。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか私にはわかりません。」そう言っている内に背後に人の気配を感じて振り向くと、そこに復活した主が立っておられました。不思議なことに、マリアはそれがイエスであるとわからなかった。(まだ暗かったので姿がよく見えなかったのだろう。或いは泣いていたので涙で姿がよく見えなかったのだろう。或いは復活した主の姿が生前の主の姿と違っていたのだろう、など色々な可能性があると思いますが聖書は何も語っていません。)主イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」と尋ねられ、マリアは主を墓の番人か何かと勘違いして、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります」

 その時、復活の主ご自身が「マリア」と呼びかけると、マリアは「ラボニ(アラム語で先生)」と答えます。この時初めてマリアは目の前に立っているのが復活した主イエスであることがわかりました。この「マリアよ」「ラボニ」というやりとりは、復活の記事の中でも最も印象的なやりとりではないかと思います。

はじめは主であるとわからない

 主の顕現の物語では、顕現に接した人々は初めそれが主であることが分らない。しかしそれが何らかのきっかけで、何らかのことが手掛かりにそれが主であるとわかり一転して喜びに満たされる。こういう姿を繰り返し伝えています。たとえば20章の後半には復活の主が戸を閉じて立てこもっている弟子達の所に姿を現した出来事が記されていすが、そこでは主はまず、「あなたがたに平和があるように」と挨拶の言葉を語り、その後に手とわき腹の傷跡を見せて、弟子達が初めて主だとわかる。そして彼らは喜びに満たされ、今度は復活の証人として派遣されていきます。又、ルカ福音書24章のエマオ途上の二人の弟子への顕現では、主と一緒に話をしながら歩いている時はそれが主であるとわからず、しかし家の中に入り食事の席で、主がパンをとって感謝の祈りをして割いて分ける姿を見た時に、それが主であることがわかった。ほかにも数多く記されていますが、復活の主の姿に接した人達は、それぞれ違った形で主に出会い、主が生きておられるということを信じるにいたった。喜びに満たされて、そこから復活の証人として出ていくということを告げています。

主の復活を信じる

 さて、復活の証人達が復活の主に出会った出来事から二千年近い年月がたっています。最初の証人達の姿でもわかるように「主が復活された」「死からよみがえられた」ということを信じることは古代の人達ですら難しかった。そのことは今も昔も変わらないのではないかと思います。21世紀の科学が非常に発展した世界の中で、復活は自然法則に反することですので、世の一般の人々が容易に信じることは出来ません。しかし教会に集い洗礼を受けた私達は、毎週礼拝の中で、使徒信条を唱和しています。その中で「主は十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり・・」このように告白しておりますので、主の復活を信じているということが基本的にいえると思います。

復活のリアリティ

 しかし問題は、「復活した主を信じている」というだけではなくて、「復活した主が今も生きて働いておられる」「教会として働いておられる「私達に語りかけておられる」ということをどれだけリアリティをもって感じることが出来るのか、そこからどれだけ信仰の力を得ることが出来るのか、ということがおそらく問題ではないかと思います。私は以前(神学生時代)、赤星進という精神医学者の講演を聞いたことがあります。この方は精神医であり熱心なクリスチャンでもありました。彼はポ−ル・トゥルニエ(フランスの精神医学者)の「聖書と医学」の訳者として有名ではないかと思います。又、彼は聖書の語る人間観と精神医学の人間観の接点を求める「精神医療と福音」という本を書きました。その時の講演も、精神医学と福音との関連の話でありました。昔のことで内容の大半は忘れましたが、その中で「キリスト教の復活信仰がなければ福音はない。これはキリスト教の真髄である。ところが自分は何十年も教会に行ってイースターの説教を聞いてきたが、復活のリアリティ(現実性)を感じさせる説教に一度もあったことがない」と話されました。言われてみると、私自身も主の復活の現実性が迫ってくるような説教に出会ったことがあるかを思い出そうとしてもあまりありません。それはおそらく「主の復活」ということの難しさではないかと思います。

説教者が出来ること

 「主が死の力に打ち勝ってよみがえられた。」「主は勝利をされた。」「十字架に架けられた主が三日目によみがえった。」そのことについて聖書はいろいろな証人の話を伝えています。説教者が出来ることは、その証人達の姿や体験を言葉でもって指し示すことしかないのではないか。説教の言葉の中に「主は復活された」ということはなく、指し示すことしかできません。こうした人間の営みを超えた出来事が起こったことに対して、語る言葉には限界があります。そうすると問題は、説教者がいかにリアリティをもって主の復活を語ることが出来るか、ではなくて、聞いている聴衆一人一人が復活の主に出会って(自分自身が出会って)「主は本当に復活されたのだ」「私の罪のために死なれたのだ」「私の為によみがえられたのだ」「主は今も生きて働きたもう」・・。このことをどれだけリアリティをもってとらえることができるか。このことにかかっているのではないかと思います。説教で出来ることは、その証人として指し示す役割ではないかと思います。

復活の主に出会う

 復活の主に出会うという体験は、すでに初代教会の人達も実にさまざまでした。パウロは手紙で「私は主を見た。恵みによってキリストを私の内に示して下さった。」とありますし、使徒言行録には、ダマスコに向かう迫害者パウロが主に出会って徹底的に地面に打ち倒され、目が見えなくなる体験を語っています。さまざまな違った体験、違った出来事を通して、しかし同一の主を人々が信じたということを強調して申し上げたい。そして、復活の主に出会うということは本当に不思議なことでありますし、我々の思いを超えたことでありますけれども、それに出会った人々は、例外なく生き方を大きく変えられていく。取り消すことのできない新しい第一歩をそこで踏み出していく。復活の主によって世界に遣わされていく。ここに集まった皆さんも、私の貧しい人間の言葉でありますけれども、この言葉を通して復活の主に出会うということをぜひご自身で体験していただきたいと願うものです。これは大きな力、大きな喜びであり、新しい使命を与えられていただきたいと願う次第です。